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第五章
85 裏切り(■)
しおりを挟む※残酷表現があります(欠損/結果のみで、その瞬間の描写はありません)
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「ヒナリ様、こちらを」
ペンダントを手にしたレイチェルが、慣れた手付きでヒナリの襟足に手を差し入れて、首の後ろで金具を留める。
鎖が持ち上げられてペンダントヘッドの位置を中央に整えられたところで、鏡の中のそれをヒナリはじっと見つめた。
「不思議な色だね」
ペンダントヘッドは丸みを帯びた暗青色の宝石で、角度によっては赤く輝いているようにも見える。
「私の故郷の御守りです。ヒナリ様に差し上げます」
「そうなんだ。ありがとう」
感謝の言葉を口にしたものの、今日は図書館に行くだけのつもりなのに、なぜアクセサリーを着けさせられたのかな――そう疑問を抱いた直後。
鏡の中のミュリエルが、手を動かしながらも怪訝な顔をした。
「レイチェル、何ですかそのネックレスは。私、初めて見るのですが」
レイチェルも髪の手入れに参加しつつ、笑顔で答える。
「この御守り、ミュリエルが辺境領に居た頃にはなかったんじゃないかな? ここ数年で流行り出したものだから」
「そういうことを言っているわけではありません。なぜヒナリ様に、素性の明らかでないアクセサリーをお着けいただいたのかと尋ねているのです」
鏡の中のミュリエルは、やや不機嫌めいた顔に変わっていた。
「ミュリエル、どういうこと?」
すぐさま表情から負の感情を消したミュリエルが、鏡越しにヒナリと目を合わせつつ櫛を鏡台に置く。
「これまでヒナリ様にはローブや寝間着、下着、アクセサリーと全てベルトラン様がお選びになり、素材から発注先まで厳選したもののみお召しいただいて参りました。例外はございません。そちらは外しましょう」
失礼します、とミュリエルがヒナリの襟足に手を伸ばすと、レイチェルが手首をつかんでそれを制した。
「痛っ……何ですかレイチェル、邪魔しないで――」
「御守りを邪険に扱うなんてひどいな。……これだから孤児院上がりは」
「――!」
初めて聞くレイチェルの悪意のこもった言葉に、ヒナリは胸騒ぎを覚えた。
「レイチェル、その言い草はないと思う。ミュリエルに謝って」
そう促した途端にレイチェルの顔からいつもの朗らかな笑みが消えた。目の光も消え失せ、何もかもを諦めたかのような絶望の色に染まっていく。
「そんな時間、もうありませんよ……」
「え?」
突如として、ネックレスが禍々しい光を放ち始める。
「なに、これ……」
黒い光に身体全体が覆われていく。
「ヒナリ様!」
ミュリエルの悲痛な呼び声が部屋中に響き渡った次の瞬間、ヒナリとレイチェルは聖女邸から姿を消したのだった。
「――痛っ!」
突然の浮遊感に襲われた直後、ヒナリは床に叩き付けられた。
「今のは、なに……?」
一瞬前まで自室に居たはずが、眼前に広がるのは見知らぬ場所だった。
のろのろと起き上がり、ぐるりと辺りを見回す。煤けた絨毯と壁、痛んだドア、汚れ切った窓。どこかの邸宅のようだったが手入れは一切されていないらしい。
暖かい自室から一転、暖房のない部屋に落とされて、晩冬の肌寒さが恐怖と合わさり一層身を震わせる。
室内を確認したところで、すぐ隣から唸り声が聞こえてきた。
「ううっ……」
そこにはレイチェルが倒れ込んでいた。先ほど見たとき以上に顔面蒼白になっている。
「レイチェル、大丈夫?」
メイドの背中に手を添えようとした矢先。
強く手を払われた。
「……」
レイチェルが無言で起き上がり、ヒナリから顔を背ける。
突然こんな場所へ飛ばされたのは、レイチェルがヒナリに着けたペンダントのせいであることは明らかだった。しかしペンダントが光を放つ直前に見たレイチェルの表情――全ての望みを絶たれたかのような虚無感に染まった顔――を見てしまっては、レイチェルを悪と決めつけて責める気にはなれなかった。
何か事情があったんでしょう――。そう問い掛けたところで、打ち明けてくれるとは思えない。
重い静寂。
ヒナリは慎重に立ち上がり、自身の体が問題なく動くのを確認すると、雨の汚れで曇り切った窓から外を眺めた。手前一面に森が広がっていて、遠くに小さく城が見える。王都の郊外といったところだろうか。
レイチェルは、転移させられてきたその場に座り込んだまま、床に打ち付けて痛む肩を押さえて、窓際に立つ聖女ヒナリの凛とした後ろ姿を睨み付けた。
四年前、聖女付き侍女に選ばれた直後からずっと苦悩し続けてきた。
大神官を始めとする神殿の人々や邸宅で共に働く人たちの温かさ、そして聖女と賢者たちの優しさと思いやりに触れ、皆を裏切れない、誰をも裏切りたくないという気持ち。
そして。
世界中の人々が魔獣被害に苦しむ中、聖女と賢者だけは安全を保証された邸宅にこもり、淫蕩に耽りやがってという厭悪の感情。
なぜ崇高であるはずの聖女と賢者の儀式が、人間の浅ましい欲を貪り合う行為なのだろう。
なぜ女神様は、このような仕来たりをお定めになったのだろう――。
ヒナリが窓の外を見るのをやめた直後、ドアの向こうから足音が聞こえてきた。
警戒するヒナリの視界の中で、レイチェルは焦る様子もなく、ただただうつむくばかりだった。
ゆっくりとドアが開かれる。
軋む金具の音と共に姿を見せたのは、屈強な中年男、そして古びたローブをまとった老人だった。老人の左手には包帯が巻かれており、その形からして薬指と小指がないようだった。包帯の上から手首を押さえて肩で息をしている。指を失ったばかりなのかも知れない。
体が大きい方の男が、レイチェルを蔑みの目で見下ろす。
「レイチェル、ご苦労」
びくりとレイチェルが肩を震わせる。
(この人に脅されたんだ……!)
ヒナリはすぐにでもレイチェルに駆け付けたい気持ちでいっぱいになった。しかし今は、聖女を疎ましく思っている素振りを見せてきたレイチェルにヒナリが寄り添おうとしたところで、拒まれるだけだろう。走り出したい衝動をぐっと堪えて、成り行きを見守る。
レイチェルを見下ろしている男が、口の端を吊り上げる。
「さて。聖女であるに値しない余所者とやらを確保できたところで、まずは神殿の者共が頑なに秘匿し続けている、聖女と賢者がおこなう儀式の真実について話してもらおうか」
「――!」
ヒナリを誘拐することだけが目的ではなかったらしい。聖女の身柄を確保した上で、隠された事柄をつまびらかにする――聖女反対派であろうこの人たちがその情報を手にし、何らかの方法でそれを公開することができれば、世論を覆すなど容易なはずだ。
それを足掛かりに聖女と賢者を排し、新たな体制を確立する――そんな風に目論んでいるのかも知れない。
座り込んだまま動かないレイチェルの前に男が歩み寄る。レイチェルは痛ましいほどに、傍目にもはっきりと震え出した。
「さあ言えレイチェル。病気の妹の命は我々が握っているのだぞ? 高額の治療費を出しているのはどなたか忘れた訳ではあるまいな」
その言い方からして、男もまたレイチェル同様誰かから命じられていることが窺い知れる。
「……まあ、完治せぬよう医者には言い付けてあるらしいがな!」
そう叫んだ男が、天井を仰いで高笑いする。
(なんてひどいことを……!)
レイチェルは、妹の回復を願って日々懸命に働いていたはずだ。そんな家族への愛情を悪用するなど許せるはずもない。
「さあ言え!」
「……」
レイチェルが、深く項垂れたままのろのろと立ち上がる。一歩一歩、噛み締めるように床を踏んで体をヒナリの方に振り向かせると、メイドの完璧な作法で一礼した。
顔を上げたレイチェルは、涙を浮かべていた。
「ヒナリ様、今までありがとうございました。貴女様と過ごした日々は、とても……心躍り、かつ心温まる時間でした」
「ねえレイチェル」
ヒナリは男を一瞥し、ひとまず最期の挨拶くらいは待ってくれているらしきことを確認すると、レイチェルに歩み寄り、その手を取り上げた。胸が痛むほどに、がたがたと震えている。
「さっきレイチェルがミュリエルに言ったことは……本心ではないんだよね?」
『これだから孤児院上がりは』――レイチェルらしからぬ、相手を貶める言葉の刃。
レイチェルがはっきりと頷く。
「……はい。あの時はもう自棄になっていて、わざとミュリエルを傷付ける言葉を選んでしまいました。ミュリエルのことは、本当に、心から尊敬しています。ヒナリ様、ミュリエルのことをよろしくお願い致します」
それはできない、ごめんね――そう言葉にする代わりに首を振ってみせると、ヒナリはレイチェルと男の間に立った。
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