彼の小説

憂月柘榴

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彼の小説

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 彼は小説を書いている。書いていると言っても、それは稚拙なものに過ぎない。しかし彼は、ひたすらに書いている。
 彼は自らへの影響をまず芥川、特に晩年の、『或阿呆の一生』や『歯車』に求めた。しかし彼はヴェロナールを口にすることもできず、閃輝暗点に悩まされるわけでも、喀血に辞書を閉じることも経験がない。色彩に微細な、しかし宿命的な自らの命を感じることもなかった。
 そして彼は思う。ならばボードレールはどうか。なるほど、彼の憂鬱はボードレールの鬱屈とした詩情に似ていると言えないこともない。その憂鬱の中に微睡む美しさは彼の心を捉えてやまなかった。しかし彼の憂鬱は巴里ではなく、甲斐の山奥より出た試しもなかった。さらには酒を飲むことすら彼の虚弱は彼に許さなかった。アブサンは彼の脳裏で、透き通ったエメラルドの如き輝きを放ちながら、燃えていた。
 ならばゲーテ、ゲーテだ。そう彼は言う。それは言わば苦し紛れの叛逆に似ていた。彼は、彼自身の小説がゲーテのそれとは似ても似つかないことを知っていた。何より彼には芳醇な、自然を味わう西洋の精神がなかった。彼の住む現代の日本は、あのゲーテの生きた世界ほど美しくなかった。また、ウェルテルに渡されたあの銃のような、運命と悲劇の交錯する凄まじい瞬間も、彼は持ち合わせなかった。
 ドストエフスキー。そう考えて、彼はドストエフスキーの書いた地下室の住人のことを思った。それは確かに彼に似ているように彼には思えた。彼の歪んだ精神性は地下室の住人に似ていたし、彼の生活とて似たようなものだった。あの地下室の住人の、脳だけが独り歩きしているような語り口は、彼の一部を象徴しているように彼には思えた。だが彼は忘れていた。ドストエフスキーの目はその地下室の住人を神の視点から見下ろしているということを。
 カフカとカミュはどうか。彼はここにきて不条理の文学へと思考の枝を広げた。それは自らに近い思想を彼に感じさせた。彼はしばしば、理不尽や不条理を書いていると言えなくもなかった。いや、むしろ彼の書くものの大半はそれに近しいと言えた。彼は『シーシュポスの神話』を何度も読み返していたし、『変身』とて幾度もページをめくっていた。彼は彼の文体に、彼らの似姿を求めている節があった。だが彼はまた忘れていた。彼には、カフカやカミュの持つ冷徹で明瞭、あまりにも論理的なその脳をそもそも持ち合わせてはいなかった。
 三島由紀夫。三島ならばあるいは。彼は三島由紀夫の『憂国』を思い浮かべた。確かに彼の稚拙な作品の中には、『憂国』に流された白無垢に飛び散る血液が通っていた。そこに彼は圧倒的な映像美を見た。また、人の死が模る美学の極地を見た。それは彼にとって崇高だった。しかし彼は政治などにはとんと興味などなかったさらに言えば、彼は性愛について書かことを苦手としていた。…

 彼はこうして彼の小説や彼の思想を彩った作家たちを思い浮かべながら、頭を抱えていた。彼は彼に近しいものを見出しながら、それを突き詰めていけば必ず彼の欠乏に突き当たるのだった。それは所詮、彼がただの凡人でしかないからだった。それは明瞭な解答として、彼の前にいつでも立ちはだかった。彼は誰よりもそれを最もよく理解していた。だからこそ彼は、彼の美しいと思う小説を、短歌を、思想を、あらゆる文学における芸術を愛した。愛することで彼は、彼がその愛した対象に近づいていくことを期待していた。しかし現実は、ただ静かに彼へ欠乏を突きつけるだけだった。なるほど、今の彼をこうして書けば、不条理文学として語れるやもしれない。例えその実情が膿のような汚らわしい不条理だとしても、それは彼にとって幸せかも知れなかった。そこに彼は物書きとしての冷笑を見出した。その冷笑は愛すべきものに違いなかった。『道化の華』を書いた太宰もまた、このような冷笑の官能に呑まれていたのだろうか。
 彼は、小説を書くことに理由を持たなかった。厳密に言えば、彼の小説を書くことの持つ理由は生存の二文字だけだった。彼は書かねば生きられなかった。それは金という問題ではない。彼にとっての金はあくまで生存の手段の一つに過ぎない。彼にとっての生きることは、それ以前の段階に位置していた。すなわち、それは呼吸への許可だった。彼は彼が書かねば、彼の呼吸に許可を与えることができなかった。それは存在証明というほどのものではなかった。何故なら、彼にとって書くことによって得られるものは大抵どうでもよかった。証明されるべき存在はなかった。彼にとって書くことは、ただ書くこと、それだけだった。そしてその思想を彼は愛で続けていた。
 彼は自らの書いたものを推敲することも、読み返すこともほとんどなかった。彼にとって書き終えたものは既に終わったものだった。その意味では彼の小説は、文章は余程生物に近しいものだった。それは彼が書くことそのものを目的としているからだった。それは言い方によれば実に崇高な、純粋な芸術的動機と言えなくもなかった。しかし彼にとって、彼のその欲動は崇高とは思われなかった。彼の書くという欲動は、他者の生殖欲求や食欲と何も変わるところはなかった。彼はそこに芸術的価値を見出すことはできなかった。彼が見出したのは、ただ歪み、捻じ曲がって鬱血した欲動、それだけだった。
 欲動という言葉を書いた彼は、瞬く間に無意識という言葉を思い出した。彼の小説はしばしば無意識の力を借りるのを常としていた。それは彼がフロイトやユング、精神分析を敬愛しているためであった。彼は無意識という深海に潜り込み、その宇宙の中で言葉を探すことを好んだ。そこには無限の、欲動と表現の洪水が溢れかえっていた。そこから湧き立つ言葉は醜悪で、倫理性もなく、しかしどこか透徹された美しさがあった。この透徹された美しさに彼は自負と自らへの慰撫を見出していた。これらは彼に一定の満足を与えた。彼の無意識を表出させるという書き方は、確かに一定の独自性と、美しさを彼の小説に与えた。なるほど、確かにその中にはまさに彼しかいなかった。しかし彼は常に脳裏で思っていた。その彼の小説は、所詮彼の日記に過ぎないのではないかと。彼はいつになってもそれを否定する術を持たなかった。度々、彼は自らの小説を、小説と呼ぶべきなのか悩み、否という答えを持ち出そうとすらした。彼の敬愛する小説家たちのそれとは、彼のそれは根本からかけ離れている、そんな気が彼にはしていた。それでも彼にとって最も独自で、最も美しいと思われるものは無意識の深海より湧き上がる文章たちだった。それ故に、彼はその書き方を止めることはしなかった。
 彼の無意識の深海は、あらゆる象徴を持って彼の小説を彩った。文章は神経に、血脈に、句読点は呼吸に、鼓動に、まるで彼自身の体を模したかのように踊り狂った。こと神経は、神経の発火は文章に火花を与え、思想に点火し、彼の世界を言語の焔に包んだ。彼は何かを書き上げると、恍惚した思いで煙草を吹かすのを常としていた。彼はそのたびに考えた。これは俺にしか書けまい、してやったぞ、と。だがそれも、考えてもみれば彼の無意識など彼にしかわからぬのだから、当たり前の話だった。そして他者の無意識など、誰も興味もなければ理解もできないということも、当たり前の話だった。彼はそれを理解しながら、馬鹿らしい自己満足に浸る自らを非難することも、拒絶することもできなかった。
 彼の人生は退屈だった。人並みと言えば聞こえはよかった。彼の人生の日々には、書くに値するドラマ性はなかった。平凡とは平和の象徴でもあるが、同時に思考を飽きさせる病でもあった。故に彼は、自らの生きる外界に書く対象を求めることができなかった。彼は書くために自らの脳に、体に、そして無意識に、没入することで素材を拾い集めた。そこには確かに無限に広がる世界があった。すなわち、彼は世界を書きながら世界を書いたことなど一度たりともなかった。彼が書いているのは、常に彼の中にある世界でしかなかった。彼は彼のこの児戯のような堂々回りをいわば黙認していた。この黙認は怠惰と、彼自身の生活力のなさと、気力の欠乏が原因と言えなくもなかった。どちらにせよ、彼は世界を脳と心だけを携えて旅をし、そこで見たものを見たまま移し書くことに専念し続けた。
 彼は時折思った。自身は小説家ではない、と。彼は彼のことを、好んで翻訳家と呼んだ。事実、彼は小説に関して構成を練ることがなかった。彼はただ脳裏に浮かんだ映像を文章に書き起こしているに過ぎなかった。彼にとってそれはまさに翻訳だった。故に彼は、彼自身がものを書いているのかものを書き写しているのか、ものを書かされているのか、度々わからなくなった。それは彼の狂気に近い創作活動…それは熱意という意味ではなく、無意識に近接するという無謀…が齎した彼の自我の混乱によるものがしれなかった。事実精神分析を嗜んだ彼は、彼の精神構造が危険な領域を彷徨っていることを、よく理解していた。
 彼は夢を愛した。殊更、夢の前段階にある微睡の中の、あの意味の汲み取れない映像の群れを愛した。彼にとってそれは宝物庫のようなものだった。脈絡も倫理もなく、ただ流れ出す奔流のようなそれは、彼を魅了してやまなかった。そして彼の無意識は飽きることなく、彼に翻訳の原本を提供した。彼は飽きることなく、それを翻訳し続けた。この作業を彼は芸術療法に近いと考えていた。また、ユングの集合的無意識についても思いを巡らせた。ともすれば、彼は自らが集合的無意識から言葉を抽出しているのではないか、と大それたことを考えたことすらあった。しかし論じる価値も是非もなく、それを証明することはできそうになかった。また、証明したところで何の意味もないことを彼自身がよく知っていた。フロイトですら非難された無意識越しの世界に、彼のような凡人の居場所はなかった。
 彼は愚者ではなかった。しかし、賢者でもなかった。彼は所謂凡人だった。彼の持ち得る特性は狂気への近接、それだけだった。それは無意識への近接と同意だった。だから、彼はそれをやめなかった。彼は生きるために書かなければならなかった。だから彼は、薄氷の上を渡るように狂気と自我の間を歩き回り続けていた。それがいつ破綻するとも知れぬままに、それでも彼は自らに言い続けた。今を生きるためには、そうするしかないのだ、と。それは努力と言えなくもなかった。しかし彼自身は、自らの努力を認めなかった。彼の中でその行為は、入水に近い自己投棄だった。
 彼の書くものは大した価値を持たなかった。評価されることはないと彼自身が思っていた。そしてそれを知っていた。彼はそれを残念に思わないでもなかった。しかし、どう脳を巡らせても彼の書くものは世界に必要とされるものではなかった。そもそも、無意識とは意識に上らないからこそ無意識であって、不要だからこそ無意識たり得ている。わざわざそれを翻訳し、文章としたところでその価値など知れたことだった。価値があるとすれば、彼の生が幾許か伸びるという一点のみしかなかった。
 彼はやがて狂気に呑まれるかもしれなかった。しかし彼はそれを怖いとも、救いだとも考えなかった。ただそうなってしまったら仕方がないとだけ思っていた。畢竟、彼はただ生きているに過ぎなかった。彼が生きるには書くことが必要なだけに過ぎなかった。そこに理由はなかった。それは彼にとって、不気味な亡霊のように背後について離れずにいた。…彼自身も、その亡霊の手を取ることをやめるつもりもなかった。なるほど、彼にとってその亡霊は、生きた人間より余程美しかったに違いない。
 また、彼は生きるために書きながら、死を恐れてはいなかった。死は彼にとって一つの現象に過ぎなかった。それは必ずくる、ただそれだけだった。つまり、彼にとって考える価値のある問題ではなかった。ならば何故俺は書くのだろう、生きるために書くのなら、書くことをやめれば死ぬはずだ、死が怖くないのなら書くのをやめて仕舞えばいい、そう彼は何度か思案した。その問いの答えは、それはあまりにも情けない、というものだった。それが彼の自尊心から来ているのか、それとも覆い隠された死への恐怖から来ているのか、彼には判別がつかなかった。彼は実際何度か死を望んだことがあるが、まだ生きていた。のみならずまだ生きるらしかった。
 彼は希望とも絶望とも手を結ばなかった。少なくとも意識的には手を取らなかった。それはカミュへの敬愛でもあった。また、彼の考える希望と絶望の無意味さからでもあった。彼にとってそれらは路傍の木に過ぎなかった。彼はどんな希望を持っても死ぬだろう。彼はどんな絶望を持っても生きるだろう。彼の生にとってそれらは副産物でしかなかった。故に、彼のあらゆる判断基準は、それに全く左右されることはなかった。それよりは、彼にとって怠惰の方がよほど生に直結しているように思われた。彼は怠惰と気力のなさによって死なないのかも知れない、そう言われれば彼は否定しなかった。彼自身とてそれを否定する思想も生活力も、気力も持ち合わせていなかったから。
 彼が縋る唯一の宗教は書くことだった。彼は神を否定も肯定もしなかった。彼にとってそれもまたどうでもよかった。彼にとって宗教は一つの芸術の形式に過ぎなかった。彼の死後、彼がどうなるかなどどうでもよかった。彼の死後に彼の神経は死滅している。ただそれだけが事実だった。神経が死滅すれば、彼は既に何一つ書くことはできない。そこにそれ以上の意味はなく、彼という存在のそれ以上の終焉もなかった。畢竟、彼は神経によって生きているに過ぎなかった。それが彼の答えだった。だが、その答えすら、既に芥川が書いていることは彼自身もよくわかっていた。所詮彼は、彼自身の読んだ作品のあらゆる言葉によって構成されている集合体に過ぎなかった。
 彼は自らを顕微鏡の上に載せて観察することを好んだ。彼にとって彼自身は最も安全に唯一実験と観察を繰り返すことのできる被験者だった。彼は彼の、狂気と正気の狭間で歩く歩幅さえ測った。その足の震えを見つめ、文章にした。鼓動の早まりすら彼は書き写した。理由はその実験は他者ではできないから、というだけだった。その意味でも、彼は彼自身が死に絶えれば全てに興味をなくすに違いなかった。彼は彼自身にしか興味関心がなかった。さらに言えば、彼は彼自身の、彼にもわからぬ内奥にしか興味がなかった。世界を写し見る彼の五感はその内奥の鏡として機能した。それ以上の価値を彼は見出さなかった。その意味では小説は報告書でもあった。彼という被験者を用いた実験の、つぶさに観察され、分析され、解剖された実験の報告でもあった。これは脳裏の映像を翻訳するという彼のやり方とも矛盾なく一致していた。
 彼は彼自身の知らぬ彼に最も強い好奇心を抱いていた。それは彼の、無意識の中に無限の宇宙があると信じる盲信と、それを自らが持っているという傲慢からくるものかも知れなかった。彼の書いたものには必ず彼の知らない彼が表出していた。それは登場人物に、文体に、あらゆる形式にも、表れた。彼はそれを喜んで、無邪気にまた顕微鏡の上に載せて解剖した。
 彼の人生は実験に過ぎなかった。それ以上の意味はなかった。彼の生は、その好奇心によるものと断定してもよかった。何故なら、それに勝る他の理由など彼は一つも持ち合わせていなかったから。
 彼は幾度となく夢想した。彼自身が死に瀕した時、その心を、その神経を、その全てをどう書こうか、と。それは甘美な好奇心だった。彼の夢と言っても過言ではなかった。死に際してもなお自らを被験者として、実験は最終局面を迎える。そんな夢想を、彼は抱き続けた。…

 しかし彼はまた忘れていた。
 その時は、彼の神経は既に死に絶えている、ということを。
 そして夢はまた、プレパラートの上で彼を嗤っている。…
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