透明人間vs塩田剛三

梧桐彰

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第四章 語られぬ約束

欧州回顧録「透明人間になる」

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 彼の思いは態度で伝わってきました。
 武術では思考を読ませないことも腕のうちですが、彼の場合は真逆でした。
 言葉の通じない私に、全身でその思いを表現してきたのです。

 私は頭の中で、これまでの彼の戦法を反芻しました。

 最初に拳で勝負してきたこと。
 これは私を侮っていたのでしょう。

 次に組打ちで勝負してきたこと。
 これは私を、彼が戦ってきたレスリングの選手と同格と考えたのでしょう。

 そして包帯をはずし、透明人間となったこと。
 これは使えるものはすべて使うという、最終段階に入ったということに違いありません。

 尋常な勝負をあきらめ、勝ちを取ったのです。

 いよいよ油断できない状況になりました。
 しかし、こちらもそれなら手段はあります。
 私が選んだのは、床に落ちたかすがいを電灯に投げつけ、車両全体を真っ暗にしてしまうことでした。

 普通の武術道場ではそんなことはそうそうやらないでしょうが、私は植芝先生の闇夜の合宿で、暗闇を走り、戦う経験もしました。
 砂利や切り株のある深夜に、木刀を持った先生と真剣勝負を繰り返してきたのです。

 レスリングではそんな練習はしないでしょう。

 相手が透明人間なら、こちらも透明人間になってしまえばいい。
 うまい具合に投げた金属は照明に命中しました。

 暗闇の中で、私たちは最後の駆け引きを始めました。
 折しも降ってきた雨で音も匂いも消されています。
 空気の動きを感じることもできません。
 それでも私の心の中には、たしかにうなずくものがありました。
 必勝の想念がありました。

 鞍馬山の丑三つ時、闇夜で待ち構える植芝先生の稽古に比べれば。
 
 姿勢を保ち、気配を断ち、精神を集中します。
 今はお互いに透明人間。
 今はお互いに五分と五分。
 明鏡止水へ至り、心眼に従うのみ。

 そう思って、直立不動で相手を感じようとしました。

 そのときです。

 私の両目に光が届きました。

 アッ、と、思わず声が出そうになりました。
 これか。
 これがあの、光なのか。

 光が透明人間の輪郭を、明確に浮き上がらせています。
 植芝先生が銃弾をかわしたときに見えた光とは、これに違いありません。
 透明人間が体を揺らしながら、暗闇に潜む私を手探りで探しています。
 ばかりか、その思いまで手に取って伝わってきます。
 暗闇を飛び越えて、彼の葛藤が伝わってきます。
 
 勝利への確信がありました。
 こうなればこちらのもの。
 仕掛けてきた瞬間をしとめるのみ。

 透明人間は左腕を伸ばし、私の位置を探っています。
 強引に突っ込むのは避け、確実にとらえようというのでしょう。
 向こうもこちらの動きを待つことにしたようです。

 膠着が始まりました。

 相手も慎重に動いていますから、こちらもうかつに動けません。
 ですがこの光の感覚さえあれば、いずれは私に分が良くなるはず。
 さすれば根競こんくらべです。

 私にも光が見えた。
 植芝先生の境地に到達した。
 これが合気術の神髄なのだ。
 小躍りして喜びたい気持ちを隠して待ち構えました。

 ところが、その直後。

 透明人間を示す光が、徐々に薄くなっていきました。

「うん……?」

 目を凝らしましたが、その光は線香のようにおぼろげになり、やがて、ふっと消えてしまいました。

 豈図あにはからんや。
 相手の気配が完全になくなってしまいました。
 息をひそめてましたが、感じるのは刺すような豪雨だけです。

「うむっ……」

 そうつぶやいた時には、金色の光など影も形もなくなってしまいました。

 どうしたことでしょう。
 相手も私と同じような稽古を積んできたのでしょうか。
 それとも天性の才能のなせる業でしょうか。

 それとも、もしかしたら……

 光など、最初から何も見えていなかったのでしょうか。
 ただの思い込みだったのでしょうか。

 考えてみれば、鞍馬で植芝先生は自由自在に私を打ち付けていましたが、私は植芝先生を叩きのめしたことなど一度もなかったはずです。

 暗闇で戦ったことがある。
 ただ、その経験だけに頼ってしまったのです。

 最後の最後で、とてつもない失策をやらかしました。

 植芝先生の弟子だから私にも光が見える?
 そんなバカな話はありません。
 私は私でしかないのです。

 透明人間は見えません。
 暗闇の中も見えるわけがありません。
 ただの人間なのだから当たり前です。

 窮地に陥り、ありもしない力にすがってしまう。
 武術家など名乗れぬ大失態です。
 合気術がいかに神秘的であっても、神秘そのものではないのです。

 私の相手はそれまでの大袈裟な態度を豹変させ、この勝負に賭けてきました。
 真の透明人間になっていました。
 たとえ立場が互角であっても、暗闇の中で触れ合い、取っ組み合いになったら勝てるでしょうか。
 必勝の思いが霞のように消えていきました。

 滝のように熱かった汗が、氷のように変わっていきます。
 代わって、ついに意識が疲労を始めました。
 怒涛のような恐怖が体を押しつぶすように襲ってきました。

 なんと愚かな。
 なんと間抜けな。

 お互いの距離は、この瞬間にも一寸ずつ縮まっているはずです。

 あせってはいけません。
 手の内をさらけ出してはなりません。

 そう自分に言い聞かせ、もう一度、暗闇の中へ目を凝らします。
 それでも気配は読み取れませんでした。

 何も見えませんでした。

 なにもみえませんでした。
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