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第三章 連戦連勝
欧州回顧録「淑女の部屋の怪異」
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ハンス・ユンゲ中尉は本営内に作られた特設の駅から列車に乗りました。
私と通訳さん、たった二人の見送りです。
「教授いただいた合気術を活かせるよう尽力する」
神妙な面持ちで中尉がおっしゃいました。
押し寄せる感情を吐き出す先もなく、くすぶる導火線の火種をなんとか心の中で消そうとしているようでした。
「そんなことはいい。それより無事でいてください。奥さんにもう一度お会いできるように」
私はそう言いましたが、ユンゲさんは答えずに「ハイル・ヒトラー」と右手を上げました。
私たちも同じ姿勢で、ハイル・ヒトラーと答えます。
彼は私の目を見つめながら、白樺の向こうへ行きました。
テープとノートを携えて、私たちはすぐにトラウデルさんの居室を尋ねました。
夜に男性が訪問するというのも失礼な話ですが、幸い通訳さんも女性でしたし、ユンゲさんとの約束をたがわないようにしたいという思いも強く、自然と急ぎ足になりました。
彼女たちは遅い夕食を取るのが習慣だったため、まだ居室にいらっしゃいました。
東洋人を見慣れていないのか、少し驚いたようでしたが、旦那さんからの言伝がと言うと、すぐに通してくれました。
茶色く短い髪はドイツ人らしい巻き毛で、知的さと快活さが同居した瞳が印象的です。
しかし連日の多忙のせいで疲れているようにも見えました。
部屋の調度は質素にまとめられ、琺瑯と木製のものがほとんどでした。
棚の一角には、彼女とユンゲさんが並んでいる写真が置いてあります。
ためらいがちに持ち物を机に置くと、私は簡潔にその内容を説明しました。
彼女はそのノートにさっと目を通すと、一瞬、肩で荒く息をしましたが、口に手を当てて動揺を抑えつつおっしゃいました。
「夫はまだここにいるのですか」
予想はしていたことですが、とても答えにくい質問です。
先ほどまでいましたと言っては、なぜ会わせてくれなかったとなります。
かといって嘘は言いたくありません。
私が黙っていると、トラウデルさんは静かに下を向きました。
粛々とした空気になり、彼女が沈黙を破るまでしばし待ちました。
「お茶をお出しいたします」
トラウデルさんは頬をこわばらせたまま、立ち上がりました。
ストーブにかけてあるポットを手にしてお茶を注ぎ、私たちの前に置きました。
「その、実は私も透明人間の話は多少は聞いていたのですが……本当にいるということなのですね」
トラウデルさんは旦那さんの話を避けて、透明人間の話題を出しました。
「はい、立ち合いました。私もご主人も」
「そうですか……最近、勤務は限られた時間帯に集団で移動するようにと言われたのもこれが理由だったのですね。私どもも気を付けなければ、ということですね」
言って、トラウデルさんは小さな小箱を出しましたが、その中には何も入っていませんでした。
「すいません、お菓子をと思ったのですが、失礼なことでした」
「いえ、突然押しかけたのですし」
彼女は小箱を閉じると袖机に戻し、申し訳なさそうに椅子に戻りました。
「透明人間は食事に毒でも入れたりはしないのでしょうか」
「さあそれは……総統には毒見役がいるとお聞きしておりますが」
「そうですね。そういえば……お食事はどうされているのでしょう」
「は、私は親衛隊の方といただいていますが……」
通訳の方へ答えると、少し驚いたようにトラウデルさんが聞き返しました。
「いえ、その、透明人間は何を食べているのでしょうね、ということです」
「ああ、そういうことですか。失礼」
考えてみたら、日本語の話し言葉だとわざわざ「私が」とはあまり申し上げません。
トラウデルさんの言葉が上の空だったこともあったのですが、それにしても、妙な勘違いをしてしまいました。
しかし考えてみると、不思議といえばその通りです。
彼らの生活はどう成り立っているのか、いろいろと謎があります。
この本営は四方を鉄柵に囲まれており、その外側は地雷原です。
警戒は厳重なので、まず出入りはできない。
そうなると、彼らはいったい、どこで寝て、何を食べているのか。
裸で土の中にもぐり、倉庫の食べ物を盗み、人がいないのを見計らって洗面所を使っているのか。
可能ではあるでしょうが、なかなか精神をすり減らす生活でしょう。
誰かの生活環境をそのまま間借りしたほうが自然なのでは、となります。
空のお菓子入れを見つめ、私は繰り返し透明人間のことを考えました。
戦うことに終始していた私の思考が、より広範なところへ移っていきました。
もし、私がこの事件に割り込んだことで、彼らの計画に変更があったとしたら?
そして、彼らが狙って価値があるものといえば?
顔を上げました。
ふと、トラウデルさんがヒトラー総統の秘書だということを思い出しました。
透明人間が総統の命以外を狙うとしたら、なんでしょうか。
機密書類でしょうか。
であれば、そのタイプはだれがするのでしょうか。
透明人間が生活するとすれば、それは屈強な男性の居室でしょうか。
それともか弱い女性の居室でしょうか。
そして。
彼女があると思っていたお菓子はどこに行ったのでしょうか。
立ち上がり、すばやく周囲に目をやりました。
「トラウデルさん、あなたは掃除道具をいつもどちらへ?」
「えっ?」
「いえ、失礼ながら、ちょっと汚れているところが見受けられまして」
「あら、申し訳ありません。どちらがでしょうか?」
こう言っておけば、多少部屋を歩き回っても変な人とは思われないでしょう。
すり足で私は部屋の一角に向かって「うん?」と少し大きな声を出しました。
これはあてずっぽうです。
何かが見えてるわけではありません。
しかしながら、即座にガタッという音が部屋に響きました。
幻覚ではありません。
私以外のお二人も同時に、その方角へ目を向けたからです。
「これはこれは……」
床にはオレンジ色の絨毯が引いてありました。
その一部がかさっと沈みましたが、すぐに元に戻りました。
「淑女の寝床と食べ物をくすねておきながら、ずいぶん臆病な」
日本語でつぶやきました。
かすかな吐息が聞こえました。
まだ正確な場所はまだつかめていません。
しかし私は理解していました。
初めて透明人間に出会ったとき。
あのわずかな刃物の光から全身を思い描くことができたとき。
私は自分の合気術が、新たな段階へ踏み込んだのだと確信しました。
人間の形は、個人差こそあれ、どうしても変えられない部分があります。
手足は二本ずつ、頭は一つ。
減ることはまれにありますが、増えることは絶対にありません。
関節の形や曲がる向きも同様です。
人は多くの制約の中で生きています。
体という、自由自在には動かせない不便な道具と共に生きなければならない。
その形を根本から変えない限り、透明であっても変わりません。
先日の訓練で、私は拳銃を向けられました。
これは私の生涯でも初めての経験でした。
しかし、迷うことなくそこへ飛び込み、投げ飛ばすことができました。
植芝先生のいう、銃を撃つ前に光が走るというのも、一部は理解できました。
直接の光が見えたわけではありません。
しかし彼が拳銃を抜き、構え、撃つという一連の動作の順序や方向、速度は決まっています。
連続写真のように動作を想像して銃口から体を避け、最小限の動きで彼に近づき、意識が行き届かない部分を掴み、投げる。
それは私にもできたのです。
今も一緒です。
長年の鍛錬、極度の集中、わずかな才能は必要かもしれません。
ですが合気術の境地を極めんと目指す先には、必ずその道が見えてくる。
私は右手を前に差し出しました。
案の定、透明な指先がそれを振りはらってきました。
頭に血が上った人間の所作です。
様々な情報が私の中へ流れ込んできます。
私をねじ伏せようと飛び掛かる、その透明な輪郭も。
私と通訳さん、たった二人の見送りです。
「教授いただいた合気術を活かせるよう尽力する」
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押し寄せる感情を吐き出す先もなく、くすぶる導火線の火種をなんとか心の中で消そうとしているようでした。
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私はそう言いましたが、ユンゲさんは答えずに「ハイル・ヒトラー」と右手を上げました。
私たちも同じ姿勢で、ハイル・ヒトラーと答えます。
彼は私の目を見つめながら、白樺の向こうへ行きました。
テープとノートを携えて、私たちはすぐにトラウデルさんの居室を尋ねました。
夜に男性が訪問するというのも失礼な話ですが、幸い通訳さんも女性でしたし、ユンゲさんとの約束をたがわないようにしたいという思いも強く、自然と急ぎ足になりました。
彼女たちは遅い夕食を取るのが習慣だったため、まだ居室にいらっしゃいました。
東洋人を見慣れていないのか、少し驚いたようでしたが、旦那さんからの言伝がと言うと、すぐに通してくれました。
茶色く短い髪はドイツ人らしい巻き毛で、知的さと快活さが同居した瞳が印象的です。
しかし連日の多忙のせいで疲れているようにも見えました。
部屋の調度は質素にまとめられ、琺瑯と木製のものがほとんどでした。
棚の一角には、彼女とユンゲさんが並んでいる写真が置いてあります。
ためらいがちに持ち物を机に置くと、私は簡潔にその内容を説明しました。
彼女はそのノートにさっと目を通すと、一瞬、肩で荒く息をしましたが、口に手を当てて動揺を抑えつつおっしゃいました。
「夫はまだここにいるのですか」
予想はしていたことですが、とても答えにくい質問です。
先ほどまでいましたと言っては、なぜ会わせてくれなかったとなります。
かといって嘘は言いたくありません。
私が黙っていると、トラウデルさんは静かに下を向きました。
粛々とした空気になり、彼女が沈黙を破るまでしばし待ちました。
「お茶をお出しいたします」
トラウデルさんは頬をこわばらせたまま、立ち上がりました。
ストーブにかけてあるポットを手にしてお茶を注ぎ、私たちの前に置きました。
「その、実は私も透明人間の話は多少は聞いていたのですが……本当にいるということなのですね」
トラウデルさんは旦那さんの話を避けて、透明人間の話題を出しました。
「はい、立ち合いました。私もご主人も」
「そうですか……最近、勤務は限られた時間帯に集団で移動するようにと言われたのもこれが理由だったのですね。私どもも気を付けなければ、ということですね」
言って、トラウデルさんは小さな小箱を出しましたが、その中には何も入っていませんでした。
「すいません、お菓子をと思ったのですが、失礼なことでした」
「いえ、突然押しかけたのですし」
彼女は小箱を閉じると袖机に戻し、申し訳なさそうに椅子に戻りました。
「透明人間は食事に毒でも入れたりはしないのでしょうか」
「さあそれは……総統には毒見役がいるとお聞きしておりますが」
「そうですね。そういえば……お食事はどうされているのでしょう」
「は、私は親衛隊の方といただいていますが……」
通訳の方へ答えると、少し驚いたようにトラウデルさんが聞き返しました。
「いえ、その、透明人間は何を食べているのでしょうね、ということです」
「ああ、そういうことですか。失礼」
考えてみたら、日本語の話し言葉だとわざわざ「私が」とはあまり申し上げません。
トラウデルさんの言葉が上の空だったこともあったのですが、それにしても、妙な勘違いをしてしまいました。
しかし考えてみると、不思議といえばその通りです。
彼らの生活はどう成り立っているのか、いろいろと謎があります。
この本営は四方を鉄柵に囲まれており、その外側は地雷原です。
警戒は厳重なので、まず出入りはできない。
そうなると、彼らはいったい、どこで寝て、何を食べているのか。
裸で土の中にもぐり、倉庫の食べ物を盗み、人がいないのを見計らって洗面所を使っているのか。
可能ではあるでしょうが、なかなか精神をすり減らす生活でしょう。
誰かの生活環境をそのまま間借りしたほうが自然なのでは、となります。
空のお菓子入れを見つめ、私は繰り返し透明人間のことを考えました。
戦うことに終始していた私の思考が、より広範なところへ移っていきました。
もし、私がこの事件に割り込んだことで、彼らの計画に変更があったとしたら?
そして、彼らが狙って価値があるものといえば?
顔を上げました。
ふと、トラウデルさんがヒトラー総統の秘書だということを思い出しました。
透明人間が総統の命以外を狙うとしたら、なんでしょうか。
機密書類でしょうか。
であれば、そのタイプはだれがするのでしょうか。
透明人間が生活するとすれば、それは屈強な男性の居室でしょうか。
それともか弱い女性の居室でしょうか。
そして。
彼女があると思っていたお菓子はどこに行ったのでしょうか。
立ち上がり、すばやく周囲に目をやりました。
「トラウデルさん、あなたは掃除道具をいつもどちらへ?」
「えっ?」
「いえ、失礼ながら、ちょっと汚れているところが見受けられまして」
「あら、申し訳ありません。どちらがでしょうか?」
こう言っておけば、多少部屋を歩き回っても変な人とは思われないでしょう。
すり足で私は部屋の一角に向かって「うん?」と少し大きな声を出しました。
これはあてずっぽうです。
何かが見えてるわけではありません。
しかしながら、即座にガタッという音が部屋に響きました。
幻覚ではありません。
私以外のお二人も同時に、その方角へ目を向けたからです。
「これはこれは……」
床にはオレンジ色の絨毯が引いてありました。
その一部がかさっと沈みましたが、すぐに元に戻りました。
「淑女の寝床と食べ物をくすねておきながら、ずいぶん臆病な」
日本語でつぶやきました。
かすかな吐息が聞こえました。
まだ正確な場所はまだつかめていません。
しかし私は理解していました。
初めて透明人間に出会ったとき。
あのわずかな刃物の光から全身を思い描くことができたとき。
私は自分の合気術が、新たな段階へ踏み込んだのだと確信しました。
人間の形は、個人差こそあれ、どうしても変えられない部分があります。
手足は二本ずつ、頭は一つ。
減ることはまれにありますが、増えることは絶対にありません。
関節の形や曲がる向きも同様です。
人は多くの制約の中で生きています。
体という、自由自在には動かせない不便な道具と共に生きなければならない。
その形を根本から変えない限り、透明であっても変わりません。
先日の訓練で、私は拳銃を向けられました。
これは私の生涯でも初めての経験でした。
しかし、迷うことなくそこへ飛び込み、投げ飛ばすことができました。
植芝先生のいう、銃を撃つ前に光が走るというのも、一部は理解できました。
直接の光が見えたわけではありません。
しかし彼が拳銃を抜き、構え、撃つという一連の動作の順序や方向、速度は決まっています。
連続写真のように動作を想像して銃口から体を避け、最小限の動きで彼に近づき、意識が行き届かない部分を掴み、投げる。
それは私にもできたのです。
今も一緒です。
長年の鍛錬、極度の集中、わずかな才能は必要かもしれません。
ですが合気術の境地を極めんと目指す先には、必ずその道が見えてくる。
私は右手を前に差し出しました。
案の定、透明な指先がそれを振りはらってきました。
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