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Stranger(壱哉Side)
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最初は、別れ話だけして、すぐに帰るつもりだった。
でも、凛の部屋に一歩入るとダメだった。
初めてキスをした日のこと。
初めて凛を抱いた日のこと。
合鍵をくれた時のこと。
人目につかないよう、ほとんどの時間を過ごしたこの部屋には、思い出が多すぎた。
せめて最後に、バイトで疲れて帰ってくる凛のために食事を作っておいてやりたい。
生まれて初めて挑戦した料理。
生煮えのにんじんを食べて、笑ってくれたカレーにしよう。
大急ぎで買って来たA5ランクの肉を投入し、煮込む間に風呂を洗っていたら、階段が軋む音がした。
凛が帰って来たらしい。
食事だけ。
食事だけ。
終わったら、絶対にちゃんと別れを告げよう。
─そう誓ったのに。
「ただいま」
俺にしか見せない柔らかな笑顔を見てしまったらまたも決意が揺らいだ。
最後に、もう一度だけ凛を抱きたい。
ジリジリするような焦燥感をひた隠し、凛に怪しまれないよう、いつもと同じ方法で誘った。
何も知らない凛が、俺の名前を呼ぶたび、叫び出したい衝動を必死に抑えていた。
もう少し、あと少しだけ。
そんな未練をなんとか断ち切り、抱きしめていた凛の細い体を離した。
換気扇の紐を引き、タバコに火を点け、ゆっくりと煙を肺の奥まで吸い込む。
頼むから、泣かないでくれ。
少しでも引き止められたら、平静を保っていられる自信はない。
そして─
「親の決めた相手と結婚することになったから、もうここには来ない」
燻る煙を眺めながら心を無にして、事実だけを告げた。
俺の願いが通じたのか、凛は泣きも喚きもしなかった。
それどころか、一言も発さず、自らドアを開けて別れを受け入れた。
安堵すべきはずなのに、逆に気が動転して、シャツのボタンを上手く留られなかった。
ドアをくぐる前に、最後に一言だけ伝えたい。
ありがとう。
ごめん。
愛してる。
色々な言葉が頭の中で浮かんでは消えていく。
去り際一番強く思ったことは─
どうか、幸せに─
二度と会えなくても、いつも凛の幸せを願っている。
だけど、その言葉はどうしても、どうしても、言えなかった。
本当は、俺がこの手で幸せにしたかった。
凛が他の男と幸せに、なんて、心から祈れるはずがない。
自分は散々酷いことをしておいて。
その報いなのか─
数週間後、俺にしか見せなかったはずの笑顔を、仁希に見せる凛を現場で見かけ、身体が震えるほどの怒りを覚えた。
なんで?
どうしてあの二人が!?
自分のしたことは棚に上げ、胃が焼き切れるのではないかと思うほどの激情に支配された。
もしかして、凛に俺の正体がバレた?
そして、仁希を復讐の道具にしようとしているのだろうか。
いや、でも。
この俺が写真さえ撮らせないよう細心の注意を払って来たんだ。
それはありえない。
とにかく─
凛と仁希が、なんて絶対に許せない。
あってはならない。
その一心に支配された俺は、どうにかして二人を引き裂こうと画策した。
俺の結婚相手が仁希の初恋の相手というところまでは良かった。
むしろ、天が俺に味方したとさえ思った。
仁希が真壁議員の孫と結婚してくれれば、俺は政略結婚の責務から逃れ、凛との結婚に障害がなくなるから。
しかし、仁希に、凛が真壁議員の孫娘で、仁希がずっと探していた初恋の相手だと知らされた時、自分のしでかした罪をそっくりそのまま思い知らされることになった。
俺の愛した清永凛─
一般家庭以下の出身で、俺には決して釣り合わないと思っていた女─
は、最初から存在しなかったと言われたも同然だった。
だけど、凛と過ごした三年もの日々の記憶や、抱いた感情は鮮明で。
恋心も愛情も幸福も嫉妬も狂気も、全て俺という人間の一部になっていて。
最初から全部なかったんだとどれだけ必死に言い聞かせても、俺の中から消えてはくれなかった。
そう言えば、俺が消えたとき、凛もドン底だったと言っていた。
愛していると言いながら、こんな思いをさせたのかと知り、やっと心の底から謝罪の気持ちが湧いて来た。
だから、どれだけ辛くても、惨めでも、これ以上凛と仁希の邪魔はしない。
そう心に決めて、真壁家との顔合わせに臨んだ。
その甲斐あってか、無事に迎えた凛と仁希の結婚式当日。
仁希に頼んで、三分だけ時間をもらった。
震える手で新婦控え室の扉をノックする。
「どうぞ」
仁希から聞いていたのか、凛は俺が現れても驚きはしなかった。
─あの時どうしても言えなかった言葉を、今度はちゃんと伝えよう。
「謝って許されることじゃないけど、凛には申し訳ないことをしたと思ってる。本当にごめん。…仁希と、どうか幸せに」
目的を果たし、そのまま部屋を出て行こうとした時だった。
「一哉」
懐かしい呼び方が、俺を振り返らせた。
「…ありがとう、さようなら」
もう二度と会えないと思っていたかつての恋人が、眩しいくらい幸せそうに微笑んでいた。
これにて壱哉サイドは終了になります。
明日から完全書き下ろしの短編をお届けします。
火曜日には完全完結の予定ですので、もう少しだけお付き合いください(^人^)
でも、凛の部屋に一歩入るとダメだった。
初めてキスをした日のこと。
初めて凛を抱いた日のこと。
合鍵をくれた時のこと。
人目につかないよう、ほとんどの時間を過ごしたこの部屋には、思い出が多すぎた。
せめて最後に、バイトで疲れて帰ってくる凛のために食事を作っておいてやりたい。
生まれて初めて挑戦した料理。
生煮えのにんじんを食べて、笑ってくれたカレーにしよう。
大急ぎで買って来たA5ランクの肉を投入し、煮込む間に風呂を洗っていたら、階段が軋む音がした。
凛が帰って来たらしい。
食事だけ。
食事だけ。
終わったら、絶対にちゃんと別れを告げよう。
─そう誓ったのに。
「ただいま」
俺にしか見せない柔らかな笑顔を見てしまったらまたも決意が揺らいだ。
最後に、もう一度だけ凛を抱きたい。
ジリジリするような焦燥感をひた隠し、凛に怪しまれないよう、いつもと同じ方法で誘った。
何も知らない凛が、俺の名前を呼ぶたび、叫び出したい衝動を必死に抑えていた。
もう少し、あと少しだけ。
そんな未練をなんとか断ち切り、抱きしめていた凛の細い体を離した。
換気扇の紐を引き、タバコに火を点け、ゆっくりと煙を肺の奥まで吸い込む。
頼むから、泣かないでくれ。
少しでも引き止められたら、平静を保っていられる自信はない。
そして─
「親の決めた相手と結婚することになったから、もうここには来ない」
燻る煙を眺めながら心を無にして、事実だけを告げた。
俺の願いが通じたのか、凛は泣きも喚きもしなかった。
それどころか、一言も発さず、自らドアを開けて別れを受け入れた。
安堵すべきはずなのに、逆に気が動転して、シャツのボタンを上手く留られなかった。
ドアをくぐる前に、最後に一言だけ伝えたい。
ありがとう。
ごめん。
愛してる。
色々な言葉が頭の中で浮かんでは消えていく。
去り際一番強く思ったことは─
どうか、幸せに─
二度と会えなくても、いつも凛の幸せを願っている。
だけど、その言葉はどうしても、どうしても、言えなかった。
本当は、俺がこの手で幸せにしたかった。
凛が他の男と幸せに、なんて、心から祈れるはずがない。
自分は散々酷いことをしておいて。
その報いなのか─
数週間後、俺にしか見せなかったはずの笑顔を、仁希に見せる凛を現場で見かけ、身体が震えるほどの怒りを覚えた。
なんで?
どうしてあの二人が!?
自分のしたことは棚に上げ、胃が焼き切れるのではないかと思うほどの激情に支配された。
もしかして、凛に俺の正体がバレた?
そして、仁希を復讐の道具にしようとしているのだろうか。
いや、でも。
この俺が写真さえ撮らせないよう細心の注意を払って来たんだ。
それはありえない。
とにかく─
凛と仁希が、なんて絶対に許せない。
あってはならない。
その一心に支配された俺は、どうにかして二人を引き裂こうと画策した。
俺の結婚相手が仁希の初恋の相手というところまでは良かった。
むしろ、天が俺に味方したとさえ思った。
仁希が真壁議員の孫と結婚してくれれば、俺は政略結婚の責務から逃れ、凛との結婚に障害がなくなるから。
しかし、仁希に、凛が真壁議員の孫娘で、仁希がずっと探していた初恋の相手だと知らされた時、自分のしでかした罪をそっくりそのまま思い知らされることになった。
俺の愛した清永凛─
一般家庭以下の出身で、俺には決して釣り合わないと思っていた女─
は、最初から存在しなかったと言われたも同然だった。
だけど、凛と過ごした三年もの日々の記憶や、抱いた感情は鮮明で。
恋心も愛情も幸福も嫉妬も狂気も、全て俺という人間の一部になっていて。
最初から全部なかったんだとどれだけ必死に言い聞かせても、俺の中から消えてはくれなかった。
そう言えば、俺が消えたとき、凛もドン底だったと言っていた。
愛していると言いながら、こんな思いをさせたのかと知り、やっと心の底から謝罪の気持ちが湧いて来た。
だから、どれだけ辛くても、惨めでも、これ以上凛と仁希の邪魔はしない。
そう心に決めて、真壁家との顔合わせに臨んだ。
その甲斐あってか、無事に迎えた凛と仁希の結婚式当日。
仁希に頼んで、三分だけ時間をもらった。
震える手で新婦控え室の扉をノックする。
「どうぞ」
仁希から聞いていたのか、凛は俺が現れても驚きはしなかった。
─あの時どうしても言えなかった言葉を、今度はちゃんと伝えよう。
「謝って許されることじゃないけど、凛には申し訳ないことをしたと思ってる。本当にごめん。…仁希と、どうか幸せに」
目的を果たし、そのまま部屋を出て行こうとした時だった。
「一哉」
懐かしい呼び方が、俺を振り返らせた。
「…ありがとう、さようなら」
もう二度と会えないと思っていたかつての恋人が、眩しいくらい幸せそうに微笑んでいた。
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