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第二章 政略
粛清
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帝都の夜が明けきらぬ頃、館の奥に仕える若い召使い、リサが静かに扉の影から身を引いた。彼女は昨夜、ふとした拍子にアイセリンと将軍ケルレダンの密会現場を目撃してしまったのだ。いや、見てしまっただけではない――確かに耳にしたのだ。「間もなく我々は動く」という、恐ろしい言葉を。
リサは震える手で灯を持ち、館を離れた。向かった先は、帝都近衛軍団の詰所。彼女は迷いながらも、声を振り絞って告げた。
「将軍ケルレダンと…エリスロム様の奥方が…密会していました。皇帝陛下を…何か、陛下を狙っているような話をしていました」
当直の副官はすぐに筆を取り、報告書を作成。夜明けと同時に、この報は皇帝の元に届けられることとなる。
◇
朝、帝都の空はどこか重く、雲が低く垂れ込めていた。
ケルレダンは人目につかぬ貴族の離宮に数名の腹心を集めていた。卓の上には帝都の地図と、宮廷の交代当番表、そして近衛兵の配置図が広げられている。
「エリスロムは辺境に向かった。帰還はまだ当分先だ…」
ケルレダンは重々しく口を開いた。
「宮殿の警備は今、近衛第二大隊が取り仕切っている。第二大隊の隊長アルモスとは話がついている。我々が突入したら奴らも味方してくれる手筈だ」
一人の元老院議員が言った。
「だが……そんなに上手くいくのか? 軍団全体を味方につけなければ危ういのではないか?」
ケルレダンは手を挙げて遮った。
「大丈夫だ。奴らが気づく前に暗殺は終わる。宮殿周辺の近衛大隊が味方につけば問題ない」
沈黙の後、一人、また一人と頷きが重なる。
「……では、決行は明後日の夜ということでよろしいか」
誰も反論しなかった。
◇
朝霧がまだ帝都の屋根を覆う中、その静けさを裂くように、重々しい軍靴の音が路地に響いた。
整然と行進する近衛軍団の百人隊が、エリスロム邸の前でぴたりと足を止めた。全員が武装を整え、剣の鍔が陽光を弾いて鈍く光る。その異様な存在感に、通りすがりの市民たちが息を呑み、窓からこっそりと様子を覗く。
部隊の先頭にいた百人隊長は一歩前に出ると、門扉に向かって鋭く声を放った。
「皇帝陛下の御命令だ! 門を開けよ!」
その呼び声は邸の奥深くまで響き渡った。
屋敷の中では、まだ身支度も整っていない召使いたちが混乱して走り回っていた。アイセリンは寝室の高窓から声を聞き、瞬時に胸を締め付けられる思いで目を見開いた。夜の記憶が、彼女の中で警鐘のように鳴り響く。
「アイセリン殿下! 皇帝陛下の命により、殿下を連行する!」
再び、鋭い声が外から響いた。今度は門扉が打ち鳴らされ、威圧的な鉄のこぶしのように屋敷全体を叩きつけた。
「直ちに門を開けられよ!」
執事が恐る恐る応対に出ようとするのを、アイセリンは制した。すぐに上掛けを羽織り、顔の表情を整えながら階段を降りていく。冷たい石の階段が裸足の足裏に痛いほどに感じられたが、その痛みがかえって現実感を与えてくれる。
彼女の心臓は、まるで戦鼓のように鳴っていた。
「直ちに門を開けよ!」
屋敷の外では百人隊長が繰り返し叫び、兵たちの盾が門扉を圧迫する音が響いていた。だがアイセリンは扉の内側に立ち、冷たい瞳で鋼鉄の装甲に覆われた男たちを見据えていた。
「私は陛下のご子息の妻。陛下の勅命であっても、その真意を問う権利があるはずです。正規の召喚状を――」
「殿下、これは“召喚”ではありません。“命令”です」
その言葉に、館の召使いたちは顔をこわばらせた。百人隊長が一歩前に出て叫ぶ。
「最後にもう一度言います! 門を開けていただきたい!」
それでもアイセリンは一歩も退かなかった。彼女の目には、ほんのわずかにだが、怯えと覚悟が同居していた。
だがその瞬間、外で剣が振り下ろされると、兵たちが一斉に動いた。
「門を破れ!」
鋼鉄のかかとが石畳を蹴り、重装兵たちが突進する。数回の打撃で門扉は軋み、五度目の打撃で蝶番が音を立てて外れた。門は内側に崩れ落ち、衝撃とともに兵たちが雪崩れ込んできた。
「確保せよ!」
館内に響く怒号。召使いたちは悲鳴を上げて散り、その場に膝をついた。兵たちが慣れた動きで邸内を制圧し、アイセリンを囲む。
「無礼者!!」
女近衛兵の手がアイセリンを掴み、アイセリンは吠えた。
「大人しくご同行していただきます、殿下」百人隊長は一瞬の礼儀を見せたが、その目は容赦なく、軍律に従う冷たさに満ちていた。
アイセリンは唇を噛んだ。抵抗しても無意味――それはわかっていた。だが同時に、己の意思で捕らえられることが、ただの“愛人”ではなく、“陰謀の共犯者”として裁かれる未来へ繋がるのも、はっきりと感じていた。
「……わかりました」
震える声で、それでも毅然とそう答えると、彼女は静かに手を差し出した。女兵士がそれを拘束するための鎖を取り出すと、彼女は目を閉じた。
◇
連行されたアイセリンは、黄金の装飾が施された玉座のある本殿ではなく、宮廷の北端にある監察塔へと運ばれた。ここは皇帝直属の尋問所――帝国でもごく限られた者しか足を踏み入れることのない場所だった。
石造りの冷たい部屋、覆面の尋問官、記録官、そして背後で控える近衛隊の影。
そこに入室したとき、アイセリンはすでにすべてを悟っていた。これは尋問であり、粛清の始まりだった。
◇
「あああああ!!!」
石造りの部屋には窓がなく、灯火は蝋の揺れる赤い明かりのみ。
その中央に縛られたアイセリンは、すでに何度も問いを繰り返されていた。
尋問官は顔を覆面で隠し、機械のように冷静な声で告げる。
「共謀した元老院議員の名、将軍ケルレダン以外に誰がいる?!」
アイセリンの頬には血の混じった涙が流れていた。手足は縛られ、指先は何度も針で刺され、皮膚は鞭によって裂かれていた。だが、その痛みよりも、羞恥と恐怖、そして“裏切る”という言葉の重みが彼女を追い詰めていた。
「……お願い……もう……やめて……」
彼女の声は掠れ、声にならぬ嗚咽が続いた。だが尋問官は、眉一つ動かさぬまま命じる。
「拷問吏、続けろ」
横に控えていた男が無言で器具を手に取り、再びアイセリンの皮膚に熱した鉄を押し当てた。その瞬間、彼女の全身が震え、声が張り裂けた。
「ひっ……やああああああああああああッ!!」
蝋燭の火が影を伸ばし、石壁に揺れる亡霊のような輪郭を描いた。
「貴女は帝国皇族の名を背負っていた。しかし今や、それは罪の重石に過ぎん。すべてを話せば、命までは奪わぬ」
尋問官の声が、氷のように冷たく突き刺さる。
アイセリンの瞳は虚ろに揺れ、まぶたの奥に昨日の夜のケルレダンの顔が浮かんだ。
「すべては正義のためだ」と彼は言った。「この帝国を変える」と。
だが今、その言葉は呪いのように響く。
「……エ、エルノート……元老院議員の、エルノート・デファイが……資金を……出していた……」
アイセリンは嗚咽の間に名前を口にした。
「他には?!」
「ア、アルモス……近衛第二大隊の隊長……彼も……手筈を……整えていた……」
尋問官は記録官に目を向ける。羽根ペンの音が紙を走り、名前が次々に書き留められていく。
「他には?」
「……い、いない……もう誰も……もう……わたし、知らない……」
アイセリンは首を振りながら号泣した。いや、泣くというよりも、感情の崩壊そのものだった。貴族としての誇りも、家族の名誉も、すべてはここで剥がれ落ちていく。
「やれ」
「ひっ……やああああああああああああッ!!」
拷問は続いた。しばらく絶叫と怒号が響くと、拷問室の扉が開いた。
皇帝――帝国の太陽、すべての頂に立つ存在。鋭い金の瞳が暗がりを貫き、長衣の裾が静かに床をなでた。
拷問吏たちは無言で一礼し、命を受けずとも下がった。誰も、皇帝の目を正面から見ることはできない。
やがて石の部屋に残されたのは、椅子に縛られたアイセリンと、彼女の前に立つ皇帝ただ一人。
アイセリンは、視界の中に現れた金色の衣を見て、恐怖と羞恥に打たれながら、涙を溢れさせた。
「……陛下……」
声はすでに掠れていた。唇は腫れ、頬は血と涙に濡れていた。
皇帝は何も言わず、アイセリンの前に腰を下ろした。彼女の目を、真正面から覗き込むように。
「……エリスロムは、これに関わっているか?」
静かな問いだった。だが、その一言は、刃のようにアイセリンの心臓を裂いた。
彼の名を、この男の口から聞きたくなかった。
――エリスロム。私の夫。私のすべてだった。
アイセリンは揺れた。罪悪感が胸を裂き、痛みによって震える体を強張らせる。
首を振った。
激しく、必死に、繰り返し、涙をこぼしながら首を振る。
「ちがう……ちがう……彼は、何も……知らなかった……っ」
息が詰まり、嗚咽で喉が潰れそうだった。
皇帝は、その目を細めた。
しばし、彼女をじっと見つめていた。
「……そうか、ふむ……どうかな」
その言葉は、まるで独り言のようだった。だが、次の瞬間――彼は静かに、傍らの拷問机から赤熱した鉄棒を取り上げた。
尋問吏の手によって炭火に焼かれたそれは、すでに橙色に灼け、金属が鳴くように呻いていた。
皇帝はアイセリンの頬に手を添え、彼女の胸元へと鉄を近づけた。
「――裏切り者は嘘をつくからな」
「や、やめ……いやっ……! やめて……!!」
ジュッ……と肉の焼ける音。
「うああああああああああああああああッ!!」
彼女の体が跳ね、拘束具が軋む。蝋燭の火が揺れ、壁に映った影がひときわ大きくねじれた。
声は絶叫から呻きへと変わっていく。咽び泣くこともできず、彼女はただ、地獄のような激痛の中で――自分の愛と愚かさの果てを知った。
「我が息子の妻だというに、裏切り者に股を開くとは」
皇帝は熱した鉄をアイセリンの秘部に突っ込んだ。
「ああああああっ!!」
◇
宮殿の門の前。ケルレダンの手には、確かにアルモスから渡されたという鍵があり、扉は音もなく開いた。
だが、その異様なまでの静けさに、誰かが囁いた。
「……おかしい」
次の瞬間だった。庭園の真ん中に、何かが置かれているのを見つけた。
「……あれは?」
一人が松明をかざし、そして全員が息を呑んだ。
大理石の台座の上――そこには、串刺しにされたアイセリンの亡骸があった。
衣服は乱れ、顔は血に染まり、だが瞳だけはしっかりと見開かれていた。死の直前まで恐怖と痛みに耐え抜いたことが、そのまま顔に刻み込まれている。股から口までを槍で一突きにされている。
ケルレダンは一歩、二歩と足を進め、まるで信じられぬものを見るように凍りついた。
「……アイセリン……?」
彼の呼びかけに、もちろん返事はない。
遺体の下には、血で書かれた皇帝の命令書が置かれていた。そこには簡潔な文字でこう記されていた。
「裏切り者に与えられるのは、死のみ」
その場にいた全員が凍りついた。ケルレダンは唇を噛み、拳を震わせた。
「バカな……こんなはずでは……!」
そのときだった。
四方の柱の影から、重装の近衛兵たちが現れた。
「全員、武器を捨てて投降せよ!」
百人隊長が号令をかける。彼の後ろには、近衛軍団の精鋭がびっしりと控えていた。
計画は破られ、仲間は裏切られ、愛した女は処刑されていた。
-
リサは震える手で灯を持ち、館を離れた。向かった先は、帝都近衛軍団の詰所。彼女は迷いながらも、声を振り絞って告げた。
「将軍ケルレダンと…エリスロム様の奥方が…密会していました。皇帝陛下を…何か、陛下を狙っているような話をしていました」
当直の副官はすぐに筆を取り、報告書を作成。夜明けと同時に、この報は皇帝の元に届けられることとなる。
◇
朝、帝都の空はどこか重く、雲が低く垂れ込めていた。
ケルレダンは人目につかぬ貴族の離宮に数名の腹心を集めていた。卓の上には帝都の地図と、宮廷の交代当番表、そして近衛兵の配置図が広げられている。
「エリスロムは辺境に向かった。帰還はまだ当分先だ…」
ケルレダンは重々しく口を開いた。
「宮殿の警備は今、近衛第二大隊が取り仕切っている。第二大隊の隊長アルモスとは話がついている。我々が突入したら奴らも味方してくれる手筈だ」
一人の元老院議員が言った。
「だが……そんなに上手くいくのか? 軍団全体を味方につけなければ危ういのではないか?」
ケルレダンは手を挙げて遮った。
「大丈夫だ。奴らが気づく前に暗殺は終わる。宮殿周辺の近衛大隊が味方につけば問題ない」
沈黙の後、一人、また一人と頷きが重なる。
「……では、決行は明後日の夜ということでよろしいか」
誰も反論しなかった。
◇
朝霧がまだ帝都の屋根を覆う中、その静けさを裂くように、重々しい軍靴の音が路地に響いた。
整然と行進する近衛軍団の百人隊が、エリスロム邸の前でぴたりと足を止めた。全員が武装を整え、剣の鍔が陽光を弾いて鈍く光る。その異様な存在感に、通りすがりの市民たちが息を呑み、窓からこっそりと様子を覗く。
部隊の先頭にいた百人隊長は一歩前に出ると、門扉に向かって鋭く声を放った。
「皇帝陛下の御命令だ! 門を開けよ!」
その呼び声は邸の奥深くまで響き渡った。
屋敷の中では、まだ身支度も整っていない召使いたちが混乱して走り回っていた。アイセリンは寝室の高窓から声を聞き、瞬時に胸を締め付けられる思いで目を見開いた。夜の記憶が、彼女の中で警鐘のように鳴り響く。
「アイセリン殿下! 皇帝陛下の命により、殿下を連行する!」
再び、鋭い声が外から響いた。今度は門扉が打ち鳴らされ、威圧的な鉄のこぶしのように屋敷全体を叩きつけた。
「直ちに門を開けられよ!」
執事が恐る恐る応対に出ようとするのを、アイセリンは制した。すぐに上掛けを羽織り、顔の表情を整えながら階段を降りていく。冷たい石の階段が裸足の足裏に痛いほどに感じられたが、その痛みがかえって現実感を与えてくれる。
彼女の心臓は、まるで戦鼓のように鳴っていた。
「直ちに門を開けよ!」
屋敷の外では百人隊長が繰り返し叫び、兵たちの盾が門扉を圧迫する音が響いていた。だがアイセリンは扉の内側に立ち、冷たい瞳で鋼鉄の装甲に覆われた男たちを見据えていた。
「私は陛下のご子息の妻。陛下の勅命であっても、その真意を問う権利があるはずです。正規の召喚状を――」
「殿下、これは“召喚”ではありません。“命令”です」
その言葉に、館の召使いたちは顔をこわばらせた。百人隊長が一歩前に出て叫ぶ。
「最後にもう一度言います! 門を開けていただきたい!」
それでもアイセリンは一歩も退かなかった。彼女の目には、ほんのわずかにだが、怯えと覚悟が同居していた。
だがその瞬間、外で剣が振り下ろされると、兵たちが一斉に動いた。
「門を破れ!」
鋼鉄のかかとが石畳を蹴り、重装兵たちが突進する。数回の打撃で門扉は軋み、五度目の打撃で蝶番が音を立てて外れた。門は内側に崩れ落ち、衝撃とともに兵たちが雪崩れ込んできた。
「確保せよ!」
館内に響く怒号。召使いたちは悲鳴を上げて散り、その場に膝をついた。兵たちが慣れた動きで邸内を制圧し、アイセリンを囲む。
「無礼者!!」
女近衛兵の手がアイセリンを掴み、アイセリンは吠えた。
「大人しくご同行していただきます、殿下」百人隊長は一瞬の礼儀を見せたが、その目は容赦なく、軍律に従う冷たさに満ちていた。
アイセリンは唇を噛んだ。抵抗しても無意味――それはわかっていた。だが同時に、己の意思で捕らえられることが、ただの“愛人”ではなく、“陰謀の共犯者”として裁かれる未来へ繋がるのも、はっきりと感じていた。
「……わかりました」
震える声で、それでも毅然とそう答えると、彼女は静かに手を差し出した。女兵士がそれを拘束するための鎖を取り出すと、彼女は目を閉じた。
◇
連行されたアイセリンは、黄金の装飾が施された玉座のある本殿ではなく、宮廷の北端にある監察塔へと運ばれた。ここは皇帝直属の尋問所――帝国でもごく限られた者しか足を踏み入れることのない場所だった。
石造りの冷たい部屋、覆面の尋問官、記録官、そして背後で控える近衛隊の影。
そこに入室したとき、アイセリンはすでにすべてを悟っていた。これは尋問であり、粛清の始まりだった。
◇
「あああああ!!!」
石造りの部屋には窓がなく、灯火は蝋の揺れる赤い明かりのみ。
その中央に縛られたアイセリンは、すでに何度も問いを繰り返されていた。
尋問官は顔を覆面で隠し、機械のように冷静な声で告げる。
「共謀した元老院議員の名、将軍ケルレダン以外に誰がいる?!」
アイセリンの頬には血の混じった涙が流れていた。手足は縛られ、指先は何度も針で刺され、皮膚は鞭によって裂かれていた。だが、その痛みよりも、羞恥と恐怖、そして“裏切る”という言葉の重みが彼女を追い詰めていた。
「……お願い……もう……やめて……」
彼女の声は掠れ、声にならぬ嗚咽が続いた。だが尋問官は、眉一つ動かさぬまま命じる。
「拷問吏、続けろ」
横に控えていた男が無言で器具を手に取り、再びアイセリンの皮膚に熱した鉄を押し当てた。その瞬間、彼女の全身が震え、声が張り裂けた。
「ひっ……やああああああああああああッ!!」
蝋燭の火が影を伸ばし、石壁に揺れる亡霊のような輪郭を描いた。
「貴女は帝国皇族の名を背負っていた。しかし今や、それは罪の重石に過ぎん。すべてを話せば、命までは奪わぬ」
尋問官の声が、氷のように冷たく突き刺さる。
アイセリンの瞳は虚ろに揺れ、まぶたの奥に昨日の夜のケルレダンの顔が浮かんだ。
「すべては正義のためだ」と彼は言った。「この帝国を変える」と。
だが今、その言葉は呪いのように響く。
「……エ、エルノート……元老院議員の、エルノート・デファイが……資金を……出していた……」
アイセリンは嗚咽の間に名前を口にした。
「他には?!」
「ア、アルモス……近衛第二大隊の隊長……彼も……手筈を……整えていた……」
尋問官は記録官に目を向ける。羽根ペンの音が紙を走り、名前が次々に書き留められていく。
「他には?」
「……い、いない……もう誰も……もう……わたし、知らない……」
アイセリンは首を振りながら号泣した。いや、泣くというよりも、感情の崩壊そのものだった。貴族としての誇りも、家族の名誉も、すべてはここで剥がれ落ちていく。
「やれ」
「ひっ……やああああああああああああッ!!」
拷問は続いた。しばらく絶叫と怒号が響くと、拷問室の扉が開いた。
皇帝――帝国の太陽、すべての頂に立つ存在。鋭い金の瞳が暗がりを貫き、長衣の裾が静かに床をなでた。
拷問吏たちは無言で一礼し、命を受けずとも下がった。誰も、皇帝の目を正面から見ることはできない。
やがて石の部屋に残されたのは、椅子に縛られたアイセリンと、彼女の前に立つ皇帝ただ一人。
アイセリンは、視界の中に現れた金色の衣を見て、恐怖と羞恥に打たれながら、涙を溢れさせた。
「……陛下……」
声はすでに掠れていた。唇は腫れ、頬は血と涙に濡れていた。
皇帝は何も言わず、アイセリンの前に腰を下ろした。彼女の目を、真正面から覗き込むように。
「……エリスロムは、これに関わっているか?」
静かな問いだった。だが、その一言は、刃のようにアイセリンの心臓を裂いた。
彼の名を、この男の口から聞きたくなかった。
――エリスロム。私の夫。私のすべてだった。
アイセリンは揺れた。罪悪感が胸を裂き、痛みによって震える体を強張らせる。
首を振った。
激しく、必死に、繰り返し、涙をこぼしながら首を振る。
「ちがう……ちがう……彼は、何も……知らなかった……っ」
息が詰まり、嗚咽で喉が潰れそうだった。
皇帝は、その目を細めた。
しばし、彼女をじっと見つめていた。
「……そうか、ふむ……どうかな」
その言葉は、まるで独り言のようだった。だが、次の瞬間――彼は静かに、傍らの拷問机から赤熱した鉄棒を取り上げた。
尋問吏の手によって炭火に焼かれたそれは、すでに橙色に灼け、金属が鳴くように呻いていた。
皇帝はアイセリンの頬に手を添え、彼女の胸元へと鉄を近づけた。
「――裏切り者は嘘をつくからな」
「や、やめ……いやっ……! やめて……!!」
ジュッ……と肉の焼ける音。
「うああああああああああああああああッ!!」
彼女の体が跳ね、拘束具が軋む。蝋燭の火が揺れ、壁に映った影がひときわ大きくねじれた。
声は絶叫から呻きへと変わっていく。咽び泣くこともできず、彼女はただ、地獄のような激痛の中で――自分の愛と愚かさの果てを知った。
「我が息子の妻だというに、裏切り者に股を開くとは」
皇帝は熱した鉄をアイセリンの秘部に突っ込んだ。
「ああああああっ!!」
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宮殿の門の前。ケルレダンの手には、確かにアルモスから渡されたという鍵があり、扉は音もなく開いた。
だが、その異様なまでの静けさに、誰かが囁いた。
「……おかしい」
次の瞬間だった。庭園の真ん中に、何かが置かれているのを見つけた。
「……あれは?」
一人が松明をかざし、そして全員が息を呑んだ。
大理石の台座の上――そこには、串刺しにされたアイセリンの亡骸があった。
衣服は乱れ、顔は血に染まり、だが瞳だけはしっかりと見開かれていた。死の直前まで恐怖と痛みに耐え抜いたことが、そのまま顔に刻み込まれている。股から口までを槍で一突きにされている。
ケルレダンは一歩、二歩と足を進め、まるで信じられぬものを見るように凍りついた。
「……アイセリン……?」
彼の呼びかけに、もちろん返事はない。
遺体の下には、血で書かれた皇帝の命令書が置かれていた。そこには簡潔な文字でこう記されていた。
「裏切り者に与えられるのは、死のみ」
その場にいた全員が凍りついた。ケルレダンは唇を噛み、拳を震わせた。
「バカな……こんなはずでは……!」
そのときだった。
四方の柱の影から、重装の近衛兵たちが現れた。
「全員、武器を捨てて投降せよ!」
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