隠世の門

海谷ノ

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15.7話 揺れを読む者

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晴翔を家の前まで送ったあと、斗泉はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 扉が閉じても、あの少年の影だけが薄く残像のように揺れている気がした。

(境界が、本格的に触れてきている。)

 夕暮れの光はもう弱く、影の線は夜の気配に溶けかけていた。
 だが斗泉の目には、晴翔の足元にまとわりついた“残響”だけが鮮明に残っている。

 犬神が静かに鼻を鳴らした。
 晴翔の影が伸びた瞬間、犬神は主より早く反応していた。

「……わかってる。俺も迷ってる。」

 呟くと、犬神はぴたりと動きを止めた。

 迷い──陰陽師にとって最も不要な感情。
 だが今日ばかりは、その無駄がどうしても消せない。

 晴翔は危ない。
 器が大きすぎる。
 あれは“入れ物”ではなく“呼び水”だ。
 揺れがあれば吸い寄せられ、揺れがなくても向こう側から触れてくる。

(あれでまだ未成熟なんだから、始末が悪い。)

 斗泉自身、倉橋の名を聞いたとき嫌な予感はした。
 だが今日の反応は、予想の倍以上だった。

 影は晴翔を中心に揺れ、
 妖狐が“部分顕現”するほどの危機に、
 あの少年は崩れなかった。

 普通なら精神がひび割れる。
 現象に耐えられず、膝が落ち、声にならない悲鳴がこぼれる。
 そういう案件を、斗泉はいくつも見てきた。

 それなのに晴翔は──

 “痛み”として受け取り、“恐怖”ではなかった。

(だから危ないんだ。お前は。)

 呼ばれる。
 応えてしまう。
 境界に触れられても拒絶しない。

 まるで、そこに居場所があるかのように。

 それが斗泉にとって何より怖かった。

 少年の背後に揺れる“何か”。
 晴明の欠片──そんな言葉では片づけられない揺れだ。

 晴翔の存在そのものが、境界の歪みにとって“都合が良すぎる”。

「壊れない……か。」

 自嘲気味に呟き、斗泉は視線を落とした。

 壊れないという言葉は、気休めにも警告にもなる。
 晴翔はまだ子供だ。
 器が大きいことがどういう危険を孕むか、理解できる段階ではない。

(壊れないように支えるのが、俺の役目なんだよ、本来は。)

 しかし同時に──
 “壊れないからこそ危険の中心に立たされる”という現実もある。

 それが気に食わなかった。

 九曜にとっても、陰陽庁にとっても、道満側にとっても、
 晴翔は格好の“触媒”になる。

 どこに転んでも、少年の意思など関係なく利用される。

「……守れるのか、俺に。」

 斗泉は、初めて自分の喉がわずかに震えたことに気づいた。
 それを犬神が見上げる。
 心配ではなく、観察だ。
 犬神は主人の揺れに敏感だ。

「大丈夫だ。揺れてるだけだ。」

 自分に言い聞かせるように言うと、犬神は目を伏せた。

(晴翔……お前、本当に“危険”だよ。)

 それは少年に対する評価であり、
 同時に、斗泉自身の弱さの告白でもあった。

 守りたいと思う対象が増えると、陰陽師は鈍る。
 判断が遅れ、命取りになる。
 斗泉はそれを知っていたし、恐れてもいた。

 けれど──晴翔の影が伸びた瞬間、
 何も考える前に身体が動いた。

 反射だった。
 職務でも義務でもなく、“反応”。

(俺はもう、お前を観察対象として見ていないのかもしれない。)

 夕暮れの風が吹く。
 揺れの気配は少し薄れ、夜の色に溶けていく。

 斗泉は歩き出した。
 一歩一歩、夕闇に深く沈む影を踏みしめるように。

「……まだ間に合う。間に合ううちは、俺が止める。」

 誰に向けた言葉でもない。
 だが、その声にははっきりとした決意が宿っていた。

 少年を救うためか。
 揺れを止めるためか。
 それとも──ただ、自分の心を守るためか。

 その答えを斗泉自身が知るのは、もう少し先になる。

──15.7話 了。
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