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第十三章 母の愛
月下美人
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1.火が消えた家
3代目死去により、我が家はこんなにも静かだっのかと思うほど、静まり返っていた。テレビは母が日中ずっとつけている。それでも静けさは変わらない。父や兄が彼岸へ旅立ち、愛犬も虹の橋を渡った。
母が時々、「3代目は庭に出してるかい?そろそろ家に入れておやり」と言う。そして「父さんは、入院中、お酒が飲めなくて可哀想だね」、「あいつ(兄)は、いつまでほっつき歩いているんだ。仕方ないね」と言う。
母の中では、皆が生きているのだ。そして早く帰ってこないか待っている。否定はしたくない。だが探しに行こうと、隙をついて外へ出ようとするので、その度に現実を突きつけねばならない。
後年、徘回は、自分が何もできなくなる恐怖心からの逃避のために発生すると知った。それを知ったときは、母に申し訳ないことをしたと反省した。自分をコントロールできないことに、一番歯がゆかったのは、母だったのに。
ケアマネから、「また犬を飼ったらいかがですか?」と言われた。考えなくもなかった。だが殺人ウイルスの影響で、子犬の価格は3代目のときの3倍近くになっている。それに財政的にも、母に残された時間を考えても、犬を飼える状況ではなかった。
私の右耳は、良くなってきているが、まだ完全ではない。完治までに約2ヶ月かかった。まずい薬を毎日服薬するのが苦痛だった。原液を飲める体質だったのは運が良かったが、酸が強いのか、歯に薬が触れるとしみる。早いところ、この薬をもっと飲みやすくしてほしい。昨今は突発性難聴の患者数も増えているので、製薬会社も、いまは飲みやすい薬を改良したかな。そう願いたい。
5月6日、私の耳鼻科。まずい薬が処方される。
5月7日、天敵先生クリニック整形外科、母が受診。
5月15日、3代目の御位牌が完成したので取りに行く。それをスマホで撮影して送ると、親友から「命日が違う!」と指摘された。「早く変えてもらってきな!」と言われたが、ちゃんと寺で供養もされてるし、3代目が化けてでてこないことからして、まあこのままでも良いだろうと、祭壇の骨壺の前に置く。
御位牌の上部には、愛想のない顔で正面を見据える3代目の顔写真があった。『愛犬 蓮くん』、3代目の名前をカタカナの『レン』から、『蓮』に変えた。戒名代わりだ。
5月20日、都内の大学病院で母の胃カメラ。朝10時検査なので、早目に家を出る。
検査室は、胃カメラと大腸内視鏡検査の患者が等間隔で座っている。ズラリと並んだ大腸内視鏡検査の患者は、長テーブルに置かれた2リットル下剤液をコップで少しずつ飲んでいる。父が地元の大学病院で検査の時は、午前の部で5名程度だったので、この光景はシュールだと思った。
私も地元のクリニックで胃カメラは飲むが、大腸内視鏡検査の患者とは別の階層なため、見たことはない。
5月21日、訪問看護。訪問看護はノルマなのかキチンと来るんだね。そして形式的な聴診、血圧、体温計測、殺人ウイルスから暫くしてから酸素量計測も加わった。この酸素計測機、一時は入手困難だったものね。ウチもネットでようやく探し当てて購入したよ。
診察が終わればさっさと帰ればいいのに、雑談。いや、この雑談の中から、患者の状態を読み解くのを後で知ったけどさ、この看護師に関しては 本当に休憩所としか思ってないように思われる。
5月27日、私は朝に猛烈な目眩を感じて立ち上がるも困難だった。私は椅子にさえ座っていられず、リビングの床に横たわる。ちょうど3代目がこの世を去った場所だ。このとき、母が脱走していたら追いかけられなかっただろう。デイサービスに出掛けた後で助かった。時間にして約1時間後、回復したとのメモがカレンダーに残されている。
5月28日、駅前のビルで殺人ウイルスワクチン接種を母に受けさせる。
あの当時は予約を取るのも大変だった。私は開始後どれぐらいで取れたかな、ともかくスマホが予約サイトに飛ぶまで、ひたすら作業を繰り返した。近所の人は電話予約しようとしたが、全くかからず夕方になってやっと繋がったという。かなり先の予約になったと嘆いていた。市町村も手探りだったから仕方ないだろうが、地区ごとに割り振って予約券配布しても、良かったのではないか。あの時は確か、高齢者と病気の人からワクチン接種が開始された。高齢者にスマホを使えというのは、家族がいない世帯はキツかっただろうに。
5月29日、私の耳鼻科。確か目眩の相談だったと思う。突発性難聴は発症から2ヶ月で完治宣言となり、まずい薬から解放されたときには小躍りしたものだ。
6月2日、都内の大学病院消化器内科、母の受診。胃に異常なし。
この日は3代目の誕生日だったので、帰宅後に肉を焼いてお供えした。
この頃から、母の趣向が魚から肉へと変化していく。昔は唐揚げ以外は焼き魚や煮魚を好んで食べていたが、何が「食べたい?」と聞くと「肉が良い」と言うようになった。
外食も肉、ハンバーグのがお手頃価格だが、ステーキが良いという。でもファミレスのは固いとブツブツ文句を言う。
一度、某高級焼き肉チェーン店へ連れて行ったら、食べる食べる。私より食欲が凄かった。ランチメニューだから助かったけど、連れていけたのは一回きりだった。予算的に何度も連れていけない。家でステーキにするときは、母の分はヒレを買う様になった。財布は痛いが、外で食べるよりずっと安上がりだから。
6月4日、天敵先生クリニックを母の定期受診。向かいがコンビニなので、帰りに母が立ち寄りたがる。毎回、ホットスナックのアメリカンドッグが好きで買う。一度、クリニック帰りではない別の日に、天敵先生と店内で出くわしたときは何とも気まずかった。
6月9日、母の歯科。実は何年も前から、月1で通っている。駅前まで出なくてはならないが、母が健康だった頃から、歯科クリニックショッピングで色んな場所にかかり、やっとお気に入りの先生を見つけて腰を落ち着けた歯科クリニックだった。歯の状態次第で治療のときもあるが、大抵は歯垢除去。
6月11日、都内の大学病院内分泌内科を母が受診。
この頃から、私は都内までの付き添いの限界を感じるようになり、地元への転院を考え始めていた。これまでは電車酔いは酷くなかったが、3代目の死後以降、パニック障害の薬を普段より多めにして、胃腸科クリニックの頓服を飲んでも、酔いが治まらずに途中下車するようになっていたのだ。特に帰路。
大抵はどの診療科も午後の診察なので、ちょうど学生の帰宅時間や会社員の仕事終わりに差し掛かり、電車が混む時間帯に重なる。昼は食べないようにしていたが、マスクで余計息苦しかったことも、起因していたかもしれない。途中から再び乗車すると、混雑して母も立たせる事になる。大抵は優しい人が気づいて、母に席を譲ってくれたので助かったが。
母を考えれば、この病院に通院するのが一番だと分かっている。だが私の心身は限界だった。
6月15日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が受診。
6月18日、午前中に駅近くの眼科(歯科とは近い)へ連れて行く。
午後は天敵先生クリニックへ母を連れて行く。このときはどうして急に連れて行ったか記憶が定かではないが、恐らく母が家の中で転倒して、とりあえず整形外科で診てもらいに行ったのだと思う。通院記載が頻繁に書かれていないので、打撲で済んだらしい。
6月25日、母の2回目の殺人ウイルスワクチン接種に駅前までつれていく。母は副作用が出ない。羨ましい限りだ。
6月29日、母の歯科。これは覚えている。入れ歯は作っても気持ち悪いと普段使わないが、歯がかなり傷んできたので、入れ歯の使用を推奨されたのだ。そして調整してもらったばかりの入れ歯を口に入れさせたが、私の見ていない隙に外してテイッシュに包み、蕎麦屋へ置いてきたのだ。店員さんが、追いかけてきてくれ届けてくれたが(本当に気色悪いものを届けてくださり申し訳なかった)、それ以来、あの蕎麦屋へは気まずくて行きづらくなった。母が立ち寄りたがっても、別の蕎麦屋を使うようになった。
7月2日、天敵先生クリニックへ、母の受診。これは定期受診だと思う。母の便秘が酷くなってきたので、これまでより下剤量を増やす記載がある。
2.転院
恐らく先月中に、母の膠原病をはじめとする診療科の転院手続きに入っていたのだろう。記憶はあるが、記録にない。通院の合間に、医療相談室を利用して手続きしたのは覚えている。
地元の別の大学病院、かつて母の膠原病検査を断られたが、都内の大学病院からの依頼となると話が通ったようだ。まさか兄の通っていた病院に通院するようになるとは、思ってもみなかったけど。
転院にあたって、当初は難航した。地元の別の病院で、当初は膠原病の扱いはないと相談員に言われていたのだ。しかし私がネットで調べたところ、リウマチ科で膠原病も扱っていると書かれている。それで問い合わせてもらい、許可をもらった。
本当は、都内の大学病院へずっと通えれば良かった。家を売って都内に賃貸住まいすることも考えたが、認知症が一気に進んだ母を住み慣れた家、馴染のご近所さんから引き離すのは悪手のように思われた。徘回の頻度が高まっていたので、監視の目をいくつかのお宅に頼んでいた。都内で徘徊されたら、土地勘がない分、私も探し出せない。そもそも認知症を患った母では、家を売ることができない。法定管理人を立てるにしても、無職の私ではなれない。弁護士に依頼すれば高くつく。
それに後年、実際に家を売って知ったが、本当に価値がなかった。都内暮らししても、すぐに底をついていただろう。
7月13日、かつて兄が療養型病院へ転院する前、最後にお世話になった大学病院。父がお世話になった大学病院よりは自宅から遠いが、都内まで通うことに比べたら、格段に楽だ。駅でバスは乗り替える必要があるけれど。
まずリウマチ科、呼吸器内科を受診する。都内の大学病院からデータCDは貰って、紹介状と共に提出したが、改めて検査を行うために、朝食無しでの電話予約来院だった。
7月20日、ちょうど1週間後に地元の別の大学病院で、泌尿器科、消化器内科、内分泌内科を受診する。
この辺りに飲食店はないが、ホールでコンビニやパン屋で買ったものを食べられる広いスペースがある。
それと広く明るい食堂。もっぱら、私と母は食堂を利用することが多かった。料金的にはコンビニやパン屋の方が安上がりなので、座席が取れた場合はそちらを選択するが、殺人ウイルスのせいで座席数は、兄が入院していた頃よりも半分に減らされたので、ここでも座席争奪戦は激しかった。
なにより、食堂には母の大好物であるクリームソーダがあった。ラーメンやあんかけ焼きそばもある。都内で食べるより、良心的な価格だった。
転院は私の体調によるのだったが、今後のことを考えれば、タイミング的には絶妙だったとも言える。
カレンダーにもスケジュール帳にも詳しくは書いてないが、恐らくこの頃から、デイサービスのお泊りサービスを月1で利用し始めている。7月に「休日」と、2日連続書かれていた。
金銭的には節約したいところだが、ケアマネから「休まないと、あなたが倒れますよ」と強く勧められたのだ。本当は月に2度ほど勧められたが、月イチでも自由になれる時間があれば、はるかに楽になる。お泊りデイサービスのときは、眠れなくても部屋でゴロゴロしたり、友人と送迎時間を気にせずに出かけたりできた。
8月5日、地元の別の大学病院呼吸器内科と消化器内科、母が受診。
8月10日、地元の別の大学病院リウマチ科と内分泌内科と泌尿器科を、母が受診。
この日、泌尿器科はエコー検査が行われている。
8月30日、母のお泊りデイサービス。
この日は私の1度目の殺人ウイルスワクチン接種。インフルエンザワクチンは体質的に打てないので、問診の際に尋ねたが、恐らく平気だろうとのこと。ワクチン接種後、他の人より長めの20分間を休憩室で休んで、気分が悪くならなかったので帰宅する。しかし体のダルさが段々と出てくる。帰宅して、横になる。微熱程度の副作用で済んだ。母をデイサービスに預けて、本当に良かった。夕食はカップ麺で済まして寝た。
9月1日、地元の大学病院消化器内科、母の大腸内視鏡検査。
9月2日、母が尿取りパッドを流してしまう。何とか取れて、業者を呼ばずに済んだ。
9月9日、地元の別の大学病院消化器内科、母が受診。大腸内視鏡検査に異常なし。
9月10日、母の眼科、眼底検査。
9月12日、母が朝食を待てずに、煎餅を食べまくって血糖値225。
9月21日、地元の別の大学病院リウマチ科と内分泌内科を、母が受診。
9月22日、母をお泊りデイサービスに出す。
私は2度目の殺人ウイルスワクチン接種。今回は熱が38度越えた。だが翌日の母の帰宅の頃には熱も下がった。
9月25日、ケアマネと相談と書いてある。何を相談たかは不明。たが時期的に、介護認定審査のための打ち合わせだと思う。
10月14日、母を脳外科クリニックへ連れて行く。帰りに、駅ビルでお寿司と書いてある。肉好きだが、寿司は別物だったわけね。タクシーを利用して帰宅。
10月21日、地元の別の大学病院呼吸器内科と消化器内科、母が受診。
消化器内科から、余命宣告が出た。ガンマーカーが著しく上昇しているのだ。それなのにガンの根源も転移も見つからない。
このときはもう半ば、余命に関しては受け入れていた。母の認知症は酷くなっている。帰りはタクシーで帰宅。
いつだったか、デイサービスの送迎待ちのとき、私がトイレに行っている隙に、母はどこかへ行ってしまった。歩いてならば、容易く追いつけたはず。でも見つからない。デイサービスの送迎が来て、その人達とも周辺を探したが見つからない。
これはバスに乗り込んだ可能性が高い。駅は2箇所、可能性がある。とりあえずデイサービスの手の空いている人が総動員で探すからと、私は自宅待機を命じられた。
数時間後、母は全く見当違いの駅で見つかった。どうやってそこへ、たどり着いたのか、今もって理解できない。探し出したデイサービスの人のお手柄だった。母いわく、デイサービスの迎えが遅いから自分で行こうとしたが、途中で行き方が分からなくなったらしい。
10月26日、地元の別の大学病院リウマチ科、内分泌内科、母が受診。昼食はラーメンだった。
11月1日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
11月4日、母の市役所と書かれている。可能性としては、オムツの助成金申請だと思う。母はデイサービスだし、一緒に行った形跡はない。
11月5日、母のインフルエンザ予防接種。
11月22日、兄の命日の前日に、いつもの葬儀業者さんから、お坊さんを派遣してもらう。母も一緒の一周忌法要。
帰りはスーパーに立ち寄って、少し贅沢なお寿司を買って帰り、2人で食べた。昔、スーパー行く途中に父の目を盗んで食べていた蕎麦屋は、とっくに潰れていた。
11月30日、地元の別の大学病院内分泌内科、母が受診。
12月4日と5日は、母をお泊りデイサービスに預ける。
友人と横浜に泊まりに行った。イベントの後、東京と横浜のクリスマスマーケットをハシゴして、しばし浮世を忘れて楽しんだ。
12月14日、地元の別の大学病院へ母の受診。診療科は書いていない。一気に全部の診療科を回ったのだろうか?
12月24日、天敵先生クリニック定期受診。コンビニで、かなりの額(それでも外食費より安い)で、クリスマスのチキンやお惣菜を購入したと思われる。
12月30日、母と墓参。
3.2022年『特別な年』
元旦。母の大好きなお雑煮を作る。餅は詰まらせないように、細かく切ってフライパンで焼く。我が家のお雑煮は、鶏肉と白菜と人参を薄口醤油出汁で煮込み、焼いた餅を入れて、三つ葉を乗せたシンプルなもの。
昔、友人達とお雑煮談義を初詣の待ち時間にしていたら、周囲から「色んなお雑煮があるものだねぇ」と、周りの人々も雑煮雑談に加わったことがあった。
この年、おせち料理を買った記憶がない。母も私も、おせち料理があまり好きではない。味付けが甘いのと、後始末は大抵、私と母が無理矢理食べていたからだ。ただ母の好きな煮物用の八つ頭と、高価なハムは買った気がする。母は昔から焼いたハムが大好物だった。それと甘くない出汁巻き卵焼き、これは我が家の定番だった。
今にして思えば、食べられるときに、もっと食べたいものを存分に食べさせてあげれば良かったな。
大好きな人を見送った人なら、誰でもそう思うだろうけれど。
たまに母は「おにぎり作って」と甘えた声でおねだりした。コンビニのおにぎりも利用していたが、私の作る硬めのおにぎりの方が好きだった。具材はその時それぞれだが、大抵は梅とおかかを混ぜたもの、私好みでシーチキンを使ったり、鮭を焼いてほぐしたものも入れた。私は手が大きいので、かなりの大きさになるが、それを2個、ペロリと平らげていた。大抵は青のりを入れた甘くない出汁巻き卵焼きを添えて。母は卵4個使った卵焼きの半分を一度で食べていた。私は1日に2個以上の卵を食べると蕁麻疹が出るため、残り一切れは時間が経ってから母のおやつになった。
いまでもふと、「おにぎり作って」の声が脳に蘇る。生きていたなら、腹がはち切れるほど、存分に食べさせたい。
余命宣告が出たとは思えないほど、母はこの頃、元気だった。元気すぎて徘回の目が離せなかった。
この頃、母の通院の都合上、火木土から月水土にデイサービスを変えている。火曜日の来院が頻繁になったからだ。転院する前も火曜日が膠原病診察日だったが、2ヶ月に一度のペースだったので、その時は月曜か水曜に事前に日付変更してもらっていた。
1月6日、地元の別の大学病院消化器内科と呼吸器内科を、母が受診。レントゲンの予約時間が早かったので、タクシーを使う。
昼食の値段からして恐らくコンビニを利用、この日はホールの座席が取れたようだ。たぶん時間的に、検査と診察と隙間時間を利用したランチタイム前だったのだろう。代わりに帰りには喫茶店と書いてあるので、バスの乗換え前に喫茶店でお茶してから帰ったようだ。
1月7日から8日は、母のお泊りデイサービス。
7日に私は都心まで友人と出かけているので、このときに馴染の有名神社初詣を済ませていると思う。三ヶ日に参拝記載がないからだ。
1月13日、地元の別の大学病院呼吸器内科を、母が受診。遅めの昼を、駅前で蕎麦を食べたと残っている。
1月14日、母の歯科。某コーヒーチェーン店で、母はホットドック2本食べている。
1月20日、訪問看護。ウザい。
1月25日、地元の別の大学病院内分泌内科、母の受診。この日は駅前で寿司を食べている。昔、母は握り寿司が好きだったが、このお店では、ちらし寿司を好んで食べていた。お値段、握り寿司より若干高いけど(苦笑)。
1月28日天敵先生クリニック、母の定期受診。
2月4日、私だけで墓参に出掛けた。母はデイサービスと書いてある。寒い時期なので、母の墓参は避けたのだろう。
2月8日、地元の別の大学病院泌尿器科とリウマチ科を、母が受診。ランチは食堂のラーメンと飲み物(母はコーヒー、私は紅茶)を頼んでいる。
2月15日、母の歯科。帰路にハンバーガーセットを食べている。ハンバーグはあまり好きでない母だが、ハンバーガーは好きだった。タクシーで帰宅している。
2月18日から19日、母のお泊りデイサービス。
2月22日、母を美容院に連れて行く。それまでは歯科と眼科近くの千円カットを利用していたが、千円カットだとシャンプーがないため、時節柄、美容院を利用することにした。母は「贅沢だ」と言いつつも、丁寧に頭を洗ってもらって、仕上がりもいつもよりお洒落になって、終わってみれば大満足だった。そりゃ、懐は痛むけど、ウイルス感染リスクは少しでも減らしたい。
帰りはラーメンを食べて、お土産にドーナツを買って帰宅した。
2月24日、ケアマネの訪問があった。介護認定が引き下げられたことによる、再認定調査依頼をするためだ。認定が下がれば、利用料は安くなるが、週3回の利用が出来なくなる。これまでは天敵先生に介護保険調査提出用医師診断書を依頼していたが、殺人ウイルスのせいで市町村審査がより厳しくなったのだ。
3月3日、脳外科クリニックへ出向き、介護認定医師診断書を依頼する。アルツハイマーを詳しく書いてもらえば、再審査で介護認定が戻るかもしれないと思ったのだ。
3月4日、午前中に母の眼科。昼食に蕎麦定食を食べる。
午後、天敵先生クリニック、定期受診。
3月11日から12日、母のお泊りデイサービス。
3月12日、脳外科クリニックへ認定証を取りに行く。
そして前回と同じく、私の貧血の薬を処方して貰う。3月3日、ふと待合室で貧血検査実施中と書かれたチラシが目に止まり、前にも別のクリニックで検査してもらったが、目まいが時折あるので、再度、検査してもらった。そして貧血と診断され、鉄剤が処方されるようになった。
3月15日、地元の別の大学病院で母の検査。この日は母の歯科の予約も入っており、断るつもりだったが、時間的に間に合いそうだったので、タクシーを使って歯科へ行く。歯科クリニックは人気が高く、改めて予約を取ろうとすると、かなり待たされてしまうので良かった。懐には痛かったけど。さすがに昼食は外食でなく、スーパーで安いお弁当を買って、帰宅後に食べた。
3月17日、地元の別の大学病院呼吸器内科を母が受診。
ランチを食堂で食べたのに(内容が書かれてないが時期的にラーメンかあんかけ焼きそば)、夜は「ピザが食べたい」と言い出したので、出前を取る。確かチラシが貼ってあったんだよね、駅か大学病院に。それで母の頭はピザでいっぱいになってしまったのだ。
3月24日、地元の別の大学病院消化器内科、母の超音波検査、その後診察。ガンは原発も転移も見当たらない。
確かこの頃だと思う。「そろそろ在宅診療へ切り替えを検討されてはいかがですか?」と言われたのは。
別の診療科はともかく、私はリウマチ科には、ギリギリまで通わせると言った。
3月29日、地元の別の大学病院内分泌内科とリウマチ科、母の受診。
4月1日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
4月6日、地元の大学病院、母の受診。ただし診療科は書いていない。
4月8日、3代目の納骨。この日は特別にデイサービスを変更してもらった。父の命日の前日。そしてお釈迦様が誕生した『灌仏会』。
3代目愛犬『蓮』の納骨はこの日と決めていた。大きめのリュックに3代目の骨壺を入れて、先ずは父と兄たちが眠るお墓参り。
それからバスで駅へ出て、霊園まで歩く。今年も桜が散るのが早い。いつからこんなに早くなったのだろうか?
霊園まではけっこうな距離があるが、3代目との最後の散歩だ。タクシーなんて無粋なものを使わずに、桜が舞う良い天気の中を、汗ばみながら歩く。そして3代目を納骨堂に安置した。しばらくすれば、初代と2代目の眠る共同墓地へ、納骨堂に眠る他の飼い主から愛されたきた亡きペット達と埋葬される。
帰路も、軽くなったリュックを背負って泣きながら駅に向かった。
骨壺の消えた祭壇。新たに初代と2代目の写真、それと2代目の御位牌も移動させて、買ってきたスーパーの焼き鳥を供える。時間的に、専門店で焼き上がりを待つのは、母の送迎時間の関係上、無理だった。遅くなれば、まだ介護士に言われるから。でもこの日ぐらいは、叱られても帰宅を遅らせても良かったかもしれないな。
4月12日、母の歯科。
4月13日、ケアマネと自宅で相談。恐らく介護認定再調査の同席を希望したことによる。デイサービスでの内容を話すことで、認定を戻すつもりだったのだろう。
4月15日15時半、介護認定再調査。再認定の結果がいつ出たかは書かれていない。しかし介護認定は元の要介護3に戻った。
4月26日、母が尿取りパッドをトイレに流してしまい、トイレが詰まる。以前、トイレ改装のときの業者さんに連絡をして、高圧洗浄でポリマーを押し流す。
下水道でポリマーを集める業者さんには、本当に申し訳ないことをした。その分、料金も取られたが。
4月22日から23日、母のお泊りデイサービス。
4.在宅医療と訪問看護
5月2日、地元の別の大学病院、母の診察。連休前だったが、何の診察か書いていない。
その後、母の在宅医療相談。母の病状からして、クリニックよりも病院を勧められる。自宅から近い場所に訪問医療をしている場所があるが、ここだと夜間や祝祭日に来てくれない場合もあるので、この大学病院近くの病院を勧められる。ここだと、祝祭日や夜間も駆けつけてくれるということだった。
相談員は、利用しているデイサービスを尋ねる。その名を聞いた途端、「もしかして訪問看護は、〇〇看護センターセンターですか?」と尋ねられる。そうだと答えると、相談員は顔を曇らせて言った。
「あそこの看護センターの評判はすこぶる悪くて、ウチにも何人かの患者さんやそのご家族が、相談にいらしているのです。別の看護センターのご利用をお勧めします」
「しかし、デイサービスと提携を結んでいるので、そんなことは可能なのでしょうか?」私は尋ねる。
「医療的看護という名目で、医師の推薦があったことにして、穏便に切り離しましょう。そこのところはケアマネと相談しながら、うまくやるので、ご安心を」相談員は太鼓判を押した。
腑に落ちた。やはりあの看護センターの派遣看護師、役立たずで、他でも問題起こしていたんだな。まあ、その後にポカやった、ケアマネも同罪。
相談員がせっかく介護ではなく医療的看護師派遣という方法を取ったのに、ケアマネは、系列の看護センターにどう説明したか知らないが、後日、役立たず看護センターから所長と常任看護師と別のキツイ看護師3人で、我が家に乗り込んできたのだ。
「なぜウチでは駄目なんですか!」高圧的に話す所長に、最初は「医療的看護が必要ですから」と穏便に応えたいたが、3人は「自分たちにも出来る」とギャーギャー主張する。
次第にこちらも堪忍袋の緒が切れて「あんた達がこれまで、いつ役に立ったことがあったんだ!」と、父や母の状態悪化のときに間に合わない、間に合っても役に立たないで逃げ出した恨みを、時系列で並べて主張した。
3人は悔しげな顔をしながらも反論できず、揃って帰っていった。
5月6日、天敵先生クリニック、母の受診。近いうち、大学病院が推薦した在宅医療に切り替えることを説明する。
5月19日、地元の別の大学病院を母が受診。この日の診療科も書いていない。
病院データを全て残しておけば把握できただろうが、母を亡くした後の私は、都内の大学病院の初期データ以外は残して置きたくなかったようだ。母の分厚い検査データファイルは5冊に及んだ。膨大な検査データ検査の記録が本棚に立て掛けられていた。ほんとよく、いままで我慢して頑張ったなぁ、母ちゃん。
父をかつて診ていた大雑把先生が、ガンマーカーについて語ったことがある。先に言っておくと、ガンマーカーはガンにのみ血液反応で現れるわけではない。ただ癌患者の指針ともなるガンマーカーは、数値が3万から4万程度で、患者は力尽く。大雑把先生は、「とある女性患者」のガンマーカーを当時、見せてくれた。この人のガンマーカーは6万を超えていた。凄い、あり得ないと大雑把先生は説明しながら言っていた。
父のときも、死因は誤嚥性肺炎からの心不全だが、ガンマーカーは3万程度だったと記憶する。
消化器内科の医師が在宅医療を母に勧めたのも、ガンマーカーが既に6万を超えていたからだ。昨年のうちに亡くなっていても不思議ではない数値だった。
がんが発見されないガンマーカーの上昇。それでも母は何でもないように、ただ認知機能だけを低下させて生きてきた。
母は、あれほど嫌がった記憶を無くしていっても、生命力に全振りしていた。きっと私のために四分の一残した魂が、私を孤独にさせまいと、必死で生きてきたのだと思う。
5月20日から21日、母のお泊りデイサービス。
5月26日、初めて病院から紹介された訪問看護師が訪れる。男の人なのでびっくりしたが、血圧、体温、酸素濃度計測の他に、専用のバケツを持ってきて、母の足を洗う。母の足の状態を見て、必要なら爪切りもする。驚いた。看護師で、こんなにも対応が違うのか。終わった後に雑談はするが、もっぱら母の様子を観察している。プロフェッショナルだ、そう思った。
5月28日、訪問医療医師と付き添い看護師が訪れる。こちらも対応が良い。「介護は無理にし過ぎはいけません。限界が来たら、いつでも言ってくだされば、ウチの病院でお預かり致しますので」、そう言ってくれた。
訪問医療と訪問看護は交互に毎週木曜日に自宅へ来ることになった。
5月31日、地元の別の大学病院リウマチ科を受診。呼吸器内科はリウマチ科と検査内容が被るので、リウマチ科と統合することになった。お昼内容は書いてないが、値段から察するに、病院の食堂を利用している。
6月2日、母の訪問看護。キチンと足の手入れをしてくれるし、お腹も毎回触診してくれる。バケツのお湯汲などは私の担当だが、母を丁寧見てくれたので、訪問看護師を変えて、本当に良かったと思っている。
6月9日、訪問医療。医師帰宅後、薬は近所の薬局に処方箋が送られて、それを翌日に取りに行く。
6月16日、母の訪問看護。
6月21日、母の歯科。
6月23日、母の訪問医療。
6月24日から25日、母のお泊りデイサービス。
6月30日、母の訪問看護。
7月1日から2日、母のお泊りデイサービス。
7月7日、母の訪問看護。
7月14日、母の訪問医療。
7月15日から16日、母のお泊りデイサービス。この月から月に2度に、お泊りデイサービスが増えている。何故だったか詳細が定かではないが、訪問医と訪問看護からケアマネに指摘があって、私にもう少し休むようにと設定されたように記憶する。徘回を警戒して熟睡出来ない私を、心配してくれたのだと思う。
7月21日、母の訪問看護。
7月26日、母の歯科。
7月28日、母の訪問医療。
8月2日、地元の別の大学病院内分泌内科とリウマチ科を母が受診。このときはホール座席が確保できて、コンビニで食事している。
8月4日、母の訪問看護
8月9日、母の訪問医療。いつもの木曜日が今週は祭日だったので、火曜日に前倒しになったのだ。代わりにデイサービスが10日に変更となっている。
8月9日の昼過ぎ、母の2人の弟が、ど田舎の我が家まで来てくれる。私が数日前に、借金を申し込んだのだ。いつ母にもしものことがあっても、おかしくない。だが、葬儀代が工面できない。それを告げたところ、叔父二人は猛暑の中を駆けつけてくれた。母の大好物の桃をたくさんと、大きなスイカ一つ分持って。
母は久々に弟達に会えて大喜びだった。叔父二人は「あんなメールもらったから駆けつけたけど、元気そうじゃないか」と言われた。あのときの母は応対もマトモで、「認知症には見えないけどなぁ」と叔父たちに言われた。遠い場所からそれぞれ来たので、滞在時間は2時間もなかったかもしれない。
叔父たちが帰宅後、母は寂しそうだった。いただいた桃を切って、たくさん食べせると喜んだ。
その日の真夜中、幼児退行した母が区内の昔の家に帰ろとしてバス停2つ先の道端にうずくまってるいるのを、通りがかりの親切な人が見つけて通報した。ほぼ同時刻に、私も母がいないことに気づき、真夜中を懐中電灯片手に探したが見つからない。警察に母の特徴を告げて連絡すると、いま保護した人だと思うというので、パトカーで送ってくれた。
私が警察官2人に必死で詫びている中、母が「運転手さん、ありがとう」と笑顔で言う。タクシーと勘違いしたらしい。警察の人も苦笑していたが、私はますます肩みの狭い思いをした。
…これが姉弟3人揃った今生の別れになった。しかし末っ子叔父は、このとき母のカウントダウンは自覚しても、まさか長男叔父まで後追うように亡くなるとは、夢に思っていなかっただろう。3人が一気に1人になって取り残される。末っ子叔父の姉弟を亡くした虚無感は、兄を亡くしてわずか数年の私にも分かる。恐らく家庭があっても、幼い頃の苦楽をともにした姉弟の喪失感は、たとえ普段は行事でもない限り会わずとも、計り知れないものがあっただろう。
8月10日、デイサービス送迎10時と、随分と遅い時間が書かれてある。たしかこの頃、地域ごとに殺人ウイルス集団予防接種が行われるようになったが、ウチの指定された会場は不便な場所にあった。タクシーを呼ぶしかないかと考えていたところ、デイサービスの送迎車が、特別に出されたのだと記憶している。
8月12日から13日、母のお泊りデイサービス。叔父たちが来てくれた日の真夜中の騒動で疲れ果てていたので、お泊りだったのは絶妙のタイミングだった。
8月16日、地元の別の大学病院泌尿器科医、母の受診。
8月19日、母の歯科。
8月25日、訪問看護。
8月26日から27日、母のお泊りデイサービス。
9月1日、母の訪問看護。
9月8日、母の訪問医療。
9月9日から10日まで、母のお泊りデイサービス。
9月11日。母と一緒に、父や兄たちの眠る霊園へ墓参。翌年のこの頃には母も旅立っているのか。こうして書くと、感傷気味になるな。
9月12日.煎餅食べまくり。
9月13日、母の眼科検診。
9月15日、母の訪問看護。
9月20日、母の歯科。
9月22日、母の訪問医療。
9月23日から24日、母のお泊りデイサービス。帰宅後、ケアマネと話し合い。記載はないが、この頃から母を地元の別の大学病院へ連れて行くのに足腰の衰えが顕著となったので、介護保険で業者さんを仲介してもらい、車椅子を借りる手筈を整えたはず。
9月25日、下痢15回(17:30~22:00)
23:30、母が転倒する。血糖値、血圧、体温に問題なし。ただ血中酸素は95~92。
9月27日、地元の別の大学病院リウマチ科、泌尿器科、内分泌内科の母の受診。
帰宅はタクシー、帰路にマクドナルドドライブスルーに立ち寄ってもらい、テイクアウト注文。この日は診察と検査が立て込んでいて、昼食を食べる暇がなかった。
9月29日、母の訪問看護。
10月6日、地元の別の大学病院、母の受診。消化器内科と思われるが、記載はない。この日はホールでコンビニ昼食。帰路はタクシーを使用。
10月7日から8日は母のお泊りデイサービス。
10月9日、低血糖84(19:40)、ブドウ糖とジュース投与で血糖値178(20:10)戻る。意識が低迷した時は、先ずは低血糖を疑う。
10月13日、母の訪問医療。
10月14日、市から派遣された高齢者福祉相談と自宅面接。
10月20日、母の訪問看護。
10月21日から22日、母のお泊りデイサービス。
10月25日、母の歯科。
11月3日、母の訪問看護。訪問看護の場合は祝日でも来てくれた。
11月4日から5日、母の宿泊デイサービス。
11月9日、市役所へ生活保護相談。
11月10日、母の訪問医療。
11月17日. 母の訪問看護。
様子が変なので血糖値を測ると70(19:50)、ブドウ糖とジュースで226(20:40)に戻す。
11月24日、母の訪問医療。
訪問医療帰宅後、様子が変なので血糖値を測ると48(16:28)。昼間、食欲がないと言うのでインスリンは使わなかったが、甘かった。ジュースとチョコレートで127(16:35)、196(16:55)に戻す。
このときは相当焦った。
11月29日、地元の別の大学病院、診療科は書いてないが、母の通院が限界となったため、訪問医と相談して大学病院通院は終了することになる。行きは車椅子でバスに乗り、帰りはタクシーで帰宅。病院食堂で定食を食べたのだろうか、普段よりも料金が高い。
足腰は弱っても、まだ食欲はあった。
5.母が燃やした最後の炎
12月前半は、まだ母も足腰こそ弱って長距離は歩けずとも、食欲はあった。だが後半から、体の不調が顕著となっていく。この頃を思い出すのが一番辛い。母にも本当に辛い思いさせたと後悔する。
12月1日、訪問看護。
12月8日、訪問医療。
12月9日から10日、母のお泊りデイサービス。
このときは友人と赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットを満喫し、ホテルに一泊してから翌日は鎌倉散策に出掛けた。これが私が心から充実した最後の日となった。
12月15日、訪問看護。
12月17日、下痢7回。血糖値、血圧、体温に変化なし。翌日は下痢1回のみ。
12月22日、母が錠剤を飲めなくなったので、地元の小さな薬局から、都内の大学病院の処方の際に使っていた駅前処方箋薬局に変更する。可能な薬を粉薬に粉砕してもらううことにしたのだ。
母の食欲は12月に入ってから、少しずつ落ちてきた。一応は完食するが、おかわりまではいかない。それと早食いだった速度が落ちてきた。
12月23日、母のデイサービス利用時に、駅前まで薬を取りに行く。
12月24日、クリスマスを行ったが、記憶が抜け落ちている。ただデイサービスで出たケーキやクリスマスのご馳走は完食したようだ。
12月27日、母の眼科検診と歯科のハシゴ。行きは車椅子でバスに、帰りはタクシーで帰宅。
12月25日、臨時の訪問看護。尿が異様に臭うのが気になった。看護師から医師に連絡が行くが「抗生物質の乱用はいざというとき効かなくなる」とのことで、市販の膀胱炎治療薬を砕いて服用させる。
12月28日、デイサービスから尿の色が変で臭いもキツイと説明される。デイサービス帰宅後、すぐに泌尿器クリニックを調べて、タクシーを呼んで、クリニックに向かう。年末最終日とあって待合室は激混みで、母がようやく診察を終えたのは21時を回っていたと思う。
膀胱炎だった。薬を粉砕して貰うのに、更に30分かかった。タクシーで帰宅。
帰宅後、母が暴れる。初めて精神安定剤リスパダールを飲ませて間もなく爆睡。だが翌朝、起こすも、立てず。
12月29日、意識がハッキリして立てるようになるのは、朝の10時。食事は夕飯のみ。ラーメン完食。
しかし夜20時、床に座り込んで再び立てなくなる。1時間後、支えながら立ち上がりトイレへ。リスパダールは危険すぎて、もう使えない判断のなった。
6.母と過ごした最後の年
2023年元旦、この日、野菜も鶏肉も細かく切った。餅も細かくして炒める。それでも母は喉に詰まらせた。
訪問看護に連絡を入れ、応急処置のマニュアル通り、背中を膝で叩いたり、使い捨てスポンジ歯磨きで喉の奥をかき出す。訪問看護が駆けつける直前、鼻から雑煮の汁と詰まっていた鶏肉が出てくる。
母は詰まりが取れると、空腹を訴えた。だがこのまま雑煮を与えるわけにはいかないので、雑煮はザルでこし、お米のご飯をだす。
夕食は雑炊とジュース。
夜、大量の便。
1月2日、下痢小2回、中2回。
1月3日、排便なし。
1月4日、デイサービス帰宅後、反応が鈍いので血糖値を測ると95(17:45)、ジュースと砂糖大さじ1杯。血糖値140(21:20)。体温に異常なし。
1月5日、体温36.4度(8:20)、37度(20:00)、36.6度(22:30)。
1月6日、朝、サンドイッチ。
泌尿器クリニックに母を連れて行く。市販薬では臭いが取れず、デイサービスからも訪問看護師からも、医師に抗生物質を与えるよう報告するが、医師は聞き入れない。
仕方なく泌尿器クリニックへ連れて行く。抗生物質の乱用が効力を失わせる理屈は分かる。しかし腎盂腎炎2度も起こしてる母に、抗生物質を与えないのは悪手だ。私はこのとき、泌尿器だけでも大学病院と繋がっておくべきだったと後悔する。
本来デイサービスは希望者には1月2日からサービス開始の予定だった。年末は大晦日も営業予定。しかし年末に、デイサービスで利用者の殺人ウイルス患者発症により、デイサービスは年末発症発覚から翌年4日まで閉鎖された。
1月7日、私の喉が腫れる。扁桃腺かとこのときは思う。
母の体温は平熱。夜、イチゴ5粒に練乳がけ、おかゆ三分の一を母は食べた。
1月8日、朝食欲なし。昼、おにぎり半分。味噌汁1杯。ジュース1杯。アイス二分の一。
夕食、茶碗蒸し1個、味噌汁1杯。卵かけご飯四分の一。体温、血糖値、異常なし。
1月9日、朝昼食欲なし。血糖値77(18:25)、砂糖大さじ1杯。ジュース1杯。
夕飯カレー完食。血糖値211(19:35)
1月10日、朝食ロールパン2個、卵焼き、ポタージュ1杯、昼はラーメン半分。平熱。血中酸素96,血糖値異常なし。
私は高熱を出した。母はデイサービスを利用している。在宅医療医に連絡して調べてもらったところ、殺人ウイルス陽性だった。母も陽性だが、何度もワクチン接種していたので、症状は出ない。
在宅医療医は、母を入院させることにした。私はこれで永遠の別れになるのではと危惧して世話することを主張したが、体に力が入らない。
午後に病院が母の送迎によこした車に、母は杖をついて乗っていく。よりによって、こんなときに私が忌々しいウイルスにやられるとは。
体の辛さよりも、母が無事に帰宅できるか心配だった。せめて入院中に、膀胱炎を治してくれればよいのだが。
私は1週間ほどで回復したが、在宅医は、これを機に検査をするということで、母の退院は長引いた。馴染の病院でないと、母は『せん妄』を起こしやすい。それを危惧した。
病気から連絡があって、歩行困難になったという。これまで短距離なら歩けていた母は、2週間以上の入院中にすっかり足が衰えてしまったのだ。私が回復して直ぐに帰宅させてくれたら、言っても仕方のないことだろうけど。
1月27日、ケアマネを通じて介護レンタルから、門の階段を上る着脱式スロープを借りる。
1月28日、母が退院。介護タクシーで帰宅。普通の車椅子でさえ体を支えることができないほど、筋力は弱っていた。
1月30日、ケアマネ同行による介護認定検査。症状が悪化にしたことによる要介護の引き上げのためだった。
母の食欲はすっかり落ちていた。朝食は何とかパンなら1枚とゼリー、ジュースとスープは食べられる。しかし昼と夜は食べたがらない。デイサービスで流動食のようにドロドロにするが、原型のない食べ物に母は手を出さない。インスリンは中止となった。
2月2日、訪問看護。この人はよくやってくれた。だが医師が頭が固い老人だと、昔ながらの手法にこだわって、現代の常識に耳を貸さない。全員がそうというわけではないが、個人病院ほどその傾向は強い。親身な良い先生だったが、いかんせん、他者の言葉を柔軟に受け入れる姿勢がなかった。
いや、今更責めても仕方がない。私がワクチン接種副作用を恐れずに受けていれば、母を自宅待機できたのかもしれない。
人生に『IF』はない。だが、よりよってこの時期に感染とは皮肉すぎて失笑しかない。自己嫌悪に苛まれる自分への殺意が増した。
「介護や看取りに、正解はありませんよ」
周囲から言われても、空々しくしか聞こえなかった。私は決定的な間違いを犯したのだ。慰めより、責めてくれた方がよっぽど楽だった。
2月9日、訪問医療。母の膀胱炎は治っていない。追求しても、「切り札」は取っておくという。その「切り札」を切るのが遅すぎた自覚はないのだろうか?
2月10日から11日、お泊りデイサービス。夜に下痢をしていたとの報告。
2月12日、排便朝中。夕方小。
2月14日、訪問医療。この週から2度に増える。虚しい気持ちしかない。今更、何をすれば、助かるとでも思ったのだ?
2月16日、訪問医療。
ここで話を切る。最期の母の闘いが、これから始まる。
本当は二度と振り返りたくない過去。それでもこれを乗り切らねば、先には進めない。
3代目死去により、我が家はこんなにも静かだっのかと思うほど、静まり返っていた。テレビは母が日中ずっとつけている。それでも静けさは変わらない。父や兄が彼岸へ旅立ち、愛犬も虹の橋を渡った。
母が時々、「3代目は庭に出してるかい?そろそろ家に入れておやり」と言う。そして「父さんは、入院中、お酒が飲めなくて可哀想だね」、「あいつ(兄)は、いつまでほっつき歩いているんだ。仕方ないね」と言う。
母の中では、皆が生きているのだ。そして早く帰ってこないか待っている。否定はしたくない。だが探しに行こうと、隙をついて外へ出ようとするので、その度に現実を突きつけねばならない。
後年、徘回は、自分が何もできなくなる恐怖心からの逃避のために発生すると知った。それを知ったときは、母に申し訳ないことをしたと反省した。自分をコントロールできないことに、一番歯がゆかったのは、母だったのに。
ケアマネから、「また犬を飼ったらいかがですか?」と言われた。考えなくもなかった。だが殺人ウイルスの影響で、子犬の価格は3代目のときの3倍近くになっている。それに財政的にも、母に残された時間を考えても、犬を飼える状況ではなかった。
私の右耳は、良くなってきているが、まだ完全ではない。完治までに約2ヶ月かかった。まずい薬を毎日服薬するのが苦痛だった。原液を飲める体質だったのは運が良かったが、酸が強いのか、歯に薬が触れるとしみる。早いところ、この薬をもっと飲みやすくしてほしい。昨今は突発性難聴の患者数も増えているので、製薬会社も、いまは飲みやすい薬を改良したかな。そう願いたい。
5月6日、私の耳鼻科。まずい薬が処方される。
5月7日、天敵先生クリニック整形外科、母が受診。
5月15日、3代目の御位牌が完成したので取りに行く。それをスマホで撮影して送ると、親友から「命日が違う!」と指摘された。「早く変えてもらってきな!」と言われたが、ちゃんと寺で供養もされてるし、3代目が化けてでてこないことからして、まあこのままでも良いだろうと、祭壇の骨壺の前に置く。
御位牌の上部には、愛想のない顔で正面を見据える3代目の顔写真があった。『愛犬 蓮くん』、3代目の名前をカタカナの『レン』から、『蓮』に変えた。戒名代わりだ。
5月20日、都内の大学病院で母の胃カメラ。朝10時検査なので、早目に家を出る。
検査室は、胃カメラと大腸内視鏡検査の患者が等間隔で座っている。ズラリと並んだ大腸内視鏡検査の患者は、長テーブルに置かれた2リットル下剤液をコップで少しずつ飲んでいる。父が地元の大学病院で検査の時は、午前の部で5名程度だったので、この光景はシュールだと思った。
私も地元のクリニックで胃カメラは飲むが、大腸内視鏡検査の患者とは別の階層なため、見たことはない。
5月21日、訪問看護。訪問看護はノルマなのかキチンと来るんだね。そして形式的な聴診、血圧、体温計測、殺人ウイルスから暫くしてから酸素量計測も加わった。この酸素計測機、一時は入手困難だったものね。ウチもネットでようやく探し当てて購入したよ。
診察が終わればさっさと帰ればいいのに、雑談。いや、この雑談の中から、患者の状態を読み解くのを後で知ったけどさ、この看護師に関しては 本当に休憩所としか思ってないように思われる。
5月27日、私は朝に猛烈な目眩を感じて立ち上がるも困難だった。私は椅子にさえ座っていられず、リビングの床に横たわる。ちょうど3代目がこの世を去った場所だ。このとき、母が脱走していたら追いかけられなかっただろう。デイサービスに出掛けた後で助かった。時間にして約1時間後、回復したとのメモがカレンダーに残されている。
5月28日、駅前のビルで殺人ウイルスワクチン接種を母に受けさせる。
あの当時は予約を取るのも大変だった。私は開始後どれぐらいで取れたかな、ともかくスマホが予約サイトに飛ぶまで、ひたすら作業を繰り返した。近所の人は電話予約しようとしたが、全くかからず夕方になってやっと繋がったという。かなり先の予約になったと嘆いていた。市町村も手探りだったから仕方ないだろうが、地区ごとに割り振って予約券配布しても、良かったのではないか。あの時は確か、高齢者と病気の人からワクチン接種が開始された。高齢者にスマホを使えというのは、家族がいない世帯はキツかっただろうに。
5月29日、私の耳鼻科。確か目眩の相談だったと思う。突発性難聴は発症から2ヶ月で完治宣言となり、まずい薬から解放されたときには小躍りしたものだ。
6月2日、都内の大学病院消化器内科、母の受診。胃に異常なし。
この日は3代目の誕生日だったので、帰宅後に肉を焼いてお供えした。
この頃から、母の趣向が魚から肉へと変化していく。昔は唐揚げ以外は焼き魚や煮魚を好んで食べていたが、何が「食べたい?」と聞くと「肉が良い」と言うようになった。
外食も肉、ハンバーグのがお手頃価格だが、ステーキが良いという。でもファミレスのは固いとブツブツ文句を言う。
一度、某高級焼き肉チェーン店へ連れて行ったら、食べる食べる。私より食欲が凄かった。ランチメニューだから助かったけど、連れていけたのは一回きりだった。予算的に何度も連れていけない。家でステーキにするときは、母の分はヒレを買う様になった。財布は痛いが、外で食べるよりずっと安上がりだから。
6月4日、天敵先生クリニックを母の定期受診。向かいがコンビニなので、帰りに母が立ち寄りたがる。毎回、ホットスナックのアメリカンドッグが好きで買う。一度、クリニック帰りではない別の日に、天敵先生と店内で出くわしたときは何とも気まずかった。
6月9日、母の歯科。実は何年も前から、月1で通っている。駅前まで出なくてはならないが、母が健康だった頃から、歯科クリニックショッピングで色んな場所にかかり、やっとお気に入りの先生を見つけて腰を落ち着けた歯科クリニックだった。歯の状態次第で治療のときもあるが、大抵は歯垢除去。
6月11日、都内の大学病院内分泌内科を母が受診。
この頃から、私は都内までの付き添いの限界を感じるようになり、地元への転院を考え始めていた。これまでは電車酔いは酷くなかったが、3代目の死後以降、パニック障害の薬を普段より多めにして、胃腸科クリニックの頓服を飲んでも、酔いが治まらずに途中下車するようになっていたのだ。特に帰路。
大抵はどの診療科も午後の診察なので、ちょうど学生の帰宅時間や会社員の仕事終わりに差し掛かり、電車が混む時間帯に重なる。昼は食べないようにしていたが、マスクで余計息苦しかったことも、起因していたかもしれない。途中から再び乗車すると、混雑して母も立たせる事になる。大抵は優しい人が気づいて、母に席を譲ってくれたので助かったが。
母を考えれば、この病院に通院するのが一番だと分かっている。だが私の心身は限界だった。
6月15日、都内の大学病院膠原病内科と呼吸器内科を、母が受診。
6月18日、午前中に駅近くの眼科(歯科とは近い)へ連れて行く。
午後は天敵先生クリニックへ母を連れて行く。このときはどうして急に連れて行ったか記憶が定かではないが、恐らく母が家の中で転倒して、とりあえず整形外科で診てもらいに行ったのだと思う。通院記載が頻繁に書かれていないので、打撲で済んだらしい。
6月25日、母の2回目の殺人ウイルスワクチン接種に駅前までつれていく。母は副作用が出ない。羨ましい限りだ。
6月29日、母の歯科。これは覚えている。入れ歯は作っても気持ち悪いと普段使わないが、歯がかなり傷んできたので、入れ歯の使用を推奨されたのだ。そして調整してもらったばかりの入れ歯を口に入れさせたが、私の見ていない隙に外してテイッシュに包み、蕎麦屋へ置いてきたのだ。店員さんが、追いかけてきてくれ届けてくれたが(本当に気色悪いものを届けてくださり申し訳なかった)、それ以来、あの蕎麦屋へは気まずくて行きづらくなった。母が立ち寄りたがっても、別の蕎麦屋を使うようになった。
7月2日、天敵先生クリニックへ、母の受診。これは定期受診だと思う。母の便秘が酷くなってきたので、これまでより下剤量を増やす記載がある。
2.転院
恐らく先月中に、母の膠原病をはじめとする診療科の転院手続きに入っていたのだろう。記憶はあるが、記録にない。通院の合間に、医療相談室を利用して手続きしたのは覚えている。
地元の別の大学病院、かつて母の膠原病検査を断られたが、都内の大学病院からの依頼となると話が通ったようだ。まさか兄の通っていた病院に通院するようになるとは、思ってもみなかったけど。
転院にあたって、当初は難航した。地元の別の病院で、当初は膠原病の扱いはないと相談員に言われていたのだ。しかし私がネットで調べたところ、リウマチ科で膠原病も扱っていると書かれている。それで問い合わせてもらい、許可をもらった。
本当は、都内の大学病院へずっと通えれば良かった。家を売って都内に賃貸住まいすることも考えたが、認知症が一気に進んだ母を住み慣れた家、馴染のご近所さんから引き離すのは悪手のように思われた。徘回の頻度が高まっていたので、監視の目をいくつかのお宅に頼んでいた。都内で徘徊されたら、土地勘がない分、私も探し出せない。そもそも認知症を患った母では、家を売ることができない。法定管理人を立てるにしても、無職の私ではなれない。弁護士に依頼すれば高くつく。
それに後年、実際に家を売って知ったが、本当に価値がなかった。都内暮らししても、すぐに底をついていただろう。
7月13日、かつて兄が療養型病院へ転院する前、最後にお世話になった大学病院。父がお世話になった大学病院よりは自宅から遠いが、都内まで通うことに比べたら、格段に楽だ。駅でバスは乗り替える必要があるけれど。
まずリウマチ科、呼吸器内科を受診する。都内の大学病院からデータCDは貰って、紹介状と共に提出したが、改めて検査を行うために、朝食無しでの電話予約来院だった。
7月20日、ちょうど1週間後に地元の別の大学病院で、泌尿器科、消化器内科、内分泌内科を受診する。
この辺りに飲食店はないが、ホールでコンビニやパン屋で買ったものを食べられる広いスペースがある。
それと広く明るい食堂。もっぱら、私と母は食堂を利用することが多かった。料金的にはコンビニやパン屋の方が安上がりなので、座席が取れた場合はそちらを選択するが、殺人ウイルスのせいで座席数は、兄が入院していた頃よりも半分に減らされたので、ここでも座席争奪戦は激しかった。
なにより、食堂には母の大好物であるクリームソーダがあった。ラーメンやあんかけ焼きそばもある。都内で食べるより、良心的な価格だった。
転院は私の体調によるのだったが、今後のことを考えれば、タイミング的には絶妙だったとも言える。
カレンダーにもスケジュール帳にも詳しくは書いてないが、恐らくこの頃から、デイサービスのお泊りサービスを月1で利用し始めている。7月に「休日」と、2日連続書かれていた。
金銭的には節約したいところだが、ケアマネから「休まないと、あなたが倒れますよ」と強く勧められたのだ。本当は月に2度ほど勧められたが、月イチでも自由になれる時間があれば、はるかに楽になる。お泊りデイサービスのときは、眠れなくても部屋でゴロゴロしたり、友人と送迎時間を気にせずに出かけたりできた。
8月5日、地元の別の大学病院呼吸器内科と消化器内科、母が受診。
8月10日、地元の別の大学病院リウマチ科と内分泌内科と泌尿器科を、母が受診。
この日、泌尿器科はエコー検査が行われている。
8月30日、母のお泊りデイサービス。
この日は私の1度目の殺人ウイルスワクチン接種。インフルエンザワクチンは体質的に打てないので、問診の際に尋ねたが、恐らく平気だろうとのこと。ワクチン接種後、他の人より長めの20分間を休憩室で休んで、気分が悪くならなかったので帰宅する。しかし体のダルさが段々と出てくる。帰宅して、横になる。微熱程度の副作用で済んだ。母をデイサービスに預けて、本当に良かった。夕食はカップ麺で済まして寝た。
9月1日、地元の大学病院消化器内科、母の大腸内視鏡検査。
9月2日、母が尿取りパッドを流してしまう。何とか取れて、業者を呼ばずに済んだ。
9月9日、地元の別の大学病院消化器内科、母が受診。大腸内視鏡検査に異常なし。
9月10日、母の眼科、眼底検査。
9月12日、母が朝食を待てずに、煎餅を食べまくって血糖値225。
9月21日、地元の別の大学病院リウマチ科と内分泌内科を、母が受診。
9月22日、母をお泊りデイサービスに出す。
私は2度目の殺人ウイルスワクチン接種。今回は熱が38度越えた。だが翌日の母の帰宅の頃には熱も下がった。
9月25日、ケアマネと相談と書いてある。何を相談たかは不明。たが時期的に、介護認定審査のための打ち合わせだと思う。
10月14日、母を脳外科クリニックへ連れて行く。帰りに、駅ビルでお寿司と書いてある。肉好きだが、寿司は別物だったわけね。タクシーを利用して帰宅。
10月21日、地元の別の大学病院呼吸器内科と消化器内科、母が受診。
消化器内科から、余命宣告が出た。ガンマーカーが著しく上昇しているのだ。それなのにガンの根源も転移も見つからない。
このときはもう半ば、余命に関しては受け入れていた。母の認知症は酷くなっている。帰りはタクシーで帰宅。
いつだったか、デイサービスの送迎待ちのとき、私がトイレに行っている隙に、母はどこかへ行ってしまった。歩いてならば、容易く追いつけたはず。でも見つからない。デイサービスの送迎が来て、その人達とも周辺を探したが見つからない。
これはバスに乗り込んだ可能性が高い。駅は2箇所、可能性がある。とりあえずデイサービスの手の空いている人が総動員で探すからと、私は自宅待機を命じられた。
数時間後、母は全く見当違いの駅で見つかった。どうやってそこへ、たどり着いたのか、今もって理解できない。探し出したデイサービスの人のお手柄だった。母いわく、デイサービスの迎えが遅いから自分で行こうとしたが、途中で行き方が分からなくなったらしい。
10月26日、地元の別の大学病院リウマチ科、内分泌内科、母が受診。昼食はラーメンだった。
11月1日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
11月4日、母の市役所と書かれている。可能性としては、オムツの助成金申請だと思う。母はデイサービスだし、一緒に行った形跡はない。
11月5日、母のインフルエンザ予防接種。
11月22日、兄の命日の前日に、いつもの葬儀業者さんから、お坊さんを派遣してもらう。母も一緒の一周忌法要。
帰りはスーパーに立ち寄って、少し贅沢なお寿司を買って帰り、2人で食べた。昔、スーパー行く途中に父の目を盗んで食べていた蕎麦屋は、とっくに潰れていた。
11月30日、地元の別の大学病院内分泌内科、母が受診。
12月4日と5日は、母をお泊りデイサービスに預ける。
友人と横浜に泊まりに行った。イベントの後、東京と横浜のクリスマスマーケットをハシゴして、しばし浮世を忘れて楽しんだ。
12月14日、地元の別の大学病院へ母の受診。診療科は書いていない。一気に全部の診療科を回ったのだろうか?
12月24日、天敵先生クリニック定期受診。コンビニで、かなりの額(それでも外食費より安い)で、クリスマスのチキンやお惣菜を購入したと思われる。
12月30日、母と墓参。
3.2022年『特別な年』
元旦。母の大好きなお雑煮を作る。餅は詰まらせないように、細かく切ってフライパンで焼く。我が家のお雑煮は、鶏肉と白菜と人参を薄口醤油出汁で煮込み、焼いた餅を入れて、三つ葉を乗せたシンプルなもの。
昔、友人達とお雑煮談義を初詣の待ち時間にしていたら、周囲から「色んなお雑煮があるものだねぇ」と、周りの人々も雑煮雑談に加わったことがあった。
この年、おせち料理を買った記憶がない。母も私も、おせち料理があまり好きではない。味付けが甘いのと、後始末は大抵、私と母が無理矢理食べていたからだ。ただ母の好きな煮物用の八つ頭と、高価なハムは買った気がする。母は昔から焼いたハムが大好物だった。それと甘くない出汁巻き卵焼き、これは我が家の定番だった。
今にして思えば、食べられるときに、もっと食べたいものを存分に食べさせてあげれば良かったな。
大好きな人を見送った人なら、誰でもそう思うだろうけれど。
たまに母は「おにぎり作って」と甘えた声でおねだりした。コンビニのおにぎりも利用していたが、私の作る硬めのおにぎりの方が好きだった。具材はその時それぞれだが、大抵は梅とおかかを混ぜたもの、私好みでシーチキンを使ったり、鮭を焼いてほぐしたものも入れた。私は手が大きいので、かなりの大きさになるが、それを2個、ペロリと平らげていた。大抵は青のりを入れた甘くない出汁巻き卵焼きを添えて。母は卵4個使った卵焼きの半分を一度で食べていた。私は1日に2個以上の卵を食べると蕁麻疹が出るため、残り一切れは時間が経ってから母のおやつになった。
いまでもふと、「おにぎり作って」の声が脳に蘇る。生きていたなら、腹がはち切れるほど、存分に食べさせたい。
余命宣告が出たとは思えないほど、母はこの頃、元気だった。元気すぎて徘回の目が離せなかった。
この頃、母の通院の都合上、火木土から月水土にデイサービスを変えている。火曜日の来院が頻繁になったからだ。転院する前も火曜日が膠原病診察日だったが、2ヶ月に一度のペースだったので、その時は月曜か水曜に事前に日付変更してもらっていた。
1月6日、地元の別の大学病院消化器内科と呼吸器内科を、母が受診。レントゲンの予約時間が早かったので、タクシーを使う。
昼食の値段からして恐らくコンビニを利用、この日はホールの座席が取れたようだ。たぶん時間的に、検査と診察と隙間時間を利用したランチタイム前だったのだろう。代わりに帰りには喫茶店と書いてあるので、バスの乗換え前に喫茶店でお茶してから帰ったようだ。
1月7日から8日は、母のお泊りデイサービス。
7日に私は都心まで友人と出かけているので、このときに馴染の有名神社初詣を済ませていると思う。三ヶ日に参拝記載がないからだ。
1月13日、地元の別の大学病院呼吸器内科を、母が受診。遅めの昼を、駅前で蕎麦を食べたと残っている。
1月14日、母の歯科。某コーヒーチェーン店で、母はホットドック2本食べている。
1月20日、訪問看護。ウザい。
1月25日、地元の別の大学病院内分泌内科、母の受診。この日は駅前で寿司を食べている。昔、母は握り寿司が好きだったが、このお店では、ちらし寿司を好んで食べていた。お値段、握り寿司より若干高いけど(苦笑)。
1月28日天敵先生クリニック、母の定期受診。
2月4日、私だけで墓参に出掛けた。母はデイサービスと書いてある。寒い時期なので、母の墓参は避けたのだろう。
2月8日、地元の別の大学病院泌尿器科とリウマチ科を、母が受診。ランチは食堂のラーメンと飲み物(母はコーヒー、私は紅茶)を頼んでいる。
2月15日、母の歯科。帰路にハンバーガーセットを食べている。ハンバーグはあまり好きでない母だが、ハンバーガーは好きだった。タクシーで帰宅している。
2月18日から19日、母のお泊りデイサービス。
2月22日、母を美容院に連れて行く。それまでは歯科と眼科近くの千円カットを利用していたが、千円カットだとシャンプーがないため、時節柄、美容院を利用することにした。母は「贅沢だ」と言いつつも、丁寧に頭を洗ってもらって、仕上がりもいつもよりお洒落になって、終わってみれば大満足だった。そりゃ、懐は痛むけど、ウイルス感染リスクは少しでも減らしたい。
帰りはラーメンを食べて、お土産にドーナツを買って帰宅した。
2月24日、ケアマネの訪問があった。介護認定が引き下げられたことによる、再認定調査依頼をするためだ。認定が下がれば、利用料は安くなるが、週3回の利用が出来なくなる。これまでは天敵先生に介護保険調査提出用医師診断書を依頼していたが、殺人ウイルスのせいで市町村審査がより厳しくなったのだ。
3月3日、脳外科クリニックへ出向き、介護認定医師診断書を依頼する。アルツハイマーを詳しく書いてもらえば、再審査で介護認定が戻るかもしれないと思ったのだ。
3月4日、午前中に母の眼科。昼食に蕎麦定食を食べる。
午後、天敵先生クリニック、定期受診。
3月11日から12日、母のお泊りデイサービス。
3月12日、脳外科クリニックへ認定証を取りに行く。
そして前回と同じく、私の貧血の薬を処方して貰う。3月3日、ふと待合室で貧血検査実施中と書かれたチラシが目に止まり、前にも別のクリニックで検査してもらったが、目まいが時折あるので、再度、検査してもらった。そして貧血と診断され、鉄剤が処方されるようになった。
3月15日、地元の別の大学病院で母の検査。この日は母の歯科の予約も入っており、断るつもりだったが、時間的に間に合いそうだったので、タクシーを使って歯科へ行く。歯科クリニックは人気が高く、改めて予約を取ろうとすると、かなり待たされてしまうので良かった。懐には痛かったけど。さすがに昼食は外食でなく、スーパーで安いお弁当を買って、帰宅後に食べた。
3月17日、地元の別の大学病院呼吸器内科を母が受診。
ランチを食堂で食べたのに(内容が書かれてないが時期的にラーメンかあんかけ焼きそば)、夜は「ピザが食べたい」と言い出したので、出前を取る。確かチラシが貼ってあったんだよね、駅か大学病院に。それで母の頭はピザでいっぱいになってしまったのだ。
3月24日、地元の別の大学病院消化器内科、母の超音波検査、その後診察。ガンは原発も転移も見当たらない。
確かこの頃だと思う。「そろそろ在宅診療へ切り替えを検討されてはいかがですか?」と言われたのは。
別の診療科はともかく、私はリウマチ科には、ギリギリまで通わせると言った。
3月29日、地元の別の大学病院内分泌内科とリウマチ科、母の受診。
4月1日、天敵先生クリニック、母の定期受診。
4月6日、地元の大学病院、母の受診。ただし診療科は書いていない。
4月8日、3代目の納骨。この日は特別にデイサービスを変更してもらった。父の命日の前日。そしてお釈迦様が誕生した『灌仏会』。
3代目愛犬『蓮』の納骨はこの日と決めていた。大きめのリュックに3代目の骨壺を入れて、先ずは父と兄たちが眠るお墓参り。
それからバスで駅へ出て、霊園まで歩く。今年も桜が散るのが早い。いつからこんなに早くなったのだろうか?
霊園まではけっこうな距離があるが、3代目との最後の散歩だ。タクシーなんて無粋なものを使わずに、桜が舞う良い天気の中を、汗ばみながら歩く。そして3代目を納骨堂に安置した。しばらくすれば、初代と2代目の眠る共同墓地へ、納骨堂に眠る他の飼い主から愛されたきた亡きペット達と埋葬される。
帰路も、軽くなったリュックを背負って泣きながら駅に向かった。
骨壺の消えた祭壇。新たに初代と2代目の写真、それと2代目の御位牌も移動させて、買ってきたスーパーの焼き鳥を供える。時間的に、専門店で焼き上がりを待つのは、母の送迎時間の関係上、無理だった。遅くなれば、まだ介護士に言われるから。でもこの日ぐらいは、叱られても帰宅を遅らせても良かったかもしれないな。
4月12日、母の歯科。
4月13日、ケアマネと自宅で相談。恐らく介護認定再調査の同席を希望したことによる。デイサービスでの内容を話すことで、認定を戻すつもりだったのだろう。
4月15日15時半、介護認定再調査。再認定の結果がいつ出たかは書かれていない。しかし介護認定は元の要介護3に戻った。
4月26日、母が尿取りパッドをトイレに流してしまい、トイレが詰まる。以前、トイレ改装のときの業者さんに連絡をして、高圧洗浄でポリマーを押し流す。
下水道でポリマーを集める業者さんには、本当に申し訳ないことをした。その分、料金も取られたが。
4月22日から23日、母のお泊りデイサービス。
4.在宅医療と訪問看護
5月2日、地元の別の大学病院、母の診察。連休前だったが、何の診察か書いていない。
その後、母の在宅医療相談。母の病状からして、クリニックよりも病院を勧められる。自宅から近い場所に訪問医療をしている場所があるが、ここだと夜間や祝祭日に来てくれない場合もあるので、この大学病院近くの病院を勧められる。ここだと、祝祭日や夜間も駆けつけてくれるということだった。
相談員は、利用しているデイサービスを尋ねる。その名を聞いた途端、「もしかして訪問看護は、〇〇看護センターセンターですか?」と尋ねられる。そうだと答えると、相談員は顔を曇らせて言った。
「あそこの看護センターの評判はすこぶる悪くて、ウチにも何人かの患者さんやそのご家族が、相談にいらしているのです。別の看護センターのご利用をお勧めします」
「しかし、デイサービスと提携を結んでいるので、そんなことは可能なのでしょうか?」私は尋ねる。
「医療的看護という名目で、医師の推薦があったことにして、穏便に切り離しましょう。そこのところはケアマネと相談しながら、うまくやるので、ご安心を」相談員は太鼓判を押した。
腑に落ちた。やはりあの看護センターの派遣看護師、役立たずで、他でも問題起こしていたんだな。まあ、その後にポカやった、ケアマネも同罪。
相談員がせっかく介護ではなく医療的看護師派遣という方法を取ったのに、ケアマネは、系列の看護センターにどう説明したか知らないが、後日、役立たず看護センターから所長と常任看護師と別のキツイ看護師3人で、我が家に乗り込んできたのだ。
「なぜウチでは駄目なんですか!」高圧的に話す所長に、最初は「医療的看護が必要ですから」と穏便に応えたいたが、3人は「自分たちにも出来る」とギャーギャー主張する。
次第にこちらも堪忍袋の緒が切れて「あんた達がこれまで、いつ役に立ったことがあったんだ!」と、父や母の状態悪化のときに間に合わない、間に合っても役に立たないで逃げ出した恨みを、時系列で並べて主張した。
3人は悔しげな顔をしながらも反論できず、揃って帰っていった。
5月6日、天敵先生クリニック、母の受診。近いうち、大学病院が推薦した在宅医療に切り替えることを説明する。
5月19日、地元の別の大学病院を母が受診。この日の診療科も書いていない。
病院データを全て残しておけば把握できただろうが、母を亡くした後の私は、都内の大学病院の初期データ以外は残して置きたくなかったようだ。母の分厚い検査データファイルは5冊に及んだ。膨大な検査データ検査の記録が本棚に立て掛けられていた。ほんとよく、いままで我慢して頑張ったなぁ、母ちゃん。
父をかつて診ていた大雑把先生が、ガンマーカーについて語ったことがある。先に言っておくと、ガンマーカーはガンにのみ血液反応で現れるわけではない。ただ癌患者の指針ともなるガンマーカーは、数値が3万から4万程度で、患者は力尽く。大雑把先生は、「とある女性患者」のガンマーカーを当時、見せてくれた。この人のガンマーカーは6万を超えていた。凄い、あり得ないと大雑把先生は説明しながら言っていた。
父のときも、死因は誤嚥性肺炎からの心不全だが、ガンマーカーは3万程度だったと記憶する。
消化器内科の医師が在宅医療を母に勧めたのも、ガンマーカーが既に6万を超えていたからだ。昨年のうちに亡くなっていても不思議ではない数値だった。
がんが発見されないガンマーカーの上昇。それでも母は何でもないように、ただ認知機能だけを低下させて生きてきた。
母は、あれほど嫌がった記憶を無くしていっても、生命力に全振りしていた。きっと私のために四分の一残した魂が、私を孤独にさせまいと、必死で生きてきたのだと思う。
5月20日から21日、母のお泊りデイサービス。
5月26日、初めて病院から紹介された訪問看護師が訪れる。男の人なのでびっくりしたが、血圧、体温、酸素濃度計測の他に、専用のバケツを持ってきて、母の足を洗う。母の足の状態を見て、必要なら爪切りもする。驚いた。看護師で、こんなにも対応が違うのか。終わった後に雑談はするが、もっぱら母の様子を観察している。プロフェッショナルだ、そう思った。
5月28日、訪問医療医師と付き添い看護師が訪れる。こちらも対応が良い。「介護は無理にし過ぎはいけません。限界が来たら、いつでも言ってくだされば、ウチの病院でお預かり致しますので」、そう言ってくれた。
訪問医療と訪問看護は交互に毎週木曜日に自宅へ来ることになった。
5月31日、地元の別の大学病院リウマチ科を受診。呼吸器内科はリウマチ科と検査内容が被るので、リウマチ科と統合することになった。お昼内容は書いてないが、値段から察するに、病院の食堂を利用している。
6月2日、母の訪問看護。キチンと足の手入れをしてくれるし、お腹も毎回触診してくれる。バケツのお湯汲などは私の担当だが、母を丁寧見てくれたので、訪問看護師を変えて、本当に良かったと思っている。
6月9日、訪問医療。医師帰宅後、薬は近所の薬局に処方箋が送られて、それを翌日に取りに行く。
6月16日、母の訪問看護。
6月21日、母の歯科。
6月23日、母の訪問医療。
6月24日から25日、母のお泊りデイサービス。
6月30日、母の訪問看護。
7月1日から2日、母のお泊りデイサービス。
7月7日、母の訪問看護。
7月14日、母の訪問医療。
7月15日から16日、母のお泊りデイサービス。この月から月に2度に、お泊りデイサービスが増えている。何故だったか詳細が定かではないが、訪問医と訪問看護からケアマネに指摘があって、私にもう少し休むようにと設定されたように記憶する。徘回を警戒して熟睡出来ない私を、心配してくれたのだと思う。
7月21日、母の訪問看護。
7月26日、母の歯科。
7月28日、母の訪問医療。
8月2日、地元の別の大学病院内分泌内科とリウマチ科を母が受診。このときはホール座席が確保できて、コンビニで食事している。
8月4日、母の訪問看護
8月9日、母の訪問医療。いつもの木曜日が今週は祭日だったので、火曜日に前倒しになったのだ。代わりにデイサービスが10日に変更となっている。
8月9日の昼過ぎ、母の2人の弟が、ど田舎の我が家まで来てくれる。私が数日前に、借金を申し込んだのだ。いつ母にもしものことがあっても、おかしくない。だが、葬儀代が工面できない。それを告げたところ、叔父二人は猛暑の中を駆けつけてくれた。母の大好物の桃をたくさんと、大きなスイカ一つ分持って。
母は久々に弟達に会えて大喜びだった。叔父二人は「あんなメールもらったから駆けつけたけど、元気そうじゃないか」と言われた。あのときの母は応対もマトモで、「認知症には見えないけどなぁ」と叔父たちに言われた。遠い場所からそれぞれ来たので、滞在時間は2時間もなかったかもしれない。
叔父たちが帰宅後、母は寂しそうだった。いただいた桃を切って、たくさん食べせると喜んだ。
その日の真夜中、幼児退行した母が区内の昔の家に帰ろとしてバス停2つ先の道端にうずくまってるいるのを、通りがかりの親切な人が見つけて通報した。ほぼ同時刻に、私も母がいないことに気づき、真夜中を懐中電灯片手に探したが見つからない。警察に母の特徴を告げて連絡すると、いま保護した人だと思うというので、パトカーで送ってくれた。
私が警察官2人に必死で詫びている中、母が「運転手さん、ありがとう」と笑顔で言う。タクシーと勘違いしたらしい。警察の人も苦笑していたが、私はますます肩みの狭い思いをした。
…これが姉弟3人揃った今生の別れになった。しかし末っ子叔父は、このとき母のカウントダウンは自覚しても、まさか長男叔父まで後追うように亡くなるとは、夢に思っていなかっただろう。3人が一気に1人になって取り残される。末っ子叔父の姉弟を亡くした虚無感は、兄を亡くしてわずか数年の私にも分かる。恐らく家庭があっても、幼い頃の苦楽をともにした姉弟の喪失感は、たとえ普段は行事でもない限り会わずとも、計り知れないものがあっただろう。
8月10日、デイサービス送迎10時と、随分と遅い時間が書かれてある。たしかこの頃、地域ごとに殺人ウイルス集団予防接種が行われるようになったが、ウチの指定された会場は不便な場所にあった。タクシーを呼ぶしかないかと考えていたところ、デイサービスの送迎車が、特別に出されたのだと記憶している。
8月12日から13日、母のお泊りデイサービス。叔父たちが来てくれた日の真夜中の騒動で疲れ果てていたので、お泊りだったのは絶妙のタイミングだった。
8月16日、地元の別の大学病院泌尿器科医、母の受診。
8月19日、母の歯科。
8月25日、訪問看護。
8月26日から27日、母のお泊りデイサービス。
9月1日、母の訪問看護。
9月8日、母の訪問医療。
9月9日から10日まで、母のお泊りデイサービス。
9月11日。母と一緒に、父や兄たちの眠る霊園へ墓参。翌年のこの頃には母も旅立っているのか。こうして書くと、感傷気味になるな。
9月12日.煎餅食べまくり。
9月13日、母の眼科検診。
9月15日、母の訪問看護。
9月20日、母の歯科。
9月22日、母の訪問医療。
9月23日から24日、母のお泊りデイサービス。帰宅後、ケアマネと話し合い。記載はないが、この頃から母を地元の別の大学病院へ連れて行くのに足腰の衰えが顕著となったので、介護保険で業者さんを仲介してもらい、車椅子を借りる手筈を整えたはず。
9月25日、下痢15回(17:30~22:00)
23:30、母が転倒する。血糖値、血圧、体温に問題なし。ただ血中酸素は95~92。
9月27日、地元の別の大学病院リウマチ科、泌尿器科、内分泌内科の母の受診。
帰宅はタクシー、帰路にマクドナルドドライブスルーに立ち寄ってもらい、テイクアウト注文。この日は診察と検査が立て込んでいて、昼食を食べる暇がなかった。
9月29日、母の訪問看護。
10月6日、地元の別の大学病院、母の受診。消化器内科と思われるが、記載はない。この日はホールでコンビニ昼食。帰路はタクシーを使用。
10月7日から8日は母のお泊りデイサービス。
10月9日、低血糖84(19:40)、ブドウ糖とジュース投与で血糖値178(20:10)戻る。意識が低迷した時は、先ずは低血糖を疑う。
10月13日、母の訪問医療。
10月14日、市から派遣された高齢者福祉相談と自宅面接。
10月20日、母の訪問看護。
10月21日から22日、母のお泊りデイサービス。
10月25日、母の歯科。
11月3日、母の訪問看護。訪問看護の場合は祝日でも来てくれた。
11月4日から5日、母の宿泊デイサービス。
11月9日、市役所へ生活保護相談。
11月10日、母の訪問医療。
11月17日. 母の訪問看護。
様子が変なので血糖値を測ると70(19:50)、ブドウ糖とジュースで226(20:40)に戻す。
11月24日、母の訪問医療。
訪問医療帰宅後、様子が変なので血糖値を測ると48(16:28)。昼間、食欲がないと言うのでインスリンは使わなかったが、甘かった。ジュースとチョコレートで127(16:35)、196(16:55)に戻す。
このときは相当焦った。
11月29日、地元の別の大学病院、診療科は書いてないが、母の通院が限界となったため、訪問医と相談して大学病院通院は終了することになる。行きは車椅子でバスに乗り、帰りはタクシーで帰宅。病院食堂で定食を食べたのだろうか、普段よりも料金が高い。
足腰は弱っても、まだ食欲はあった。
5.母が燃やした最後の炎
12月前半は、まだ母も足腰こそ弱って長距離は歩けずとも、食欲はあった。だが後半から、体の不調が顕著となっていく。この頃を思い出すのが一番辛い。母にも本当に辛い思いさせたと後悔する。
12月1日、訪問看護。
12月8日、訪問医療。
12月9日から10日、母のお泊りデイサービス。
このときは友人と赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットを満喫し、ホテルに一泊してから翌日は鎌倉散策に出掛けた。これが私が心から充実した最後の日となった。
12月15日、訪問看護。
12月17日、下痢7回。血糖値、血圧、体温に変化なし。翌日は下痢1回のみ。
12月22日、母が錠剤を飲めなくなったので、地元の小さな薬局から、都内の大学病院の処方の際に使っていた駅前処方箋薬局に変更する。可能な薬を粉薬に粉砕してもらううことにしたのだ。
母の食欲は12月に入ってから、少しずつ落ちてきた。一応は完食するが、おかわりまではいかない。それと早食いだった速度が落ちてきた。
12月23日、母のデイサービス利用時に、駅前まで薬を取りに行く。
12月24日、クリスマスを行ったが、記憶が抜け落ちている。ただデイサービスで出たケーキやクリスマスのご馳走は完食したようだ。
12月27日、母の眼科検診と歯科のハシゴ。行きは車椅子でバスに、帰りはタクシーで帰宅。
12月25日、臨時の訪問看護。尿が異様に臭うのが気になった。看護師から医師に連絡が行くが「抗生物質の乱用はいざというとき効かなくなる」とのことで、市販の膀胱炎治療薬を砕いて服用させる。
12月28日、デイサービスから尿の色が変で臭いもキツイと説明される。デイサービス帰宅後、すぐに泌尿器クリニックを調べて、タクシーを呼んで、クリニックに向かう。年末最終日とあって待合室は激混みで、母がようやく診察を終えたのは21時を回っていたと思う。
膀胱炎だった。薬を粉砕して貰うのに、更に30分かかった。タクシーで帰宅。
帰宅後、母が暴れる。初めて精神安定剤リスパダールを飲ませて間もなく爆睡。だが翌朝、起こすも、立てず。
12月29日、意識がハッキリして立てるようになるのは、朝の10時。食事は夕飯のみ。ラーメン完食。
しかし夜20時、床に座り込んで再び立てなくなる。1時間後、支えながら立ち上がりトイレへ。リスパダールは危険すぎて、もう使えない判断のなった。
6.母と過ごした最後の年
2023年元旦、この日、野菜も鶏肉も細かく切った。餅も細かくして炒める。それでも母は喉に詰まらせた。
訪問看護に連絡を入れ、応急処置のマニュアル通り、背中を膝で叩いたり、使い捨てスポンジ歯磨きで喉の奥をかき出す。訪問看護が駆けつける直前、鼻から雑煮の汁と詰まっていた鶏肉が出てくる。
母は詰まりが取れると、空腹を訴えた。だがこのまま雑煮を与えるわけにはいかないので、雑煮はザルでこし、お米のご飯をだす。
夕食は雑炊とジュース。
夜、大量の便。
1月2日、下痢小2回、中2回。
1月3日、排便なし。
1月4日、デイサービス帰宅後、反応が鈍いので血糖値を測ると95(17:45)、ジュースと砂糖大さじ1杯。血糖値140(21:20)。体温に異常なし。
1月5日、体温36.4度(8:20)、37度(20:00)、36.6度(22:30)。
1月6日、朝、サンドイッチ。
泌尿器クリニックに母を連れて行く。市販薬では臭いが取れず、デイサービスからも訪問看護師からも、医師に抗生物質を与えるよう報告するが、医師は聞き入れない。
仕方なく泌尿器クリニックへ連れて行く。抗生物質の乱用が効力を失わせる理屈は分かる。しかし腎盂腎炎2度も起こしてる母に、抗生物質を与えないのは悪手だ。私はこのとき、泌尿器だけでも大学病院と繋がっておくべきだったと後悔する。
本来デイサービスは希望者には1月2日からサービス開始の予定だった。年末は大晦日も営業予定。しかし年末に、デイサービスで利用者の殺人ウイルス患者発症により、デイサービスは年末発症発覚から翌年4日まで閉鎖された。
1月7日、私の喉が腫れる。扁桃腺かとこのときは思う。
母の体温は平熱。夜、イチゴ5粒に練乳がけ、おかゆ三分の一を母は食べた。
1月8日、朝食欲なし。昼、おにぎり半分。味噌汁1杯。ジュース1杯。アイス二分の一。
夕食、茶碗蒸し1個、味噌汁1杯。卵かけご飯四分の一。体温、血糖値、異常なし。
1月9日、朝昼食欲なし。血糖値77(18:25)、砂糖大さじ1杯。ジュース1杯。
夕飯カレー完食。血糖値211(19:35)
1月10日、朝食ロールパン2個、卵焼き、ポタージュ1杯、昼はラーメン半分。平熱。血中酸素96,血糖値異常なし。
私は高熱を出した。母はデイサービスを利用している。在宅医療医に連絡して調べてもらったところ、殺人ウイルス陽性だった。母も陽性だが、何度もワクチン接種していたので、症状は出ない。
在宅医療医は、母を入院させることにした。私はこれで永遠の別れになるのではと危惧して世話することを主張したが、体に力が入らない。
午後に病院が母の送迎によこした車に、母は杖をついて乗っていく。よりによって、こんなときに私が忌々しいウイルスにやられるとは。
体の辛さよりも、母が無事に帰宅できるか心配だった。せめて入院中に、膀胱炎を治してくれればよいのだが。
私は1週間ほどで回復したが、在宅医は、これを機に検査をするということで、母の退院は長引いた。馴染の病院でないと、母は『せん妄』を起こしやすい。それを危惧した。
病気から連絡があって、歩行困難になったという。これまで短距離なら歩けていた母は、2週間以上の入院中にすっかり足が衰えてしまったのだ。私が回復して直ぐに帰宅させてくれたら、言っても仕方のないことだろうけど。
1月27日、ケアマネを通じて介護レンタルから、門の階段を上る着脱式スロープを借りる。
1月28日、母が退院。介護タクシーで帰宅。普通の車椅子でさえ体を支えることができないほど、筋力は弱っていた。
1月30日、ケアマネ同行による介護認定検査。症状が悪化にしたことによる要介護の引き上げのためだった。
母の食欲はすっかり落ちていた。朝食は何とかパンなら1枚とゼリー、ジュースとスープは食べられる。しかし昼と夜は食べたがらない。デイサービスで流動食のようにドロドロにするが、原型のない食べ物に母は手を出さない。インスリンは中止となった。
2月2日、訪問看護。この人はよくやってくれた。だが医師が頭が固い老人だと、昔ながらの手法にこだわって、現代の常識に耳を貸さない。全員がそうというわけではないが、個人病院ほどその傾向は強い。親身な良い先生だったが、いかんせん、他者の言葉を柔軟に受け入れる姿勢がなかった。
いや、今更責めても仕方がない。私がワクチン接種副作用を恐れずに受けていれば、母を自宅待機できたのかもしれない。
人生に『IF』はない。だが、よりよってこの時期に感染とは皮肉すぎて失笑しかない。自己嫌悪に苛まれる自分への殺意が増した。
「介護や看取りに、正解はありませんよ」
周囲から言われても、空々しくしか聞こえなかった。私は決定的な間違いを犯したのだ。慰めより、責めてくれた方がよっぽど楽だった。
2月9日、訪問医療。母の膀胱炎は治っていない。追求しても、「切り札」は取っておくという。その「切り札」を切るのが遅すぎた自覚はないのだろうか?
2月10日から11日、お泊りデイサービス。夜に下痢をしていたとの報告。
2月12日、排便朝中。夕方小。
2月14日、訪問医療。この週から2度に増える。虚しい気持ちしかない。今更、何をすれば、助かるとでも思ったのだ?
2月16日、訪問医療。
ここで話を切る。最期の母の闘いが、これから始まる。
本当は二度と振り返りたくない過去。それでもこれを乗り切らねば、先には進めない。
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