四天王寺ロダンの冒険

ヒナタウヲ

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馬蹄橋の七灯篭――『四天王寺ロダンの挨拶』より

その25

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(25)


 僕はそこで言葉を切り、老人に言った。
「東京オリンピックの時、あなたは御いくつでしたか?」
 ん?という表情をした老人。しかし、直ぐに背を逸らせて僕に向き直ると言った。
「確か十四、五ぐらいだと思うが、それかもう少し上だったか」
「ですかね?東珠子、火野龍平、田中竜二、彼等も当時あなたとあまり変わらない年だったでしょう。その三人、幼いときに方々からこの土地にやって来て、ここで育った。一人は温泉上屋の娘、一人は下屋盟主「田中屋」の跡取り、そして温泉一の流行り店『火野屋』の跡取りとして。勿論、歳も同じですから、学校でも地域の行事でも顔を合わせる。つまり顔なじみならぬ、幼馴染という間柄です。ですが、やがて彼等も過ぎる月日が過ぎ、オリンピック前年頃にはつまり思春期を迎えた年頃だった」
 僕はベンチに座る足を組みかえた。組み替えて胡坐をかいた。地面に映る影が胡坐をかく仏の様に僕の姿を映し出す。
 胡坐をかいて老人をみれば背を逸らせて、杖を小さくコツコツ鳴らしている。まるで僕を急かして話を聞かそうとでもいうかのように。
 咳ばらいを一つして、僕は話を続けた。
「実はその当時の三人について今でも知っている方がここにはまだいましてね。僕、劇団の練習やら設備の時間の合間にちょっとその方に聞いてみたんです。そうするとその方がおっしゃるには、まず東珠子は若い頃は容姿端麗で本当にこの地域では『お嬢様』だったようです。特に学制服なんかで歩く姿は本当に都会の育ち良い名家のお嬢様と言う感じだったようです。火野龍平はですね、彼は持ち前の運動神経もさることながらこちらもハンサムだったらしく、どうも当人はその当時から俳優になりたいと思っていたらしく、暇があれば東珠子と難波やらに出かけて映画を見に行ったそうです。だから当時、そんな二人を見て、やっぱりできてるんじゃないかという今の言葉で言えば付き合っているという二人だったんだろうと言ってました。それで田中竜二ですが、彼については、その方は口をつぐんでしまって、黙ってしまったんですが、唯言うには、顔は中々のハンサムだったらしい。それも色白で、病身の者が持つような白蝋とした肌の上に大きな瞳、それがどこか何といえない雰囲気で漫画とかに出て来る魔青年の様。しかしながら頭も割合よく、遠目にはごく普通の青年に見えた、と言ってました」
 そこで老人が笑う。
「魔青年か、そりゃいい。語ったそいつがどこのどいつかは分からんが。あれについてはその成りや特徴を良く見知ってるといえる」
「そりゃそうでしょう」
 僕は強く言う。
「彼の最初の相手、いや狩りの最初の獲物であれば特によく覚えているでしょう」
 老人はぎょっとして目を見開き、顔を一瞬でひきつらせた。まるで凍結した時間を引きづらせたままの恐ろしい貌で。
「…なんで、お前。そんなこと…」
 僕は気にせず、さらりと言う。
「まぁ蛇の道は何とやらとでもいうのでしょうか。女の世界は狭いとでもいうのか、つまり知れ渡るところには知れ渡る。それに思春期であれば、そうした事は誰にでもあるでしょう?『早さ比べ』とはいいませんが。ひょっとするとそれは青春の輝く太陽を手にした勲章でもあるのかもしれませんしね。男にとっても、女にとってもね」
 川面を風が吹いた。その風に僕等は吹かれる。爽やかな風に交じるのは何だろう。唸る老人の声だけが混じって、爽やかさはどこかに消え去ったかもしれない。
 そう、爽やかさ。
 思えば、青春の頃の爽やかさとは 汗に交じる肌の上で滑るように落ちる珠玉のような雫。
 肉体の内に潜む力を発揮させようと誰かが七灯篭の馬蹄橋を走り抜けて行く。運動靴を履いてリズミカルに、しかしながらしっかりとした足音で。
「――火野龍平…」
 僕は呟く様にその足音に問いかける。
「その先には誰が居たのだろう」
 唸る老人が僕を見る。
「ほら、なんとなくですが、ここを火野龍平が走っていくのが見えませんか?」
「…何を言うんや?」
 老人には聞こえただろうか。この傾斜或る馬蹄橋を走る若者の息遣いが。
 僕の意識が火野龍平を追ってゆく。
 若者は灯篭を越えて行く。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…。やがて最後の灯篭を抜けると彼の視線に川下の稲荷神社へと下る石段が見える。彼はまるで初めからそこに行くように決めていた足取りで迷うことなく階段を走り下りる。
 この地域に住む誰もがここら一帯を力強く走る火野龍平の事は知っている。運動神経もよく、また長距離足にも耐えうる肉体的才能を持ち、それを日々こうして怠りなく肉体を鍛え磨いている事。そしてまだ表立ってはいないが、東京オリンピックの長距離選手として既に候補に挙がっていることを。
 それはまたこの石段先で待っている女も知っているのだ。彼が懸命に走るのはもしかしたら女神の口づけが唯、欲しいからかもしれない。走り疲れたメロスの唇を閏わすものは、女神の唇でなければならない。何よりも美しき思春期を迎えた若々しい勇者の肉体がもっとも欲するものは『恋』ではないか。
 メロスは自分に告げた時間通りに戻って来た。それは彼がタイムを管理できる優れて優秀なランナーの証でもある。
 彼は戻って来た。
 影が岩場に映る。
 女神の口づけを受ける為に。
 女神とは誰か、
 それは言わずともしれた彼女。
 東珠子以外に居る筈もない。
 彼等はなだれ込むかのように唇を重ねる。思春期に香る青臭く茂る薄暗い稲荷の洞穴の嗅ぐ若しさの中で。
 しかし、そこに違う影が忍んできたとしたら女神は女神でいられるだろうか。




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