透明人間vs塩田剛三

梧桐彰

文字の大きさ
5 / 32
第一章 ヒトラー暗殺計画

遣独潜水艦伊号第八 乗務員A氏の記録

しおりを挟む
 第二次世界大戦当時。西のドイツ第三帝国と東の大日本帝国とを戦略的にどう結ぶかは大きな課題であった。

 一九四一年六月に独ソ戦が始まると、シベリア鉄道経由の陸上連絡路は完全に途絶した。さらに同年十二月、日本が英米と開戦すると、海路での連絡もまた至難となった。イタリアが発案した欧亜航空連絡も、当時の飛行機では航続距離が短くソ連上空を飛べないという二重の問題があった。

 この状況を打破すべしと白羽の矢が立ったのは潜水艦であった。

 当時、日本が渇望していたナチス・ドイツの技術といえば電波探知機だが、人材も相互に送りあうため、大使館付武官や技術士官、そして民間技術者なども潜水艦で送られることが決まった。

 これは遣独潜水艦作戦と呼ばれた。

 そして一九四三年六月二十二日。伊号第八潜水艦はこの作戦の第二次訪独艦として、特設潜水母艦日枝丸ひえまるとともに、帝国陸軍が占領したシンガポールから出発するところであった。

 鉄の壁に包まれた居住区はやけに狭かった。それも当然な話で、ここはもともと魚雷発射管室であり、それを工廠こうしょうで強引に作り替えているからだ。人の臭いが近く、視界は狭い。しかもその中に追加の乗員が増えることとなったのだ。船内の空気は勢い殺伐としたものであった。

 ところがその中。新たな乗客が入ってくると、彼はこんなことを口にしたのである。

「イヤ、潜水艦に乗るのは初めてですが」

 その青年はぼそっと、しかしその場にはっきり聞こえる声でつぶやいた。

「何度も乗りたいかと聞かれると、答えには窮しますなァ……」

 周囲の目が青年に突き刺さった。

 今は国家の大事だぞ。我々はその中で重要な任務を背負っているのだぞ。日本男児たるもの、そんな文句はこらえるべきだろう。そういう意味の視線だっだ。

 そして一人、青年の隣にいた外交武官が不愉快そうに「君」と声をかけた。

 しかしながら、そこで武官は青年を見ると、なぜかその気持ちがふっと消えてしまったような、奇妙な顔になった。自分で感情の変化に驚いていたようだ。

 武官は薄暗い中、口を閉じて彼に目を凝らした。

 青年の装束は甲号の国民服に小さな背嚢と、全く珍しいものではない。それでも武官が、自身に起きた感情の変化に戸惑っているのは明らかだった。
 
「いかがされましたか?」

 青年は少しだけ腰を浮かして聞き返した。

 武官はいそがしく手を振りながら、所在なげにハンケチを取りだして汗をふいた。

 周りにいる我々も、青年を見ていると武官と同じような気分になるのはわかった。どうにもとらえどころがないのだ。青年の奥行きのある目は、落ちついているようでも鋭いようでもあった。

 それでも話しかけた手前か、武官はさらに話し続けた。

「いや、失敬。民間の方ですかな。失礼ながら、名簿にはなかったかと存じますが」
「そうですなァ。急に決まりましたもので」

 屈託のない青年の声が、何を慌てているのかと語っている。

「ええ、じゃあ、ドイツへはどのような任務で?」
「ええと、そうですな。ここで申し上げるのはご勘弁いただけますかな」

 武官は少し言葉に詰まって下を向いた。一つ小さく咳ばらいをして、うむ、とつぶやいた。

「重ねて失敬をば」
「少々複雑といいますか、ご説明が難しいお話なのです」
「うむ、まあそれは皆、同じ事ですからな。ではご職業だけでも」
「ははァ」

 重ねて問うと、青年は照れくさそうに笑った。眉を寄せて言葉を待つ武官へ、彼はディーゼルの音に消えそうなほどの小さな声で、頭をかきながら答えた。

「わたくしは武術家でして」
「武術家?」

 武官が繰り返した。

「武術家というにはずいぶんその……」

 口ごもりながら、武官が青年の全身をジロジロと見つめた。

「弱そうですかな?」
「イヤイヤ、決して左様なことは」

 武官がそう返したが、その言葉が上っ面なことは傍から見てもわかった。

 それはある意味では仕方のないこととも言えた。青年は貧相な体格というわけではなかったが、筋骨がそれほど発達しておらず、なで肩で腕も細い。武官のほうが相当達者に見える体だったのだ。

 普通、武術家といえば宮本武蔵とか千葉周作とか、まずは欧米人にも体格で負けない印象を与えるものであろう。大柄で四角い体格を連想するその言葉には、およそ似つかわしくない。質素で古風なたたずまいはそれらしいが、荒事には向かなそうな見た目だった。

「そういえば、申し遅れました。私は塩田剛三と申します。陸軍大将畑俊六閣下の秘書で、ボルネオ島に派遣されておりました」

 武官が言葉を継ぐ前に青年が名乗った。遅れて武官も名乗り、お互いに来歴を交換した。塩田は政府の外郭団体である大日本武徳会から派遣されており、彼の師匠は植芝盛平うえしばもりへいという人物だということであった。

 武官は少し饒舌になった。結局、青年が技術者として武術を教えに行く立場であり、実戦の担当者ではないのだなと一人納得しているようだった。それから急に横柄になり、武徳会には知り合いがいるだの、自分もかつては柔道をやっていたのと景気よく語りだした。塩田もそれを、ほう、ほうと楽しそうに聞き続けてくれる。これに気をよくして、武官は思わず口を滑らせた。

「どうです、何か腕を見せてもらえますか」

 それを聞くと、塩田はぴたりと笑顔を止めて武官を見た。

「はァ、腕とは?」
「つまり何か技をご披露いただけんかと」
「いやァ、こんな狭いところでは」

 塩田が答えたが武官は食い下がった。

「狭けりゃ使えんというのであれば、それじゃあ武術とは言えませんでしょう」
「ははッ、それはどうでしょうかな」
「そう言ってる間にも敵は襲ってくるかもしれない。例えば、貴殿ならこう来られたらどうなさいます」

 言って武官はぐっと太い腕を突き出し、塩田の肩をつかもうとした。

 一瞬。武官は塩田の足元へうずくまり、鼻を床にくっつけた。

「おおっ?」

 声を出したのは武官ではなく、驚いて引き下がった周りの乗客だ。当の本人は、あっけにとられてじっと床を見つめることしかできなかった。

「何がいったい?」

 武官が顔を起こそうとすると、その勢いのまま、今度は天井へ飛び上がった。水を通す鉄パイプが額の一寸前まで迫る。今度こそ、その武官はキャッと高い声をあげた。

「イヤ失礼」

 塩田はにこやかな笑顔で、さっきと同じように鉄椅子に座っている。

 遅れて武官の両足が、船室の床にトンと戻った。自分の右手首を塩田に握られていたことは理解したが、それ以上は何が起きたのか全くわからなかったようだ。

 この時、塩田は武官の右手首を軽くつかんでから、そのわずかな接触を通じて全身を動かしていた。

 接触点を通して相手と呼吸を合わせ、複雑な人体構造を把握しつつ筋肉や関節を瞬間的に連携させ、重心・体勢を崩しつつ誘導していく。武官はその巧みな挙動に気づく間もなく、全身を操られていたというわけである。

 これこそ魔術でも手品でもなく、塩田が修めた武術のごく一部であった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

鋼鉄海峡突破戦       ーホルムズ海峡ヲ突破セヨー

みにみ
SF
2036年4月9日第六次中東戦争が開戦 中露の支援を受けたイランは中東諸国へと攻勢を強める 無論ホルムズ海峡は封鎖 多くの民間船がペルシャ湾に閉じ込められ世界の原油価格は急高騰 そんな中ペルシャ湾から4月28日 ある5隻のタンカー群がホルムズ海峡を強行突破しようと試みる 自衛用兵装を施した日本のある燃料輸送会社のタンカーだった 今彼らによる熱い突破劇が始まろうとしていた

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

王国の女王即位を巡るレイラとカンナの双子王女姉妹バトル

ヒロワークス
ファンタジー
豊かな大国アピル国の国王は、自らの跡継ぎに悩んでいた。長男がおらず、2人の双子姉妹しかいないからだ。 しかも、その双子姉妹レイラとカンナは、2人とも王妃の美貌を引き継ぎ、学問にも武術にも優れている。 甲乙つけがたい実力を持つ2人に、国王は、相談してどちらが女王になるか決めるよう命じる。 2人の相談は決裂し、体を使った激しいバトルで決着を図ろうとするのだった。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

処理中です...