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第一章

彼の愛称

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整えられたシーツの上にドサッと座り込むと、深く息を吐き出す。
また来月も行かなければいけないと思うと憂鬱だわ。
どうしてあんな状態で婚約が成立してしまったのかしら……。

悄然とする中、トントンとノックの音が響くと、心配そうな表情をしたケルヴィンがやってきた。

「失礼致します。お嬢様……何かございましたか?」

「えっ、いえ、何もないわ。どうしたの突然?」

私は慌てて姿勢を整え笑みを造ると、彼へ視線を向ける。

「楽になさってください。……今日はいつも以上にお疲れのように見受けられましたので……」

その言葉に目を見開くと、彼はゆっくりとこちらへ近づいてくる。
笑みは完璧だったはずよ、どうして気が付いたのかしら……。
蒼い瞳を見つめる中、彼はワゴンを運んでくると、甘い香りが鼻孔を掠めた。

「温かいミルクをご用意致しました。お菓子もございますよ」

「あっ、ありがとう」

湯気が上るカップを手に取ると、心がホワッと温かくなる。
テーブルに色とりどりのお菓子が並べられ、気持ちが少し明るくなった。
先ほどの憂鬱な気持ちが溶けていくと、硬直していた頬が緩んでいく。

「差し出がましいことをお伺いしますが……お嬢様は王子とお会いになられた日は、どこか元気がないように感じます。……もしかして王子と上手くいっておられないのでしょうか?」

見透かされたようなその質問に、私は手を止めると、おもむろにケルヴィンを見上げる。
いつも感情を表に出さないよう努めていたのだけれど、どうしてわかったのかしら……?
蒼い瞳を視線が絡むと、いつものように笑みを浮かべることが出来ない。

「どうして……。いえ、そうね……。正直に話すと……私は王子に嫌われているの。だからこうやってお会いすると、神経がすり減ってしまうわ」

いつもなら相手が私を嫌いだとわかれば、その時点で近づくことを諦める。
だけど今回ばかりは、そうもいかない。
何しろ彼と私は婚約者で、逃げたくても逃げられない。

「うん……?あの王子がお嬢様を……?そんなはずは……」

ケルヴィンは首を傾げると、納得できないというような表情を見せる。

「本当にね、意味が分からないわ。私が嫌いなら婚約の話を断ればいいのに、なぜかそれをしない。挨拶をしても目をあわせてもらえないし。会話をしても続ける意思が感じられないわ。そんな相手とお茶を楽しむなんて無理な話よ」

一度言葉にしてしまえば、心につっかえていた不満がポロポロと零れ落ちる。
誰にも話したことなんてない。
だけどなぜか彼の傍は温かくて、気が緩んでしまう。
きっとそれは彼が私を真っすぐに見つめてくるから?
あの夜会で出会った時とは違う、彼を知ってしまったから?

「あのマーティン様がですか……。意外ですね」

「意外?あなたは王子と面識があるの?」

「えぇ、王子は剣がお好きですからね。よく騎士の宿舎に来ては剣の腕を磨きにきておりました。その頃僕も騎士としてそこにおりましたので、手合わせなどもしておりましたよ。彼はとても筋がいい」

そういえば体を動かすことが好きだと話していた。
そんな人がじっと夜空を見上げるなんてしないでしょう。
だけど剣術何てやったことがないわ。
やっぱり彼へ話題を提供するのは難しいわね。

「剣術ね……さっぱりわからないわ。ふふっ、でもなんだかすっきりしたわ。こんなことを人に話したのは初めてだもの。ありがとう、ケルヴィン」

「いえ、こんな僕がお嬢様のお役にたてるのであれば幸せです」

彼はニッコリと笑みを深めると、あの時と同じ蒼い瞳が静かに揺れた。

「そんな……あなたが来てくれてとても暮らしが楽になったわ。だってケルヴィンは何でも出来るんだもの」

「言いすぎですよ。それよりもケルヴィンは少しながいでしょう。良ければケルと呼んで頂けませんか?」

彼の名を愛称で呼ぶ……?
そう意識すると、なぜか胸が小さく高鳴った。
けれど悪い気はしない、私はそっと口を開けると、彼の名を呟いてみる。

「ケル?」

「……いいですね。ありがとうございます、お嬢様」

そういった彼の表情は今まで見たことがない自然で柔らかい笑みを浮かべていた。
その笑みがあまりに眩しくて、思わず視線を逸らせると、私は誤魔化す様にミルクを喉へ流し込んだのだった。
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