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色褪せた日常の中で
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「……では、今月分の報告は以上です」
会議室に、乾いた自分の声が響いた。
上司が「了解」と軽くうなずき、次の議題に目を通し始める。
その間に、詩乃は何事もなかったようにモニターへ視線を戻す。
——心は、どこにも動かなかった。
婚約を破棄してから、三週間が経つ。
最初の数日は、本当に何も手につかなかった。けれど、泣き尽くすことすらできないまま、気づけば“ただの日常”が目の前にあった。
今はもう、感情のスイッチを切って、ただ目の前の仕事をこなす毎日。
むしろ、周囲から見れば順調そのものだったかもしれない。
ひたすら予定を詰め込んで、朝は誰よりも早く出社し、誰よりも遅くに帰る。
報連相は完璧。笑顔は形式的。無駄な会話はしない。
身体は疲れても、心が麻痺しているから——痛みは、なかった。
「……詩乃、最近、働きすぎじゃない?」
同僚の笹野かおるが休憩中にそっと声をかけてくれた。
けれど、詩乃は薄く笑って首を横に振るだけだった。
「大丈夫。やるべきこと、やってるだけだから」
誰も、本気でそれを“本音”だと思っていないのはわかっていた。
けれど、それ以上踏み込ませない雰囲気を、詩乃自身がまとっていることにも、気づいていた。
そしてその日も、いつもと同じように黙々と仕事を進めていた帰り際。
プリントアウトした資料を手に戻ろうとしたとき——
「……深雪さん」
名前を呼ばれ、足を止めて振り返る。 視線の先には、部署内でもひときわ目を引く男性社員の姿があった。
橘 湊(たちばな・みなと)。27歳。
詩乃よりも年下の後輩で、部署内では“仕事ができる人”として知られている存在だ。
高身長にスーツがよく似合う。
端正な顔立ちと、誰にも媚びない淡々とした物腰。
必要以上に関わろうとはしないけれど、冷たさだけではない、どこか理知的で誠実な雰囲気を纏っている人。
「あ、橘くん。どうかした?」
「今朝の報告書……添付ファイル、先週のデータになってました」
「あっ……ほんと。ごめん、すぐ差し替えて送るね」
「お願いします」
そう言ったあと、湊はじっと詩乃の顔を見つめた。
「ん?どうかした?」
「いえ…」
けれどすぐに外されたその瞳には、ほんのわずか——言葉にならない“問い”のようなものが浮かんでいた。
(……見透かされてる? なにか、顔に出てたかな)
詩乃は、無意識に、ふっと小さく笑ってしまう。
けれど湊はそれ以上何も言わず、いつものように静かに会釈して去っていった。
橘くんは、誰にでも丁寧だけど、余計なことは言わない。
それが冷たく見えることもあるけれど、困っている人にはさりげなく声をかけるし、必要なときには手を貸す。
やりすぎず、けれど無関心でもない。その絶妙な距離感で、周囲の信頼を得ているのを詩乃は知っていた。
いつも、その瞳だけは、嘘を見抜くみたいにまっすぐだった。
今日も、何も言わずに去っていったけれど——
その一瞬の視線が、妙に胸に残った。
(……なんだろう、あの目)
資料を抱えながら廊下を歩く。
心の奥で、少しだけ何かが揺れていた。
会議室に、乾いた自分の声が響いた。
上司が「了解」と軽くうなずき、次の議題に目を通し始める。
その間に、詩乃は何事もなかったようにモニターへ視線を戻す。
——心は、どこにも動かなかった。
婚約を破棄してから、三週間が経つ。
最初の数日は、本当に何も手につかなかった。けれど、泣き尽くすことすらできないまま、気づけば“ただの日常”が目の前にあった。
今はもう、感情のスイッチを切って、ただ目の前の仕事をこなす毎日。
むしろ、周囲から見れば順調そのものだったかもしれない。
ひたすら予定を詰め込んで、朝は誰よりも早く出社し、誰よりも遅くに帰る。
報連相は完璧。笑顔は形式的。無駄な会話はしない。
身体は疲れても、心が麻痺しているから——痛みは、なかった。
「……詩乃、最近、働きすぎじゃない?」
同僚の笹野かおるが休憩中にそっと声をかけてくれた。
けれど、詩乃は薄く笑って首を横に振るだけだった。
「大丈夫。やるべきこと、やってるだけだから」
誰も、本気でそれを“本音”だと思っていないのはわかっていた。
けれど、それ以上踏み込ませない雰囲気を、詩乃自身がまとっていることにも、気づいていた。
そしてその日も、いつもと同じように黙々と仕事を進めていた帰り際。
プリントアウトした資料を手に戻ろうとしたとき——
「……深雪さん」
名前を呼ばれ、足を止めて振り返る。 視線の先には、部署内でもひときわ目を引く男性社員の姿があった。
橘 湊(たちばな・みなと)。27歳。
詩乃よりも年下の後輩で、部署内では“仕事ができる人”として知られている存在だ。
高身長にスーツがよく似合う。
端正な顔立ちと、誰にも媚びない淡々とした物腰。
必要以上に関わろうとはしないけれど、冷たさだけではない、どこか理知的で誠実な雰囲気を纏っている人。
「あ、橘くん。どうかした?」
「今朝の報告書……添付ファイル、先週のデータになってました」
「あっ……ほんと。ごめん、すぐ差し替えて送るね」
「お願いします」
そう言ったあと、湊はじっと詩乃の顔を見つめた。
「ん?どうかした?」
「いえ…」
けれどすぐに外されたその瞳には、ほんのわずか——言葉にならない“問い”のようなものが浮かんでいた。
(……見透かされてる? なにか、顔に出てたかな)
詩乃は、無意識に、ふっと小さく笑ってしまう。
けれど湊はそれ以上何も言わず、いつものように静かに会釈して去っていった。
橘くんは、誰にでも丁寧だけど、余計なことは言わない。
それが冷たく見えることもあるけれど、困っている人にはさりげなく声をかけるし、必要なときには手を貸す。
やりすぎず、けれど無関心でもない。その絶妙な距離感で、周囲の信頼を得ているのを詩乃は知っていた。
いつも、その瞳だけは、嘘を見抜くみたいにまっすぐだった。
今日も、何も言わずに去っていったけれど——
その一瞬の視線が、妙に胸に残った。
(……なんだろう、あの目)
資料を抱えながら廊下を歩く。
心の奥で、少しだけ何かが揺れていた。
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