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2 プロローグ続

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 2 プロローグ続

錆びたアパートの前、日頃から人通りは少なくアパートの住人も留守なのか、寝ているのか……義父母が大声で怒鳴り散らしていたはずなのに、誰一人部屋のドアを開ける人はいなかった。様子を伺う影も形もない。近隣住人も僕を嫌っていた。たまたま、通学時に家を出た際にアパートの住人らしき女が片手ゴミ袋を抱え、もう片方には幼稚園児と思われる男の子の手を引いていた。
男の子はポカンとした顔をしていたが、女は「ひっ」と小さな悲鳴のような声をあげた。
数回出くわしたことがあったが、いつも同じような反応だった。
その女だけではなく、他の住人も同じだった。僕はどんどんと慣れていき、感覚が麻痺していたのか悲鳴のような声や、怯えるような顔を見ても何も感じなくなった。僕の中でそれが普通だった。

だから、僕の頭を撫で、背中を擦り、「助ける」とまで言ってくれたこの男の方が僕にしてみたら、異常、普通な人ではない。
男は厚着をしているのか、心臓近くに顔を埋めても心音がまるでしなかった。優しい言葉とは裏腹に、人肌とは思えない冷たい手、ずっと笑っているようでどこか笑っていない。
この男は、怖い。何者なのかも分からないのに、そんな存在に縋りたくなるほど僕の心は疲れていたのかもしれない。


「虹、私は君にある人を助けて欲しい」

肩を掴まれ、グッと身体を引き剥がされると男はそう言った。僕はキョトンとした顔で男の顔を見た。一瞬言葉の意味が分からなかった。僕に人を助けて欲しいのだと言うのだ。僕に何が出来るんだ…成績は人並みには良いかもしれないが、飛び抜けてるわけでもなく、身体能力も平均くらいだ。僕に頼るより、他の人に頼る方が最適だ。


「……僕、人を助けたことなんてないし、助けることなんて出来ないと思う……」


僕の生気をなくし、諦めたような顔を見て男は、口からガスが少し漏れるかのようにフッと笑った。

やっぱり、この男……何か怖い。そう思い出すと男の顔が見れなくなった。視線を合わせるのも恐ろしいと思ってしまう。


「……慣れ、普通、日常、当たり前って馬鹿みたいだよな」

ボソッと今までとは違う低い声で男は何かを言った。上手く聞き取ることができず、「えっ」と返そうとした。すると、放置していた義父母がまた騒ぎ出した。


「おい! さっきから勝手に話を進めるな! そいつはウチのもんだ!」

「遊ばずに働けって、働きたくないからソレを育てたのに、なんでアンタにそんな事言われないといけないのよ!!」


義父母はズンズンと僕の前まで来て、冷たい視線を僕に送り、男から剥がすように左手を引っ張った。

「……っ」

義父が力強く引っ張るため皮膚がグニッとへこみ、痛かった。

「早く帰ってくれ! もう来るな!! 次は警察を呼ぶぞ!!」

義父のうるさい声に耳がキーンとする。僕に触れようとしなかった義父母がこんな形で僕に触ってくるとは思わなかった。

「ッチ」

心の声が零れるように義父の口からの舌打ち、いつもは口さえもきかず、「そこにいろ」、「出てくるな」しか言わない義父の強めの口調に驚きつつも、僕をモノとして扱う義父母に失望した。
僕は邪魔者、嫌われ者、人とすら扱われなかった。


僕は自分が誰よりも下にいる気がした。
誰一人愛してくれない、話そうともしない。いなくなって欲しいけど、理由をこじつけて置物のように縛ろうとする。


「……いたくない」

一言、声が漏れた。いつもいつも留めておいた。どんな顔をされるか、どれだけ酷い言葉を吐かれるか知っていたから……。
でも、ダムが決壊したかのように言いたかった言葉が溢れる。
義父は「は?」と、僕を見下ろし不機嫌な声でそう言った。
喋ることをほとんどしない、自分がどうしたい、何が欲しいなんて1度も言ったことがなかった。そんな僕から発せられた声に義父は、戸惑いを見せた。


「……アンタらのところになんか、いたくない」


義父は、ハッとしたように片手を宙に上げ、勢いよく振り下ろした。僕を叩こうとしたのだと、一瞬で悟り、グッと目を閉じた。
数秒経っても頬に痛みはなく、「?」となった僕は目を開いた。

義父の腕は僕の頬のあと数ミリというところで止まっていた。
義父母が「…っあ、あっ…」と何かを言いたげに、息を詰まらせるような声を上げる。義父の腕は、プルプルと震え、今にも動き出しそうだが、何かに引かれたように動こうとはしなかった。


「虐待ですよ、"契約"はこの子の安全を提供することの変わりに、"支援金"としての月100万」

男は右手を前に出し、義父の腕を指さしている。有り得ないとは分かっていながらも、この男が義父の腕を止めているのだと思った。


「……っの、てめぇもこいつ、"あの女"みてぇな気味悪い化け物かよ!!」


義父の大声に僕はビクッとした。


「……私からしたら、その子を誰とも関わらせないようにしていたアナタたちの方がよっぽど気味が悪いですけどね。 ある事ない事散りばめて、誰からも相手にされないようにその子の日常を奪った。ホントは、もっと生きやすかったはずの日々を奪ったクズに、とやかく言われたくない」


男はそう早口で告げると指を空に向けた。義父の腕は、僕の頬から離れ空に向かって上げている状態になる。義母は既に腰を抜かし、立ち上がれず道路の真ん中でへたりと座りこんでいる。

「……一般的な普通が、アナタ方のせいでその子の普通ではなくなった。批難されること、言われもないことで人から蔑まれること、それがその子にとっての普通です」


ツラツラと話しながら、義父母を責め立てる男は少し……いや、かなり怒っているようだった。

「虹から手を離してください」

義父は、恐怖心に負けたようで僕の腕から手を離す。弱々しく床にへたり込む義父は、まるで弱った虫のようだった。


「虹、私と"約束"してくれますか?」

"約束"……僕を助けてくれる代わりに、僕がある人を助けること……この男は既に僕を助けてくれた…断れる訳なんてなかった。断ったところで、また義父母……この人達と一緒にいなければいけない。それは地獄だろう。


僕は小さく縦に首を動かす。男は笑った。先程とは違って、ほんの少し嬉しそうだった。

男は「ああ……」と何かを思い出したかのように、くるりと義父母を見下げた。

「これ、今までのお礼です」

小さな箱をスーツの上着ポケットから出し、義父母の前にコロンと投げた。
僕だけでなく、義父母も?を浮かべながら、箱を手に取る。
お金ではない……指輪を入れるようなケースくらいの大きさだ。
"支援金"がどうのって話していたから、お金の類なのだろうかと思った。


「さ、虹。"こっちの世界"は君にとって良くないようなので、戻りましょうか」

「???」

男の言っている意味が分からない。こっちの世界?、戻る?どこに……?


「……助けてあげてくださいね」

男は僕の頭に手を置き、また撫でる。男は詳しいことは話してくれないが、今までにないほど優しく、悲しい顔をしながらそう言った。


「……は、い…できる限り頑張る…」

僕は知らない、助けて欲しい人が誰なのかも、どうやって何から助ければいいのかも


「…………君は"耳が良い"から頼りにしてるよ」

僕がまた訝しげな顔をすると、男は口角を上げて少し笑う。

「そこの角を曲がるよ」

左に立つ男が指をさした角を見る。


ーーーーなんか、違和感が………ーーーー


ある、ようなないような……なんてことはない変哲のないただの曲がり角だ。

曲がったら義父母の姿が見えなくなると思い、横目で後ろの様子を伺うとそこに2人の姿はなく、何故かガッカリしている僕がいた。

彼らにとって僕は、道具でしかなく、必要な人間ですらなかった。連れていかれる僕を見送ることもなく、部屋に先の箱を持ち帰って、中にある金目のものをウキウキと見ているのだろうと思った。


心の中でため息を吐き、曲がり角に足を進めた。

その時、後ろから何やら小さな呻くような声が聞こえた気がして、もう1度振り返ろうとすると男の両手が僕の両耳を覆う。そして、後ろを向けないように顔を固定された。


「……虹、君は見なくていいんだよ。 "耳が良い"のは良いだけじゃないものだね」


囲われたはずの耳に男の声が響く。何かおかしい気もしたが、男はそう言うと耳から手を離し、僕の肩を後ろから押して角を右へと曲がらせた。










小さな箱を開けると、まるでオルゴールのようにネジが回り始め、カチッと音がすると
ズザッ、ザーーーーと壊れかけのラジオのような音がした。
ロボット音声のような声で告げられた。


《ケイヤク、イハン、コレヨリ、シエンキン、ヘンキンセヨ》


箱を前に40代の男と女は、ハッと息を飲み込んだ。そして、言い争いを始めた。

「カエセルワケナイ」 「アンタガハジメタコトデショ」 「ハ?オマエダッテーーーーー」

ガガガとオルゴールのネジが止まると、箱が大きく膨らんだ。

「カエス? ヒトカラモラッタモノハカエサナイト、ケイヤクヤブッタノハソッチデショ?????」


男と女は、肩を抱き、ガタガタと震わせる。箱はガパァッと蓋を開け、真っ黒い中へと2人を飲み込んだ。

男と女は最後の声をふりしぼり、「イヤダ、タスケテ!!!!」と叫んだが、箱の蓋はパコりと閉まった。

そして、箱は小さくなっていき、ひゅんと姿を消した。
箱の中で2人の叫ぶ声がまだしている。






少年の肩を押しながら男は


「……んーー、『ちゃんと空間に入れた』んだけどな。これでも駄目か……」


心の中でそう思うと、少年はくるりと顔を男に向けた。


「……今、何か言った……?」

「……フフッ、言ってないよ」


はあっと男は息を吐いた。

「やはり、君は耳が良すぎるなぁ…」

少年は意味がわからないと顔で訴えたが、男はニコリと笑って肩を押すだけだった。
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