グッバイ、親愛なる愚か者。

鳴尾

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 僕と彼は、最初から最後までずっと友人ではなかった。彼が僕をどう思っていたのかはさておき、僕は最後まで友人だとは思っていなかった。けれど僕は学生寮の寮室で僕の邪魔をしなくなった彼のことを、ほんの少しだけいいやつだと思っていた。
 だから、だろうか。僕は彼に、気まぐれだとかそんな言い訳ができないくらいの干渉をした。それは、彼の理想への手助け。寮室にいるその間だけ、僕は彼が理想に近づけるよう手を貸した。今となってはどうしてこんなことをしたのか、全くもって分からない。僕は、僕の心のことでさえ、何ひとつとして分からない。

 彼は多分、ここへ来る前は毎日学校へ通えていたわけではなかったのだろう。
 正しくは、通えなかった。
 彼はあれだけたくさんの薬を毎日飲んでいても、どうしようもなく体調を悪くしている日があった。あの大量の薬はあくまで最低から少し酷い状態にする程度で、あれだけ飲んでも彼は健康な体を手に入れられなかったのだろう。
 学生寮で生活を共にして一ヶ月半。青白い顔でふらつきながら身支度をしていたあの朝、僕は生まれて初めて誰かのことを心配した。彼は自分の体の弱さを嫌っていたのだろう。だからどんなに具合が悪くても平気なふりをしていたし、どんなに苦しくてもそれを誤魔化して笑っていた。誰の前でも変わらずに。彼にとっては立って笑顔を作っていられるうちは元気、というわけだ。意味が分からない。どんな理論だ。
 僕にはふらつく彼を止める権利はなかった。だって僕は今まで散々無視してきたのだから。けれどこの不安定なルームメイトをこのまま部屋から出したらどうなるか、そんなものは考えるまでもない。間違いなく、彼にとって最悪の結末だ。
 その日僕は、初めて自分から彼に話しかけた。

「あのさ、今日僕少し具合が悪いんだ。だから学校を休むつもりなんだけど、あんた一緒に休んで僕の看病をしてよ。」

我ながら酷い誘い文句だ。こんなことならもう少し人と話をしておくんだった。もう少し、会話というものを練習しておくんだった。けど今更すぎる後悔にはなんの意味もない。僕は今、ぽかんとした顔でこちらを見る制服姿の彼に話しかけてしまった。初めましての挨拶に、黙れと返して無視しまくったやつが急に何を勝手なことを、と呆れただろうか。元気そうに見えるよと笑って、今まさにその手に握られたドアノブを回して学校へ行くだろうか。
 いや、彼はきっと快諾する。彼は、そういう男だ。

「もちろん。すぐに気づかなくてごめんね。」

僕の予想通り、彼はすぐさまそう言ってドアノブにかけた手を離した。

「何をすればいい?」

少しほっとした顔で、彼は肩にかけていた鞄をおろして僕を見る。僕は覚悟を決めて、ベッドの上段で布団にくるまりなおした。

「制服が汚れたら弁償がめんどくさいから部屋着に着替えて。それからしばらくベッドで大人しくしてて。必要になったら呼ぶ。」

本当は女の子たちの告白をうまく交わしてきた彼のように、上手に言いくるめるつもりだった。けれど実際に出てきた言葉は、こんなにもあからさまな嘘。

「分かった。何かあったら遠慮なく、すぐに呼んでね。」

けど彼は僕を疑うことなく言う通りにした。もう考える余裕もないほど限界だったのか、あるいは僕を疑って会話を広げることで自分の秘密を知られてしまうのを恐れているのか。僕に彼の心境なんて知る由もない。
 今この部屋にいるのは病で学校を休もうとしている僕と、僕を看病するために一緒に学校を休もうとしている彼。事実は、それだけでいい。彼はきっと、僕にそれは仮病か、なんて野暮なことは聞かない。彼は僕にさえ、自身の不調を知られたくないのだ。僕があんたのために仮病を使った、なんて言おうものなら、彼は部屋替えを要求しかねない。せっかく静かな空間ができていたのに、また一からやり直すのはごめんだ。そしてそれは、多分彼も同じだろう。烏滸がましいかもしれないが彼のルームメイトとして平和にやっていけるのは多分、全校生徒の中で僕だけだ。
 だから聞かない。疑わない。互いに。
 人のことは言えないが、彼はだいぶ、めんどくさい性格をしていると思う。

「先生に休むって連絡してくる。」

僕は彼にそう言って布団の中で羽織を着る。羽織の中に押し込まれた制服が、歪に形を変える。

「待って、君は具合が悪いんだろう。代わりに行ってくるから君は休んでいて。」

そうして羽織を着込んで部屋を出て行こうとする僕を、彼はふらつく足取りで引き留めた。
 まあ普通なら、看病する側が報告に行くだろう。僕も彼の立場なら、実際に言うかどうかは別としても流石に同じことを思うくらいはする。けどここでこの酷い顔をした彼を行かせては、僕が慣れないことをした意味がない。

「僕のせいで休ませるのに、そこまで迷惑はかけられない。それくらいは平気だから。」

僕はそう言って、羽織を掴む細い手を振り払った。そのまま勢いよく部屋を飛び出して廊下に出る。彼は、部屋の外までは追いかけて来なかった。もう限界だったのかもしれない。
 まだ学生寮は登校途中の生徒で溢れている。登校するにはかなり遅い時間とはいえ、廊下にはちらほらと生徒たちの姿があって、羽織を着て荷物を持たない僕を好奇の目で見つめている。やはり彼をここへやらなくて正解だ。

「あれ?お前なんでまだ制服着てないんだ?」

そんな好奇の中にあった坊主頭がひとつ、僕に話しかけてきた。

「寝坊したん?せめて制服は着ろよな。」

意図が分からない。こいつは誰だ。どうして僕に話しかけた。何も分からない。分からないのは、気持ちが悪い。

「お前、顔色悪くないか?もしかして具合悪かったんか。何も気づかんくてごめんな。じゃあ今から先生に言いに行くんか。」

そうだよ、だから早くどっか行けよ。坊主頭がわけ分かんないことを言うたびに、僕はどんどん気持ち悪くなる。こいつは、嫌いだ。僕が最も嫌いな部類の人間だ。

「先生んとこ行くならさ、俺が付き合ってやるよ。」

坊主頭の言ったことが、僕には理解できなかった。

「クラスメイトのよしみだ。ほら、早く行こうぜ。歩ける?歩けんくらいしんどかったら俺がおんぶするから言えよな。」

鬱陶しい。偽善者め。
 僕は今初めてこいつを知ったっていうのに、どうしてこいつはこんなことをするんだ。早く学校へ行けば授業の準備とか読書とか、もっと時間を有意義に使えるだろうに。こんな知り合って間もない仮病野郎のために遅刻覚悟で連れ添うなんて馬鹿だ。これだから偽善者は嫌いなんだ。どうせこいつはあとで僕を助けたことを武勇伝にして、面白おかしく吹聴して回るんだ。そうやって一生恩着せがましくあのときは、とかそう言えば、とか擦り続けるんだろ。反吐が出る。
 坊主頭の偽善者は僕と学生寮の医務室まで連れ添い、途中から担がれたけど、僕を医務室の先生に預けると走って医務室を出て行った。もうこの時間では走っても間に合わないだろうが。僕はそこにいた先生に僕とルームメイトの欠席を伝える。医術の心得がある彼女は、僕の言葉を信じてくれた。
 先生は多分、僕が仮病だということには気がついていただろう。本当に病人なのは僕ではなく彼だということも。けれど先生は何も言わなかった。ただ、
「具合の悪い人が飲むこと。」
そう言って、僕に薬を手渡した。
 彼も僕も先生も、みんな嘘をついている。分かりやすいのに、絶対にバレない嘘を。

 部屋に戻ると、青白い顔をした彼は二段ベッドの下段で死んだように眠っていた。肩にかかる黒髪がベッドの影に溶ける。顔色は酷いが苦しそうには見えない。精巧に作られた人形のように、彼はただそこにいた。
 少し近づいて息があることだけを確認した僕は、彼を起こさないように静かにベッドの上段へ上った。

「ねえ、大丈夫?生きてる?」
少し物騒な声に目を開けると、心配そうな顔をした彼が視界に映った。彼を起こさないように静かにしているうちに、僕自身も眠ってしまっていたらしい。
「先生が昼ごはんを持ってきてくれたんだ。食欲はある?」
それはこっちのセリフだ。そう言いかけて、僕は言葉を飲み込んだ。看病されているのは僕のほうだった。
「食べる。」
体を起こすと、部屋の中央に置かれたふたり分のお粥が目に入った。
「先生がさ、別々の料理を用意するのはめんどくさいから具合悪いほうに合わせなさいって。だから同じ料理なんだ。お揃い。」
具合悪いほう、がどっちを指しているのか。それは考えてはいけないことだ。
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