その優しさに溺れる。〜一線を超えてから、会社の後輩の溺愛が止まらない〜

宮谷りく

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始まりの夜。

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仕事帰り。


詩乃は、帰宅ラッシュの雑踏に紛れて、足早に駅を目指していた。


けれど——ふと、足が止まる。


街角のイルミネーションの下。


人混みのなかでも、ひときわ目立つ後ろ姿があった。


スーツ姿の男性と、その腕にしっかりと絡みつく女性の手。


二人の距離は、見間違えようもなく“恋人”のそれだった。


「……圭介」


自分の口から漏れた、かすれた声。


その男性は、元婚約者の——広瀬圭介。


そして、彼の隣で嬉しそうに微笑んでいたのは、あのとき名前を呼ばれていた女、“さき”。


笑っていた。

圭介が、あんな顔で。

まるで何もなかったかのように。



まるで、詩乃という存在が、最初からいなかったかのように。



——ひどい。


込み上げたものに気づく前に、視界がぼやけていく。


何かが頬を伝っていた。


けれど、拭うこともできずに、詩乃はただ背を向けた。


(……なんで、まだ泣けるんだろう)


(終わったって、自分で決めたのに)



高ぶる感情を無理やり飲み込んで、前だけを見て歩く。


踏みしめるアスファルトの感触も、耳に届く喧騒も、すべてが遠く感じた。


そのときだった。


「——深雪さん」


耳元に落ちてきた、静かな低音。


驚いて顔を上げると、目の前には橘 湊の姿があった。


見慣れたスーツにコートを羽織り、ネクタイは少しだけ緩んでいた。
仕事の緊張をほどいたその姿に、ほんの少しだけ、柔らかい空気が滲んでいる。


「……橘くん? どうしてここに……」


「クライアントと外で会ってたんです。その帰りで。……信号、赤ですよ」


「え……」


視線を落とすと、目の前の信号は赤く染まっていた。


湊の手が、そっと詩乃の腕を引いてくれていたことに気づいて、胸がざわつく。


「……ありがとう」


それだけ言うと、彼は一拍置いてから、静かに言葉を紡いだ。


「深雪さん。最近……無理してませんか?」


「…………」


「ちょっとだけ、歩きません? 時間、大丈夫なら」



その声には、余計な詮索も、哀れみもなかった。


ただそこに“いてくれる”ような、穏やかで優しい温度があった。


言葉にならない感情が、胸の奥にふわりと広がっていく。


詩乃は小さく頷いた。


——なぜだろう。


今にも崩れそうな自分を、彼には見透かされている気がした。
けれどそれが、どうしようもなく救いだった。


夜風が髪を揺らす。


横に並んで歩く湊の存在が、ひどく静かに、心に染み込んでくる。


——ああ、私、


こんなふうに、誰かに“隣を歩いてもらう”こと。


もう、ずっと忘れてたんだ。


その夜が、この物語のはじまりだった。
まだ、自分でも気づいていなかっただけで——。




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