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愛犬たちへ、天国で喧嘩してないだろうね?
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序章
犬にも性格がある。それは重々分かってたつもりだったが、それにしたって性格が違いすぎて、遺影を見る度に笑ってしまう。
今後、私が犬を飼うことはないだろう。私を取り巻く環境は変わりすぎた。仮に飼える環境が整ったとしても、もう愛犬を失う苦痛には耐えられない。
実は幼い頃の私は、犬が苦手だった。当時は大らかな生活環境だったため、散歩させるのが面倒な家は、犬を放し飼いにしてたのだ。この頃、血統証付の小型犬を飼っている方が珍しい。否、皆無だった。どこの家庭も中型の雑種犬で、家の中で飼うなど考えられなかった。家族より番犬という位置づけが強かった時代だった。
鎖に繋がれた犬や、庭を厳重に囲って放し飼いしている犬に恐怖心はなかったが、放し飼いの犬は恐怖の対象でしかなかった。なにしろ大勢の子供たちと遊んでるときでも、犬にロックオンされて追いかけられ、飛びつかれるのは私だったからだ。
飼うなら猫がいい、当時はそう思っていた。だがウチの両親は大の猫嫌い。動物を飼うことに憧れていたが、それが何故か、親戚からもらった凶暴なコザクラインコになったのは謎だ。どうせなら、手乗りの可愛いセキセイインコのヒナが欲しかったのに。
家には十年近く生きた金魚もいた。兄が縁日で取ってきた金魚だ。何の設備もなく、梅酒用の瓶でよくぞ長生きしたものだ。
後年、母が魚屋で4匹の金魚セットを買ってきた。何故、魚屋で生きた金魚を売っていたのか、考えるのも怖いが、その金魚たちもかなり長生きした。最終的には、いつも出前に来る寿司屋が、ウチのはいつも早く死んでしまってと嘆いたので、母が寿司屋の奥さんにあげてしまったが。魚屋から寿司屋へ、かなりヘビーな運命を突きつけられた金魚たちのその後は知らない。
私が犬が欲しいと思うようになったきっかけは、動物小説家の戸川幸夫先生著書の「オーロラの下で」がきっかけだった。
当時、小学校三年生だっただろうか、担任の先生が各自で自分の愛読書を持ってきて、教室図書館を作ろうと提案した。このとき私は自分が何の本を持っていったか記憶にないが、ある男子児童が持ってきた「オーロラの下で」を読んで衝撃を受けた。
この話はカナダでの実話を、戸川幸夫先生が脚色したものだったらしいが、私の人生で十指に入る感動名作の児童書は、母に頼んで探して買ってきてもらい、いまも本棚の片隅にある。
このとき以来、私の読書傾向は犬や狼、あるい動物全般を主人公とした物語に偏った。夏の宿題の読書感想文も、教室で図書室の本をどれだけ読んだかのレース式シールの色も、動物シリーズを示す青のシールで占められていた。
もっとも犬を飼うまでには二年の歳月を要した。まず母が、犬を飼うことに猛反対したのだ。家族に犬嫌いはいなかったが、私がインコが死んだぐらいで学校休むほど泣き明かすほどだったから、犬のように家族に近い存在が亡くなれば、手がつけられなくなると考えたのだろう。
そしてもう一つ、母が犬を飼いたくない理由を後に知った。母には子供の頃、可愛がっていた犬がいた。だがある日、鎖をつけずに祖母が散歩していたところ、犬狩りに遭遇し、祖母が「この犬は私の犬です」と言っても聞き入れられず施設に連れて行かれ、すぐさま後を追いかけて施設に愛犬を引き取りに行ったときには、既に殺処分された後だった。このときのトラウマで、母は犬を飼う事を拒んだのである。
だが執念深い私は、毎日のように犬が欲しいと言い続け、ときに母に叱られながらも泣きながら犬が欲しいと訴えた。ついに母が折れたのが、私が犬を欲しがった一年後だった。
しかしこの頃、雌犬を飼っている家は少なかった。近所の可愛い雌犬が子犬を身ごもったと聞いたとき、母は生まれたら是非我が家にと約束を取り付けたのだが、残念ながらその雌犬はフィラリアに侵させており、子犬が生まれる前に亡くなってしまった。
その後も母は、私の知らない間に、子犬探しに奔走したらしい。ちなみに、血統書付きの犬を購入するという選択肢はなかった。そもそもペットショップが近隣にない田舎であり、犬を高額で購入するという発想が理解できなかった時代だった。
一、初代愛犬ジョン
①子犬選び
昭和五十六年の六月のことだった。母は何も言わずに、私を知らない家に連れて行った。この頃の私は知らなかったが、同じ町内会の家だったらしく、母とも顔見知りだった。
そこの家の玄関では、真っ白な雌犬が七匹の子犬を育てていた。まだ目も開かない、ミルクの匂いなする子犬たち。唯一、黒の子犬だけは既に貰い手が決まっていたが、私は飼うなら白い犬が良かったので、特に気にならなかった。それよりも、目の前の六匹の似たような子犬から、どの子を選ぶかが問題だった。
喜びの興奮状態だったこともあり、迷いに迷った。その中で、目に見えない一匹の子犬が、私の手を舐めた。白地に薄い茶色のブチの子犬こそ、我が家の初代愛犬ジョンだった。
一番先に生まれて、兄弟犬の中で一番大きかった子犬。もうこの子しか有り得なかった。結局、私が子犬を決めたのではなく、子犬が私を決めてくれたのだった。
②愛犬、我が家へ
ジョンが生まれたのが六月六日。子犬がウチに来ると決まって以来、我が家は子犬を迎える準備でお祭り騒ぎだった。寡黙な父が、実は大の犬好きで、陰ながら私を応援していたらしい。だが母の逆鱗に触れるのが怖くて、表立って自分も犬が欲しいとは言えなかったのだとか。援護射撃ぐらいしてくれても良かったのにと、子供心ながら思ったものだ。
ともかく、愛犬の命名に難航した。雄なのでどういった名前が良いか、家族で話し合ったり、学校の友達に子犬の名前の相談をした。そして決まったジョンという名前は、母がかつて飼っていた犬の名前だった。
ジョンが家にやってきた日は、今でも鮮明に覚えている。六月二十七日の午後、飼い主さんが母犬の匂いのついたタオルに包んで連れてきてくれたのだ。
いま思うと、目が開いて離乳食も食べられるようになったとはいえ、生後一ヶ月経たないうちに連れてきたのはどうなのだろう?
だが飼い主さんからしてみれば、愛犬と七匹の子犬の世話に、疲れ果てていたのかもしれない。
後々聞いた話だが、結局、飼い主が決まったのは四匹のみで、あとの三匹は保健所で引き取ってもらったらしい。
蛇足だが、子犬を貰いに保健所に申請に行ったことがある。ちょうど黒の雌の子犬が保健所に引き取られたところで、その子を貰えないかと母が交渉したが、子犬の譲渡には規則があるらしく、まず審査に合格しなければ譲渡会に参加できないとのこと。我が家に後日送られてきた結果は、不合格だった。
飼い主さんから、子犬(ジョン)が母の手に渡った瞬間から、母は子犬にメロメロだった。早く私にも抱かせてとせがんでも、離さない。そうこうしているうちに、隣家の小父さんが通りかかり、子犬を抱っこさせてほしいと懇願されて、母は私よりも先に小父さんにジョンを抱っこさせたのだ。近所付き合いのためとはいえ、あのときは悔しかった。
私がやっと子犬を抱っこできたのは、母と一緒に近所の商店に牛乳を買いに行ったときだった。やっとジョンを抱っこできた感動で、嬉し泣きした。
現在では人間用の牛乳を犬に与えるのは駄目と言われているが、当時は牛乳で煮込んだご飯を冷ましたものが、子犬の離乳食だった。
この日が土曜日だったこともあり、父も在宅していて、兄も含めて、家族で子犬争奪戦が繰り広げられた。一番早く生まれて一番大きかった子犬だったからだろうか、居間の片隅に作った寝床で、夜泣きもせずに、最初から我が家に居たかのようなマイペースを発揮していた。
散歩させるにはもうしばらく待ったほうが良いということで、家の中で自由にさせていた。意外にも、兄も犬が好きだったらしく、食卓の周りで駆けっこしたり、抱っこしたりしていたが、乳歯が生え変わる頃になるとやたら噛むようになっていたので、その頃は一時期、兄は子犬から距離を置いていた。
それが今後のジョンの家族序列に影響したのかもしれない。永久歯に生え変わった頃には、抱っここそ許していたものの、散歩の主導権は完全に犬のものとなり、中型犬ばりに成長した飼い犬を兄は制御できず、庭で遊ぶぐらいしか出来なくなった。その遊びさえ、ジョンはボール遊びがあまり好きでなく、どんな犬用のオモチャも興味を示さなかった。ジョンは寝るのが好きで、庭で遊ぶことがあるとしたら、穴を掘ることぐらいだっただろうか?
それも仕方がない。あの子が一番好きだったのは散歩だったのだから。
散歩が出来る様になる前に、ジステンバーをはじめとする混合ワクチンを打つ必要があった。普段は滅多に泣かないジョンが、初めてキャインと悲痛な声を上げたのはこのときが初めてだっただろう。
獣医に連れて行くのと、朝と夕方の散歩は私の担当になっていたのだが…
当時、父は会社の担当医から、もっと痩せるように指導されていた。今までは土日に私を犬代わりに連れて散歩していたが、念願の犬が来たことで、父は帰宅後も率先して散歩に行くようになり、土日祝日ともなると、家族が心配するほど長い散歩に出かけた。近くの広場は一部分だけ整備されていたが、大半がススキ野原。いまでは立派な巨大住宅団地と化した小高い山も、当時は鬱蒼とした森が広がっていた。私も散歩中にヘビやキジに出くわすことがあったが、父は狸や狐も見かけていたらしい。ただし、当家歴代三匹の犬のなかで一番温厚だったジョンは、全く野性の生き物には興味を示さず、ただひたすら歩くことに喜びを感じていた。
おかげで父が痩せて標準体重になったのは良いが、私が散歩での歩き方を仕込んだにも関わらず、父が自由奔放にジョンの思うがまま走らせたり歩かせていたせいで(リード付き)、ジョンは自らが散歩をリードするものだと思い込んでしまい、力いっぱい引っ張りながら斜めになって歩く。そのため近所の人だけでなく、見知らぬ人からも「この犬、歩き方がおかしくない?」とたびたび言われるようになった。
あの個性的な歩き方と頻繁に出かける散歩のせいで、あそこの一家は犬馬鹿だと町内以外でも評判となっていたようだ。我が家の名前は知らなくても、「いつも散歩しているお父さんの家の子よね」、と散歩中に知らない人から声をかけられるのも珍しくなかった。
③偏食犬
そして父は、最大にやらかした。
当時の飼い犬の食事は、今では考えられないが、味噌汁かけご飯が主流だった。そこへ、たまに肉を少々入れるのが、当時の犬の餌だった。あるとき父は、すき焼きをジョンに与えた。
それまで好き嫌いなく食べていたジョンは、このとき以来、すき焼きの味を覚えてしまい、味噌汁かけご飯には見向きもしなくなった。
当時はまだ牛肉が自由化されておらず、わざわざ車で牛肉が一番安く買えるスーパーへ出向き、父は犬のために牛肉を購入。家族は安い豚肉と鶏肉を食べるという、「お犬様」が爆誕したのだった。
また、近所には美味いと評判の揚げ物屋があって、そこのメンチカツがジョンの大好物だった。その味を覚えさせたのも、散歩中の父だった。以来、両親は買い物に出かけると、必ずメンチカツを買ってきて、ジョンに与えていた。当時の両親いわく、メンチカツ売り場を通ると、必ずジョンの恨めしげな顔が思い浮かんだと言っていた。ジョンのテレパシーだったとしたら、相当な能力者だったのかもしれない。
ジョンのメンチカツの食べ方が、また個性的だった。先ずはメンチカツを咥えて涎をダラダラ流す。それから衣の部分を器用にむしって食べ、最後に肉の塊をチビリチビリと食べるのだった。今では玉ねぎが犬にとって毒ということが常識化しているが、あのメンチカツの食べ方をスマホ録画にでも残していたら、間違えなくYouTubeで話題になっていたことだろう。
ジョンの食べ物戦歴は尽きない。まず母が、ジョンのために牛肉を炒めたり、野菜と一緒に煮込んだりしていたのだが、三日同じ調理法が続くと飽きてしまい、ジョンのためにわざわざ鮭を焼いて骨を取って与えていた。ジョンは、自分が食べたくないと思ったら絶対に食べない頑固さがあり、残したご飯を庭の一画に捨てて置くと、雀が食べに来るだけでなく、近所の放し飼いされた犬が食べに来ることが多々有った。
あるとき近所の人から、「ウチのワンちゃんは食が細くて」と相談されたが、私は何も言えなかった。そこの飼い犬は、ジョンの食べ残しを食べに来る常連犬だったからである。
また、ある日には、いつもは繋がれていて放し飼いされてなかったビーグル犬が、首輪が抜けて自由になるなり、我が家へやってきた。ジョンとは顔見知りだったためか、ビーグル犬が庭に入ってきても、ジョンは怒らなかった。その犬は玄関脇の松の木の下を陣取って動かなかった。たまたま訪れた近所の人が、「また犬を飼ったのですか?」と尋ねるほど、この犬はジョン以上に忠犬ぶりを発揮していた。来客があると、吠えまくっていたのだ。だが母が、「おだまり」というと吠えるのを止める。それほど母とこのビーグル犬とは交流がなかったのに、賢い子だった。
この家の飼い主は夜にならないと帰宅しないため、夕方の散歩の後の餌やりも、ビーグル犬の分も用意した。ちなみに散歩には同行せず、相変わらず松の木の下から動かなかった。訪問者である犬は、自分の分の餌を食べ終わると、まだ半分しか食べていなかったジョンの餌まで食べ始めた。同じ量を与えていたにも関わらす、である。ジョンも諦めて、その犬に餌を譲っていた。この犬はジョンよりも小さい。だが旺盛すぎる食欲に、皆が呆れた。食べ終えると、松の木の下に戻って寝転がった。
夜、飼い主が戻ってきたので、「お宅の飼い犬が放れて、我が家に居るのですが」と伝えたところ、すぐに迎えにやってきた。しかし飼い主の小父さんが首輪とリードをつけて連れ帰ろうとしても、ビーグル犬は嫌がって帰ろうとしない。四苦八苦の末になんとか連れ帰ったが、ビーグル犬は最後まで引きずられながら帰宅した。後日談となるが、暫くいつものドッグフードを食べなくなったらしい。「すいません、ウチの餌に味をしめてしまったのですね」とは、口が裂けても言えなかった。
ジョンは父に一番懐いていたせいか、食べ物の好みも普通とは違っていた。父が酔っ払って帰宅する時は、家族にケーキを買ってくるのだが、あるとき犬にシュークリームを与えたときには「勿体ない!」と皆で嘆いた。だがジョンはシュークリームを美味しそうに完食し、以来、父は飲み会帰りにはジョンの分のケーキも買ってくるようになった。
また、日本酒好きな父の影響で、多少だが酒を飲んだ。父以外の家族が臭いと言って近づくことさえ嫌がったクサヤも、ジョンは食べた。
父はジョンをますます溺愛して、毎日のおやつに人間用のチーズを与えていたが、次第に安いチーズは飽きてしまい、三角の六Pチーズしか食べなくなった。
ある時期、父は色んなチーズに凝った時期があった。匂いのキツくないチーズは家族にも好評だったが、ブルーチーズの臭さだけはさすがの父も辟易とした。そこでジョンに与えてみたが、ジョンも他のチーズは喜んで食べていたのに、ブルーチーズだけは臭いだけで逃げてしまった。結局、そのブルーチーズは庭の肥やしとなるべく埋められた。
都心に住む祖父が、月に何度か我が家に泊まりに来ていた。都心の狭い家には庭がなく、植物好きの祖父は自宅の屋根の上に温室付きのベランダを作って、様々な植物を鉢植えで育てていた。だがやはり庭で育てるのが一番なようで、我が家の庭は、私が物心ついた頃から、祖父好みに改造されていた。その手入れのために、たびたび郊外の我が家まで遊びに来ていたのである。
ジョンは祖父に懐くわけではなかったが、テリトリーに入るのは認めていた。余談だが、年に数回、イトコ一家が遊びに来た際には、ジョンはテリトリーである庭に入るのを認めなかった。叔父は動物に嫌われたことがないのを常日頃自慢していたが、ジョンは自分を触らせることさえ許さなかった。それが叔父には、猛烈にショックだったらしい。ちなみにジョンの対応は、当家三代の中ではまだ温厚な方だった。二代目は牙を剥いて威嚇し、三代目ともなると猛烈に吠えかかって、近寄ろうとすれば噛みつく気満々だったからだ。
ともかく、ジョンは祖父を認めていた。ある日、私が間食にタクワンを食べていた。当時の私は、子供ながらに甘いものよりも酒の肴になるような塩っぱいものが好きで、三時のおやつも、サンドウィッチやおにぎりが主流だった。
ジョンが窓辺から、私がタクワンを食べているのをジーっと見つめていたので、一切れをジョンに与えた。それを見た祖父が、「犬がタクワンなんて食べるはずないだろう」と馬鹿にしていたが、ジョンはタクワンをポリポリといい音を立てて食べた。それを見て祖父は、自分の抹茶のお供に切った高級羊羹の一切れをジョンに与えたのだが、ジョンは「ふん!」という声が聞こえそうなほどそっぽ向いて食べなかったため、祖父は「なんだ、この犬は!」と怒っていたことがある。
祖父は無計画に花木を植えたため、十年と経たないうちに、庭は森と化していた。クワガタが来る庭ってどうなんだろうねぇと、家族で嘆息したのもいい思い出だ。
ともかく平屋の屋根より大きくなった庭木の手入れは、さすがに祖父には危険なので、プロにお任せすることになった。そのとき訪れた二人の庭師は大の犬好きだった。ジョンも初対面ながら、この二人の庭師の存在を認めた。
庭師は昼飯休憩に、自らのお弁当からおかずをジョンに与えた。しかしジョンは例のごとく「ふん!」と横を向いて食べなかった。庭師の二人は「贅沢な犬だなぁ」と苦笑していたが、そこで話は終わらなかった。
庭の手入れは一日では終わらず、二日目も同じ庭師二人がやってきた。そのうちの一人が「ご馳走だぞ」と、目の前でコンビーフの缶を開けてくれたのだが、ジョンはまたしても「ふん!」と横を向いて匂いを嗅ぎさえしなかった。
温厚な庭師もさすがに「なんだ、この犬は!」と怒ったが、母は「すいません、偏食な犬なもので」と謝るしかなかった。
余談だが、ジョンは缶入りドッグフードが大嫌いだった。コンビーフは同じ系統の匂いがしたので、嫌だったのだろう。あのコンビーフ、結局はどうなったのだっけな?
ジョンに、サンダル噛りを躾けることは出来なかった。普段は手を出さない、掃き出し窓のサンダルだが、何か気に入らないことがあるとサンダルを齧りだす。当時はサンダルを売る店が近所になくて、ボロボロにされて使い物にならなくなると、父の休みとなる日まで苦労した。車でなければ、サンダルを買える場所には行けなかったのだ。
当時、我が家だけでなく、外への出入りやご近所さんがお喋りに来る時は、掃き出し窓が一般的で、玄関は家族が出かける際に靴が必要な時、あるいは重要なお客様用といった感じだった。
ストレスが溜まるなら、犬用ガムでも与えてみようと、兄がわざわざ街までバスに乗って、大きなガムを買ってきた。ジョンは与えられるなり、それに齧りついた。顎の強さは、我が家の愛犬の中で一番強かった。同時に、飽きっぽさも三匹のなかで一番だった。ある程度齧ると、土に埋める。そして自ら掘り返すことはない。たまに忘れた頃、庭の雑草取りをしていた祖父や母が、原型を留めないドロドロの犬用ガムが出てきて悲鳴をあげることが何度かあった。
父が大きすぎるから飽きるのだと、小型犬用のガムを買ってきた。その量だと食べきるのに丁度よかった。しかしたまに、家族が見てない時に飽きて埋めることもたびたびあった。
母は、買い物の時に大きな豚の骨を買ってきて、それを塩ゆでして与えることもあった。ガムよりも熱心に噛んでいたが、大きすぎるためか飽きて埋める。それが忘れた頃に掘り起こされてギョッとするの繰り返しだった。
サンダル防衛対策の犬用ガムだったが、やはりサンダルを齧るのが楽しいようで、忘れた頃にボロボロにされて、家族は無言となるしかなかった。噛んでる現場に出くわしたときなら怒ることも出来たが、知能犯で、人の見ていない時にやらかすので、怒るタイミングを逸していたのである。
そういえば、ジョンは庭にモノを埋める達人(達犬?)だった。自分のテリトリーを汚したくないので、普段は小用こそ小屋の周囲ではない別の場所(庭)でたまにしていたが、糞は家でしなかった。それでもごくたまに、散歩まで耐えられなくてすることがある。大抵は夜中だ。ジョンを繫ぐ鎖は2つを連携して、行動範囲は割と広い。物置の前には砂利が敷いてあり、そこに糞をすると、見た目では分からないほど器用に糞を埋めるため、朝一番の散歩をする者が犠牲となる。物置には、散歩用リードやフンの始末をするためのビニールやスコップが入った散歩バッグが置いてあるのだ。物置を開けるために、たまたま埋められた糞を踏む犠牲者は私か父。どちらもムニュッとした感触とともに立ち上がる臭いに、悲鳴を上げずにはいられなかった。
④特技?
ジョンにはお座りとお手とおかわりしか躾けることが出来なかった。しかしジョンは意外な特技を発揮する。客人が来ると、客人が玄関前のチャイムを鳴らす前に吠えて報せるのだ。また、焼き芋屋や竿竹屋の販売車が通ると、良い声で遠吠えしていた。遠吠えは本能ではなく、習うものだと後で知ったが、確かに当時の住宅団地で飼われているのは外犬ばかりだったので、あちこちから遠吠えが聞こえていた。
そしてジョンは、父が大好きだった。当時、まだ働いていた父が自家用車で帰ってくる時、住宅団地に入ってくる頃から興奮してクンクン甘えた声を出していたので、家族は「お父さん、帰ってくるね」と前もって分かったものだ。
ジョンはたまに、父が好きすぎて、帰宅時や散歩へ行くときにオシッコを漏らすほどだった。父は「うわーっ」と叫びつつも、嬉しそうにしていた。お漏らしするほど喜ぶ相手は、父だけだったからである。
いや、例外は有った。一年に一度の狂犬病予防注射接種。当時は動物病院がまだ少なかったため、指定日指定時間での地域集団接種が行われていた。順番待ちの間に、パニックになる犬たち。その光景に恐怖をいだいたジョンは、獣医に噛みつくことこそしなかったが、順番になるとブルブル震えて、お漏らしで私の靴を濡らしていた。
私が夕方の散歩をしているとき、たまに父の会社からの帰宅と重なることがある。するとあと少しの距離なのに、父は車を停めて、助手席のドアを開けると、それを合図にジョンは車に乗り込む。助手席がお気に入りなのは良いが、当然のように座席に座って得意げなジョンを、私は足元に引きずりおろして助手席に座る。歩いて三分ほどの距離で車に乗るのもなんだが、自宅到着しても、車から下りたがらない。すると犬に甘い父は、ドアを閉めろと私に指示して、近所をドライブする。ある程度車に乗ると満足するのか、ドライブ後は素直にジョンも下車する。ちなみに母と兄は、ジョンが助手席を使うようになってから、後部座席に座るようにしていた。ジョンが降りたあと、軽く拭き掃除はしても、犬が座った座席というのに抵抗があったらしい。
散歩中に、帰宅途中の父と遭遇しないのが一番だが、相思相愛の父とジョンは、私より早く互いを察知するために、見つかったらお手上げだった。コッチは早く帰って休みたいのに(泣)。
祖父は選定に度々来るが、毎日の水やりは私か母だった。庭の大半は祖父が樹木を植えていたが、猫の額ほどの区画に自分用の花壇を作って良い許可が下りたので、夏場はベゴニア、秋はチューリップの球根を植えていた。腐葉土をたっぷり混ぜたフカフカの土は、ジョンにとって格好の昼寝場所に思えたらしい。どれだけ園芸用の柵を立てて防いでも、どこからか器用に入り込んでは土の上で寝転ぶので、早春に芽を出すチューリップは潰され、半分は開花に至らなかった。
犬の話から脱線するが、私は父方の祖父母が苦手だった。祖父が兄を溺愛してたのもあるが、明治生まれだったこともあり、女の子らしくない言動の私に、いつも小言が絶えなかったのだ。まあ、コッチが言い返すから余計に口論となるのだが。私の友人がたまたま遊びに来た時、ジーンズを履いていた友人に、「女の子なのにズボンとは」と小言を言って、友人が怒って帰ってしまったこともある。だがお祖父さん、この庭を含む近所の草深い広場で遊んだり散歩するには、スカートだと格好の蚊の餌食になるんです。蚊ならまだマシで、ブヨに刺された日には私がアレルギー体質のせいもあってか、太腿なとは全体に腫れ上がり、痒みも酷かった。当時は医者に処方された塗り薬も今ほど効能が強くなかったから、1週間ぐらい痒みに耐えねばならなかったならなかったわけで。田舎暮らしに、スカートで遊ぶのは、夏場は特にリスクがあったというわけです。
そんな祖父だったが、私が花、特にバラに興味を持ちはめると、最初はミニバラを、晩年には大輪の深紅のバラの苗をくれた。大輪のバラは丈夫で沢山花をつけていたが、後年、建て替えの際に鉢上げしたら枯れてしまった。祖父の不器用な優しさの形見だったあのバラに似たバラを何度か購入したが、所詮は身代わり。祖父が私にくれた数少ないプレゼントの代かえにはならない。本物のあのバラが咲き誇っているのをもう一度見たい、叶わぬ夢であるけれど。
犬を飼う際に、両親から「これからは泊りがけの旅行は行けなくなるぞ」と念を押された。車酔いが酷いせいか、別に旅行はさほど好きではなかったので、私は泊りがけ旅行よりも犬の方が良かった。旅行好きの兄はショックだったようだが、ちょうどイトコが住んでいたのが海水浴場からさほど遠い場所ではなかったため、夏になるとイトコ宅に泊りがけで遊びに行っては、真っ黒になって帰ってきた。
旅行は行かない、そう宣言していたはずだったが、ジョンを飼っているときに一度だけ泊りがけ家族旅行に行ったことがある。飛騨高山だった。父は出張で何度か飛騨高山へ行っていたが、地酒の名所である飛騨高山で仕事中に酒蔵巡りするわけにはいかず、どうしてもプライベートで行きたかったらしい。
さすがに犬を連れていける距離ではないため(イトコの家には連れて行ったことがある)、ペットホテルも経営してた馴染の獣医に預けることになった。二泊三日の飛騨高山旅行帰りにジョンを迎えに行ったら、ジョンは私に飛びついてブルブル震えていた。車に乗せた際にも、私の膝の上で震えていて、よっぽど寂しかったのだろうなと、胸が痛かった。もっとも私自身、車酔いの思い出の方が強くて、何をしに飛騨高山まで行ったのか、よく覚えていないのだが。
結局、ジョンは旅行から帰った後、数日間体調を崩したため、もう二度と旅行に行くのはやめようということになった。
⑤黄昏れ
元気だった祖父が亡くなったのは、何年前になるだろうか。さすがに家族でお通夜と葬式に行かねばならず、かと言ってジョンを獣医に預けるのは気が引けたので、冬場ということもあり、親しい近所の方に、散歩はしなくてもいいから、水と餌だけ与えて欲しいとお願いして、祖父のお通夜と葬儀に参列した。
自分語りをするのは嫌だが、これだけは書かないと話が進まない。当時の私は、体調不良の際に無理して学校合宿に参加したのがきっかけで、自律神経失調症から、二度目の拒食症を患っていた。たまに開け放った自室で本を読んでいた私に、父がギョッとした顔で「おい、具合は大丈夫か」と尋ねてくることがあった。顔色が真っ青に見えたらしい。確かに最悪の時は、近所を散歩するどころか、トイレに行くにも立ち眩みを起こしていた。私の二度目の拒食症が寛解したのが、友人からの結婚式招待状だった。まだこの頃は精神科クリニックに通うことに偏見があり、両親も反対した。だが私は、皆が自立してなかで、家に籠もって無意味に生きてる自分にいい加減、嫌気が差していた。それで自力で電話帳から通える精神科クリニックを探し出し(当時はスマホもまだ一般的ではなかった)、受診した。おかげで友人の結婚式には、食事こそあまり食べられないかったが、参加はすることが出来た。外食が出きるまで回復するのは、母が病気入院するまで時間がかかったが。
先だっての飛騨高山旅行は、学校給食を無理やり担任に食べさせられたのが原因で、最初の拒食症を患い、このときは小学校を卒業するまで治らなかった。飛騨高山旅行のときに食べることが出来たのは、名物のみたらし団子と五平餅半分程度で、宿の料理はほとんど食べられなかったし、車酔いが酷くて観光もろくに行けず、宿で仮眠していたので旅先の思い出がないというのが真相だ。
祖父の通夜、葬儀の際もろくに食事が出来ず、家族は葬式終了後も、親戚と共に引き続き残ることになったが、私だけは一足先に電車で帰宅することになった。ジョンが心配だったのと、私が二日間ほぼ絶食状態だったので、両親が心配して帰宅しろと命じたからである。私はバスや乗用車での長時間移動は車酔いは激しいが、電車は大丈夫だったので、何とか帰宅することが出来た。本当は母が付き添って帰宅すると主張していたが、長男の嫁の立場では親族の手前、帰るわけにも行かず、心配しながら私を送り出した。
私は駅でお弁当と、ジョンの好物であるメンチカツを買って帰宅した。帰宅するなりジョンが飛びついてきて、日頃私には鳴かないジョンが、クンクンと甘えた声を出して、足にしがみついて離れなかった。
家族がこの日帰宅しないことをいいことに、私はジョンを玄関に入れて、ジョンと一緒に晩ごはんを食べた。どうやらジョンも家族が留守のショックで、何も食べていなかったらしい。まずメンチカツを食べた後、母が作り置きしていたジョン用の牛肉煮込みを温めてご飯に混ぜて与えたら、ガツガツ食べていた。私も二度目の拒食症になってから初めて、お弁当を完食した。
食事を終えて、懐中電灯片手に軽く散歩して帰宅して間もなく、母から電話があった。かなり心配していたようだったが、私の声に元気が蘇っていたのに、安堵していた。母いわく、「祖父宅から帰るときのアンタは、いまにも倒れそうで、家までたどり着けるのか心配だった」とのことだった。ジョンも元気だと伝えたら、父も安心したらしい。娘より犬が大切な父、まあ私もジョンファーストだったから分からないでもないけれど。
祖父が亡くなった後、祖母を引き取るか否かの話し合いが何度も行われた。正直、我が家は平屋で狭く、そして祖母も通院や、なにより都心部での生活は徒歩圏内で何でも揃い、区の保障も充実していて、不便な郊外に移住するのは躊躇いが合った。そこで真冬の間だけ、我が家で生活することになったのだが、祖母の部屋を確保するために、兄が近所のワンルームアパートに引っ越すことになった。
ちょうどその頃、風呂場の隣の私の部屋の床が、二度目の変形状態となって住める状況でなくなり、プレハブを建ててそこで暫く暮らした。そしてあるとき唐突に、父は家を建て直すことを決意した。最初は冗談だろうと思ったが、本気だった。
だが懸念は、ジョンだった。立て直しが終わるまで、犬を飼える借家探しが難航したのだ。そしてこの頃から、ジョンの容態が徐々に悪くなっていた。原因はフィラリアによる心臓病、近所の外飼の犬達は皆、フィラリアが原因で亡くなっていた。私たちはフィラリアを甘く見ていたことを後悔したが、時が巻き戻るわけがない。
散歩好きは相変わらずだったが、段々と歩ける距離が短くなっていき、最終的には帰路は抱きかかえないと連れて帰れない状態だった。
こうなると、腰が悪い父では散歩でジョンを抱えて帰るわけにはいかず、散歩は私だけの担当となった。ジョンの母犬や兄弟はスピッツの血が強かったのか、それほど大きくならなかったが、ジョンは獣医からシェパードの血でも入ってるのではないかと言われるほど大きく、元気な頃は二十キロ前後あったと思われる。病が悪化して多少痩せたが、それでも十五キロ以上は確実にあっただろう。
何とか自宅近辺に、犬が飼える借家が見つかった。正確にはマンションで、本来なら犬の飼育が禁止なのだが、建て替えが終わる短期間ということで、一階の部屋を借りる許可が下りたのだ。犬は当然、庭ということになる。
自宅からさほど離れていない場所だったこと、徒歩で獣医に行ける範囲だったので、通院もなんとか可能だった。ジョンに薬を飲ますのは昔から大変で、粉薬を水に溶かしても、錠剤をメンチカツに仕込んでも見破って、絶対に口にしない。
なので、私がジョンの片頬を引っ張って薬を喉の奥に押し込み、ゴクンと飲み干すまで口を押さえる選択肢しかなかった。これが出来たのは私だけで、両親がやってもペッと吐き出してしまうので無理だった。何をされても噛まなかったのは、ジョンの温厚な性格ゆえだろう。
借家ぐらしが始まって、ジョンの容態は急激に悪くなった。慣れない場所のせいもあったのかもしれない。ついに立つこともままならなくなったため、玄関に段ボールで作った寝床で寝かせることにした。それでも毎日散歩には行きたがるので、私が抱っこして、休み休み散歩させていた。ジョンの体重に、私の両腕が持続しなかったためである。好き嫌いが激しかったが旺盛だった食欲も、徐々に落ちてきた。
そして七月九日。この日は母が焼き豚を、父がビーフジャーキーを与えた。食べ終えるとしきりに外へ出たがり、マンションの前の階段に三十分ほどジョンを抱っこして座っていた。
暑さが増してきたので、家に入り玄関の寝床に寝かせて、私は汗を流すためシャワーを浴びに行った。そして浴室から出てきたとき、母が「ジョンが息をしていない!」と叫んだ。
私と父は慌ててジョンのもとへ駆け寄ったが、すでにジョンは亡くなっていた。ほんの数十分目を離した間に、ジョンは旅立ってしまったのである。私は声を上げて泣いた。父は自室に籠もった。恐らく涙を見せないためだろう。母も泣いていた。
十四年一ヶ月の生涯を、ジョンは自宅でない借家で終えた。
ジョンが亡くなったその夜から3日間、ジョンは私のところへやってきた。初日は借家の私の部屋の入口にチョコンと座っていた。一番元気だった頃の姿だった。二日目も同じく、自室の前で座ってコチラを見ていた。そして三日目、ジョンは私の寝床に入ってきて私の顔を舐めると、ションはこの世から本当に旅立った。
ジョンがこの世を去ってから三日後、近隣の動物霊園で火葬された。用意された骨壺に入り切らないほど太い骨で、家族で毎日チーズを食べていたお陰だねだと呑気なことを言っていたが、霊園の職員さんは必死になって骨を骨壺にギュウギュウと押し込め、何とか入った。それから真っ白な骨壺に入ったジョンの骨と共に借家に帰った。
そして四十九日経ってから、再び骨壺を抱えて動物霊園を再訪した。動物共同墓地に埋葬するためである。埋葬の日は月ごとに指定されているため、私たちがジョンの納骨を見ることは出来ない。だが、それで良かったのだろう。納骨のシーンなど見たら、家族で再び号泣することになっただろうから。
二、二代目愛犬バナナ
①二代目は赤毛のアン?
十四年間を共にしたジョンとの別れは、家族に暗い影を落とした。いまで言うところのペットロスだが、特に父の落ち込みようは酷かった。
建て替えなんてしなければ良かった、もっといい病院に受診していれば、フィラリアの薬をキチンと飲ませていればと、家族は後悔の念ばかりを口にした。
そんななかでも唯一、「ジョンの食への執念深さは凄かったね。亡くなる三十分前に、根性で焼き豚とビーフジャーキー食べたのだから」という話題がでると、両親は「まさかお父さんが、ビーフジャーキー与えていると思ってないし」、「母さんこそ、大事に食べてた焼き豚をあげてるなんて、思わないじゃないか」と話が盛り上がった。
ジョンの末期の水ならぬ末期の焼き豚は、借家近くの商店自慢のお手製で、値段は量産品に比べると高いが、美味しいと評判だった。そしてメンチカツも、家族はもちろん、ジョンも幼少期から虜になっていたものと同じ味だった。昔あった商店はスーパーが出来たことでかなり前に潰れてしまい、あのメンチカツと同じ味にずっと巡り合うことが出来なかった。それが、借家近くの自家製メンチカツが、偶然というか奇跡的に当時の商店と同じ味だったので、ジョンのために両親どちらかが毎日のように買いに行って与えていた。この店も、数年後に移転してきたスーパーに淘汰されて消えていくが、それまではジョンとの思い出を偲んで、たびたび買いに行っては食卓に上がっていた。あのメンチカツと同じ作り方の店は、以来、見つかっていない。
借家の完成を待ちわびていた家族は、別の意味で早く自宅に戻りたがった。ジョンが亡くなった借家にいるのが、あまりに辛かったからである。
秋、自宅の建て替えがようやく終わり、私達は家に戻った。今度の家は二階建てで部屋数も多かったので、祖母がきても部屋が足りないということもなく、兄もアパートを引き払って自宅に戻った。借家暮らしのときも、仕事が終わると夕飯を食べにきていたが、直にアパートに戻るのが面倒くさいと、広いリビングに布団を敷いて寝起きするようになった。このとき兄の借りていた部屋は、完全に物置としてしか機能していなかった。
新しい自宅への引っ越しを終えて、まず行動開始したのが、二代目の子犬を探すことだった。あれほど散歩好きだった父は、ジョンが亡くなって以来、ほとんど家にこもりきりになっていて、また犬が欲しいと口癖のように言うようになった。母も兄も同様だった。私は新たな犬を迎えるのに賛成している反面、ジョンを喪った衝撃の強さに、再びあの経験をしなければならないかという恐れもあった。
十年一昔、この頃になると放し飼いの犬は居なくなり、去勢避妊手術も進んでいたので、子犬の貰い先は見つからなかった。父は、市街地に新たにできたペットショップを何軒か巡ったが、ピンと来る子犬は居なかった。当時の主流はゴールデンレトリーバー、小型犬となるとプードルやシーズー、チワワなど、自宅で飼うには大きすぎるか、散歩には物足りない小型犬しかいなかった。
そして父は、退職後初めて、会社の同僚さんに連絡を取った。この同僚さんの息子は別の県で獣医をやっているとのことで、もし保護犬がいたら譲ってほしいと依頼したのだ。条件は「スピッツか柴犬系統の雑種で、雄の子犬」だった。
しばらくして、同僚さんから連絡があった。「柴犬系統の雑種が保護されたので、もしよければ飼わないか」と。ただしこの子犬には問題が有った。河川敷で捨てられていたのを保護されたのだが、左後ろ足が折れており、手術でボルトを入れて接合したが、歩くことに問題はないものの、おそらく生涯足を引きずる事になるだろうとのこと。
父は二つ返事で、この犬を引き取ることに決めた。子犬が来るのは、骨が完全に固まった後ということになった。後日送られてきた写真は、「本当に雑種?」と思えるほど柴犬の子犬そのものだった。仮名がバナナとなっていて、飼うときに別の名前をつければいいと同僚さんは言っていたらしいが、ウチに来る頃には既に名前が定着してるだろうから、そのままで構わないということになった。
しかしバナナ。誰がつけたか知らないが、最初にその名前を聞いたときも家族で大笑いしたし、我が家にバナナが来てからも、近所の人や獣医さんから「斬新な名前ですね」と必ず失笑された。
何故か、バナナが我が家に来た日を記憶していない。恐らく物覚えの良かった兄なら、何月何日何時頃まで答えられただろうが、残念ながら兄にそれを聞くことは二度と出来ない。
ただ十一月の下旬頃だったと思う。寒さが増してきたので、春まで玄関で飼うことが決まっていたからだ。喘息持ちの祖母は難色を示していたが、充分な毛の手入れをすることを条件に、受け入れさせた。と言うか、苦労して迎えることになった犬を邪険に扱うなど、家族一同が許さなかったのだ。
父が車で二代目愛犬を迎えに、同じ市内に住む同僚さん宅へ迎えに行った。子犬はまず県外の息子さんから同僚さん宅へ連れて行かれ、そして父が迎えに行く手筈となっていたのだ。
私と母は、子犬(既に中犬)を迎えるための準備をしていた。どのぐらい足の障害が残っているのか懸念もあったが、手に負えないほどヤンチャですという言葉に、一抹の不安を覚えた。
だが父が連れ帰った初対面の子犬(青年犬)は、驚くほど大人しかった。それよりも仰天したのが、この子犬が雌犬だったことだった。
このとき私達の脳裏に、カナダの作家エリザベス・モンゴメリー原作の名作「赤毛のアン」が過った。当時のテレビ名作劇場は、アンの視点から見ていた。だが家業である農業を手伝えるカナダ人の男の子を孤児院から引き取ることを希望していたクスバート兄妹のもとへ、やってきたのは痩せぎすな赤毛の女の子。初対面のアンにマリラが仰天するシーンに、期待に胸を膨らませたアンの絶望が可哀想でマリラに憤ったものだが、実際にマリラの立場になってみると絶句するしかなかったかもしれない。
もう少し子犬が幼かったら、アンという名に改名させていたところだろう。
ただ可愛らしい若犬だったので、私達はすぐにメロメロたなった。保護先の獣医さんで混合ワクチン接種は受けていたので、すぐにでも散歩に連れ出せる状態だった。十一月末なので、フィラリアの薬を投与する必要もない。同僚さんの息子さん獣医からの伝言で、春の狂犬病予防注射のときにでも、フィラリアの飲み薬を購入すればよいとのことだった。
②性格
バナナは、自宅に来た夜も夜泣きせず、ウンともスンとも鳴かなかったので、もしかして声にも障害があるのではと懸念していたが、二日ぐらいして慣れてくるとクンクンと甘える声を出すようになった。恐らく慣れない場所を転々とした緊張と疲労で、鳴く気力もなかったのだろう。
その割に餌は、我が家到着日からガツガツ食べていたが。
翌朝、父はジョンが亡くなって以来、初めての犬の散歩に出かけた。まだ来て間もないから、長距離は駄目だと念押ししたので三十分ほどで帰ってきたが、父の感想は「犬の散歩って、こんなに楽しくて楽だったのだな」だった。
後ろ足の後遺症は、思ったほど悪くなかった。ただスキップするような足取りなので、他人から見ると「随分と面白い歩き方をする犬ね」と言われたりもしたが。
父が、散歩が楽だったというのは、実際に私も散歩してみて納得した。どうやら獣医さんでキチンと躾けられていたらしく、バナナはこちらをニコニコ見上げながら、歩調を合わせて歩いたのだ。ジョンとの散歩は力比べだっただけに、やはり躾は大事だなと実感した。
手が付けられないほどのヤンチャという話だったが、私達家族にしてみれば、一年未満の子犬なんてこれぐらい好奇心旺盛なのは普通だろうという感覚だった。むしろ子犬時代のジョンより大人しいぐらいだった。まあ、ジョン同様、サンダルは毎回ボロボロに囓られていたが、歯の生え変わりやストレス発散の意味もあるのだから、特に気にもとめなかった。
雌犬ながら、バナナはジョンよりも気性が荒かった。家族には従順で愛らしさの権化だったが、散歩中に他所の犬たちが喧嘩を売ってきても、ジョンなら家族の背中に隠れて怯えていたが、バナナは真っ向から立ち向かおうとして、家族を慌てさせたものである。
バナナが最も敵視する相手、それは猫だった。ジョンは野良猫でも飼い猫でも、庭を横切っても無視していたが、バナナは容赦しなかった。家を建て替えてから、犬を放すのに適した庭と塀になったため、家族の目が届くときは基本、放し飼いだった。もっとも、家族が家に入ったときは、もっぱら夏は北側のキッチンドアの網戸の前で、冬場は南側のリビング前の縁台に寝そべって、家族に姿が見えるようアピールしていたが。
バナナが猫を追いかけ始めると、これまた猫嫌いの母が箒をもって飛び出し、猫を庭から追い出す。猫を追い出した後のバナナと母は、清々しい顔で互いを見つめ合った。しかし真向かいのお宅が飼う猫をバナナと母が追い回していたところを、猫の飼い主の小母さんに見られたときには、何とも気まずい空気が流れていた。
バナナは何でもよく食べた。基本の餌は、カリカリドッグフードにウェットタイプの犬用缶詰を混ぜたものか、キャベツかレタスを肉と一緒に煮込んでご飯にかけたもの。この頃には、犬に塩分過多は毒であり、玉ねぎはショック死を招くこともあることが常識となってきたので、手作りの餌の時は野菜がしなる程度の塩分でしか煮込まなかった。
父はジョンの時と変わらず、犬用のお菓子を大量買いしていた。散歩の時に与えたり、おやつで与えたり。ズボンのポケットに直接入れるものだから、たまに母がポケット確認せずに洗濯したときには、シナシナのジャーキーやクッキーが出てきた。母は父に何度も「ポケットに直接、オヤツを入れないでくださいよ」と文句を言っていたが、オヤツ入れの小さくて透明なポーチを買ってきても父は「餌を出すのが面倒だ」と言って、結局ポケットに直接オヤツを入れるのをやめなかった。
食事に不足はなかったはず。だがジョンよりも小柄にも関わらず、餌に対する執着心は物凄かった。物置を器用に開けて、置いていた犬用スナックを平らげていたこともある。その一件以来、犬用スナックは玄関で保管することになった。
そんなバナナの好物は、某高級犬用缶詰だった。缶を見ただけでヨダレが大量に流れ出す。恐らく保護先の獣医さんのところでよく与えられていたのだろうが、それにしても普通の肉より食いつきが良かった。
バナナは前述の通り、家族に対しては温厚で、とても良い犬だった。しかし悪食でもあった。散歩の際に拾いぐいはしなかったが、セミを食べるのが大好きだった。捕まえたカナヘビ(トカゲ)はキャンディーのようにベロベロ舐めていた。キャンディーにされたカナヘビを食べることはしなかったが、カナヘビの命は絶えていた。そのため我が家からカナヘビが一時期いなくなったのだが、もっとも厄介だったのが、ヒキガエルに手を出すことだった。
ヒキガエルは毒を持っており、舐めるたびに、しばらく仰向けになって痙攣していたのだ。家族は心配したが。しばらくすると通常状態に戻った。この一度で学習すれば良いものを、見かけるたびに舐めては痙攣を繰り返していた。ジョンよりも健康に気をつけていたにも関わらず、ジョンより短命だったのはヒキガエルの毒のせいではないかと、今でも思う。
雌犬ということで、避妊手術が終わるまでは玄関の中で飼っていた。後に母が、「一度ぐらいは子犬を産ませても良かったかもね」と言っていたが、雑種の貰い手先が困難なのはジョンの兄弟で察しが付くはず。それでも母は、バナナの子犬を一緒に飼いたかったのだろう。
のちに、家族で歴代三頭の中で、一番可愛かった犬はと、たびたび話題に上がった。母と兄は真っ先にバナナと答えた。父は、バナナとジョンで迷っていた。私も当初はバナナが一番可愛かったと思っていたが、三代目のレンが亡くなった後は、レンが一番だと思うようになった。その理由は、後々書くことになるだろう。
ともかく、バナナに何度目かの月のものがあった後、避妊手術を行った。アレが始まると犬用の生理用ショーツとナプキンを当てていたが、バナナは器用に脱いでしまう。様々な対策をしても効かなかったが、ついに特効薬が見つかった。北海道土産で有名なハッカ油である。ちょうど幼馴染が北海道旅行のお土産にくれたのだが、これをショーツに数滴つけると、バナナはショーツを脱がなくなった。代わりに癇癪が出るようになったが、仕方がない。これも女性の宿命だ。
家に来たときから可愛さ満点だったバナナが、避妊手術から帰宅した後、しばらく不信感いっぱいに家族を睨んでいたのは忘れられない。痛かったのと、また捨てられたと勘違いしたのだろう。ブルーのエリザへカラーをつけたバナナのストレスのはけ口は、玄関の手摺りとサンダルに向かった。傷口が完全に塞がるまで、散歩は短め、庭に放すことも暫く出来なかったので、ストレスはマックス状態だったに違いない。
避妊手術をしてから、標準体型だったバナナは、だんだんと肥満気味になった。餌の量は変えてないし、散歩量はむしろ増えていたが、ホルモンバランスが狂ったせいで太りやすくなったのだろう。散歩中に見知らぬ人から「可愛い柴犬だね、でもちょっと太り過ぎかな?」とたびたび言われるようになった。
バナナは散歩好きだったが、それよりも庭でボール遊びをするのを好んだ。こちらが止めない限りは、息を切らしながらもボールを持ってきて投げろとアピールするのだ。
祖父の死後、庭の手入れは私の担当となった。家を建て替える際に、主だった大木や低木は撤去されていたので、ドッグランには最適だったのかもしれない。
家族は花が好きだった。近くに出来たホームセンターに、鉢植えやポット苗が売っていたので、庭は一年中何らかの花が咲いていた。
兄は花の中では、特にチューリップと朝顔が好きだった。両親も秋になると球根を買ってくるので、庭の花壇だけでは足りず、プランターや鉢にも植え付けていた。そうすると、バナナが必ず鉢底石を入れたばかりの鉢の中に、ポトリとお気に入りのボールを落とすのだ。投げるとすぐに取りに行って、再び鉢の中に落とす。作業が進まず苦笑していると、父が出てきてボール投げを代わってくれた。ただ倉庫の下にボールが入り込んでしまうと、私が園芸用の長い支柱で取らざるおえないので閉口したが。
私は花の手入れが好きだった。しかし家族が相談無しに買ってくる花木には、ときどき閉口した。家族も花が好きで、近所のホームセンターからよく買ってきたのだが、世話は私に丸投げされていたのだ。棘の鋭い柚子、大きなイモムシのつきやすいハイビスカス、姫リンゴの木、キレンゲツツジ、ハナモモ、黄梅。せっかく庭木を減らしたのに、また増やしていくのはどうなんだと。一番厄介だったのは、蘭だった。温室がなく、冬場は隣家の日陰で日当たりの悪い我が家で蘭を育てるのが難しく、成功したことがない。だから蘭の類はやめてくれと言ったのだが、父と「世界らん展」へ出かけたときには、本当に引き止めるのに苦労した。父が即売所の黄色のカトレアに一目惚れして買おうとしたのだ。お値段、当時で二万円近く。そんな高級品、怖くて世話など無理と、やっとのことで諦めてもらった。
猛暑が厳しくなり始めてきたのも、この頃からだったかもしれない。当時は手で草むしりをしていたが、夏に草むしりしている時に何度か熱中症で具合が悪くなった。夏の間の草は伸びるのが早く、具合の悪い時がちょっと続くと草原と化す。そこで草刈り機を購入したのだが、これまで三日は要した草むしりが、たった1時間で終わるようになった。根は残るが、枯れ草の匂いは心地よく、一箇所に集めておくと、バナナがその上で寝転んでいた。アルプスの少女ハイジは、干し草のベットで寝るのが好きだったので、それと同じ気分を味わっていたのかもしれない。
バナナは風呂嫌いで、風呂に入れてシャンプーするのに苦労した。これはウチの愛犬全員がそうだったのだが、雨に当たる以外は水嫌いだったジョンに対して、バナナが嫌いなだったのはお風呂だけ。
川や水溜りには率先して入った。特に台風後の川の濁流を恍惚として眺めるバナナには、さすがにあの濁流に飛び込ませるわけにはいかないよと、いつもよりキツめにリードを握ったが。
バナナがきた当初、近所の公園広場はまだ整備されてなくて、川には堤防の網が途切れた箇所から慎重に岩場を降りて、水に入れていた。一旦、川に浸かるとなかなか出てくれない。放っておくと、いつまでも浸かっているのだ。
真冬でも、バナナは川に降りれる箇所に近づくと、いつもは歩調を飼い主に合わせる彼女が、先へ先へと引っ張っていく。そして川に入る。この川は普段、それほどの水量ではないので、雨上がりでもない限りは、深いところでも犬の足の半分程度程度の深さだった。いつまでも出よとしないので、最終的には引っ張って出す。だが散歩コースの柵の切れ目は二箇所あって、両方に入るから閉口するしかない。私の散歩の時に川に入っているにも関わらず、父の長距離散歩コースのときも、水に飛び込んでいた。春から夏の終わりにかけて、用水路に水が流れている。バナナはいつも用水路に入り、用水路の途切れる場所まで水の中を歩いていくのだとか。そして川に入るのも忘れない。前世で水性動物だっのだろうか?
広場の一部は私の子供の頃には出来上がっていたが、その後の開発は長年、進まなかった。だが残りの広場の工事が急に始まった。散歩コースを調整する必要が出たが、出来上がった広場はかなりの広さと遊具が充実していた。駐車場も設置されて、遠くから車で遊びにくる親子もいるが、散歩のために車でやってくる人も激増した。橋を渡って散歩に来る人もおり、公園広場の犬の数は一気に増えた。時間とともに犬同士のグループもいくつか出来上がっていたが、私は加わらなかった。
他の犬に愛犬を近づけたくなかったのである。以前、ジョンは近所の犬に、いきなり後ろ足太ももを噛まれた。飼い主がすぐに犬を引き離したことと、スピッツの血が濃い長毛系雑種だったので、噛まれた箇所から僅かに血が流れた程度で済んだ。バナナも犬に噛まれたことが原因で問題が起こったがあったが、それは後で書くことにして、いまは水場の話を続ける。
公園広場には、川に下りれる階段が設置された。代わりに、普段使いしていた柵の切れ目は修繕されて、そこから川へ下りられなくなった。
この川に下りられる階段は、子供たちだけでなく、犬にも人気だった。横幅はあったものの、暗黙了解で、他の犬が入っている時はその犬と仲良しでない限り、別の犬は川に下りないことになっていた。そのため朝の散歩時間は早目にして、夕方の散歩は日が暮れてから行くことにした。川にはハヤが泳いでいたり、運が良いと亀が甲羅干ししている姿も見れた。カワセミの鮮やかなブルーが目の前を飛んでいくのを見るのかと、何故かとても良いことがありそうな気がするのは私だけだろうか?
冬場には渡りの鴨に混じって、オシドリもやってくる。私はジョウビタギという特徴的な冬鳥を見るのを、冬場の楽しみにしていた。常時見かける鳥といえば、カワウ、コサギ、カルガモだろうか。父はカルガモがヒナと一緒に泳いでいたのを見たと嬉しそうに語っていたことがある。生憎、私はヒナを見かけたことは一度もないが、一回だけ目の前をハヤブサが通り抜けたときには驚き感動した。
キジは、手つかずの雑木林が整備されて姿を隠す場所が消えたため、橋向こうの薄暗い竹林の中でしか見かけなくなった。
時間を変えても、特に夏場は早朝や日暮れでも散歩中の犬が遊んでいることがあって、そんな時はバナナに水遊びを諦めてもらうしかない。楽しみを奪われたバナナはガッカリ肩を落としているように見えて哀れだった。ふと、昔、上流に川へ下りられる小さな階段があったことを思い出して行ってみた。まだ残っているか不明だったが、樹木に隠されるようにして、その階段は残っていた。バナナのリードをロングリードに変えて川に下りると、はしゃぐように川を歩き回っていた。ここは少々深みのある箇所があって、たまにバナナが顔まで落ちてる慌てて出てくることもあったり、バナナに引っ張られて私まで靴ごと川に入ってしまったことがある。
あまり知られていない場所なので、他の犬と遭遇することはないが、往復するには少々距離がある。その話をしたときに、母は危険だと怒り、父は行くときは車を出すから言うようにと指示した。バス停で4つほど先の距離だが、人通りの少ない雑木林一歩手前の手入れされていない河原に行くのを、両親が心配するのも分からないでもなかった。
車での水遊び、バナナは大喜びだった。大好きな水遊びと、大好きな車のエアコンの前を陣取れるからだ。
気の短い父は、バナナが十分以上川に入ると、業を煮やして、早く出ろと毎回ロングリードを引っ張って川から上がらせていた。車に乗せていざ帰宅、だが真っ直ぐには帰らない。エアコンを喜ぶバナナに、父はわざわざ遠回りして帰宅した。
ジョンの時と同じように、バナナもまた車から下りるのを抵抗した。ジョンはある程度走れば満足したが、バナナはそうではなかった。水から出すのも、車から降ろすのも苦労するとは、頑固な面は柴犬の血を色濃くひいている証なのかもしれない。
バナナは雷が嫌いだった。外飼の犬は当然だろう。ジョンも雷が鳴ると家に入れてくれと窓ガラスを叩いたり、車が家にある時は車の下に潜り込んでいた。
最初のうちは、雷にさして反応はなく、犬小屋の奥に丸くなってやり過ごしていたが、あるとき近隣に雷が落ちた。それ以来、バナナも雷を怖がるようになり、遠雷が聞こえだすと家族の誰かが直ぐに玄関の中に入れる。すると途端に安心するのか、腹を出して爆睡。雷と雨が去った後も気持ちよさげに寝ているので、しばらくそのままでと母は思っても、父ば直ぐに庭の所定位置に出してしまう。雨上がりのが気持ち良かろうというのが父の持論だったが、バナナの不満そうな寝ぼけ眼をみる限り、雨上がりの庭よりも、玄関で寝るほうが気持ちよかったのは一目瞭然だった。
雷は、遠雷から近づくとも限らない。ある日、私が庭作業しながらバナナを放して遊ばせていたとき、黒雲もないのに突然雷の轟音が鳴り響いた。あのときは、まさに私もバナナも飛び上がるほど驚き、二人で慌てて玄関の中に逃げ込んだことがある。
③防衛対策
散歩中、犬を寄せられる(近づけられる)のを、私は嫌う。犬によっては仲良くなれる子もいるらしく、父はバナナにボーイフレンドがいるんだと言っていたこともある。
だが、私は愛犬に関しては犬の交流をよく思っていなかった。気性の荒いバナナが喧嘩して他犬に噛まれるのは嫌だったし、逆に愛犬が小型犬を噛む危険だってあるのだ。
たまに子供が寄ってくることかあった。先に「触っでいいですか?」と尋ねられたときには、「この子は噛むかもしれないから、ゴメンね」とお断りするするが、いきなり駆け寄ってる子には慌ててバナナを抱き上げて、子供の手が届かないようにした。
ある日、近所の方が夕方に訪ねてきた。近所といっても、町会で見かける程度の付き合いしかない。その方は夫婦で訪ねてきて、「ウチの犬に噛まれたので、病院に行ってきた。狂犬病予防注射済証明と、治療費を渡してください」と。
青天の霹靂だった。慌てて父に尋ねてみると、人を噛んだのは本当だったらしい。人を襲うような犬ではないのにどうしてと思いながらも、母が治療費を渡して謝罪し、その間に私は自宅の狂犬病予防注射済書類を自宅のプリンタでコピーして渡した。
夫婦が帰宅した後、私はバナナの様子を見に行った。既に日が落ちて暗くなっていたので、懐中電灯片手に庭に出たのだが、バナナを見て仰天した。小屋の中に蹲るバナナは、血まみれだったのだ。よく観察すると、よりによって障害のある後ろ足に噛まれた跡があった。
馴染みの獣医がまだ診療時間だったので、慌ててバナナを獣医に連れて行った。幸い、骨に異常はなかった。止血の薬を塗って包帯を巻かれ、塗り薬を処方された。
帰宅後、父に事情を聞くと、住宅団地内をすれ違う時、こちらは避けて通ったのだが、談笑中のオバサン二人のうちの一人が飼っていた犬のリードが伸びて、いきなりバナナに噛みついて離れなかったのだという。それに慌てた飼い主が自分の犬を引き離そうと手を出したところ、噛まれて恐慌状態のバナナに噛まれたのが真相らしかった。
同様の話は、翌日に談笑相手のオバサンにも、聞きに行った時に聞かされた。相手の犬は、甲斐犬の風貌をした中型犬の中でも大型の部類の雑種犬だった。その犬のリードを、談笑に夢中だったとはいえ、しっかり持っていなかったことに怒りを覚えた。
しかし、事情がどうであれ、噛んだ犬に過失があると見なされる。こういうことがあるから、犬の近くを通るときは特に警戒し、場合によっては道を変えることもあった。
バナナの怪我を黙っていた父には憤慨したが、あの大型犬相手にバナナを素手で助けるのは難しい。今後もこうした事態があるかもしれない。
私は街へ出た際に、衣料品等も扱う大型スーパーで、木製の杖を購入した。散歩の際に、これを持っていって、いざというときは武器にしてと父に渡したが「年寄り臭くて嫌だ」と拒絶された。代わりに、散歩バッグに折り畳み傘を入れることで決着した。
この折り畳み傘、急な雨にも役立ったが、やはり広場に犬が増えて、広い広場に犬を放す者も多くなった。あるとき、放された柴犬がバナナに向かってきたらしい。父が折り畳み傘で相手の犬を叩いて追い払ったとか。柴犬の飼い主には睨まれたらしいが、そもそもこの広場で犬を放すのは禁止されている。遊ばせたいなら、他の犬がいない時にロングリードを使うべきだ。長さに限界があるので、工事用ロープ(黄色と黒の縞模様)を首輪に付け替えて、ボール遊びをしている人もいた。
さて、せっかく購入した木製の杖。杖を使う年齢でもないが、散歩の護身用に私が使うことにした。そして意外な用途を見つけた。
他の犬のいない時間、ロングリードに付け替えて、いつもボール投げするところを、杖をバット代わりにテニスボールを打ってみたら当たって飛ぶ。これが結構楽しいのだが、投げるより飛ぶので、バナナに引っ張られながら、ボールを追いかけるのには難儀した。
…この木製の杖は、のちに正当な使い方をされることになる。まず父が歩行困難になってから車椅子生活になるまで、この杖を使用した。父が使わなくなると、兄が杖を使い始めた。兄が亡くなってしばらくしてから、病院からの連絡で杖を渡し忘れていたので取りに来てくださいと言われた。思い出が染み込みすぎた杖を見るのは耐えられず、しばらくして処分した。
④後悔と、懺悔
荒川静香さんが、日本で初のフィギュアスケート金メダリストになった前年。
母は感染症によって危篤状態まで陥った。なんとか助かったものの、当時はまだ一般認識が薄かった「せん妄」状態で、母は人の区別もつかず、見えないところに誰かいると怯えた状態で、入院先からは精神病院を検討された方が良いとまで言われた。だがある日、スイッチが入ったように母の精神状態は戻った。するとしきりに家に帰りたがったので、別の病院含む四ヶ月の間に落ちて衰えた筋肉を動かす歩行訓練を受け、ある程度介助ありでも歩けるようになってから、翌年の一月に退院した。肥満気味だった母の体重は、このとき半分以下まで減っていた。だが肥満体質だったからこそ、生き延びることが出来たのかもしれない。
食欲は入院当時から戻らなくて、それでも一生懸命食べていた。当然、お通じが出づらく、入院していたところとは別の病院の外来に出向いた。かなり詰まっているようで、看護師さんが浣腸しながら掻き出そうとしても出てこず(当時の看護師さん、ありがとうございました)強めの下剤を処方されて帰宅。翌朝、病院から電話があって、お通じが出たかの確認だった。出ないと答えると、入院の準備をして、すぐに来てくださいとのことだった。この電話のあった日が、荒川静香さんが金メダルを取った日だったので、記憶に残っていたのだ。
診断、腸閉塞。入院中の処置で数日後からお通じがで始めた。入院中に若干だが食欲も戻ってきて、すると母はまたしきりに家に帰りたがった。様々な検査をするために、まだ病院側としては入院の必要性を丁寧にしてくれたものの、母がどうしても帰りたいというので、自宅での歩行訓練と食事をきちんと食べることを条件に、半月で退院。
退院後、歩行訓練がてらに立ち寄ったスーパーで、このお弁当が食べたいと言うので、鮭の幕の内弁当を購入。半分でも食べられたら良いなと思ってたら、まさかの完食。それ以来、食欲が戻って、むしろ戻りすぎるほどだった。お風呂も介護なしで自力で入れまでになり、奇跡としか言いようがなかった。
…だがこれは奇跡ではなく、代償を伴う無償の愛情ゆえだったと、私たちは思うようになった。
母が劇的回復した頃から、バナナが変な息遣いをするようになった。聞き覚えのある喘鳴音。だがバナナには、蚊の出没期間には毎月、フィラリアの飲み薬を与えていた。
ジョンと違って、チーズに包めば服薬してくれるので、楽だった。
老犬になりかけだが、まだ寿命には早い。
馴染みの獣医に診察してみてもらったところ、心臓病とのことで、心臓の薬が処方され、なるべく激しい運動は控えるようにと言われた。
だが喘鳴音は悪くなってる気がする。急な発症、どうして心臓病?
馴染みの獣医は良い人だが、老舗ということもあって、医療施設は昔ながらのものだった。
父が、ちょうどバナナを保護した動物病院の分院が市内に出来たから、そこへ連れてってみるかということになった。
今も瞼に焼き付く、あのときの自家用車の助手席の足元に乗ったバナナの嬉しそうな顔。バナナはいつもの水辺に連れてってくれると思ったのだろう。あの顔を思い出すと、今でも胸が締め付けられて涙が溢れる。
同じ市内でも、自宅と動物病院までは市の端と端に位置していた。父の同僚さんが迎えてくれて、設備が完備された新しい動物病院で精密検査を受けた。診断、僧帽弁閉鎖不全症。フィラリアは血液検査の結果、いなかった。
入院で更に検査、治療することになった。数日置きに、父の自家用車で、または私がバスと電車を乗り継いで会いに行った。出かける直前まで旺盛だった食欲は、入院してからほぼ食べなくなり、好物を持ってきてくださいとのこと。大好物だった高級犬用缶詰を持っていっても、全く食べない。どんどん弱っていく気がする。手を尽くしてくれる動物病院にこのまま入院させるべきか、それとも自宅に連れ帰るかを思案し始めた頃、ついに最悪の連絡が来た。
七月三日、朝八時四十五分、携帯の電話からバナナが亡くなったことが告げられた。
後悔の念が吹き荒れる。両親にバナナが亡くなったのを伝え、父と私は準備を終えるとすぐに、バナナを迎えに行った。引き取ったバナナの亡骸は、まだ温かった。犬も人間も、亡くなってすく、冷たくなるわけじゃない。心臓が止まっても、ゆっくり全身の細胞が機能を止めていくので、かなり長い時間温かいのだ。
だから、バナナが眠っているようにしか見えなかった。
動部病院にお礼と支払いを終えて、バナナを連れ帰る。私も父も無言だった。私は後部座席で、段ボールの棺に入ったバナナをずっと撫でていた。
途中、切り花のお店に立ち寄って、父と折半で白と黄色の菊の花五十本を購入した。
帰宅すると、母が玄関を整えて待っていた。母は食欲も戻って動けるようになったといっても、まだ掃除するのはキツイはずだったのに。一緒に行けなかった分、幼い頃のバナナが過ごした定位置を掃除することで、母も悲しみを紛らわせていたのだろう。
バナナの棺を定位置に置き、自宅にある大きめの花瓶2つに、白と黄色の菊を供える。自宅にあったバナナの好物もありったけ供えた。母が、まだ温かいバナナに「まだ生きてるのでは?」と言った。皆がそれを願った。
私はかなり長いこと、バナナを撫でていた。錯覚なのか、ときどき動いたように思えて、その度に撫でる手を止めて息を確かめる。だが奇跡は起こらず、体が冷たくなり始め、やがて鼻や口から血が流れ始めた。
ああ、本当に逝ってしまったのだなと、このとき、ようやく納得した。鼻血を止めるためにテイッシュを詰めて、口元を拭ってハンカチを口の下に敷いた。
ジョンのときと同じ霊園に電話して、火葬の手続きを取った。夏場なので、火葬日まで氷で体を冷やして保冷する。自宅の氷だけでは間に合わないので、近所のコンビニで氷の大袋を買ってきた。
仕事から帰宅した兄は、帰宅途中に購入した犬用の玩具とケーキを供えた。そして亡骸の前で泣いた。
火葬予約日の予約時間に合わせて、両親と共に車でバナナを火葬場へ連れて行った。出かける前に三人で菊の花を全てもいで、バナナの亡骸の周囲に飾った。
このときは火葬炉がまだ火勢が強くなかったため、菊の花と袋から出された犬用のオヤツだけがバナナの亡骸にそえられて、炉に入った。
当時の霊園には喫茶店があったが、そちらには入らず、三人で日陰から炉の煙突から煙が立ち上るのを見つめていた。
一時間後、呼ばれて火葬場に入ると、骨だけになったバナナがいた。二人一組で、箸で大きな骨を骨壺に入れて、それから全ての骨が職員さんの手で骨壺に収められた。ジョンのときと同サイズの骨壺だったが、満杯には至らなかった。
「細い骨だな」
父がポツリと呟いた。ホルモンバラスによる肥満体型のせいで大きく見えたが、骨はずいぶん華奢だった。
バナナは保護された犬なので、誕生日は分からない。だが保護された時、成長具合などから七月辺りに生まれたのではと、獣医さんは見当をつけた。狂犬病予防注射のときは、誕生日を七夕にちなんで七月七日に登録した。
だからバナナは満年齢十一年0ヶ月で亡くなったということになる。戌年に犬を亡くした。
バナナの死は、後年、私が強いられることなる最期の時間の選択の教訓となり、指針にもなった。
バナナの一生は短かった。しかし沢山のことを、彼女から教えられた。
火葬後は、家族が納得するまで自宅安置できる。翌月がお盆ということもあって、私達は翌月に納骨することにした。
この頃にはペットビジネスが盛んになってきた。合同法要の案内がされて、参加は確か一人三千円。法要参加の手続きをして、骨となったバナナの遺骨を連れ帰った。お骨はリビングに安置して、常に花を絶やさなかった。好きだった缶詰をお供えしたり、散歩途中で立ち寄ったコンビニの唐揚げをお供えしたり。
この唐揚げには、ちょっと笑えるエピソードがある。父はたまにというか週の半分は散歩中にコンビニに立ち寄って、唐揚げを買ってまず一個与え、帰宅後にまた一個与えていた。残りは晩の餌に混ぜられて与えられたが、たまにバナナのウルウルした訴えに悶絶した父が、帰宅後に全部食べさせてしまうこともあった。もっとも個数はコンビニ前で与えたのを含めて四個か五個。いや、やっぱり多いな。
特にご近所に話した覚えはなかったが、隣の小母さんが、お孫さんとコンビニ行った際、お孫さんが唐揚げを欲しがったらしい。そのとき小母さんは「あの唐揚げはね、お隣のワンちゃんの好物なのよ」と言って諦めさせたとか。コンビニ店員の前で、それ言わないで欲しかったわ~(苦笑)。
法要の時に、翌日の納骨のためにお骨を持ってくるよう指示された。私達、といっても母はまだ正座できる状態ではなかったので、父と二人で参加した。受付でバナナの骨壺を託し、参加料金を支払って法堂に入る。
満員の法堂、参加者は五十人を下らないだろう。それより驚いたのが、皆がほぼ喪服を着て参列していたことだ。私と父は、犬(猫や他の動物含む)の法要だしと普段着だったので、黒服の中でかなり浮いていた。もっとも、そこにいたペットを亡くした参列者は、すすり泣きに忙しくて、私と父の普段着など気にも留めてなかっただろうけど。
法要が始まり、読経のあとに、法要のペットの名前が告げられる。「○○市の愛犬、名字&ペット名」という感じで。我が家も「某市愛犬〇〇家バナナの霊」と読み上げられたときには、手にしていた写真立ての遺影を持つ手が震えて涙が落ちた。
犬、猫だけでなくウサギやインコも読み上げられていた。インコも火葬するのか、骨残るのかなと、そのときは思ったものだ。
その後、父が運転てきなくなるまで、ジョンの墓参同様、毎月ではないが思い立った時に墓参に出向いた。ペット霊園の共同墓地に、ジョンもバナナも埋葬された。家専用のペット墓も多く有ったが、花の絶えない共同墓地のが、寂しくなくていい。お線香を立てて、お供えをして(お供えはカラスに狙われるので持ち帰りがマナー)、父は暗記した経を読む。我が家とは宗派がペット霊園と違うが、まあ仏様には変わりないし。私は南無阿弥陀仏ぐらいしか言えないが。
父が経を暗記してたのは、毎日祖父母の位牌が入った仏壇に拝んでたためだった。これほど信心深くて愛情深かった父だったのに、旅立つ時は家族の到着が間に合わず、病院関係者の生命維持処置中,逝った。家族に引き際を見せたくない美学だったのかもしれないが、私は最期の瞬間を立ち会えなかった傷が、今も深く突き刺さっている。
私が勇気ある決断していれば、自宅で安らかに逝けたかもしれないのに。だが私は少しでも長く父に生きて欲しかった。だから人工透析をやめて自宅に連れ帰る最終手段に踏み切れなかった。透析の終了、それは数日後に、確実に死を迎えることを意味していた。
「神様仏様、どうしてあともう少し、私たちが到着するまで、父の命の灯火が消えるのを留めてくれなかったのですか?」
三、三代目愛犬レン
①血統書付き柴犬
バナナの死は、ジョンのとき以上に衝撃が強かった。父は家族の目の前でも「バナ公、バナ公」と事あるごとに泣いていた。皆がペットロスに陥っていたが、特に症状が強いのは父だった。
母は二度と犬は飼わないと宣言した。だが父は悲しみを癒やすためにも、犬を欲しがった。私もジョンときと違って、犬がいないと今回は乗り切れない心地だった。正確に言うと、バナナを自宅で看取れずに病院で寂しく逝かせた衝撃に耐えられなかった。バナナを入院させるときの最後のドライブでの彼女の笑顔、罪の意識が大きすぎる穴を埋める対象が欲しかった。
バナ姫と、兄は呼んでいた。散歩こそ出来なかったが(他の犬が寄ってくるのを追い払えない)、行事ごとに玩具や犬専用のご馳走をペットショップで買ってきていた。仕事が休みのときは、庭でボール投げして遊んだりしていた。口下手で特に父との会話は基本的になかったものの、犬の話題となると家族の輪の中で笑っていた。
バナナの死後数日後、何気なくリビングから庭を眺めた私は叫んだ。「バナナがいる!」と。
両親も駆け寄ってきて窓を見ると、バナナの顔が浮かんでいた。だが、これは霊ではなかった。たまたま前日に庭の剪定した枝を運ぶのに古い一輪車を使って、いつもバナナを繋いでいたサルスベリの木に立てかけて、片付けるのを忘れていたのだ。それがレースカーテン越しに、光の加減で、一輪車のサビがバナナの顔そっくりに浮き上がらせたのである。
霊ではない。だが私たちは、バナナがまだ魂の姿でこの家にいるのだと伝えるために、こうした形を示したのだと、このとき信じて疑わなかった。
まだバナナの四十九日も明けてない。だが納骨の法要参加した翌日、一区切り付いたのは事実。それまで耐えていたのだろう、父が犬を飼う、買ってでも飼うと宣言した。
あのバナナの顔の一件も原因の一つ。亡くなった犬は、新しい犬が飼われるまで家から離れないという伝承があった。バナナに我が家への執着を断ち切らせて、天国に旅立たせるためにも、新たな犬を飼うと、父は言った。
私は耳鼻科への通院がてら、ペットショップに立ち寄っては子犬を眺めていた。あるとき白い柴犬が目に止まった。とても愛らしくて愛想も良かった。それだけのハンサムな子犬が人気にならないわけがない。次に訪れたときには、既に他家に買われた後だった。
父は、バナナの骨の細さに衝撃を受けたようで、次飼う犬は絶対に雄だと言った。そして飼うなら柴犬だと。
バナナを亡くしてから、父は痩せた。食が進まなくなったのだ。代わりに酒量が増えていた。
とりあえず下調べということで、八月五日、兄の運転で父と私はペットショップ巡りをすることにした。ジョンが白、バナナが茶色だったので、柴犬にするとしても黒柴がいいなと思った。茶色だとバナナを思い出してしまうから。
一軒目のペットショップは、衛生的に難アリ、黒柴もいなかった。二軒目、私が白柴を見たペットショップにも黒柴はいなかった。
そんななか、柴犬ではないが、猛烈に人懐っこいジャックラッセルテリアがいた。ある程度成長もしていたので、値引きもされていた。この子、いいなと思ったが、父の目に止まったのは、不貞腐れたように背中を向いて眠る生後2ヶ月の柴犬の子犬だった。
ケースから出してもらって、父に抱っこされると一転して愛想よく振る舞った。次に私が抱っこしたとき、掌をペロリと舐めた。ジョンを彷彿とさせる仕草、陥落。兄も抱っこして、「すごく可愛いな、この子」と言い、父がこの子犬を飼うと決めた。ちょうど市内のお祭りの日だったので、値引きされたが、それでも注意点として販売員から「足が太いので、かなり大きくなると思われますが、構いませんか?」と、尋ねられた。父は「長距離散歩に出られるなら、ある程度大きい方がいい」と答えた。それからケージ、大きくなるのを想定した布製のキャリーバッグ、ドッグフード、ミルク、餌皿と水皿、ケージにつける水飲み等を購入して、子犬と共に帰路につく。
しかし早速、問題発覚。この子犬、車酔いが酷いのだ。よく他県からここまで連れてこられたなと思えるほど、上からも下からも出しまくった。
帰宅して、母はまさか子犬連れて帰ってくるとは思わずに驚いていたが、子犬の可愛さに、すぐメロメロになった。まあこの子犬、一部の人間には外面が良かったけど、歴代愛犬ぶっちぎりトップの曲者だった。
上下から出してたので、すぐに体を拭いて、熱中症予防ドリンクを作って飲ませるとあっという間に飲み干した。そして父とケージを組み立てると、寝床を作って休ませた。
子犬は物怖じもせず、新しいケージの中の寝床に丸くなって寝た。暫くそっとしておこうと、その場を皆で離れる。次に様子を見に行ったときには、腹を出して寝ていた。すっかり寛ぎきっていたようだ。
粉ミルクをぬるま湯で溶かした中にドッグフードをふやかして与えたものも、残さず食べた。夜泣きもしなかった。貫禄のある子犬には、レンという名前をつけた。
名付けたのは私である。人間にも人気の名前で、実際、私も好きな漫画の主人公から命名した。年齢よりも落ち着いた、温厚で博識な不思議な青年。これでこの漫画が当てることが出来る人がいたら、相当な漫画好きだ。しかしウチのレン、主人公とは程遠い性格に成長した。暴れん坊から命名したのかというほど、キツイ性格のレン、そんなつもりで名付けたわけではないのに。
②標準的柴犬?
血統書付きの柴犬を飼ったのは、レンが初めてなので、レンの性格が柴犬の標準だとしたら、初めて犬を飼う人にはお勧めしないというのも納得する。見た目は可愛いが、近年になって狼の血筋に一番近い犬種と判明したように、とにかく頑固なのだ。嫌だと言ったら、言うことを聞かない。そして頭がとても良い。
ジョンとバナナは、お座り、お手、お代わりまではマスターしたが、伏せを習得したのはレンが初めてだった。
小用もケージ内のトイレでキチンとしたし、大のときにはワンワン鳴いて報せて、子犬時代は庭で用を足した。
成犬になってからは、テリトリーである庭で縄張りを示す小用はしても、糞はしない。父などは散歩でなかなか用を足さないため、一時間以上の散歩して、それでも駄目な時は一旦帰宅して一服した後、またトイレの旅に出かけていった。大抵はいくつかのお気に入りの場所があるが、他の犬が近くを通ったりすると意識が他犬に向いて、新たな場所を探しに行く。だがある時、「いい加減にウンチしてよ~」と歩き疲れて私が呟いたとき、レンはウンチをしたのだ。偶然かと思ったが、翌日もお気に入りの場所付近で「ウンチ」という言葉を出すと、用を足す。言葉を完全に理解していたのだ。以来、散歩で「ウンチ」の魔法の言葉で散歩の負担が減った。父にも教えたが、父の時は言うことを聞かなかったらしい。長く散歩してくれるから、と悪知恵が働いたのだろう。
ところでウンチの取り方だが、両親(レンが成犬になる頃には、母も散歩に行けるようになった)は小型シャベルですくって、トイレに流せるペット用ペーパーの入ったビニールに入れる。私は厚手のビニールに、テイッシュを五枚重ねて、ビニールごしに手づかみで取る。冬場などはホカホカしてて温かい。親からは、いくらビニールごしでも、ウンチを手づかみなんてありえないと言われたが。私はそれを厳重に結んで、ゴミに出していた。しかし、このウンチ処理はどちらが正解か未だに分からない。ゴミにウンチを出さないでくださいという一方で、ペットの糞はトイレに流さないでくださいという注意書きもある。まさかその場に埋めとくわけにはいかないし、自治体によって処理方法は変わるのだろうか?
子犬時代に話を戻す。二度目のワクチンを終えてから、レンの散歩が解禁となった。それまでは抱っこして外の景色に慣れさせていた。フィラリアの薬と、ダニ退治のスポイトも月一で行った。
ジョンの二の舞いは嫌だったので、レンの歩行は徹底的に躾けた。まあ父もジョンの時代のように、公園広場まで駆けていく体力もなくなっていたが、相変わらず長距離散歩は大好きで、とんでもない場所まで行った話を聞いて驚いたこともある。
ジョンの歩行訓練は成功した。他の犬に向かっていくことも無いが、向かっくる犬には喧嘩上等と、臨戦体制をとる。その前に抱き上げて回避させたが。
帰宅後に、私がレンを仰向けに抱き上げて、母が足とお尻を濡らしたタオルで拭くのが恒例だった。父が散歩から戻ってくるときも、呼び鈴を鳴らして足拭きの合図を送ってくる。たまに私が外出してるときは、玄関前にレンを繫いで私の帰宅を待つ。抱っこしてても暴れることはないが、母が足を吹く際には母の手をペロペロ舐めたり甘噛していた。その度に母が「柿じゃないんだから」と言っていたが、なんで例えに柿が出てたのかは謎だった。
両隣とお向かいの小父さんが、レンは大好きだった。家族に対しては尻尾が揺れる程度にしか振らないのに、この三人の小父さんに対しては猛烈に尻尾を振って、飛行機耳となる。それを見る度に、私も父も複雑な気持ちになる。なんで餌をくれるわけでもない、撫でてくれるだけの小父さん達に、ああも愛想が良かったのか?
家族もレンが嫌がらない程度に撫で回していたが、尻尾は省エネでチロッチロッと揺れるだけだった。考えられるとしたら、言葉を理解してたことかもしれない。小父さん達は、レンを撫でながら「レンちゃん可愛いね~」と褒めていた。
一方、家族はレンをレンと呼ぶのが半分、もう半分はニックネームと化したワルという呼び名だった。レンは「ワル」と言われると、はしゃいで走り回った。なんでワルと言われて嬉しかったのか、分からない。
乳歯生え変わりのときも、サンダルや靴に手出しはしなかった。玄関脇に建築当初からついていた手すりの下はバナナが噛った跡があるが、レンは噛じらなかった。代わりに寝床の座布団やトイレシーツをボロボロにしたり、何故か壁紙を剥がすことに楽しさを見出していた。
ケージに入れるよう、細いリードを二本繋げて繋いでいた。
祖母が亡くなった後、仏間を兼ねた一階の和室は父の部屋となった。最初は二階に部屋を持っていたが、熱中症で倒れて以来、涼しい一階の部屋に引っ越したのだ。この部屋と隣接する玄関のケージにレンが居るわけだが、襖をキチンと閉じていても、いつの間にか開ける技術をレンは習得していた。そして隙間から部屋に入り、リードが届くギリギリのところで寝転がる。夏場なのでエアコンの効いた部屋は快適だったのもあるだろうが、出入り口に陣取るので、父はレンを避けながら部屋の出入りをする。たまに尻尾の毛の部分だけを踏むと、大袈裟に叫ぶ。「おまえ、芯は踏んでないだろ」と父がボヤいても、レンはお構い無しのマイペース。そもそも縦になって寝れば邪魔にならないのに、襖に沿って横に寝るから厄介だ。
ちなみに、トイレのドアを塞ぐように寝転ぶこともある。「邪魔だからどいて」と言っても、動かない。そんなときは犬モップのようにレンを床に滑らせて移動させるが、それでも起き上がらない。
こんなだから、家族に「ワル」と呼ばれるようになったのだ。
レンは雷に対しては、さほど怯えた様子がなかった。父の部屋に侵入して、邪魔な寝方をするぐらいだ。しかし、打ち上げ花火の音だけは苦手だった。このときは、いつもどうやって首輪を抜けるのか謎だったが、普段は入ってはいけないと躾けているリビングに逃げ込み、ブルブル震えている。リビングから出そうとすると、牙をむき出しにして怒るので、打ち上げ花火が収まるまで、そのままにするしかなかった。しかし各地域の打ち上げ花火大会、ウチの二階から見えるのは二箇所ぐらいで、それもかなり遠い。でも音は方々から聞こえてくる。ちなみに夏場になると、毎日のように夜中近くに爆竹を鳴らすのが、この地区のヤンチャな中高生の恒例。この音もレンには苦痛で、このときは父の寝ている布団の上に逃げ込んでいた。早寝早起きの父にしてみれば、体の上に十五キロの巨体がいきなり乗っかってくるのも迷惑だったようだが、震えるレンに仕方がないと諦めていた。爆竹が終わると、自主的に小屋の寝床に戻っていた。たまにトイレの前で寝ていて踏みつけてキャインと叫ばれることもあったが。
柴犬の最大特徴、アンダーコート。バナナは、よく純血の柴犬と間違えられたが、アンダーコートはなかった。ジョンもなかった。
だがレンにはアンダーコートがあり、換毛期ともなると毎日手入れしていても、ポリ袋いっぱいになる。そうでないときでも、かなり毛が抜ける。風呂嫌いだから、せめて毎日のブラッシングは入念にということだった。
玄関の中とはいえ、内飼いだったので、毛の手入れと掃除は入念に行わなくてはならなかった。レンは一生のうちに二度だけ、夜を外で過ごしたことがある。だが猛烈に吠えて近所迷惑なので、外飼は無理という結論となった。加えて夏の猛暑。ジョンの頃とは比べ物にならないほど、日本の気温は上昇し、特に真夏は殺人的な暑さ。アンダーコートのある柴犬には、過酷すぎる環境に変化していた。
③焼き鳥
郊外の我が家周辺に飲食店は少ない。スーパーとコンビニが出来ただけでも奇跡的だ。
テイクアウト専用の焼き鳥屋は、消えては別の場所に現れを繰り返していた。ジョンの時代は、父がよく自分の酒の肴に散歩途中にたびたび購入していた。注文して焼き上がりに時間がかかるので、一周してから焼き鳥屋へ戻ると丁度いい頃合いで焼き上がってテイクアウト用の袋に詰められていた。この焼き上がりの一番美味しいときを堪能していたのが、ジョンだった。父がレバーを串から抜いて与えていたのだ。焼き鳥屋の店主からは「贅沢な犬だねぇ」と苦笑されていたらしいが、せっかくの焼き鳥が目の前で犬に与えられる店主の心境も複雑だったと思う。
テイクアウト専門の焼き鳥屋は過酷な環境で、バイトを入れてもすぐ止めてしまうと、私が代わりに買いに行ったときにはボヤかれたことがある。そして大抵は定年退職した後の起業なので、人気があっても体力的に長く店を維持できない。十年保てば良いほうだろう。
バナナが生きていた時代は、焼き鳥屋が近辺になく、車で買いに行かねばならなかった。焼きたてを食べられなかったバナナ、可哀想に。焼き鳥は味だけでなく、炭火に落ちるタレの匂いもご馳走なのだから。
レンがウチにきた当初も、近所にテイクアウト専門焼き鳥屋がなかった。だが小高い丘の住宅団地を越えたところに、当時、近所とは別のチェーン店のホームセンターがあって、併設されている八百屋が馬鹿安いこともあり、よく家族で車を出して買いに行っていた。
そこの真向かいの弁当屋を兼ねたテイクアウトの焼き鳥屋が、私はいつも気になっていた。
レンがワクチン接種を終え、散歩もある程度長距離が歩けるようになった頃、私は家族に黙って散歩がてら、その焼き鳥屋を目指した。実際に歩いてみると、車では気づかなかったが、坂道がキツイ。そして予想より遠い。やっとたどり着いて、焼き鳥をテイクアウトで家族分注文。時間がかかりますよと言われたが、疲労困憊でむしろ休める時間がとれて有り難かった。レンには持ってきていたペットボトルに入れた水をお椀に注いで飲ませ、私は自販機でお茶を購入して飲みながら待った。そして焼き鳥が焼き上がった。炭火焼のタレの匂いは、最高に食欲をそそる。
私は休んでいたベンチで、袋詰めされた焼き鳥の中からレバーを1本だけ出すと、一串の半分を自分が、もう半分を少しずつレンに与えた。やはり炭火焼の焼き鳥は美味しい。よい匂いに耐えながら待つ価値があった。
そしてレンも、焼き鳥が気に入ったようだった。気に入りすぎて、いざ帰ろうと立ち上がったとき、「もっとくれ」と言わんばかりに、私の足にしがみついた。リュックにしまった焼き鳥は、4人家族+レンの夕飯トッピング用の分しかないので死守。それでも諦めす、私が歩きだしても足にしがみついて離れない。レンにしがみつかれたまま、それでも歩く私。その様子に焼き鳥屋店主は爆笑し、道向かいのホームセンターの客も大笑いしていた。距離的にもキツイが、この恥ずかしい格好は二度とゴメンだ。
その焼き鳥屋はその後も何度か利用したが、野菜を買いに車で家族で来るときだけだ。店主から、「もう、ワンちゃん連れてこないのかい?」と尋ねられたときには、あの時が初めて利用したのに顔を覚えられていたと知って恥ずかしさに、真っ赤になった。
それからしばらくして、近所に新たなテイクアウト専門の焼き鳥屋がオープンした。早速、父は常連となった。散歩のはじめに注文して、散歩の終わりに撮りに行くとちょうど焼き上がって袋詰めされていた。焼き鳥屋脇の、焼き上がりを待つ客用のベンチに腰掛け、そこからレバー串を一本取り、串から外してレンに一本分与える。そして帰宅後に、家族で分けたのと他に、レン用の餌のトッピングに焼き鳥が一本分使われるのだった。
この焼き鳥屋も、十年と保たなかった。店主が体調を崩して閉店となったのだ。閉店一年前ぐらいには、父は散歩で焼き鳥屋に立ち寄る体力がなく、焼き鳥を買うのは私の役目となった。近くのスーパーに自転車で買い物に行く前に注文して、買い物が終わる頃に出来上がっている。
レンは夕方の散歩で通りかかるたびに焼き鳥屋を見ていたが、レンと一緒に焼き鳥を買うのはもうゴメンだった。
焼き鳥には、別のエピソードがある。本当に忘れられない日だった。
この日は、母を市街地の眼科へ連れて行く日だった。いつもはこの眼科の予約を午前中に取っているのだが、予約日に別のクリニックに行く用事が出来てしまい、なるべく早めの日に眼科予約を取れないか交渉して、この日の午後の予約枠が空いてるということで、珍しく午後の診察となったのだ。
我が家の夕飯は父の希望により18時と早めのため、この日は時間的に夕飯を作る時間がない。あまり不平不満は言わないが、食に関してだけはうるさい父なので、電車で二駅先の焼き鳥屋でテイクアウトしてくるからと約束して、納得してもらった。
そして眼科へ向かうバスの中、眼科最寄りの終点バス停まであと少しというところで、バスが揺れだした。方々から、小声で「この運転手さん運転ヘタだね」という声がして、私と母も似たようなことを言っていた。揺れが始まって直ぐに、バスは走るのをやめて止まった。そして乗客の誰かが叫びだしたことで、車内は騒然となったのだ。
「東北で巨大地震!」
そう、バスの運転手のせいではなく、バスが揺れたのは東日本大震災の本震だったのだ。運転手は下手どころか、的確な判断をしていた。もう少し進むと、カーブの下は崖となっていたからだ。
完全に揺れが収まったのを確認して、バスは終着地に到着した。バスから降りると、防災無線で市内の震度が五弱であることを知った。
私はすぐさま携帯電話で、父に電話した。電話は繋がって、父は慌てながらもコッチは無事だと伝えてきたところで、電波は切れた。何度かけても繋がらない。とりあえず父が無事なのは分かってホッとした。
駅構内の南北道を通って、眼科に到着。眼科でも患者が騒然としていた。いつもなら診察が終わるまで待つところだが、父との焼き鳥の約束がある。診察は眼底検査を含むので、一時間過ぎるのがいつも通りだから、余裕で診察終わるまでには戻れる。
いつもなら。
焼き鳥を買いに行くのに躊躇していると、母が「行ってきなさい、遅れても待ってるから」と急かした。
私は駅に行ったが、電車は止まっていた。バスは動いていたので、目的地までバスで行く。バスが走ってると気づかないが、途中で運転手さんが「ただいま余震で揺れております」とアナウンスした。窓の外を見ると、電線が大きく揺れていて、乗客は騒然とした。
母と合流した後に聞いた話では、このとき眼科では看護師の指導で患者含む医師が、クリニックの外へ一時避難したらしい。
焼き鳥屋はやっていた。客も開店時間から間もないのに、数人座って飲んでいた。焼き鳥屋の巨大テレビには、波に流されていく船が映し出されていた。テレビからは絶叫に近い中継の声。二度の大揺れをバスでやり過ごしたので実感がなかった私は、この光景にようやく大変な事態になってることを知った。
焼き鳥が焼き上がって、始発バス停の次のバス停から、眼科へ戻ろうとする。だがバスは、始発から満杯だった。それでもまだ何とか乗り込むことが出来た。このバス停からも多くの乗客が乗り込んで、これ以上はもう乗れない状態だった。しかし次のバス停でもバスは停車。乗り込もうとする乗客と、中にいる乗客との間で怒号が飛び交う。数名の乗客は無理やり乗り込んできた。バスの扉は何度もの開閉の動作でやっと閉まって発車した。その次のバス停でもバスは止まり、「無理だ」「乗せろ!」の問答が続いた。ここでも何名かが乗り込んだが、さすがにこれ以上は無理だった。運転手さんも、バス停に多くの客が待っていても、もう乗車口を開けることはなかった。焼き鳥どころか、こっちの内臓が破裂するのではというほどの混雑ぶりだった。誰もが黙ってると気がおかしくなりそうな状態で、かくいう私も近くの人と地震あった状況などを語り合った。
道路は渋滞して、遅々として進まない。普段ならバスでも三十分もかからないところを、二時間以上かかって目的地に着いた。眼科に行ったら、もう出られましたとのこと。この辺りでベンチがありそうなのは近くのスーパーで、やはりここに母がいた。母いわく、眼科に後から予約の人が次々やってきて邪魔になるのと、のどが渇いたから、こっちに来たとのことだった。自販機でお茶を買って飲んでいた。ふと、自販機の裏側の公衆電話が目に止まった。電話をかけると、すぐに父に繋がった。向こうも何度も私の携帯電話に電話したが、繋がらなかったとのこと。私はこの状況だから、帰宅に時間かかるだろうけど、焼き鳥は買ったからと告げて電話を切った。ベンチに座る母の元へ戻ろうと、電話から向きを変えて驚いた。私の後ろに長蛇の列が出来ていたのだ。死角にあったので、この公衆電話にみんな気づかなかったようだ。注意してみれば、確かにどこの公衆電話も、人が並んでいた。
行きは駅の南北道を通れたが、帰りは危険だということで閉鎖されていた。大回りして、自宅行きのバス停に、たどり着く。足の悪い母には可哀想だったが、タクシーも出払っていて、乗客が長蛇の列を作っている。バスに乗るのにどれぐらい待たされるか、あるいは来たバスに乗り込んで、あとは徒歩で帰宅かと考えていた。行き先の違う目の前のバスが満杯で発車した後、運良く来たのが自宅方面のバスだった。母を座らせて帰れてホッとした。
帰宅後、焼き鳥を温めて皆で食べた。レンのドッグフードにも特別に2本分の焼き鳥を混ぜて与えた。
地震がきたとき、レンは大パニックを起こしていたらしい。鎖を外して父が抱きしめて、ようやく落ち着いたところで大きな余震。それからもレンは、父から離れようとしなかったようだが、緊張が徐々にほぐれて眠り込んだとのこと。
そんな精神状態で餌を食べられるのかと思ったが、完食して水もがぶ飲みした。夕方の散歩には行ってないというので、懐中電灯を手に軽く散歩させた。
東日本大震災が起こる一週間ほど前から、レンが遠吠えに似た鳴き声を上げるようになった。叱って黙らせても、また鳴き出す。疑問に思っていたところに、この地震だった。本震がきたあと、レンがあの鳴き方をすることはなかった。
このとき以来、レンは花火や爆竹に異様な怯えを見せるようになり、加えてそれまでは歴代で一番楽なのではと思われていた狂犬病予防注射にも牙を剥いて威嚇した。
私は園芸用の革手袋をつけてレンを押さえつけようとしたが、右の親指を思いっきり噛まれた。バラを扱うときの分厚い手袋のお陰で血が滲む程度で済んだが、素手なら大怪我してただろう。
馴染みの獣医は親子で交互に診察担当になっていたが、若先生が「アレがうまいのは父だから」と、大先生を呼びに行った。「アレ」とはなにかと、処置された指を眺めて待っていると、大先生が竹槍を持って現れた。竹槍の先に注射をつけ、レンの首元に突き刺す。匠の芸当だった。
というか、昔流行った有名な獣医漫画の名物教授を彷彿とさせた。
両先生から、「これからは狂犬病予防注射はこれを使うので、お越しの前に事前に連絡してください」と、言われた。以来、レンは竹槍で注射されるようになる。後年には若先生も竹槍をマスターして、レンに注射できるようになった。
東日本大震災で、色んなことが変わった。身近なところでは、野生の狸が隣の家に出没するようになった。これまで見たこともなかっただけに、近所でも評判になった。間もなく姿を消したが、震度四レベルの地震が来る前には住宅街を徘徊するので、地震が来るなと、近所で予想することも出来るようになった。
④宝物だった日常
レンは風呂もだが、川に入るのも嫌った。だがある日を境に、川が好きになった。
たまたま父が散歩していたとき、我が家の裏側に住む当時小学生だった男の子が、友達と川で遊んでいた。そして「小父さん、レン君貸して」と言われたのでリードを渡すと、ジャブジャブ川の中に入っていった。それ以来、レンは川に入るのが好きになったのである。
風呂もオヤツを使えば、自ら入るようになった。食い意地が張っていると言われたらそれまでだが。
成犬になってからも、家の中で飼ったのはレンが初めてである。日々、長い散歩をしていたので、他の爪は削れていたが、狼爪と呼ばれる前足の横に生える爪が伸びるは早かった。いや、でも外飼でもあの爪が削れるってことあるかな。ジョンとバナナの狼爪が伸びていた記憶はないのだが。もし伸びていたら、特にジョンは父の足にしがみついて嬉ションのお出迎えの時に、ズボンに突き刺さって気づいていたはずだし、バナナの場合も兄がよく上半身を抱き上げていたので、前足をかけられた腕に食込むはずだ。
この狼爪、本物の狼にはないというのは本当なのだろうか?
ともかく、生後一年経たないうちから、レンの狼爪が長く伸びて、私が抱き上げて母が足を吹く際に、じゃれ付くときに狼爪で引っかかれるのが痛いと母がボヤいていたのだ。
小型犬ならペットサロンで切ってもらえる。近所でも犬を飼うお宅が増えたため、ペットサロンが出来た。だがそこは「柴犬等、日本犬お断り」と店先に書かれていた。獣医さんで切ってもらう選択もあるが、レンの気性の荒さでは流血は避けられない。ならば私がやるしかない。
我が家には、複数の爪切りがあった。父がよく室内で無くしてして、片付けの際に何個も古いものが出てきていたからだ。父の部屋の床は本で溢れていた。書痴でもあった父は、読んでる本に疑問があると別の本を出すを繰り返す。片付けると怒るので、よっぽど酷くなったときのみ片付け掃除を断行していたが、汚部屋の人間の決まり文句って、「自分には何がどこにあるか把握している」だが、その割に爪切りだけでなくハサミも室内で無くして、その代替にキッチンバサミまで持っていくから、母が怒る怒る。
そう言えばバナナが亡くなる前に、母が大病した話は書いた。入院と退院後しばらくは、私が食事を作っていた。だが母は台所に立つのが好きで、元気になるといつの間にか、母が朝食を作るため台所に立つようになった。父は、母の作る味噌汁の方がうまいと褒めるものだから、朝食は母の担当になった。なにしろ朝の五時半から台所に立つから、私では真似できない。夕食は引き続き私が、昼食はどちらかが作るのが新しい生活ペースになっていた。
レンの狼爪切りに戻る。レンは頭がいいので、最初の一回目だけ苦労したが、あとは諦めて私に逆らわなくなった。
本当にその一回目が苦労した。約一時間、家どころか庭中を追い回し、牙を向けて威嚇したときには、園芸用の棒で叩いて叱りつけた。動物虐待と言われたらそれまでだが、話して納得してもらえる相手なら叩いたりしない。最後は部屋の角に追い詰めて、降参したレンの爪を切った。最初は驚きと恐怖でキャインと悲痛な叫びを上げたが、「あれ、痛くない?」と気付いたもう片方の前足の狼爪は大人しく切られた。
こうして爪切りは、私限定だが出来るようになったが、切った爪をバクリと食べてしまうので、勢いで飛んだ爪の回収争奪戦は続いた。
兄はジョンもバナナも、前足の脇を掴んで抱き上げて話しかけるのが好きだった。レンにもたまにしていたが、本気一歩手前の流血しない程度に噛まれていた。レンなりの配慮だったが、兄はその度に悲鳴を上げていた。
兄はレンにも色んなものを買ってきた。五月になると小さな鯉のぼりを買ってきて、小屋の横につけた。レンに邪魔だとすぐに引きちぎられていたが。また、犬用の珍しいお菓子やケーキも買ってきた。バナナのときもよく犬用ケーキを買ってきて与えていたが、この見た目の可愛い犬用ケーキ、見た目に似合わない繊細の胃の持ち主だったレンは喜んで食べたものの、数分としないうちに吐き出した。慣れない食べ物は受け付けない体質だったのだ。ドッグフードも犬用缶詰も、おやつもほぼ決まったものを与えていた。手作り餌はもうやめていた。カリカリドッグフードに、缶詰を混ぜる。一食タイプの缶詰のメーカーに拘りはないようで、バナナのように特定メーカーの缶詰を見てよだれを出すことはなかった。ただ大きな缶詰の場合は成分が違うのか、吐いてしまうので使えなかった。
缶詰でなく肉を混ぜることもあった。味付け無しの炒めた肉に、キャベツかレタスを少々加えたもの。
塩分には気をつけていたが、父は散歩途中にコンビニでタバコを買うついでに、唐揚げを買ってはレンに与えていた。唐揚げ、焼き鳥はレンの胃には問題なかったようだ。
ボール遊びは好きだが飽きっぽかった。食後三十分の激しい運動は、犬が胃捻転を起こす危険があると漫画で知ったので、遊ぶのは食事前か、食後三十分後以降。だが遊びたいと思うと、室内の場合はレンが立ち上がってケージの上の箱からボールを取り出し、トイレに向かおうとする家族に転がして「投げろ」とアピールした。兄の買ってきた音の出る玩具を鳴らしてアピールすることもあった。
庭に放している時は、物置に置いていたボールで遊ばせていたが、レンの好きなボールは音が出るものだった。ピーピー鳴らして非常にうるさい、が、顎の力がそこそこ強いのですぐに壊れてしまう。酷い時は下ろしたての柔らかいボールに一分ほどで穴を開けた。だから、ボール遊びにはテニスボールが適していた。レンを可愛がる小父さんがテニスを趣味としていて、使いづらくなったボールをくれるのも有り難かった。倉庫の下に入り込んで、園芸用の長い支柱を使っても、どうしても取れないときもあったからだ。
私との散歩の際には、広場に他の犬がいない時はロングリードに切り替えてボール遊びをさせていた。父にはロングリードの使用を禁じて隠していた。一度、父の散歩中に、他の犬と喧嘩になったこおがあったのだ。互いにロングリードを使っていて、絡まりを解くのに難儀したらしい。幸い、互いの犬とも怪我がなかったらしいが、それ以降は普通のリードのみで散歩してもらった。
⑤死の影
…私はレンの存在によって、難関を乗り切ることができた。しかし今でも思う。レンは、我が家ではなく、別の家で買われた方が幸せではなかったのだろうかと。
家族に影がさし始めたのは、2013年だった。父は糖尿病が悪化し始め、通院していた病院に検査及び指導入院をすることになった。それが二月中頃だったと思う。思うという言い方は、調べればスケジュール帳に日にちが記載してあるが、いまはそのスケジュール帳の束を見るのが辛い。私のスケジュール帳は、この2013年から家族の通院記録で埋め尽くされていたからだ。
三月末に父が退院したのと入れ替わるように、母に発疹が出来た。最初はかぶれかアレルギーかと思われたが、いくつものクリニックで薬を処方されても治らない。父の通っていた総合病院の皮膚科で見せたところ、膠原病の疑いがあると言われて、検査してもらっていた。夏になると母の両耳が聞こえなくなった。総合病院併設の耳鼻科では老人性難聴だと診断されたが、急に両耳が聞こえなくなるなんてあるだろうか。耳元で大声で話さないと聞こえないなんておかしい。膠原病に、そうした症状の出る種類があったが、あいにくと、この病院のリウマチ膠原病内科に常駐医師がいないため、そのとき抱えている患者以外は受け付けなかった。
苦心して探し当てた膠原病を専門的に扱う都心の病院で診察してもらったところ、母はやはり膠原病で、すぐに入院する必要があった。だが都心でも数少ない専門病院のため、膠原病病棟のベッドが空くまで一週間程度かかった。検査しながら治療というスケジュールだったが、入院三日後にステロイドパルスを行う電話が病院からあった。
膠原病には様々な種類がある。前に通っていた市内の総合病院皮膚科で、膠原病の中でもメジャーな皮膚筋炎が疑われていた。都心の病院は、種類を探るよりもまず、病状を落ち着かせることに切り替えたらしい。ステロイドパルスは、三日間、点滴でステロイドを注入する。ステロイドを大量にという不安から、すぐに準備して病院へ向かった。ステロイドパルスの威力は凄かった。母の耳が通常に戻ったのである。検査結果は、三種類の膠原病が混じった珍しいタイプで、研究用にと何度か治療とは別の採血が行われた。
この病院で母が「せん妄」を起こすことはなかった。一度目の入院は一ヶ月程度で退院したが、症状を抑えるための免疫抑制剤点滴入院がその後三か月間、日数は三日間程度だが行われた。ステロイドの副作用として、皮膚が傷つきやすくなること、血糖値上昇で糖尿病になり、インスリン注射が必要になった。
父も、母の膠原病発症の翌年か翌々年から、インスリン注射をするようになった。
やっと生活が落ち着いたと思った頃、兄が脳出血で集中治療室に運ばれた。症状が安定した頃、リハビリ専門病院に転院して、幸い後遺症もほとんどなく退院できたが、自宅に帰るまで数ヶ月を要した。
それで落ち着く間もなく、父の腎機能が悪化した。しばらく外来で処方された注射と飲み薬で保ったが、糖尿病性腎機能障害は坂道を転がるように悪化する。そして腎不全となり、人工透析に移行した。
それから数年は透析は疲れると、ぼやきながらも、透析用のシャントの入った左腕さえ使わねば散歩もできたし、食欲もあった。だが後に膵臓がんが発覚。手術を希望した父だったが、受け付けてくれる病院は見つからず、2020年春にこの世を去った。
父の臨終には間に合わなかった。透析のできる療養型病院が遠かったのである。療養型病院への転院の際、私は医師から「どれほど手を尽くしても後悔のない看取りはない」と言われた。それでも私は後悔した。療養型病院へ転院すれば、あと三か月ぐらい生きられると言われた。しかし蓋を開けてみれば、父は転院後僅か一週間で、家族に看取られることなくこの世を去った。私が透析を終了選択すれば、確実に数日後には亡くなるが、自宅で看取ることが出来たのだ。最期の時間を、両親が築き上げた家で終えることが出来たのだ。結果論であれ、私は父に申し訳なくて、謝りたくて。でもそのその言葉はもう届かない。
自宅に無言の帰宅をした父は、火葬までの一週間、自宅で安置された。葬儀屋さんが運んでくれるドライアイスと、設定温度の最低気温で冷やされた仏間で、父の亡骸は過ごした。透析開始に合わせて購入したベッドに、レンはずっと付き添っていた。
散歩のたびに、私はベンチでレンを抱き上げて泣いた。母と悲しみを共有することは出来なかった。母にとっても、父の死の衝撃が強すぎたのだ。アルツハイマー性認知症の診断を受けていたが、それまでは普通に応対できた。だが父の死を境に、母の認知機能は、目に見えて低下していった。
父の出棺のとき、レンは狂ったように泣き叫んだ。悲痛な声は胸をえぐられた。レンにも、これが本当に父との別れだと分かったのだろう。遺骨になって戻った父に、レンは反応しなかった。昔のように父の部屋の出入り口を塞ぐような寝方をしていたが。
夏頃から、急にレンの体に変調が見られるようになった。鼻血をよく出すようになったのである。秋には認知症行動が出るようになった。
私が、肝硬変で入院している兄の必要不可欠な物を届けに行って帰ってきたときだった。この時期は世界中を恐怖のどん底に落としたウイルスのせいで、面会謝絶されていた。パジャマやタオルもレンタルと決められていた。しかし靴下や紙パンツやテレビカード用のお金を届ける必要があったので、病院へは頻繁に行かなくてはならなかった。兄の今後を医師や相談員とする必要もあった。父の余命宣告とほぼ同時期に、兄の余命宣告も出た。
レンは、母が宅急便を受け取っている隙間を通って、外へ出てしまったのだ。この頃のレンはもう長く散歩するのも稀で、家では寝てばかりだった。だから家の中で放していたのである。それが仇となった。
それほど遠くに行ける体力は、もうレンにはないはず。レンが家を出たのも、一時間も経っていなかったらしい。どこかで倒れてるのではないかと、自転車で散歩コースを巡り、犬を散歩させている人に老犬の柴犬を見なかったか尋ねた。やっとレンの行方を知る小学生に出会った。倒れていた犬に誰かが通報して、駐在所に運ばれたとのこと。
私は溢れる涙を堪えながら、駐在所に向かった。レンが倒れていたのは、父が散歩でおやつを必ず与えていたベンチの近くだったのだ。レンは、父を探すために外に出たのだろう。
駐在所につくと、一足遅く、レンは警察署に向かったばかりだった。駐在所の奥さんから(旦那さんの駐在員が警察署にレンを運び中)、警察署に連絡してくれた。身分証明書持参と、自家用車がないことを告げると、ペットタクシーで来てくださいとのこと。
急いで帰宅して、手当たり次第のペットタクシーに連絡したが、どこも飛び込みの客を受け付けてくれない。
困り果てて、いつも家族の送迎に使っているタクシー会社に電話して相談すると、キャリーバッグがあるならタクシーでの送迎が可能ということで、タクシーに自宅まで来てもらった。警察署に行くにはバスを乗り継ぐ必要があって、時間もかかるのと、15キロの柴犬を入れる大きなキャリーバッグは折りたたみ可能だったが持ち歩くのは大きすぎたのだ。何より、レンの容態が心配だった。
自宅まで来てくれた運転手さんには会社から話が通っていて、「手続きに時間かかりそうだから、警察署についたら一旦精算して。私は会社に待機してるから、終わったら会社に自分(タクシー運転手さんの名前)を指定くれたらすぐに来るから。犬が苦手な運転手も居るから、そのほうがいいでしょ」と親切に申し出てくれた。警察署につくまで、この方とは犬について語り合った。自宅でも犬を飼っている愛犬家だったのだ。
警察署に到着してタクシーから下車し、転げるように警察署内に入った。話が通っていたので、身分証明書を見せると、すぐにレンのいる物置に案内された。ケージの中で丸まっていたレンは、私を見るなり立ち上がって尻尾をチロッチロッと振った。レンなりの喜びの表現だ。倒れていたと聞いたから、最悪の事態も考えていた。
タクシー会社に連絡して、警察署に連れてきてくれたタクシー運転手さんが来てくれた。布製のキャリーバッグに入ったレンに、無事で良かったと声をかけてくれた。
あれほど車酔いが酷かったのに、三半規管が衰えたのか、吐いたりもせず自宅に到着した。母の手を借りながら、レンの足と、体も軽く拭いた。牛乳を与えると、喜んで飲んだ。本当はいけないのだが、レンが幼犬の頃から飲んでいた粉ミルクを、容態が悪くなった夏の猛暑の頃から飲まなくなった。試しに人間用の牛乳を与えたら、美味しそうに飲むので、熱中症対策に牛乳を与えていたら、すっかり気に入ってしまったのだ。寒くなってきて、ぬるま湯に溶かした粉ミルクもまた飲み始めたが、牛乳よりも飲む勢いが違う。仕方ないから飲んでやるって感じだった。
しばらく時間を置いてから餌を与えたら、完食した。
あのときは本当に一日がジェットコースターで、私も疲れ果てたが、レンもかなり疲れていたらしく、食べ終わるとリビングの隅で熟睡した。
母を都心の病院に外来受診するときは、レンを家の中で放し、水皿も各所においていた。警察署の一件があってから、レンの認知症が一気に進んだのだ。帰宅すると、大抵は父のベッドの隙間に挟まっていた。
父が亡くなった同じ年の勤労感謝の日、兄は帰らぬ人となった。臨終には、またしても立ち会えなかったが、朝に病院からそろそろ危ないので来てくださいという電話があり、三十分の面会を許されたのだ。まだ意識があって、兄は「カルピスが飲みたい」と言っていた。看護師に確認したら、無理だと言われてしまった。後で氷を口に含ませるからと言われて、面会時間終了。後ろ髪引かれながら、母と帰宅。その夜、危篤の知らせで駆けつけたが、着いたときには息を引き取っていた。
兄の在宅看護は、はじめから無理だった。もともと体格も良かったが、浮腫も加わって、百キロ以上の体重になっていたのだ。さすがに床ずれ防止の寝返りさえ、私には無理だった。何より、母の通院付き添いで隔週で都心の病院に、連れて行かねばならない。母はこの年のはじめ、原発不明癌と診断された。父のときも使用した全身を細かく見るPET検査でも分からなかった。だが癌マーカーは確実に上がり始めていた。また、膠原病をはじめとする多くの診療科へ受診していた。この病院の診療科は、ほぼ制覇したのでは思えるほどに。
兄への後悔は、最期の望みだったカルピスを飲ませてあげれなかったこと。最近は臨終前のアイスクリームということが定着化しつつある。看護師に相談せず、こっそりカルピスを買ってきて、テイッシュにでも含ませて味あわせてあげれば良かったと悔やむ。
無言の帰宅をした兄に真っ先にしたことは、真夜中の自販機にカルピスを買いに行って供えたことだった。
レンと過ごした最後のクリスマスと正月は、レンと二人きりだった。母が十二月はじめから腎炎で、市内の病院に入院していたからだ。
散歩で全工程を歩いて帰宅するのが半々となり、途中から動けなくなったレンを抱きかかえて帰ることも増えてきた。それでも家の中では私の後をついて、チョコチョコと歩き回っていた。私が自分の食事を調理してるとき、肉の欠片が床に落ちると、レンがすかさずパクリと食べていた。
母のベッドは、リビングにあった。2005年の感染症で体が衰えたとき、退院後に一階のトイレに近いリビングで寝起きできるようにベッドを購入したのだ。それまでは布団を使っていた。母の入院中、私はリビングの母のベッドを使った。レンがベッド脇で安心して寝てくれるからだ。元気な頃だったら、ベッドに上がって寝ていたことだろう。
青年期のレンのジャンプ力は凄かった。庭で投げたボールを空中キャッチしたり、遊びの中で駐車場の階段はジャンプして飛び降りるので、足に負担がかからないか心配したほどだ。
だが瞬発力はバナナのが勝っていたと思われる。私がこの目で見た訳では無いが、父が散歩中にロングリードで広場で遊ばせていたとき、低空飛行のツバメを捕らえたというのだから。「そのツバメ、どうしたの?」と尋ねたら、バナナから取り上げて放っておいたとのこと。生死不明のあのときのツバメ、その後、どうなっていたのだろうか?
ジョンはおっとりした性格と、生き物やボール遊びには無関心だったから、瞬発力やジャンプ力は分からない。ただ動体視力は三匹の中でトップだったと思う。投げたチーズの欠片を確実に口キャッチできたのは、ジョンだけだったからだ。バナナとレンも口キャッチは出来たが、成功率は七割程度だった。
母は翌年一月に退院して我が家に戻ってきた。この頃から、レンの容態が悪化していった。頻繁に発作を起こすようになり、食欲も落ちてきた。それに伴って糞も出なくなり、綿棒を油で浸して掻き出さなければならなかった。
獣医に連れて行く決断をした。馴染みの獣医は若先生が担当していた。後にレンが亡くなった報告とお礼を言いにいった際に、大先生は既に亡くなっていたことを知った。
検査結果は癌だった。心臓にも負担が来ていた。ステロイドが処方されたが、余計に体調が悪くなったのを報告したら、痛みを緩和する薬だけ飲ませることにした。
兄の納骨は、父の一周忌法要の際に行った。それを見届けるために頑張ってきたとしか思えない。四月二十七日の午後九時、レンはキャンキャンと鳴いた後、息を引き取った。
十四才十ヶ月。ウチの犬たちは、どの子も十五歳の壁を越えられなかった。
ただ思うことがある。もしも父が健在だったなら、レンは癌にならなかったのだろうかと。飼い主を愛しすぎる犬が、後を追うように亡くなる話はよく耳にする。
父の出棺のとき、悲痛な声で鳴いていたレン。いまなら違った受け止め方ができる。「連れて行かないで」ではなく、「僕もすぐに追いかけるよ、だけど家族が心配だから少しだけ待ってて」と。
実際、レンの支えがなければ、父と兄の死の悲しみで潰れて、諸手続きも出来なかっただろう。
恐らくレンは、嬉々として虹の橋を渡り、父の胸に飛び込んだに違いない。その周囲で、ジョンが大好きな父を取るなと怒っている姿が目に浮かぶ。バナナは兄と一緒に、「こんなときぐらい大目に見てやれよ」と呆れているに違いない。ジョンは温厚だったが、父が絡むと嫉妬深くなる。お向かいの犬を撫でただけで猛抗議の吠え方をして、父が家の中で放し飼いにして可愛がっていた文鳥が、あるとき庭に出てしまったときには、野鳥には普段無関心なジョンが、文鳥を噛み殺そうと襲いかかるのを寸前で救出した事があった。
レンは夢にも霊にも出てこなかった。やっと会えた父に、省エネの尻尾の振り方をしながらも離れないに違いない。
ともかくレンは、父に対して大きな孝行を果たした。父より早くに旅立たず、父を悲しませなかった唯一の犬なのだから。
親友はレンのために花を贈ってれた。のちに遺影の写真立てを、会ったときにくれた。写真立てには、以前にスマホで送った桜の下で半笑いしているようなレンの写真が収められていた。スマホからプリントしてくれたのだ。いつも写真を撮ろうとすると無表情や不機嫌な顔になるので、この遺影の表情は貴重だった。
ジョンとバナナは、父の運転する自家用車で遺体を火葬場まで運んだが、既に車は処分していたので、霊園の送迎車で火葬前日に運んでもらった。大好きな父の使っていたタオルを段ボールの棺に敷き詰め、私の上着にレンを包みこんだ。未使用だった鳴る玩具、ペットフードやおやつをたくさん入れて、庭の花を中に入れた。早咲きのバラ、ツツジ、遅れて咲いたチューリップ。折り鶴も作れるだけ作って入れた。
翌日の火葬式は母と参加した。母は喪服を着ると言って聞かなかったが、火葬場は蚊が多い。スカートでは蚊に刺される。いつもの散歩の延長のつもりで行こうと言い聞かせて、私服にした。火葬時間に合わせて、タクシーで霊園に向かった。
火葬炉が新調されたことで、金属は駄目だがプラスチックのボールやタオルと衣類も火葬することが出来た。缶入りの食べ慣れた缶詰は、職員さんが紙コップに移し替えてくれた。前夜に幼馴染が折り鶴を折って持ってきてくれたので、それも一緒にしてもらった。
霊園の喫茶店で待つことしばし、火葬時間も短縮されて、レンの骨は寝ている姿のまま形を保っていた。職員さんが丁寧に骨の説明をしてくれた後、母と二人で大きな骨を、忘れな草の花が描かれた白い骨壺に入れた。細かい骨は職員さんが納めてくれた。ほぼ骨壺に合った量の骨だった。そして骨太だった。オスだからか、毎日のミルクや父が犬のために惜しまなかった健康的な犬用おやつのお陰なのか。
タクシーで自宅に骨壺に収まったレンを連れ帰る。リビングの棚に親友が贈ってくれた花を飾り、自宅にあった写真立てに手持ちの写真をの中からマシな表情のものを入れた。
霊園に登録する際、レンの名前を漢字で蓮にした。後日談になるが、私は位牌注文の際に、間違えて命日を二十七日ではなく二十三日にしてしまった。兄の命日と混同してしまったのである。まあ霊園登記には正確な命日が載っているし、お坊さんが魂入れもしてくれているので、そのままにしてある。
その後も別の親友から、お供えのフードとお線香をいただいた。レンと過ごした最後の年末、彼女は我が家に遊びに来た。そして二人でハマっていた某有名アニメのディスクをリビングのテレビで見ながら熱く語り合ったが、彼女は無類の柴犬好きで、レンをモフりたおしていた。レンも本物の犬好きなのが分かるのか、触るのを許していた。レンのために選んでくれたお線香は、あの日見たアニメのコラボお線香だった。
バナナの位牌は私の自室にある。ジョンのときはペット位牌の概念がなく作りそびれたが、代わりに蓮の花の置物を遺影の前に飾っている。
ジョンとバナナの遺影は、父の使っていた仏間、リビングにもある。兄の部屋を整理したとき、兄もジョンとバナナの写真を飾っていた。
家族皆が、犬達を愛していた。
二度目の父の命日、お釈迦様の誕生日の翌日、大きめのリュックにレンの遺骨と遺影を入れた。途中の霊園でバスを降りる。レンの遺骨に、父をはじめとする兄や祖父母に挨拶するためだ。レンの納骨はこの日と決めていた。母はデイサービスに預けていた。
墓参の後、再びバスに乗る。動物霊園は不便な場所にあるため、ここからタクシーを使うのが良いのだが、少しでも長くレンと最後の散歩をしたかったので、動物霊園まで歩くことにした。
あの世界を恐怖に陥れたウィルスの影響で、合同供養はなくなった。無料送迎バスも取りやめになった。
桜が散る細い道をレンの遺骨を背負って歩く。晴れた空の下、桜の花びらが舞う。
ジョンの時代の頃は、ようやく桜が見頃の時期を迎えるか否かだったのに、気候も随分と変わったものだ。あの頃は真夏でも三十度を越えるのも稀だった。
動物霊園に到着して、レンの骨壺を受け付けに託そうと手続きする。名残惜しげに骨つぼに被せた布を撫でていたら、職員さんが納骨まで遺骨を安置する供養塔へ案内してくれ、蝋燭とお線香に火を灯す。「気がすむまで、こちらで最後のお別れをなさってください」と言い、帰る時は蝋燭は消してくださいと付け加えて事務所に戻っていった。仏様を取り囲むように棚があり、多くの骨壺が安置されていた。レンの骨壺は、仏様の御前に一時的に置かれた。私が帰った後、棚の何処かに入れられて、共同墓地に葬られるときまで待つのだろう。私はレンに、「ありがとう」と「ゴメン」しか言えなかった。
犬を見送ることが今まであっても、家族を見送った愛犬は、レンが最初で最後だ。本当に辛い思いをさせてしまって、申し訳なさしかない。
蝋燭を消して供養塔を出る。タクシーを呼ぶか考えていたとき、休憩所の隣に小さな建物があるのに初めて気付いた。中には行ってみると、壁一面に亡くなったペットへの伝言が、備え付けの色とりどりのメモ用紙に沢山貼られていた。私もレン、蓮へのお礼と、ジョンとバナナに弟を可愛がってほしいとメモ用紙に書いた。それをコルクボードに画鋲で貼り付ける。これらのメモは、お盆のときにお焚き上げすると書かれていた。
他の人の亡くしたペットへの伝言を見ると、愛情と深い悲しみが書かれていた。そして虹の橋の彼方で、安らかに、楽しく暮らしてほしいとの願い。
顔も名前も知らない人達の感情が入り込んでくる。涙が止まらなかった。こんな顔ではタクシーに乗れない。
散華、父が亡くなったあの夜も桜の花びらが舞っていた。私は軽くなったリュックを背負って、桜舞う中を泣きながら駅へ向かった。
終章
父が逝き、兄も去り、そして蓮が虹の橋を渡ったことで、細い糸で保たれていた母の心は壊れた。あるときは父を、あるときは兄を、あるときはレンを探しに徘徊した。夜中にそっと外に出て、探しても見つからずに警察に連絡すると、保護されていた事もあった。デイサービスの迎えの来るほんの僅かな時間に姿を消して、デイサービスの方々総出で探してもらって、どうやって其処へ行ったのか、とんでもない場所で発見されたこともある。しきりに家に帰りたいと言い、何処の家かと尋ねれば、両親と姉と弟が暮らしていた家だったり(母の両親は鬼籍に、母の姉も十代で早世している)、自宅は自宅でも建て替え前の平屋だったり。私のことも、たまに介護士と間違えて敬語で話した。
そんな母も2023年のひな祭りの早朝、自宅で静かに息を引き取った。
都心の病院へ通うのに、母よりも私が限界を迎え、病院の相談室で話し合った結果、市内の病院に変えることになった。十年一昔、以前は受け入れ先が市内に無かったが、父がお世話になった総合病院とは別の病院のリウマチ内科で、膠原病も外来診察してくれることになったのだ。だがそこに通ったのも一年ほどで、在宅医療に切り替えた。病院の相談員や、デイサービスのケアマネからは、療養型病院を勧められた。私の心身を心配してのことだったが、母だけは最期を穏やかに過ごしてほしかった。
自宅で最期を迎えたジョンとレンは、亡くなる当日まで好きなものを食べた。バナナは動物病院で食事も拒絶して逝った。父と兄は手足を拘束されていた。体中に管を入れられていたので、それを引き抜かないようにだ。我慢強い父が亡くなる前日、拘束を解けと暴れたらしい。後でそれを聞かされて、悔やんでも悔やみきれなかった。寿命を縮めてでも、自宅に連れ帰るべきだった。延命治療にはサインしなかったが、拘束のサインはした。父の喉には栄養を送る管が入っていたからだ。あの忌まわしいウイルスさえなければ、日参して父の監視を条件に、拘束を解く時間も確保できただろうに。
ともかく母には穏やかな最期を迎えてほしかった。重体になって、意識不明になる直前、母の顔を濡れタオルで拭いている時に「ありがとう」と母は言った。顔を拭いた礼なのか、それとも自宅で最期を迎える準備を整えたことへの「ありがとう」なのか、わからない。だが、私は後者だと思っている。
在宅医の付き添看護師さんは、いつでも受け入れられるように、病院のベッドは空けてあると言ってくれた。
だが膠原病発症以来、年に何度も様々な病気で入退院を繰り返していたのだ。精一杯頑張って生きてくれたのだ。沢山の別れを連続して耐えてきたのだ。最期ぐらいは、検査三昧から開放され、慣れしたんだ我が家で、大好きな家族の迎えを待つのもいいだろう。
意識不明になってからも、脈が危険水域に達しても、実弟の声を電話越しに聞くと、正常域に戻ったりした。私が「夜中の見送りは寂しすぎるから、旅立つ時は、せめて明るい時間にしてよ」と言ったら、生命活動を止めたのは本当に夜明け間近だった。
母の両親、父、兄、三匹の写真と小さな陶器の雛人形に見守られ、母は生涯に幕を下ろした。
どうしてレンを、もっと早くに獣医に診せなかったのかかという疑問を抱く人が多いはず。答えは単純、家のお金が尽きていたからだ。
難病は申請すれば、難病診療上限が決まるが、障害者ではない。障害者も等級によってサービスが異なる。一級障害者の父と兄は、通院支給されたタクシー券が使えたが、転院時の際の介護タクシーは使えない。オムツ助成金も、初期なら足りる額だが、トイレにも間に合わなくなると、オムツ枚数は格段に増え、上限額を超えたら実費となる。介護費用は適用と適用外がある。この適用外が意外と負担が重い。なによりも、付添の交通費は確定申告対象外だ。近隣ならともかく、都心の病院への交通費は馬鹿にならない。同じ市内でも、ド田舎の我が家から駅へ行くバス代もヘビーだった。
それでも父が生きていたときは、厚生年金でやり繰りできた。父の年金が止まり、お葬式や納骨が続くと、瞬く間にお金は消えていく。本当にギリギリのラインでの生活で、市役所に相談しに行ってもいた。遺族年金があるので、生活保護を受ける基準ではない。持ち家を売る選択肢は、母の認知症がなければ視野に入れても良かったが、昔なじみのご近所さんの協力で、徘徊してもすぐに見かけたら報せてもらえた。
国や市の助成には感謝している。身体障害者認定の援助、難病保険証、オムツ助成金、介護保険のおかげで、母を送り出すまで、何とか持ちこたえることが出来た。
将来を見越した預貯金、投資。だが未来なんて一寸先さえ分からない。家族の中で真っ先に死ぬと思われていた私が、最後に残ったのもその一つ。
もう一つは、親戚への借金返済のため、自宅を売却する手続き時になってから、致命的な欠陥が見つかった。
住むのに問題はなかった。むしろ前の平屋よりも頑丈で、バリアフリーは大いに役立った。
問題があったのは、建築確認通知書の申請を、建て替え依頼した大手建築会社がしていなかったことだ。いまは法律化されているが、我が家が建て替えたのは法整備直前。建築確認通知書の有無で売却に雲泥の差が出ることを初めて知った。もちろん救済処置もある。改めて国の認可を得た専門業者に依頼して、作成して貰うのだ。都心部の億近い値段の家なら、やるべきだろう。
しかしド田舎のただでさえ安い場所の、築三十年弱の家が改めて建築確認通知書を作るっても手間賃が百万単位、これを評価額から差し引けば、不動産会社が提示した額とほぼ変わらない。変わらないどころか、確認のための時間がかかる。無収入の私には切実な問題だった。ともかく、評価額より大幅に下がったが、ド田舎の家が売れただけでも幸運だった。叔父からは「なんで相談しなかったんだ!」と言われたが、私は目の前のことをこなすだけで精一杯だった。
加えて燃え尽き症候群というか、無意味な人生にほとほと嫌気が差していた私の自殺願望は、不眠症と共に、馴染みの精神科クリニックの医師から危険視されて、とりあえず休むようにと障害者申請書を作成してくれた。申請は通ったが、障害者年金が受けれるレベルではない。それでもバス移動が不可欠な地域住まいの者にとっては、バス代が半額になるのはとても助かったし、精神科クリニックの診療費負担がなくなったことも感謝しかない。
私のパニック障害(主に車酔い)は、母の一度目の危篤時に寛解した。だが母の膠原病通院付添いなどの負担で再発して、薬なしでは長時間の電車移動も耐えられなくなっていた。
四年間で両親、兄、レンを見送った。燃え尽きた私を支えてくれたのは、優しい親友たちだった。特に母の出館のとき、一人で母を見送る覚悟をしていた私のために、火葬式に駆けつけてくれた親友には、心から感謝する。
母の死の前年、恥を押し殺して叔父に借金を申し込んだ。このとき二人の叔父が自宅までわざわざ来てくれて、お金を貸してくれたが、これが三姉弟が揃った最後であり、写真でも撮っておけば良かったと今でも思う。
あのとき元気そうだった長男叔父が、まさか母の死後半年後に癌で亡くなるとは、連絡を受けたときは到底信じられなかった。自宅の正式売却が決まり、借金を返せる目処がやっとついた日だった。
…本当に、人生なんてものは分からない。借金は御香典と共に、従姉妹に手渡した。このとき、人生でほとんど初めて、長男叔父の娘さん達と会話した。
ジョンは地元で生まれた雑種だった。
バナナは山梨県で保護された。
レンは茨城県から店に送られた。
ジョンはともかく、バナナとレンは、本来なら遠い地域で生まれたため、出会うはずもなかった。それが様々な縁で我が家と結ばれた。この三匹は、我が家に光をもたらした。亡くしたときの悲しみの波も壮絶だったが、彼らが私たち家族にもたらした幸せが大きかった証でもある。
…生きていかねばならない。もうこの世では私しか、あの愛しい愛犬たちの素顔を知らないのだから。
最後に。
この文書を書き始めてから間もなく、親友の愛犬が虹の橋を渡ったことを報された。私は泣かずにはいられなかった。親友の愛犬とは一度しか会ったことがない。小型犬の可愛い子で、抱っこさせてもらったときの驚くほどの軽さ。成犬にも関わらず、子犬だったレンが家に来た時よりも軽かった。
この子は、レンと同じ年だった。そのせいか、犬種は全く違うけど、勝手にレンの兄弟のように思っていた。レンが天へ旅立ってから、特にこの子がレンの分まで頑張って生きているが励みだった。老犬年齢に差し掛かってから病気がちになったらしいが、家族が全力で看病して、本当にとても大切にされてきた。
十七歳九ヶ月の命を全うして、虹の橋を渡った君へ。頑張ったね。天国でウチの犬たちと仲良くしてね。
令和六年夏至前日。完
犬にも性格がある。それは重々分かってたつもりだったが、それにしたって性格が違いすぎて、遺影を見る度に笑ってしまう。
今後、私が犬を飼うことはないだろう。私を取り巻く環境は変わりすぎた。仮に飼える環境が整ったとしても、もう愛犬を失う苦痛には耐えられない。
実は幼い頃の私は、犬が苦手だった。当時は大らかな生活環境だったため、散歩させるのが面倒な家は、犬を放し飼いにしてたのだ。この頃、血統証付の小型犬を飼っている方が珍しい。否、皆無だった。どこの家庭も中型の雑種犬で、家の中で飼うなど考えられなかった。家族より番犬という位置づけが強かった時代だった。
鎖に繋がれた犬や、庭を厳重に囲って放し飼いしている犬に恐怖心はなかったが、放し飼いの犬は恐怖の対象でしかなかった。なにしろ大勢の子供たちと遊んでるときでも、犬にロックオンされて追いかけられ、飛びつかれるのは私だったからだ。
飼うなら猫がいい、当時はそう思っていた。だがウチの両親は大の猫嫌い。動物を飼うことに憧れていたが、それが何故か、親戚からもらった凶暴なコザクラインコになったのは謎だ。どうせなら、手乗りの可愛いセキセイインコのヒナが欲しかったのに。
家には十年近く生きた金魚もいた。兄が縁日で取ってきた金魚だ。何の設備もなく、梅酒用の瓶でよくぞ長生きしたものだ。
後年、母が魚屋で4匹の金魚セットを買ってきた。何故、魚屋で生きた金魚を売っていたのか、考えるのも怖いが、その金魚たちもかなり長生きした。最終的には、いつも出前に来る寿司屋が、ウチのはいつも早く死んでしまってと嘆いたので、母が寿司屋の奥さんにあげてしまったが。魚屋から寿司屋へ、かなりヘビーな運命を突きつけられた金魚たちのその後は知らない。
私が犬が欲しいと思うようになったきっかけは、動物小説家の戸川幸夫先生著書の「オーロラの下で」がきっかけだった。
当時、小学校三年生だっただろうか、担任の先生が各自で自分の愛読書を持ってきて、教室図書館を作ろうと提案した。このとき私は自分が何の本を持っていったか記憶にないが、ある男子児童が持ってきた「オーロラの下で」を読んで衝撃を受けた。
この話はカナダでの実話を、戸川幸夫先生が脚色したものだったらしいが、私の人生で十指に入る感動名作の児童書は、母に頼んで探して買ってきてもらい、いまも本棚の片隅にある。
このとき以来、私の読書傾向は犬や狼、あるい動物全般を主人公とした物語に偏った。夏の宿題の読書感想文も、教室で図書室の本をどれだけ読んだかのレース式シールの色も、動物シリーズを示す青のシールで占められていた。
もっとも犬を飼うまでには二年の歳月を要した。まず母が、犬を飼うことに猛反対したのだ。家族に犬嫌いはいなかったが、私がインコが死んだぐらいで学校休むほど泣き明かすほどだったから、犬のように家族に近い存在が亡くなれば、手がつけられなくなると考えたのだろう。
そしてもう一つ、母が犬を飼いたくない理由を後に知った。母には子供の頃、可愛がっていた犬がいた。だがある日、鎖をつけずに祖母が散歩していたところ、犬狩りに遭遇し、祖母が「この犬は私の犬です」と言っても聞き入れられず施設に連れて行かれ、すぐさま後を追いかけて施設に愛犬を引き取りに行ったときには、既に殺処分された後だった。このときのトラウマで、母は犬を飼う事を拒んだのである。
だが執念深い私は、毎日のように犬が欲しいと言い続け、ときに母に叱られながらも泣きながら犬が欲しいと訴えた。ついに母が折れたのが、私が犬を欲しがった一年後だった。
しかしこの頃、雌犬を飼っている家は少なかった。近所の可愛い雌犬が子犬を身ごもったと聞いたとき、母は生まれたら是非我が家にと約束を取り付けたのだが、残念ながらその雌犬はフィラリアに侵させており、子犬が生まれる前に亡くなってしまった。
その後も母は、私の知らない間に、子犬探しに奔走したらしい。ちなみに、血統書付きの犬を購入するという選択肢はなかった。そもそもペットショップが近隣にない田舎であり、犬を高額で購入するという発想が理解できなかった時代だった。
一、初代愛犬ジョン
①子犬選び
昭和五十六年の六月のことだった。母は何も言わずに、私を知らない家に連れて行った。この頃の私は知らなかったが、同じ町内会の家だったらしく、母とも顔見知りだった。
そこの家の玄関では、真っ白な雌犬が七匹の子犬を育てていた。まだ目も開かない、ミルクの匂いなする子犬たち。唯一、黒の子犬だけは既に貰い手が決まっていたが、私は飼うなら白い犬が良かったので、特に気にならなかった。それよりも、目の前の六匹の似たような子犬から、どの子を選ぶかが問題だった。
喜びの興奮状態だったこともあり、迷いに迷った。その中で、目に見えない一匹の子犬が、私の手を舐めた。白地に薄い茶色のブチの子犬こそ、我が家の初代愛犬ジョンだった。
一番先に生まれて、兄弟犬の中で一番大きかった子犬。もうこの子しか有り得なかった。結局、私が子犬を決めたのではなく、子犬が私を決めてくれたのだった。
②愛犬、我が家へ
ジョンが生まれたのが六月六日。子犬がウチに来ると決まって以来、我が家は子犬を迎える準備でお祭り騒ぎだった。寡黙な父が、実は大の犬好きで、陰ながら私を応援していたらしい。だが母の逆鱗に触れるのが怖くて、表立って自分も犬が欲しいとは言えなかったのだとか。援護射撃ぐらいしてくれても良かったのにと、子供心ながら思ったものだ。
ともかく、愛犬の命名に難航した。雄なのでどういった名前が良いか、家族で話し合ったり、学校の友達に子犬の名前の相談をした。そして決まったジョンという名前は、母がかつて飼っていた犬の名前だった。
ジョンが家にやってきた日は、今でも鮮明に覚えている。六月二十七日の午後、飼い主さんが母犬の匂いのついたタオルに包んで連れてきてくれたのだ。
いま思うと、目が開いて離乳食も食べられるようになったとはいえ、生後一ヶ月経たないうちに連れてきたのはどうなのだろう?
だが飼い主さんからしてみれば、愛犬と七匹の子犬の世話に、疲れ果てていたのかもしれない。
後々聞いた話だが、結局、飼い主が決まったのは四匹のみで、あとの三匹は保健所で引き取ってもらったらしい。
蛇足だが、子犬を貰いに保健所に申請に行ったことがある。ちょうど黒の雌の子犬が保健所に引き取られたところで、その子を貰えないかと母が交渉したが、子犬の譲渡には規則があるらしく、まず審査に合格しなければ譲渡会に参加できないとのこと。我が家に後日送られてきた結果は、不合格だった。
飼い主さんから、子犬(ジョン)が母の手に渡った瞬間から、母は子犬にメロメロだった。早く私にも抱かせてとせがんでも、離さない。そうこうしているうちに、隣家の小父さんが通りかかり、子犬を抱っこさせてほしいと懇願されて、母は私よりも先に小父さんにジョンを抱っこさせたのだ。近所付き合いのためとはいえ、あのときは悔しかった。
私がやっと子犬を抱っこできたのは、母と一緒に近所の商店に牛乳を買いに行ったときだった。やっとジョンを抱っこできた感動で、嬉し泣きした。
現在では人間用の牛乳を犬に与えるのは駄目と言われているが、当時は牛乳で煮込んだご飯を冷ましたものが、子犬の離乳食だった。
この日が土曜日だったこともあり、父も在宅していて、兄も含めて、家族で子犬争奪戦が繰り広げられた。一番早く生まれて一番大きかった子犬だったからだろうか、居間の片隅に作った寝床で、夜泣きもせずに、最初から我が家に居たかのようなマイペースを発揮していた。
散歩させるにはもうしばらく待ったほうが良いということで、家の中で自由にさせていた。意外にも、兄も犬が好きだったらしく、食卓の周りで駆けっこしたり、抱っこしたりしていたが、乳歯が生え変わる頃になるとやたら噛むようになっていたので、その頃は一時期、兄は子犬から距離を置いていた。
それが今後のジョンの家族序列に影響したのかもしれない。永久歯に生え変わった頃には、抱っここそ許していたものの、散歩の主導権は完全に犬のものとなり、中型犬ばりに成長した飼い犬を兄は制御できず、庭で遊ぶぐらいしか出来なくなった。その遊びさえ、ジョンはボール遊びがあまり好きでなく、どんな犬用のオモチャも興味を示さなかった。ジョンは寝るのが好きで、庭で遊ぶことがあるとしたら、穴を掘ることぐらいだっただろうか?
それも仕方がない。あの子が一番好きだったのは散歩だったのだから。
散歩が出来る様になる前に、ジステンバーをはじめとする混合ワクチンを打つ必要があった。普段は滅多に泣かないジョンが、初めてキャインと悲痛な声を上げたのはこのときが初めてだっただろう。
獣医に連れて行くのと、朝と夕方の散歩は私の担当になっていたのだが…
当時、父は会社の担当医から、もっと痩せるように指導されていた。今までは土日に私を犬代わりに連れて散歩していたが、念願の犬が来たことで、父は帰宅後も率先して散歩に行くようになり、土日祝日ともなると、家族が心配するほど長い散歩に出かけた。近くの広場は一部分だけ整備されていたが、大半がススキ野原。いまでは立派な巨大住宅団地と化した小高い山も、当時は鬱蒼とした森が広がっていた。私も散歩中にヘビやキジに出くわすことがあったが、父は狸や狐も見かけていたらしい。ただし、当家歴代三匹の犬のなかで一番温厚だったジョンは、全く野性の生き物には興味を示さず、ただひたすら歩くことに喜びを感じていた。
おかげで父が痩せて標準体重になったのは良いが、私が散歩での歩き方を仕込んだにも関わらず、父が自由奔放にジョンの思うがまま走らせたり歩かせていたせいで(リード付き)、ジョンは自らが散歩をリードするものだと思い込んでしまい、力いっぱい引っ張りながら斜めになって歩く。そのため近所の人だけでなく、見知らぬ人からも「この犬、歩き方がおかしくない?」とたびたび言われるようになった。
あの個性的な歩き方と頻繁に出かける散歩のせいで、あそこの一家は犬馬鹿だと町内以外でも評判となっていたようだ。我が家の名前は知らなくても、「いつも散歩しているお父さんの家の子よね」、と散歩中に知らない人から声をかけられるのも珍しくなかった。
③偏食犬
そして父は、最大にやらかした。
当時の飼い犬の食事は、今では考えられないが、味噌汁かけご飯が主流だった。そこへ、たまに肉を少々入れるのが、当時の犬の餌だった。あるとき父は、すき焼きをジョンに与えた。
それまで好き嫌いなく食べていたジョンは、このとき以来、すき焼きの味を覚えてしまい、味噌汁かけご飯には見向きもしなくなった。
当時はまだ牛肉が自由化されておらず、わざわざ車で牛肉が一番安く買えるスーパーへ出向き、父は犬のために牛肉を購入。家族は安い豚肉と鶏肉を食べるという、「お犬様」が爆誕したのだった。
また、近所には美味いと評判の揚げ物屋があって、そこのメンチカツがジョンの大好物だった。その味を覚えさせたのも、散歩中の父だった。以来、両親は買い物に出かけると、必ずメンチカツを買ってきて、ジョンに与えていた。当時の両親いわく、メンチカツ売り場を通ると、必ずジョンの恨めしげな顔が思い浮かんだと言っていた。ジョンのテレパシーだったとしたら、相当な能力者だったのかもしれない。
ジョンのメンチカツの食べ方が、また個性的だった。先ずはメンチカツを咥えて涎をダラダラ流す。それから衣の部分を器用にむしって食べ、最後に肉の塊をチビリチビリと食べるのだった。今では玉ねぎが犬にとって毒ということが常識化しているが、あのメンチカツの食べ方をスマホ録画にでも残していたら、間違えなくYouTubeで話題になっていたことだろう。
ジョンの食べ物戦歴は尽きない。まず母が、ジョンのために牛肉を炒めたり、野菜と一緒に煮込んだりしていたのだが、三日同じ調理法が続くと飽きてしまい、ジョンのためにわざわざ鮭を焼いて骨を取って与えていた。ジョンは、自分が食べたくないと思ったら絶対に食べない頑固さがあり、残したご飯を庭の一画に捨てて置くと、雀が食べに来るだけでなく、近所の放し飼いされた犬が食べに来ることが多々有った。
あるとき近所の人から、「ウチのワンちゃんは食が細くて」と相談されたが、私は何も言えなかった。そこの飼い犬は、ジョンの食べ残しを食べに来る常連犬だったからである。
また、ある日には、いつもは繋がれていて放し飼いされてなかったビーグル犬が、首輪が抜けて自由になるなり、我が家へやってきた。ジョンとは顔見知りだったためか、ビーグル犬が庭に入ってきても、ジョンは怒らなかった。その犬は玄関脇の松の木の下を陣取って動かなかった。たまたま訪れた近所の人が、「また犬を飼ったのですか?」と尋ねるほど、この犬はジョン以上に忠犬ぶりを発揮していた。来客があると、吠えまくっていたのだ。だが母が、「おだまり」というと吠えるのを止める。それほど母とこのビーグル犬とは交流がなかったのに、賢い子だった。
この家の飼い主は夜にならないと帰宅しないため、夕方の散歩の後の餌やりも、ビーグル犬の分も用意した。ちなみに散歩には同行せず、相変わらず松の木の下から動かなかった。訪問者である犬は、自分の分の餌を食べ終わると、まだ半分しか食べていなかったジョンの餌まで食べ始めた。同じ量を与えていたにも関わらす、である。ジョンも諦めて、その犬に餌を譲っていた。この犬はジョンよりも小さい。だが旺盛すぎる食欲に、皆が呆れた。食べ終えると、松の木の下に戻って寝転がった。
夜、飼い主が戻ってきたので、「お宅の飼い犬が放れて、我が家に居るのですが」と伝えたところ、すぐに迎えにやってきた。しかし飼い主の小父さんが首輪とリードをつけて連れ帰ろうとしても、ビーグル犬は嫌がって帰ろうとしない。四苦八苦の末になんとか連れ帰ったが、ビーグル犬は最後まで引きずられながら帰宅した。後日談となるが、暫くいつものドッグフードを食べなくなったらしい。「すいません、ウチの餌に味をしめてしまったのですね」とは、口が裂けても言えなかった。
ジョンは父に一番懐いていたせいか、食べ物の好みも普通とは違っていた。父が酔っ払って帰宅する時は、家族にケーキを買ってくるのだが、あるとき犬にシュークリームを与えたときには「勿体ない!」と皆で嘆いた。だがジョンはシュークリームを美味しそうに完食し、以来、父は飲み会帰りにはジョンの分のケーキも買ってくるようになった。
また、日本酒好きな父の影響で、多少だが酒を飲んだ。父以外の家族が臭いと言って近づくことさえ嫌がったクサヤも、ジョンは食べた。
父はジョンをますます溺愛して、毎日のおやつに人間用のチーズを与えていたが、次第に安いチーズは飽きてしまい、三角の六Pチーズしか食べなくなった。
ある時期、父は色んなチーズに凝った時期があった。匂いのキツくないチーズは家族にも好評だったが、ブルーチーズの臭さだけはさすがの父も辟易とした。そこでジョンに与えてみたが、ジョンも他のチーズは喜んで食べていたのに、ブルーチーズだけは臭いだけで逃げてしまった。結局、そのブルーチーズは庭の肥やしとなるべく埋められた。
都心に住む祖父が、月に何度か我が家に泊まりに来ていた。都心の狭い家には庭がなく、植物好きの祖父は自宅の屋根の上に温室付きのベランダを作って、様々な植物を鉢植えで育てていた。だがやはり庭で育てるのが一番なようで、我が家の庭は、私が物心ついた頃から、祖父好みに改造されていた。その手入れのために、たびたび郊外の我が家まで遊びに来ていたのである。
ジョンは祖父に懐くわけではなかったが、テリトリーに入るのは認めていた。余談だが、年に数回、イトコ一家が遊びに来た際には、ジョンはテリトリーである庭に入るのを認めなかった。叔父は動物に嫌われたことがないのを常日頃自慢していたが、ジョンは自分を触らせることさえ許さなかった。それが叔父には、猛烈にショックだったらしい。ちなみにジョンの対応は、当家三代の中ではまだ温厚な方だった。二代目は牙を剥いて威嚇し、三代目ともなると猛烈に吠えかかって、近寄ろうとすれば噛みつく気満々だったからだ。
ともかく、ジョンは祖父を認めていた。ある日、私が間食にタクワンを食べていた。当時の私は、子供ながらに甘いものよりも酒の肴になるような塩っぱいものが好きで、三時のおやつも、サンドウィッチやおにぎりが主流だった。
ジョンが窓辺から、私がタクワンを食べているのをジーっと見つめていたので、一切れをジョンに与えた。それを見た祖父が、「犬がタクワンなんて食べるはずないだろう」と馬鹿にしていたが、ジョンはタクワンをポリポリといい音を立てて食べた。それを見て祖父は、自分の抹茶のお供に切った高級羊羹の一切れをジョンに与えたのだが、ジョンは「ふん!」という声が聞こえそうなほどそっぽ向いて食べなかったため、祖父は「なんだ、この犬は!」と怒っていたことがある。
祖父は無計画に花木を植えたため、十年と経たないうちに、庭は森と化していた。クワガタが来る庭ってどうなんだろうねぇと、家族で嘆息したのもいい思い出だ。
ともかく平屋の屋根より大きくなった庭木の手入れは、さすがに祖父には危険なので、プロにお任せすることになった。そのとき訪れた二人の庭師は大の犬好きだった。ジョンも初対面ながら、この二人の庭師の存在を認めた。
庭師は昼飯休憩に、自らのお弁当からおかずをジョンに与えた。しかしジョンは例のごとく「ふん!」と横を向いて食べなかった。庭師の二人は「贅沢な犬だなぁ」と苦笑していたが、そこで話は終わらなかった。
庭の手入れは一日では終わらず、二日目も同じ庭師二人がやってきた。そのうちの一人が「ご馳走だぞ」と、目の前でコンビーフの缶を開けてくれたのだが、ジョンはまたしても「ふん!」と横を向いて匂いを嗅ぎさえしなかった。
温厚な庭師もさすがに「なんだ、この犬は!」と怒ったが、母は「すいません、偏食な犬なもので」と謝るしかなかった。
余談だが、ジョンは缶入りドッグフードが大嫌いだった。コンビーフは同じ系統の匂いがしたので、嫌だったのだろう。あのコンビーフ、結局はどうなったのだっけな?
ジョンに、サンダル噛りを躾けることは出来なかった。普段は手を出さない、掃き出し窓のサンダルだが、何か気に入らないことがあるとサンダルを齧りだす。当時はサンダルを売る店が近所になくて、ボロボロにされて使い物にならなくなると、父の休みとなる日まで苦労した。車でなければ、サンダルを買える場所には行けなかったのだ。
当時、我が家だけでなく、外への出入りやご近所さんがお喋りに来る時は、掃き出し窓が一般的で、玄関は家族が出かける際に靴が必要な時、あるいは重要なお客様用といった感じだった。
ストレスが溜まるなら、犬用ガムでも与えてみようと、兄がわざわざ街までバスに乗って、大きなガムを買ってきた。ジョンは与えられるなり、それに齧りついた。顎の強さは、我が家の愛犬の中で一番強かった。同時に、飽きっぽさも三匹のなかで一番だった。ある程度齧ると、土に埋める。そして自ら掘り返すことはない。たまに忘れた頃、庭の雑草取りをしていた祖父や母が、原型を留めないドロドロの犬用ガムが出てきて悲鳴をあげることが何度かあった。
父が大きすぎるから飽きるのだと、小型犬用のガムを買ってきた。その量だと食べきるのに丁度よかった。しかしたまに、家族が見てない時に飽きて埋めることもたびたびあった。
母は、買い物の時に大きな豚の骨を買ってきて、それを塩ゆでして与えることもあった。ガムよりも熱心に噛んでいたが、大きすぎるためか飽きて埋める。それが忘れた頃に掘り起こされてギョッとするの繰り返しだった。
サンダル防衛対策の犬用ガムだったが、やはりサンダルを齧るのが楽しいようで、忘れた頃にボロボロにされて、家族は無言となるしかなかった。噛んでる現場に出くわしたときなら怒ることも出来たが、知能犯で、人の見ていない時にやらかすので、怒るタイミングを逸していたのである。
そういえば、ジョンは庭にモノを埋める達人(達犬?)だった。自分のテリトリーを汚したくないので、普段は小用こそ小屋の周囲ではない別の場所(庭)でたまにしていたが、糞は家でしなかった。それでもごくたまに、散歩まで耐えられなくてすることがある。大抵は夜中だ。ジョンを繫ぐ鎖は2つを連携して、行動範囲は割と広い。物置の前には砂利が敷いてあり、そこに糞をすると、見た目では分からないほど器用に糞を埋めるため、朝一番の散歩をする者が犠牲となる。物置には、散歩用リードやフンの始末をするためのビニールやスコップが入った散歩バッグが置いてあるのだ。物置を開けるために、たまたま埋められた糞を踏む犠牲者は私か父。どちらもムニュッとした感触とともに立ち上がる臭いに、悲鳴を上げずにはいられなかった。
④特技?
ジョンにはお座りとお手とおかわりしか躾けることが出来なかった。しかしジョンは意外な特技を発揮する。客人が来ると、客人が玄関前のチャイムを鳴らす前に吠えて報せるのだ。また、焼き芋屋や竿竹屋の販売車が通ると、良い声で遠吠えしていた。遠吠えは本能ではなく、習うものだと後で知ったが、確かに当時の住宅団地で飼われているのは外犬ばかりだったので、あちこちから遠吠えが聞こえていた。
そしてジョンは、父が大好きだった。当時、まだ働いていた父が自家用車で帰ってくる時、住宅団地に入ってくる頃から興奮してクンクン甘えた声を出していたので、家族は「お父さん、帰ってくるね」と前もって分かったものだ。
ジョンはたまに、父が好きすぎて、帰宅時や散歩へ行くときにオシッコを漏らすほどだった。父は「うわーっ」と叫びつつも、嬉しそうにしていた。お漏らしするほど喜ぶ相手は、父だけだったからである。
いや、例外は有った。一年に一度の狂犬病予防注射接種。当時は動物病院がまだ少なかったため、指定日指定時間での地域集団接種が行われていた。順番待ちの間に、パニックになる犬たち。その光景に恐怖をいだいたジョンは、獣医に噛みつくことこそしなかったが、順番になるとブルブル震えて、お漏らしで私の靴を濡らしていた。
私が夕方の散歩をしているとき、たまに父の会社からの帰宅と重なることがある。するとあと少しの距離なのに、父は車を停めて、助手席のドアを開けると、それを合図にジョンは車に乗り込む。助手席がお気に入りなのは良いが、当然のように座席に座って得意げなジョンを、私は足元に引きずりおろして助手席に座る。歩いて三分ほどの距離で車に乗るのもなんだが、自宅到着しても、車から下りたがらない。すると犬に甘い父は、ドアを閉めろと私に指示して、近所をドライブする。ある程度車に乗ると満足するのか、ドライブ後は素直にジョンも下車する。ちなみに母と兄は、ジョンが助手席を使うようになってから、後部座席に座るようにしていた。ジョンが降りたあと、軽く拭き掃除はしても、犬が座った座席というのに抵抗があったらしい。
散歩中に、帰宅途中の父と遭遇しないのが一番だが、相思相愛の父とジョンは、私より早く互いを察知するために、見つかったらお手上げだった。コッチは早く帰って休みたいのに(泣)。
祖父は選定に度々来るが、毎日の水やりは私か母だった。庭の大半は祖父が樹木を植えていたが、猫の額ほどの区画に自分用の花壇を作って良い許可が下りたので、夏場はベゴニア、秋はチューリップの球根を植えていた。腐葉土をたっぷり混ぜたフカフカの土は、ジョンにとって格好の昼寝場所に思えたらしい。どれだけ園芸用の柵を立てて防いでも、どこからか器用に入り込んでは土の上で寝転ぶので、早春に芽を出すチューリップは潰され、半分は開花に至らなかった。
犬の話から脱線するが、私は父方の祖父母が苦手だった。祖父が兄を溺愛してたのもあるが、明治生まれだったこともあり、女の子らしくない言動の私に、いつも小言が絶えなかったのだ。まあ、コッチが言い返すから余計に口論となるのだが。私の友人がたまたま遊びに来た時、ジーンズを履いていた友人に、「女の子なのにズボンとは」と小言を言って、友人が怒って帰ってしまったこともある。だがお祖父さん、この庭を含む近所の草深い広場で遊んだり散歩するには、スカートだと格好の蚊の餌食になるんです。蚊ならまだマシで、ブヨに刺された日には私がアレルギー体質のせいもあってか、太腿なとは全体に腫れ上がり、痒みも酷かった。当時は医者に処方された塗り薬も今ほど効能が強くなかったから、1週間ぐらい痒みに耐えねばならなかったならなかったわけで。田舎暮らしに、スカートで遊ぶのは、夏場は特にリスクがあったというわけです。
そんな祖父だったが、私が花、特にバラに興味を持ちはめると、最初はミニバラを、晩年には大輪の深紅のバラの苗をくれた。大輪のバラは丈夫で沢山花をつけていたが、後年、建て替えの際に鉢上げしたら枯れてしまった。祖父の不器用な優しさの形見だったあのバラに似たバラを何度か購入したが、所詮は身代わり。祖父が私にくれた数少ないプレゼントの代かえにはならない。本物のあのバラが咲き誇っているのをもう一度見たい、叶わぬ夢であるけれど。
犬を飼う際に、両親から「これからは泊りがけの旅行は行けなくなるぞ」と念を押された。車酔いが酷いせいか、別に旅行はさほど好きではなかったので、私は泊りがけ旅行よりも犬の方が良かった。旅行好きの兄はショックだったようだが、ちょうどイトコが住んでいたのが海水浴場からさほど遠い場所ではなかったため、夏になるとイトコ宅に泊りがけで遊びに行っては、真っ黒になって帰ってきた。
旅行は行かない、そう宣言していたはずだったが、ジョンを飼っているときに一度だけ泊りがけ家族旅行に行ったことがある。飛騨高山だった。父は出張で何度か飛騨高山へ行っていたが、地酒の名所である飛騨高山で仕事中に酒蔵巡りするわけにはいかず、どうしてもプライベートで行きたかったらしい。
さすがに犬を連れていける距離ではないため(イトコの家には連れて行ったことがある)、ペットホテルも経営してた馴染の獣医に預けることになった。二泊三日の飛騨高山旅行帰りにジョンを迎えに行ったら、ジョンは私に飛びついてブルブル震えていた。車に乗せた際にも、私の膝の上で震えていて、よっぽど寂しかったのだろうなと、胸が痛かった。もっとも私自身、車酔いの思い出の方が強くて、何をしに飛騨高山まで行ったのか、よく覚えていないのだが。
結局、ジョンは旅行から帰った後、数日間体調を崩したため、もう二度と旅行に行くのはやめようということになった。
⑤黄昏れ
元気だった祖父が亡くなったのは、何年前になるだろうか。さすがに家族でお通夜と葬式に行かねばならず、かと言ってジョンを獣医に預けるのは気が引けたので、冬場ということもあり、親しい近所の方に、散歩はしなくてもいいから、水と餌だけ与えて欲しいとお願いして、祖父のお通夜と葬儀に参列した。
自分語りをするのは嫌だが、これだけは書かないと話が進まない。当時の私は、体調不良の際に無理して学校合宿に参加したのがきっかけで、自律神経失調症から、二度目の拒食症を患っていた。たまに開け放った自室で本を読んでいた私に、父がギョッとした顔で「おい、具合は大丈夫か」と尋ねてくることがあった。顔色が真っ青に見えたらしい。確かに最悪の時は、近所を散歩するどころか、トイレに行くにも立ち眩みを起こしていた。私の二度目の拒食症が寛解したのが、友人からの結婚式招待状だった。まだこの頃は精神科クリニックに通うことに偏見があり、両親も反対した。だが私は、皆が自立してなかで、家に籠もって無意味に生きてる自分にいい加減、嫌気が差していた。それで自力で電話帳から通える精神科クリニックを探し出し(当時はスマホもまだ一般的ではなかった)、受診した。おかげで友人の結婚式には、食事こそあまり食べられないかったが、参加はすることが出来た。外食が出きるまで回復するのは、母が病気入院するまで時間がかかったが。
先だっての飛騨高山旅行は、学校給食を無理やり担任に食べさせられたのが原因で、最初の拒食症を患い、このときは小学校を卒業するまで治らなかった。飛騨高山旅行のときに食べることが出来たのは、名物のみたらし団子と五平餅半分程度で、宿の料理はほとんど食べられなかったし、車酔いが酷くて観光もろくに行けず、宿で仮眠していたので旅先の思い出がないというのが真相だ。
祖父の通夜、葬儀の際もろくに食事が出来ず、家族は葬式終了後も、親戚と共に引き続き残ることになったが、私だけは一足先に電車で帰宅することになった。ジョンが心配だったのと、私が二日間ほぼ絶食状態だったので、両親が心配して帰宅しろと命じたからである。私はバスや乗用車での長時間移動は車酔いは激しいが、電車は大丈夫だったので、何とか帰宅することが出来た。本当は母が付き添って帰宅すると主張していたが、長男の嫁の立場では親族の手前、帰るわけにも行かず、心配しながら私を送り出した。
私は駅でお弁当と、ジョンの好物であるメンチカツを買って帰宅した。帰宅するなりジョンが飛びついてきて、日頃私には鳴かないジョンが、クンクンと甘えた声を出して、足にしがみついて離れなかった。
家族がこの日帰宅しないことをいいことに、私はジョンを玄関に入れて、ジョンと一緒に晩ごはんを食べた。どうやらジョンも家族が留守のショックで、何も食べていなかったらしい。まずメンチカツを食べた後、母が作り置きしていたジョン用の牛肉煮込みを温めてご飯に混ぜて与えたら、ガツガツ食べていた。私も二度目の拒食症になってから初めて、お弁当を完食した。
食事を終えて、懐中電灯片手に軽く散歩して帰宅して間もなく、母から電話があった。かなり心配していたようだったが、私の声に元気が蘇っていたのに、安堵していた。母いわく、「祖父宅から帰るときのアンタは、いまにも倒れそうで、家までたどり着けるのか心配だった」とのことだった。ジョンも元気だと伝えたら、父も安心したらしい。娘より犬が大切な父、まあ私もジョンファーストだったから分からないでもないけれど。
祖父が亡くなった後、祖母を引き取るか否かの話し合いが何度も行われた。正直、我が家は平屋で狭く、そして祖母も通院や、なにより都心部での生活は徒歩圏内で何でも揃い、区の保障も充実していて、不便な郊外に移住するのは躊躇いが合った。そこで真冬の間だけ、我が家で生活することになったのだが、祖母の部屋を確保するために、兄が近所のワンルームアパートに引っ越すことになった。
ちょうどその頃、風呂場の隣の私の部屋の床が、二度目の変形状態となって住める状況でなくなり、プレハブを建ててそこで暫く暮らした。そしてあるとき唐突に、父は家を建て直すことを決意した。最初は冗談だろうと思ったが、本気だった。
だが懸念は、ジョンだった。立て直しが終わるまで、犬を飼える借家探しが難航したのだ。そしてこの頃から、ジョンの容態が徐々に悪くなっていた。原因はフィラリアによる心臓病、近所の外飼の犬達は皆、フィラリアが原因で亡くなっていた。私たちはフィラリアを甘く見ていたことを後悔したが、時が巻き戻るわけがない。
散歩好きは相変わらずだったが、段々と歩ける距離が短くなっていき、最終的には帰路は抱きかかえないと連れて帰れない状態だった。
こうなると、腰が悪い父では散歩でジョンを抱えて帰るわけにはいかず、散歩は私だけの担当となった。ジョンの母犬や兄弟はスピッツの血が強かったのか、それほど大きくならなかったが、ジョンは獣医からシェパードの血でも入ってるのではないかと言われるほど大きく、元気な頃は二十キロ前後あったと思われる。病が悪化して多少痩せたが、それでも十五キロ以上は確実にあっただろう。
何とか自宅近辺に、犬が飼える借家が見つかった。正確にはマンションで、本来なら犬の飼育が禁止なのだが、建て替えが終わる短期間ということで、一階の部屋を借りる許可が下りたのだ。犬は当然、庭ということになる。
自宅からさほど離れていない場所だったこと、徒歩で獣医に行ける範囲だったので、通院もなんとか可能だった。ジョンに薬を飲ますのは昔から大変で、粉薬を水に溶かしても、錠剤をメンチカツに仕込んでも見破って、絶対に口にしない。
なので、私がジョンの片頬を引っ張って薬を喉の奥に押し込み、ゴクンと飲み干すまで口を押さえる選択肢しかなかった。これが出来たのは私だけで、両親がやってもペッと吐き出してしまうので無理だった。何をされても噛まなかったのは、ジョンの温厚な性格ゆえだろう。
借家ぐらしが始まって、ジョンの容態は急激に悪くなった。慣れない場所のせいもあったのかもしれない。ついに立つこともままならなくなったため、玄関に段ボールで作った寝床で寝かせることにした。それでも毎日散歩には行きたがるので、私が抱っこして、休み休み散歩させていた。ジョンの体重に、私の両腕が持続しなかったためである。好き嫌いが激しかったが旺盛だった食欲も、徐々に落ちてきた。
そして七月九日。この日は母が焼き豚を、父がビーフジャーキーを与えた。食べ終えるとしきりに外へ出たがり、マンションの前の階段に三十分ほどジョンを抱っこして座っていた。
暑さが増してきたので、家に入り玄関の寝床に寝かせて、私は汗を流すためシャワーを浴びに行った。そして浴室から出てきたとき、母が「ジョンが息をしていない!」と叫んだ。
私と父は慌ててジョンのもとへ駆け寄ったが、すでにジョンは亡くなっていた。ほんの数十分目を離した間に、ジョンは旅立ってしまったのである。私は声を上げて泣いた。父は自室に籠もった。恐らく涙を見せないためだろう。母も泣いていた。
十四年一ヶ月の生涯を、ジョンは自宅でない借家で終えた。
ジョンが亡くなったその夜から3日間、ジョンは私のところへやってきた。初日は借家の私の部屋の入口にチョコンと座っていた。一番元気だった頃の姿だった。二日目も同じく、自室の前で座ってコチラを見ていた。そして三日目、ジョンは私の寝床に入ってきて私の顔を舐めると、ションはこの世から本当に旅立った。
ジョンがこの世を去ってから三日後、近隣の動物霊園で火葬された。用意された骨壺に入り切らないほど太い骨で、家族で毎日チーズを食べていたお陰だねだと呑気なことを言っていたが、霊園の職員さんは必死になって骨を骨壺にギュウギュウと押し込め、何とか入った。それから真っ白な骨壺に入ったジョンの骨と共に借家に帰った。
そして四十九日経ってから、再び骨壺を抱えて動物霊園を再訪した。動物共同墓地に埋葬するためである。埋葬の日は月ごとに指定されているため、私たちがジョンの納骨を見ることは出来ない。だが、それで良かったのだろう。納骨のシーンなど見たら、家族で再び号泣することになっただろうから。
二、二代目愛犬バナナ
①二代目は赤毛のアン?
十四年間を共にしたジョンとの別れは、家族に暗い影を落とした。いまで言うところのペットロスだが、特に父の落ち込みようは酷かった。
建て替えなんてしなければ良かった、もっといい病院に受診していれば、フィラリアの薬をキチンと飲ませていればと、家族は後悔の念ばかりを口にした。
そんななかでも唯一、「ジョンの食への執念深さは凄かったね。亡くなる三十分前に、根性で焼き豚とビーフジャーキー食べたのだから」という話題がでると、両親は「まさかお父さんが、ビーフジャーキー与えていると思ってないし」、「母さんこそ、大事に食べてた焼き豚をあげてるなんて、思わないじゃないか」と話が盛り上がった。
ジョンの末期の水ならぬ末期の焼き豚は、借家近くの商店自慢のお手製で、値段は量産品に比べると高いが、美味しいと評判だった。そしてメンチカツも、家族はもちろん、ジョンも幼少期から虜になっていたものと同じ味だった。昔あった商店はスーパーが出来たことでかなり前に潰れてしまい、あのメンチカツと同じ味にずっと巡り合うことが出来なかった。それが、借家近くの自家製メンチカツが、偶然というか奇跡的に当時の商店と同じ味だったので、ジョンのために両親どちらかが毎日のように買いに行って与えていた。この店も、数年後に移転してきたスーパーに淘汰されて消えていくが、それまではジョンとの思い出を偲んで、たびたび買いに行っては食卓に上がっていた。あのメンチカツと同じ作り方の店は、以来、見つかっていない。
借家の完成を待ちわびていた家族は、別の意味で早く自宅に戻りたがった。ジョンが亡くなった借家にいるのが、あまりに辛かったからである。
秋、自宅の建て替えがようやく終わり、私達は家に戻った。今度の家は二階建てで部屋数も多かったので、祖母がきても部屋が足りないということもなく、兄もアパートを引き払って自宅に戻った。借家暮らしのときも、仕事が終わると夕飯を食べにきていたが、直にアパートに戻るのが面倒くさいと、広いリビングに布団を敷いて寝起きするようになった。このとき兄の借りていた部屋は、完全に物置としてしか機能していなかった。
新しい自宅への引っ越しを終えて、まず行動開始したのが、二代目の子犬を探すことだった。あれほど散歩好きだった父は、ジョンが亡くなって以来、ほとんど家にこもりきりになっていて、また犬が欲しいと口癖のように言うようになった。母も兄も同様だった。私は新たな犬を迎えるのに賛成している反面、ジョンを喪った衝撃の強さに、再びあの経験をしなければならないかという恐れもあった。
十年一昔、この頃になると放し飼いの犬は居なくなり、去勢避妊手術も進んでいたので、子犬の貰い先は見つからなかった。父は、市街地に新たにできたペットショップを何軒か巡ったが、ピンと来る子犬は居なかった。当時の主流はゴールデンレトリーバー、小型犬となるとプードルやシーズー、チワワなど、自宅で飼うには大きすぎるか、散歩には物足りない小型犬しかいなかった。
そして父は、退職後初めて、会社の同僚さんに連絡を取った。この同僚さんの息子は別の県で獣医をやっているとのことで、もし保護犬がいたら譲ってほしいと依頼したのだ。条件は「スピッツか柴犬系統の雑種で、雄の子犬」だった。
しばらくして、同僚さんから連絡があった。「柴犬系統の雑種が保護されたので、もしよければ飼わないか」と。ただしこの子犬には問題が有った。河川敷で捨てられていたのを保護されたのだが、左後ろ足が折れており、手術でボルトを入れて接合したが、歩くことに問題はないものの、おそらく生涯足を引きずる事になるだろうとのこと。
父は二つ返事で、この犬を引き取ることに決めた。子犬が来るのは、骨が完全に固まった後ということになった。後日送られてきた写真は、「本当に雑種?」と思えるほど柴犬の子犬そのものだった。仮名がバナナとなっていて、飼うときに別の名前をつければいいと同僚さんは言っていたらしいが、ウチに来る頃には既に名前が定着してるだろうから、そのままで構わないということになった。
しかしバナナ。誰がつけたか知らないが、最初にその名前を聞いたときも家族で大笑いしたし、我が家にバナナが来てからも、近所の人や獣医さんから「斬新な名前ですね」と必ず失笑された。
何故か、バナナが我が家に来た日を記憶していない。恐らく物覚えの良かった兄なら、何月何日何時頃まで答えられただろうが、残念ながら兄にそれを聞くことは二度と出来ない。
ただ十一月の下旬頃だったと思う。寒さが増してきたので、春まで玄関で飼うことが決まっていたからだ。喘息持ちの祖母は難色を示していたが、充分な毛の手入れをすることを条件に、受け入れさせた。と言うか、苦労して迎えることになった犬を邪険に扱うなど、家族一同が許さなかったのだ。
父が車で二代目愛犬を迎えに、同じ市内に住む同僚さん宅へ迎えに行った。子犬はまず県外の息子さんから同僚さん宅へ連れて行かれ、そして父が迎えに行く手筈となっていたのだ。
私と母は、子犬(既に中犬)を迎えるための準備をしていた。どのぐらい足の障害が残っているのか懸念もあったが、手に負えないほどヤンチャですという言葉に、一抹の不安を覚えた。
だが父が連れ帰った初対面の子犬(青年犬)は、驚くほど大人しかった。それよりも仰天したのが、この子犬が雌犬だったことだった。
このとき私達の脳裏に、カナダの作家エリザベス・モンゴメリー原作の名作「赤毛のアン」が過った。当時のテレビ名作劇場は、アンの視点から見ていた。だが家業である農業を手伝えるカナダ人の男の子を孤児院から引き取ることを希望していたクスバート兄妹のもとへ、やってきたのは痩せぎすな赤毛の女の子。初対面のアンにマリラが仰天するシーンに、期待に胸を膨らませたアンの絶望が可哀想でマリラに憤ったものだが、実際にマリラの立場になってみると絶句するしかなかったかもしれない。
もう少し子犬が幼かったら、アンという名に改名させていたところだろう。
ただ可愛らしい若犬だったので、私達はすぐにメロメロたなった。保護先の獣医さんで混合ワクチン接種は受けていたので、すぐにでも散歩に連れ出せる状態だった。十一月末なので、フィラリアの薬を投与する必要もない。同僚さんの息子さん獣医からの伝言で、春の狂犬病予防注射のときにでも、フィラリアの飲み薬を購入すればよいとのことだった。
②性格
バナナは、自宅に来た夜も夜泣きせず、ウンともスンとも鳴かなかったので、もしかして声にも障害があるのではと懸念していたが、二日ぐらいして慣れてくるとクンクンと甘える声を出すようになった。恐らく慣れない場所を転々とした緊張と疲労で、鳴く気力もなかったのだろう。
その割に餌は、我が家到着日からガツガツ食べていたが。
翌朝、父はジョンが亡くなって以来、初めての犬の散歩に出かけた。まだ来て間もないから、長距離は駄目だと念押ししたので三十分ほどで帰ってきたが、父の感想は「犬の散歩って、こんなに楽しくて楽だったのだな」だった。
後ろ足の後遺症は、思ったほど悪くなかった。ただスキップするような足取りなので、他人から見ると「随分と面白い歩き方をする犬ね」と言われたりもしたが。
父が、散歩が楽だったというのは、実際に私も散歩してみて納得した。どうやら獣医さんでキチンと躾けられていたらしく、バナナはこちらをニコニコ見上げながら、歩調を合わせて歩いたのだ。ジョンとの散歩は力比べだっただけに、やはり躾は大事だなと実感した。
手が付けられないほどのヤンチャという話だったが、私達家族にしてみれば、一年未満の子犬なんてこれぐらい好奇心旺盛なのは普通だろうという感覚だった。むしろ子犬時代のジョンより大人しいぐらいだった。まあ、ジョン同様、サンダルは毎回ボロボロに囓られていたが、歯の生え変わりやストレス発散の意味もあるのだから、特に気にもとめなかった。
雌犬ながら、バナナはジョンよりも気性が荒かった。家族には従順で愛らしさの権化だったが、散歩中に他所の犬たちが喧嘩を売ってきても、ジョンなら家族の背中に隠れて怯えていたが、バナナは真っ向から立ち向かおうとして、家族を慌てさせたものである。
バナナが最も敵視する相手、それは猫だった。ジョンは野良猫でも飼い猫でも、庭を横切っても無視していたが、バナナは容赦しなかった。家を建て替えてから、犬を放すのに適した庭と塀になったため、家族の目が届くときは基本、放し飼いだった。もっとも、家族が家に入ったときは、もっぱら夏は北側のキッチンドアの網戸の前で、冬場は南側のリビング前の縁台に寝そべって、家族に姿が見えるようアピールしていたが。
バナナが猫を追いかけ始めると、これまた猫嫌いの母が箒をもって飛び出し、猫を庭から追い出す。猫を追い出した後のバナナと母は、清々しい顔で互いを見つめ合った。しかし真向かいのお宅が飼う猫をバナナと母が追い回していたところを、猫の飼い主の小母さんに見られたときには、何とも気まずい空気が流れていた。
バナナは何でもよく食べた。基本の餌は、カリカリドッグフードにウェットタイプの犬用缶詰を混ぜたものか、キャベツかレタスを肉と一緒に煮込んでご飯にかけたもの。この頃には、犬に塩分過多は毒であり、玉ねぎはショック死を招くこともあることが常識となってきたので、手作りの餌の時は野菜がしなる程度の塩分でしか煮込まなかった。
父はジョンの時と変わらず、犬用のお菓子を大量買いしていた。散歩の時に与えたり、おやつで与えたり。ズボンのポケットに直接入れるものだから、たまに母がポケット確認せずに洗濯したときには、シナシナのジャーキーやクッキーが出てきた。母は父に何度も「ポケットに直接、オヤツを入れないでくださいよ」と文句を言っていたが、オヤツ入れの小さくて透明なポーチを買ってきても父は「餌を出すのが面倒だ」と言って、結局ポケットに直接オヤツを入れるのをやめなかった。
食事に不足はなかったはず。だがジョンよりも小柄にも関わらず、餌に対する執着心は物凄かった。物置を器用に開けて、置いていた犬用スナックを平らげていたこともある。その一件以来、犬用スナックは玄関で保管することになった。
そんなバナナの好物は、某高級犬用缶詰だった。缶を見ただけでヨダレが大量に流れ出す。恐らく保護先の獣医さんのところでよく与えられていたのだろうが、それにしても普通の肉より食いつきが良かった。
バナナは前述の通り、家族に対しては温厚で、とても良い犬だった。しかし悪食でもあった。散歩の際に拾いぐいはしなかったが、セミを食べるのが大好きだった。捕まえたカナヘビ(トカゲ)はキャンディーのようにベロベロ舐めていた。キャンディーにされたカナヘビを食べることはしなかったが、カナヘビの命は絶えていた。そのため我が家からカナヘビが一時期いなくなったのだが、もっとも厄介だったのが、ヒキガエルに手を出すことだった。
ヒキガエルは毒を持っており、舐めるたびに、しばらく仰向けになって痙攣していたのだ。家族は心配したが。しばらくすると通常状態に戻った。この一度で学習すれば良いものを、見かけるたびに舐めては痙攣を繰り返していた。ジョンよりも健康に気をつけていたにも関わらず、ジョンより短命だったのはヒキガエルの毒のせいではないかと、今でも思う。
雌犬ということで、避妊手術が終わるまでは玄関の中で飼っていた。後に母が、「一度ぐらいは子犬を産ませても良かったかもね」と言っていたが、雑種の貰い手先が困難なのはジョンの兄弟で察しが付くはず。それでも母は、バナナの子犬を一緒に飼いたかったのだろう。
のちに、家族で歴代三頭の中で、一番可愛かった犬はと、たびたび話題に上がった。母と兄は真っ先にバナナと答えた。父は、バナナとジョンで迷っていた。私も当初はバナナが一番可愛かったと思っていたが、三代目のレンが亡くなった後は、レンが一番だと思うようになった。その理由は、後々書くことになるだろう。
ともかく、バナナに何度目かの月のものがあった後、避妊手術を行った。アレが始まると犬用の生理用ショーツとナプキンを当てていたが、バナナは器用に脱いでしまう。様々な対策をしても効かなかったが、ついに特効薬が見つかった。北海道土産で有名なハッカ油である。ちょうど幼馴染が北海道旅行のお土産にくれたのだが、これをショーツに数滴つけると、バナナはショーツを脱がなくなった。代わりに癇癪が出るようになったが、仕方がない。これも女性の宿命だ。
家に来たときから可愛さ満点だったバナナが、避妊手術から帰宅した後、しばらく不信感いっぱいに家族を睨んでいたのは忘れられない。痛かったのと、また捨てられたと勘違いしたのだろう。ブルーのエリザへカラーをつけたバナナのストレスのはけ口は、玄関の手摺りとサンダルに向かった。傷口が完全に塞がるまで、散歩は短め、庭に放すことも暫く出来なかったので、ストレスはマックス状態だったに違いない。
避妊手術をしてから、標準体型だったバナナは、だんだんと肥満気味になった。餌の量は変えてないし、散歩量はむしろ増えていたが、ホルモンバランスが狂ったせいで太りやすくなったのだろう。散歩中に見知らぬ人から「可愛い柴犬だね、でもちょっと太り過ぎかな?」とたびたび言われるようになった。
バナナは散歩好きだったが、それよりも庭でボール遊びをするのを好んだ。こちらが止めない限りは、息を切らしながらもボールを持ってきて投げろとアピールするのだ。
祖父の死後、庭の手入れは私の担当となった。家を建て替える際に、主だった大木や低木は撤去されていたので、ドッグランには最適だったのかもしれない。
家族は花が好きだった。近くに出来たホームセンターに、鉢植えやポット苗が売っていたので、庭は一年中何らかの花が咲いていた。
兄は花の中では、特にチューリップと朝顔が好きだった。両親も秋になると球根を買ってくるので、庭の花壇だけでは足りず、プランターや鉢にも植え付けていた。そうすると、バナナが必ず鉢底石を入れたばかりの鉢の中に、ポトリとお気に入りのボールを落とすのだ。投げるとすぐに取りに行って、再び鉢の中に落とす。作業が進まず苦笑していると、父が出てきてボール投げを代わってくれた。ただ倉庫の下にボールが入り込んでしまうと、私が園芸用の長い支柱で取らざるおえないので閉口したが。
私は花の手入れが好きだった。しかし家族が相談無しに買ってくる花木には、ときどき閉口した。家族も花が好きで、近所のホームセンターからよく買ってきたのだが、世話は私に丸投げされていたのだ。棘の鋭い柚子、大きなイモムシのつきやすいハイビスカス、姫リンゴの木、キレンゲツツジ、ハナモモ、黄梅。せっかく庭木を減らしたのに、また増やしていくのはどうなんだと。一番厄介だったのは、蘭だった。温室がなく、冬場は隣家の日陰で日当たりの悪い我が家で蘭を育てるのが難しく、成功したことがない。だから蘭の類はやめてくれと言ったのだが、父と「世界らん展」へ出かけたときには、本当に引き止めるのに苦労した。父が即売所の黄色のカトレアに一目惚れして買おうとしたのだ。お値段、当時で二万円近く。そんな高級品、怖くて世話など無理と、やっとのことで諦めてもらった。
猛暑が厳しくなり始めてきたのも、この頃からだったかもしれない。当時は手で草むしりをしていたが、夏に草むしりしている時に何度か熱中症で具合が悪くなった。夏の間の草は伸びるのが早く、具合の悪い時がちょっと続くと草原と化す。そこで草刈り機を購入したのだが、これまで三日は要した草むしりが、たった1時間で終わるようになった。根は残るが、枯れ草の匂いは心地よく、一箇所に集めておくと、バナナがその上で寝転んでいた。アルプスの少女ハイジは、干し草のベットで寝るのが好きだったので、それと同じ気分を味わっていたのかもしれない。
バナナは風呂嫌いで、風呂に入れてシャンプーするのに苦労した。これはウチの愛犬全員がそうだったのだが、雨に当たる以外は水嫌いだったジョンに対して、バナナが嫌いなだったのはお風呂だけ。
川や水溜りには率先して入った。特に台風後の川の濁流を恍惚として眺めるバナナには、さすがにあの濁流に飛び込ませるわけにはいかないよと、いつもよりキツめにリードを握ったが。
バナナがきた当初、近所の公園広場はまだ整備されてなくて、川には堤防の網が途切れた箇所から慎重に岩場を降りて、水に入れていた。一旦、川に浸かるとなかなか出てくれない。放っておくと、いつまでも浸かっているのだ。
真冬でも、バナナは川に降りれる箇所に近づくと、いつもは歩調を飼い主に合わせる彼女が、先へ先へと引っ張っていく。そして川に入る。この川は普段、それほどの水量ではないので、雨上がりでもない限りは、深いところでも犬の足の半分程度程度の深さだった。いつまでも出よとしないので、最終的には引っ張って出す。だが散歩コースの柵の切れ目は二箇所あって、両方に入るから閉口するしかない。私の散歩の時に川に入っているにも関わらず、父の長距離散歩コースのときも、水に飛び込んでいた。春から夏の終わりにかけて、用水路に水が流れている。バナナはいつも用水路に入り、用水路の途切れる場所まで水の中を歩いていくのだとか。そして川に入るのも忘れない。前世で水性動物だっのだろうか?
広場の一部は私の子供の頃には出来上がっていたが、その後の開発は長年、進まなかった。だが残りの広場の工事が急に始まった。散歩コースを調整する必要が出たが、出来上がった広場はかなりの広さと遊具が充実していた。駐車場も設置されて、遠くから車で遊びにくる親子もいるが、散歩のために車でやってくる人も激増した。橋を渡って散歩に来る人もおり、公園広場の犬の数は一気に増えた。時間とともに犬同士のグループもいくつか出来上がっていたが、私は加わらなかった。
他の犬に愛犬を近づけたくなかったのである。以前、ジョンは近所の犬に、いきなり後ろ足太ももを噛まれた。飼い主がすぐに犬を引き離したことと、スピッツの血が濃い長毛系雑種だったので、噛まれた箇所から僅かに血が流れた程度で済んだ。バナナも犬に噛まれたことが原因で問題が起こったがあったが、それは後で書くことにして、いまは水場の話を続ける。
公園広場には、川に下りれる階段が設置された。代わりに、普段使いしていた柵の切れ目は修繕されて、そこから川へ下りられなくなった。
この川に下りられる階段は、子供たちだけでなく、犬にも人気だった。横幅はあったものの、暗黙了解で、他の犬が入っている時はその犬と仲良しでない限り、別の犬は川に下りないことになっていた。そのため朝の散歩時間は早目にして、夕方の散歩は日が暮れてから行くことにした。川にはハヤが泳いでいたり、運が良いと亀が甲羅干ししている姿も見れた。カワセミの鮮やかなブルーが目の前を飛んでいくのを見るのかと、何故かとても良いことがありそうな気がするのは私だけだろうか?
冬場には渡りの鴨に混じって、オシドリもやってくる。私はジョウビタギという特徴的な冬鳥を見るのを、冬場の楽しみにしていた。常時見かける鳥といえば、カワウ、コサギ、カルガモだろうか。父はカルガモがヒナと一緒に泳いでいたのを見たと嬉しそうに語っていたことがある。生憎、私はヒナを見かけたことは一度もないが、一回だけ目の前をハヤブサが通り抜けたときには驚き感動した。
キジは、手つかずの雑木林が整備されて姿を隠す場所が消えたため、橋向こうの薄暗い竹林の中でしか見かけなくなった。
時間を変えても、特に夏場は早朝や日暮れでも散歩中の犬が遊んでいることがあって、そんな時はバナナに水遊びを諦めてもらうしかない。楽しみを奪われたバナナはガッカリ肩を落としているように見えて哀れだった。ふと、昔、上流に川へ下りられる小さな階段があったことを思い出して行ってみた。まだ残っているか不明だったが、樹木に隠されるようにして、その階段は残っていた。バナナのリードをロングリードに変えて川に下りると、はしゃぐように川を歩き回っていた。ここは少々深みのある箇所があって、たまにバナナが顔まで落ちてる慌てて出てくることもあったり、バナナに引っ張られて私まで靴ごと川に入ってしまったことがある。
あまり知られていない場所なので、他の犬と遭遇することはないが、往復するには少々距離がある。その話をしたときに、母は危険だと怒り、父は行くときは車を出すから言うようにと指示した。バス停で4つほど先の距離だが、人通りの少ない雑木林一歩手前の手入れされていない河原に行くのを、両親が心配するのも分からないでもなかった。
車での水遊び、バナナは大喜びだった。大好きな水遊びと、大好きな車のエアコンの前を陣取れるからだ。
気の短い父は、バナナが十分以上川に入ると、業を煮やして、早く出ろと毎回ロングリードを引っ張って川から上がらせていた。車に乗せていざ帰宅、だが真っ直ぐには帰らない。エアコンを喜ぶバナナに、父はわざわざ遠回りして帰宅した。
ジョンの時と同じように、バナナもまた車から下りるのを抵抗した。ジョンはある程度走れば満足したが、バナナはそうではなかった。水から出すのも、車から降ろすのも苦労するとは、頑固な面は柴犬の血を色濃くひいている証なのかもしれない。
バナナは雷が嫌いだった。外飼の犬は当然だろう。ジョンも雷が鳴ると家に入れてくれと窓ガラスを叩いたり、車が家にある時は車の下に潜り込んでいた。
最初のうちは、雷にさして反応はなく、犬小屋の奥に丸くなってやり過ごしていたが、あるとき近隣に雷が落ちた。それ以来、バナナも雷を怖がるようになり、遠雷が聞こえだすと家族の誰かが直ぐに玄関の中に入れる。すると途端に安心するのか、腹を出して爆睡。雷と雨が去った後も気持ちよさげに寝ているので、しばらくそのままでと母は思っても、父ば直ぐに庭の所定位置に出してしまう。雨上がりのが気持ち良かろうというのが父の持論だったが、バナナの不満そうな寝ぼけ眼をみる限り、雨上がりの庭よりも、玄関で寝るほうが気持ちよかったのは一目瞭然だった。
雷は、遠雷から近づくとも限らない。ある日、私が庭作業しながらバナナを放して遊ばせていたとき、黒雲もないのに突然雷の轟音が鳴り響いた。あのときは、まさに私もバナナも飛び上がるほど驚き、二人で慌てて玄関の中に逃げ込んだことがある。
③防衛対策
散歩中、犬を寄せられる(近づけられる)のを、私は嫌う。犬によっては仲良くなれる子もいるらしく、父はバナナにボーイフレンドがいるんだと言っていたこともある。
だが、私は愛犬に関しては犬の交流をよく思っていなかった。気性の荒いバナナが喧嘩して他犬に噛まれるのは嫌だったし、逆に愛犬が小型犬を噛む危険だってあるのだ。
たまに子供が寄ってくることかあった。先に「触っでいいですか?」と尋ねられたときには、「この子は噛むかもしれないから、ゴメンね」とお断りするするが、いきなり駆け寄ってる子には慌ててバナナを抱き上げて、子供の手が届かないようにした。
ある日、近所の方が夕方に訪ねてきた。近所といっても、町会で見かける程度の付き合いしかない。その方は夫婦で訪ねてきて、「ウチの犬に噛まれたので、病院に行ってきた。狂犬病予防注射済証明と、治療費を渡してください」と。
青天の霹靂だった。慌てて父に尋ねてみると、人を噛んだのは本当だったらしい。人を襲うような犬ではないのにどうしてと思いながらも、母が治療費を渡して謝罪し、その間に私は自宅の狂犬病予防注射済書類を自宅のプリンタでコピーして渡した。
夫婦が帰宅した後、私はバナナの様子を見に行った。既に日が落ちて暗くなっていたので、懐中電灯片手に庭に出たのだが、バナナを見て仰天した。小屋の中に蹲るバナナは、血まみれだったのだ。よく観察すると、よりによって障害のある後ろ足に噛まれた跡があった。
馴染みの獣医がまだ診療時間だったので、慌ててバナナを獣医に連れて行った。幸い、骨に異常はなかった。止血の薬を塗って包帯を巻かれ、塗り薬を処方された。
帰宅後、父に事情を聞くと、住宅団地内をすれ違う時、こちらは避けて通ったのだが、談笑中のオバサン二人のうちの一人が飼っていた犬のリードが伸びて、いきなりバナナに噛みついて離れなかったのだという。それに慌てた飼い主が自分の犬を引き離そうと手を出したところ、噛まれて恐慌状態のバナナに噛まれたのが真相らしかった。
同様の話は、翌日に談笑相手のオバサンにも、聞きに行った時に聞かされた。相手の犬は、甲斐犬の風貌をした中型犬の中でも大型の部類の雑種犬だった。その犬のリードを、談笑に夢中だったとはいえ、しっかり持っていなかったことに怒りを覚えた。
しかし、事情がどうであれ、噛んだ犬に過失があると見なされる。こういうことがあるから、犬の近くを通るときは特に警戒し、場合によっては道を変えることもあった。
バナナの怪我を黙っていた父には憤慨したが、あの大型犬相手にバナナを素手で助けるのは難しい。今後もこうした事態があるかもしれない。
私は街へ出た際に、衣料品等も扱う大型スーパーで、木製の杖を購入した。散歩の際に、これを持っていって、いざというときは武器にしてと父に渡したが「年寄り臭くて嫌だ」と拒絶された。代わりに、散歩バッグに折り畳み傘を入れることで決着した。
この折り畳み傘、急な雨にも役立ったが、やはり広場に犬が増えて、広い広場に犬を放す者も多くなった。あるとき、放された柴犬がバナナに向かってきたらしい。父が折り畳み傘で相手の犬を叩いて追い払ったとか。柴犬の飼い主には睨まれたらしいが、そもそもこの広場で犬を放すのは禁止されている。遊ばせたいなら、他の犬がいない時にロングリードを使うべきだ。長さに限界があるので、工事用ロープ(黄色と黒の縞模様)を首輪に付け替えて、ボール遊びをしている人もいた。
さて、せっかく購入した木製の杖。杖を使う年齢でもないが、散歩の護身用に私が使うことにした。そして意外な用途を見つけた。
他の犬のいない時間、ロングリードに付け替えて、いつもボール投げするところを、杖をバット代わりにテニスボールを打ってみたら当たって飛ぶ。これが結構楽しいのだが、投げるより飛ぶので、バナナに引っ張られながら、ボールを追いかけるのには難儀した。
…この木製の杖は、のちに正当な使い方をされることになる。まず父が歩行困難になってから車椅子生活になるまで、この杖を使用した。父が使わなくなると、兄が杖を使い始めた。兄が亡くなってしばらくしてから、病院からの連絡で杖を渡し忘れていたので取りに来てくださいと言われた。思い出が染み込みすぎた杖を見るのは耐えられず、しばらくして処分した。
④後悔と、懺悔
荒川静香さんが、日本で初のフィギュアスケート金メダリストになった前年。
母は感染症によって危篤状態まで陥った。なんとか助かったものの、当時はまだ一般認識が薄かった「せん妄」状態で、母は人の区別もつかず、見えないところに誰かいると怯えた状態で、入院先からは精神病院を検討された方が良いとまで言われた。だがある日、スイッチが入ったように母の精神状態は戻った。するとしきりに家に帰りたがったので、別の病院含む四ヶ月の間に落ちて衰えた筋肉を動かす歩行訓練を受け、ある程度介助ありでも歩けるようになってから、翌年の一月に退院した。肥満気味だった母の体重は、このとき半分以下まで減っていた。だが肥満体質だったからこそ、生き延びることが出来たのかもしれない。
食欲は入院当時から戻らなくて、それでも一生懸命食べていた。当然、お通じが出づらく、入院していたところとは別の病院の外来に出向いた。かなり詰まっているようで、看護師さんが浣腸しながら掻き出そうとしても出てこず(当時の看護師さん、ありがとうございました)強めの下剤を処方されて帰宅。翌朝、病院から電話があって、お通じが出たかの確認だった。出ないと答えると、入院の準備をして、すぐに来てくださいとのことだった。この電話のあった日が、荒川静香さんが金メダルを取った日だったので、記憶に残っていたのだ。
診断、腸閉塞。入院中の処置で数日後からお通じがで始めた。入院中に若干だが食欲も戻ってきて、すると母はまたしきりに家に帰りたがった。様々な検査をするために、まだ病院側としては入院の必要性を丁寧にしてくれたものの、母がどうしても帰りたいというので、自宅での歩行訓練と食事をきちんと食べることを条件に、半月で退院。
退院後、歩行訓練がてらに立ち寄ったスーパーで、このお弁当が食べたいと言うので、鮭の幕の内弁当を購入。半分でも食べられたら良いなと思ってたら、まさかの完食。それ以来、食欲が戻って、むしろ戻りすぎるほどだった。お風呂も介護なしで自力で入れまでになり、奇跡としか言いようがなかった。
…だがこれは奇跡ではなく、代償を伴う無償の愛情ゆえだったと、私たちは思うようになった。
母が劇的回復した頃から、バナナが変な息遣いをするようになった。聞き覚えのある喘鳴音。だがバナナには、蚊の出没期間には毎月、フィラリアの飲み薬を与えていた。
ジョンと違って、チーズに包めば服薬してくれるので、楽だった。
老犬になりかけだが、まだ寿命には早い。
馴染みの獣医に診察してみてもらったところ、心臓病とのことで、心臓の薬が処方され、なるべく激しい運動は控えるようにと言われた。
だが喘鳴音は悪くなってる気がする。急な発症、どうして心臓病?
馴染みの獣医は良い人だが、老舗ということもあって、医療施設は昔ながらのものだった。
父が、ちょうどバナナを保護した動物病院の分院が市内に出来たから、そこへ連れてってみるかということになった。
今も瞼に焼き付く、あのときの自家用車の助手席の足元に乗ったバナナの嬉しそうな顔。バナナはいつもの水辺に連れてってくれると思ったのだろう。あの顔を思い出すと、今でも胸が締め付けられて涙が溢れる。
同じ市内でも、自宅と動物病院までは市の端と端に位置していた。父の同僚さんが迎えてくれて、設備が完備された新しい動物病院で精密検査を受けた。診断、僧帽弁閉鎖不全症。フィラリアは血液検査の結果、いなかった。
入院で更に検査、治療することになった。数日置きに、父の自家用車で、または私がバスと電車を乗り継いで会いに行った。出かける直前まで旺盛だった食欲は、入院してからほぼ食べなくなり、好物を持ってきてくださいとのこと。大好物だった高級犬用缶詰を持っていっても、全く食べない。どんどん弱っていく気がする。手を尽くしてくれる動物病院にこのまま入院させるべきか、それとも自宅に連れ帰るかを思案し始めた頃、ついに最悪の連絡が来た。
七月三日、朝八時四十五分、携帯の電話からバナナが亡くなったことが告げられた。
後悔の念が吹き荒れる。両親にバナナが亡くなったのを伝え、父と私は準備を終えるとすぐに、バナナを迎えに行った。引き取ったバナナの亡骸は、まだ温かった。犬も人間も、亡くなってすく、冷たくなるわけじゃない。心臓が止まっても、ゆっくり全身の細胞が機能を止めていくので、かなり長い時間温かいのだ。
だから、バナナが眠っているようにしか見えなかった。
動部病院にお礼と支払いを終えて、バナナを連れ帰る。私も父も無言だった。私は後部座席で、段ボールの棺に入ったバナナをずっと撫でていた。
途中、切り花のお店に立ち寄って、父と折半で白と黄色の菊の花五十本を購入した。
帰宅すると、母が玄関を整えて待っていた。母は食欲も戻って動けるようになったといっても、まだ掃除するのはキツイはずだったのに。一緒に行けなかった分、幼い頃のバナナが過ごした定位置を掃除することで、母も悲しみを紛らわせていたのだろう。
バナナの棺を定位置に置き、自宅にある大きめの花瓶2つに、白と黄色の菊を供える。自宅にあったバナナの好物もありったけ供えた。母が、まだ温かいバナナに「まだ生きてるのでは?」と言った。皆がそれを願った。
私はかなり長いこと、バナナを撫でていた。錯覚なのか、ときどき動いたように思えて、その度に撫でる手を止めて息を確かめる。だが奇跡は起こらず、体が冷たくなり始め、やがて鼻や口から血が流れ始めた。
ああ、本当に逝ってしまったのだなと、このとき、ようやく納得した。鼻血を止めるためにテイッシュを詰めて、口元を拭ってハンカチを口の下に敷いた。
ジョンのときと同じ霊園に電話して、火葬の手続きを取った。夏場なので、火葬日まで氷で体を冷やして保冷する。自宅の氷だけでは間に合わないので、近所のコンビニで氷の大袋を買ってきた。
仕事から帰宅した兄は、帰宅途中に購入した犬用の玩具とケーキを供えた。そして亡骸の前で泣いた。
火葬予約日の予約時間に合わせて、両親と共に車でバナナを火葬場へ連れて行った。出かける前に三人で菊の花を全てもいで、バナナの亡骸の周囲に飾った。
このときは火葬炉がまだ火勢が強くなかったため、菊の花と袋から出された犬用のオヤツだけがバナナの亡骸にそえられて、炉に入った。
当時の霊園には喫茶店があったが、そちらには入らず、三人で日陰から炉の煙突から煙が立ち上るのを見つめていた。
一時間後、呼ばれて火葬場に入ると、骨だけになったバナナがいた。二人一組で、箸で大きな骨を骨壺に入れて、それから全ての骨が職員さんの手で骨壺に収められた。ジョンのときと同サイズの骨壺だったが、満杯には至らなかった。
「細い骨だな」
父がポツリと呟いた。ホルモンバラスによる肥満体型のせいで大きく見えたが、骨はずいぶん華奢だった。
バナナは保護された犬なので、誕生日は分からない。だが保護された時、成長具合などから七月辺りに生まれたのではと、獣医さんは見当をつけた。狂犬病予防注射のときは、誕生日を七夕にちなんで七月七日に登録した。
だからバナナは満年齢十一年0ヶ月で亡くなったということになる。戌年に犬を亡くした。
バナナの死は、後年、私が強いられることなる最期の時間の選択の教訓となり、指針にもなった。
バナナの一生は短かった。しかし沢山のことを、彼女から教えられた。
火葬後は、家族が納得するまで自宅安置できる。翌月がお盆ということもあって、私達は翌月に納骨することにした。
この頃にはペットビジネスが盛んになってきた。合同法要の案内がされて、参加は確か一人三千円。法要参加の手続きをして、骨となったバナナの遺骨を連れ帰った。お骨はリビングに安置して、常に花を絶やさなかった。好きだった缶詰をお供えしたり、散歩途中で立ち寄ったコンビニの唐揚げをお供えしたり。
この唐揚げには、ちょっと笑えるエピソードがある。父はたまにというか週の半分は散歩中にコンビニに立ち寄って、唐揚げを買ってまず一個与え、帰宅後にまた一個与えていた。残りは晩の餌に混ぜられて与えられたが、たまにバナナのウルウルした訴えに悶絶した父が、帰宅後に全部食べさせてしまうこともあった。もっとも個数はコンビニ前で与えたのを含めて四個か五個。いや、やっぱり多いな。
特にご近所に話した覚えはなかったが、隣の小母さんが、お孫さんとコンビニ行った際、お孫さんが唐揚げを欲しがったらしい。そのとき小母さんは「あの唐揚げはね、お隣のワンちゃんの好物なのよ」と言って諦めさせたとか。コンビニ店員の前で、それ言わないで欲しかったわ~(苦笑)。
法要の時に、翌日の納骨のためにお骨を持ってくるよう指示された。私達、といっても母はまだ正座できる状態ではなかったので、父と二人で参加した。受付でバナナの骨壺を託し、参加料金を支払って法堂に入る。
満員の法堂、参加者は五十人を下らないだろう。それより驚いたのが、皆がほぼ喪服を着て参列していたことだ。私と父は、犬(猫や他の動物含む)の法要だしと普段着だったので、黒服の中でかなり浮いていた。もっとも、そこにいたペットを亡くした参列者は、すすり泣きに忙しくて、私と父の普段着など気にも留めてなかっただろうけど。
法要が始まり、読経のあとに、法要のペットの名前が告げられる。「○○市の愛犬、名字&ペット名」という感じで。我が家も「某市愛犬〇〇家バナナの霊」と読み上げられたときには、手にしていた写真立ての遺影を持つ手が震えて涙が落ちた。
犬、猫だけでなくウサギやインコも読み上げられていた。インコも火葬するのか、骨残るのかなと、そのときは思ったものだ。
その後、父が運転てきなくなるまで、ジョンの墓参同様、毎月ではないが思い立った時に墓参に出向いた。ペット霊園の共同墓地に、ジョンもバナナも埋葬された。家専用のペット墓も多く有ったが、花の絶えない共同墓地のが、寂しくなくていい。お線香を立てて、お供えをして(お供えはカラスに狙われるので持ち帰りがマナー)、父は暗記した経を読む。我が家とは宗派がペット霊園と違うが、まあ仏様には変わりないし。私は南無阿弥陀仏ぐらいしか言えないが。
父が経を暗記してたのは、毎日祖父母の位牌が入った仏壇に拝んでたためだった。これほど信心深くて愛情深かった父だったのに、旅立つ時は家族の到着が間に合わず、病院関係者の生命維持処置中,逝った。家族に引き際を見せたくない美学だったのかもしれないが、私は最期の瞬間を立ち会えなかった傷が、今も深く突き刺さっている。
私が勇気ある決断していれば、自宅で安らかに逝けたかもしれないのに。だが私は少しでも長く父に生きて欲しかった。だから人工透析をやめて自宅に連れ帰る最終手段に踏み切れなかった。透析の終了、それは数日後に、確実に死を迎えることを意味していた。
「神様仏様、どうしてあともう少し、私たちが到着するまで、父の命の灯火が消えるのを留めてくれなかったのですか?」
三、三代目愛犬レン
①血統書付き柴犬
バナナの死は、ジョンのとき以上に衝撃が強かった。父は家族の目の前でも「バナ公、バナ公」と事あるごとに泣いていた。皆がペットロスに陥っていたが、特に症状が強いのは父だった。
母は二度と犬は飼わないと宣言した。だが父は悲しみを癒やすためにも、犬を欲しがった。私もジョンときと違って、犬がいないと今回は乗り切れない心地だった。正確に言うと、バナナを自宅で看取れずに病院で寂しく逝かせた衝撃に耐えられなかった。バナナを入院させるときの最後のドライブでの彼女の笑顔、罪の意識が大きすぎる穴を埋める対象が欲しかった。
バナ姫と、兄は呼んでいた。散歩こそ出来なかったが(他の犬が寄ってくるのを追い払えない)、行事ごとに玩具や犬専用のご馳走をペットショップで買ってきていた。仕事が休みのときは、庭でボール投げして遊んだりしていた。口下手で特に父との会話は基本的になかったものの、犬の話題となると家族の輪の中で笑っていた。
バナナの死後数日後、何気なくリビングから庭を眺めた私は叫んだ。「バナナがいる!」と。
両親も駆け寄ってきて窓を見ると、バナナの顔が浮かんでいた。だが、これは霊ではなかった。たまたま前日に庭の剪定した枝を運ぶのに古い一輪車を使って、いつもバナナを繋いでいたサルスベリの木に立てかけて、片付けるのを忘れていたのだ。それがレースカーテン越しに、光の加減で、一輪車のサビがバナナの顔そっくりに浮き上がらせたのである。
霊ではない。だが私たちは、バナナがまだ魂の姿でこの家にいるのだと伝えるために、こうした形を示したのだと、このとき信じて疑わなかった。
まだバナナの四十九日も明けてない。だが納骨の法要参加した翌日、一区切り付いたのは事実。それまで耐えていたのだろう、父が犬を飼う、買ってでも飼うと宣言した。
あのバナナの顔の一件も原因の一つ。亡くなった犬は、新しい犬が飼われるまで家から離れないという伝承があった。バナナに我が家への執着を断ち切らせて、天国に旅立たせるためにも、新たな犬を飼うと、父は言った。
私は耳鼻科への通院がてら、ペットショップに立ち寄っては子犬を眺めていた。あるとき白い柴犬が目に止まった。とても愛らしくて愛想も良かった。それだけのハンサムな子犬が人気にならないわけがない。次に訪れたときには、既に他家に買われた後だった。
父は、バナナの骨の細さに衝撃を受けたようで、次飼う犬は絶対に雄だと言った。そして飼うなら柴犬だと。
バナナを亡くしてから、父は痩せた。食が進まなくなったのだ。代わりに酒量が増えていた。
とりあえず下調べということで、八月五日、兄の運転で父と私はペットショップ巡りをすることにした。ジョンが白、バナナが茶色だったので、柴犬にするとしても黒柴がいいなと思った。茶色だとバナナを思い出してしまうから。
一軒目のペットショップは、衛生的に難アリ、黒柴もいなかった。二軒目、私が白柴を見たペットショップにも黒柴はいなかった。
そんななか、柴犬ではないが、猛烈に人懐っこいジャックラッセルテリアがいた。ある程度成長もしていたので、値引きもされていた。この子、いいなと思ったが、父の目に止まったのは、不貞腐れたように背中を向いて眠る生後2ヶ月の柴犬の子犬だった。
ケースから出してもらって、父に抱っこされると一転して愛想よく振る舞った。次に私が抱っこしたとき、掌をペロリと舐めた。ジョンを彷彿とさせる仕草、陥落。兄も抱っこして、「すごく可愛いな、この子」と言い、父がこの子犬を飼うと決めた。ちょうど市内のお祭りの日だったので、値引きされたが、それでも注意点として販売員から「足が太いので、かなり大きくなると思われますが、構いませんか?」と、尋ねられた。父は「長距離散歩に出られるなら、ある程度大きい方がいい」と答えた。それからケージ、大きくなるのを想定した布製のキャリーバッグ、ドッグフード、ミルク、餌皿と水皿、ケージにつける水飲み等を購入して、子犬と共に帰路につく。
しかし早速、問題発覚。この子犬、車酔いが酷いのだ。よく他県からここまで連れてこられたなと思えるほど、上からも下からも出しまくった。
帰宅して、母はまさか子犬連れて帰ってくるとは思わずに驚いていたが、子犬の可愛さに、すぐメロメロになった。まあこの子犬、一部の人間には外面が良かったけど、歴代愛犬ぶっちぎりトップの曲者だった。
上下から出してたので、すぐに体を拭いて、熱中症予防ドリンクを作って飲ませるとあっという間に飲み干した。そして父とケージを組み立てると、寝床を作って休ませた。
子犬は物怖じもせず、新しいケージの中の寝床に丸くなって寝た。暫くそっとしておこうと、その場を皆で離れる。次に様子を見に行ったときには、腹を出して寝ていた。すっかり寛ぎきっていたようだ。
粉ミルクをぬるま湯で溶かした中にドッグフードをふやかして与えたものも、残さず食べた。夜泣きもしなかった。貫禄のある子犬には、レンという名前をつけた。
名付けたのは私である。人間にも人気の名前で、実際、私も好きな漫画の主人公から命名した。年齢よりも落ち着いた、温厚で博識な不思議な青年。これでこの漫画が当てることが出来る人がいたら、相当な漫画好きだ。しかしウチのレン、主人公とは程遠い性格に成長した。暴れん坊から命名したのかというほど、キツイ性格のレン、そんなつもりで名付けたわけではないのに。
②標準的柴犬?
血統書付きの柴犬を飼ったのは、レンが初めてなので、レンの性格が柴犬の標準だとしたら、初めて犬を飼う人にはお勧めしないというのも納得する。見た目は可愛いが、近年になって狼の血筋に一番近い犬種と判明したように、とにかく頑固なのだ。嫌だと言ったら、言うことを聞かない。そして頭がとても良い。
ジョンとバナナは、お座り、お手、お代わりまではマスターしたが、伏せを習得したのはレンが初めてだった。
小用もケージ内のトイレでキチンとしたし、大のときにはワンワン鳴いて報せて、子犬時代は庭で用を足した。
成犬になってからは、テリトリーである庭で縄張りを示す小用はしても、糞はしない。父などは散歩でなかなか用を足さないため、一時間以上の散歩して、それでも駄目な時は一旦帰宅して一服した後、またトイレの旅に出かけていった。大抵はいくつかのお気に入りの場所があるが、他の犬が近くを通ったりすると意識が他犬に向いて、新たな場所を探しに行く。だがある時、「いい加減にウンチしてよ~」と歩き疲れて私が呟いたとき、レンはウンチをしたのだ。偶然かと思ったが、翌日もお気に入りの場所付近で「ウンチ」という言葉を出すと、用を足す。言葉を完全に理解していたのだ。以来、散歩で「ウンチ」の魔法の言葉で散歩の負担が減った。父にも教えたが、父の時は言うことを聞かなかったらしい。長く散歩してくれるから、と悪知恵が働いたのだろう。
ところでウンチの取り方だが、両親(レンが成犬になる頃には、母も散歩に行けるようになった)は小型シャベルですくって、トイレに流せるペット用ペーパーの入ったビニールに入れる。私は厚手のビニールに、テイッシュを五枚重ねて、ビニールごしに手づかみで取る。冬場などはホカホカしてて温かい。親からは、いくらビニールごしでも、ウンチを手づかみなんてありえないと言われたが。私はそれを厳重に結んで、ゴミに出していた。しかし、このウンチ処理はどちらが正解か未だに分からない。ゴミにウンチを出さないでくださいという一方で、ペットの糞はトイレに流さないでくださいという注意書きもある。まさかその場に埋めとくわけにはいかないし、自治体によって処理方法は変わるのだろうか?
子犬時代に話を戻す。二度目のワクチンを終えてから、レンの散歩が解禁となった。それまでは抱っこして外の景色に慣れさせていた。フィラリアの薬と、ダニ退治のスポイトも月一で行った。
ジョンの二の舞いは嫌だったので、レンの歩行は徹底的に躾けた。まあ父もジョンの時代のように、公園広場まで駆けていく体力もなくなっていたが、相変わらず長距離散歩は大好きで、とんでもない場所まで行った話を聞いて驚いたこともある。
ジョンの歩行訓練は成功した。他の犬に向かっていくことも無いが、向かっくる犬には喧嘩上等と、臨戦体制をとる。その前に抱き上げて回避させたが。
帰宅後に、私がレンを仰向けに抱き上げて、母が足とお尻を濡らしたタオルで拭くのが恒例だった。父が散歩から戻ってくるときも、呼び鈴を鳴らして足拭きの合図を送ってくる。たまに私が外出してるときは、玄関前にレンを繫いで私の帰宅を待つ。抱っこしてても暴れることはないが、母が足を吹く際には母の手をペロペロ舐めたり甘噛していた。その度に母が「柿じゃないんだから」と言っていたが、なんで例えに柿が出てたのかは謎だった。
両隣とお向かいの小父さんが、レンは大好きだった。家族に対しては尻尾が揺れる程度にしか振らないのに、この三人の小父さんに対しては猛烈に尻尾を振って、飛行機耳となる。それを見る度に、私も父も複雑な気持ちになる。なんで餌をくれるわけでもない、撫でてくれるだけの小父さん達に、ああも愛想が良かったのか?
家族もレンが嫌がらない程度に撫で回していたが、尻尾は省エネでチロッチロッと揺れるだけだった。考えられるとしたら、言葉を理解してたことかもしれない。小父さん達は、レンを撫でながら「レンちゃん可愛いね~」と褒めていた。
一方、家族はレンをレンと呼ぶのが半分、もう半分はニックネームと化したワルという呼び名だった。レンは「ワル」と言われると、はしゃいで走り回った。なんでワルと言われて嬉しかったのか、分からない。
乳歯生え変わりのときも、サンダルや靴に手出しはしなかった。玄関脇に建築当初からついていた手すりの下はバナナが噛った跡があるが、レンは噛じらなかった。代わりに寝床の座布団やトイレシーツをボロボロにしたり、何故か壁紙を剥がすことに楽しさを見出していた。
ケージに入れるよう、細いリードを二本繋げて繋いでいた。
祖母が亡くなった後、仏間を兼ねた一階の和室は父の部屋となった。最初は二階に部屋を持っていたが、熱中症で倒れて以来、涼しい一階の部屋に引っ越したのだ。この部屋と隣接する玄関のケージにレンが居るわけだが、襖をキチンと閉じていても、いつの間にか開ける技術をレンは習得していた。そして隙間から部屋に入り、リードが届くギリギリのところで寝転がる。夏場なのでエアコンの効いた部屋は快適だったのもあるだろうが、出入り口に陣取るので、父はレンを避けながら部屋の出入りをする。たまに尻尾の毛の部分だけを踏むと、大袈裟に叫ぶ。「おまえ、芯は踏んでないだろ」と父がボヤいても、レンはお構い無しのマイペース。そもそも縦になって寝れば邪魔にならないのに、襖に沿って横に寝るから厄介だ。
ちなみに、トイレのドアを塞ぐように寝転ぶこともある。「邪魔だからどいて」と言っても、動かない。そんなときは犬モップのようにレンを床に滑らせて移動させるが、それでも起き上がらない。
こんなだから、家族に「ワル」と呼ばれるようになったのだ。
レンは雷に対しては、さほど怯えた様子がなかった。父の部屋に侵入して、邪魔な寝方をするぐらいだ。しかし、打ち上げ花火の音だけは苦手だった。このときは、いつもどうやって首輪を抜けるのか謎だったが、普段は入ってはいけないと躾けているリビングに逃げ込み、ブルブル震えている。リビングから出そうとすると、牙をむき出しにして怒るので、打ち上げ花火が収まるまで、そのままにするしかなかった。しかし各地域の打ち上げ花火大会、ウチの二階から見えるのは二箇所ぐらいで、それもかなり遠い。でも音は方々から聞こえてくる。ちなみに夏場になると、毎日のように夜中近くに爆竹を鳴らすのが、この地区のヤンチャな中高生の恒例。この音もレンには苦痛で、このときは父の寝ている布団の上に逃げ込んでいた。早寝早起きの父にしてみれば、体の上に十五キロの巨体がいきなり乗っかってくるのも迷惑だったようだが、震えるレンに仕方がないと諦めていた。爆竹が終わると、自主的に小屋の寝床に戻っていた。たまにトイレの前で寝ていて踏みつけてキャインと叫ばれることもあったが。
柴犬の最大特徴、アンダーコート。バナナは、よく純血の柴犬と間違えられたが、アンダーコートはなかった。ジョンもなかった。
だがレンにはアンダーコートがあり、換毛期ともなると毎日手入れしていても、ポリ袋いっぱいになる。そうでないときでも、かなり毛が抜ける。風呂嫌いだから、せめて毎日のブラッシングは入念にということだった。
玄関の中とはいえ、内飼いだったので、毛の手入れと掃除は入念に行わなくてはならなかった。レンは一生のうちに二度だけ、夜を外で過ごしたことがある。だが猛烈に吠えて近所迷惑なので、外飼は無理という結論となった。加えて夏の猛暑。ジョンの頃とは比べ物にならないほど、日本の気温は上昇し、特に真夏は殺人的な暑さ。アンダーコートのある柴犬には、過酷すぎる環境に変化していた。
③焼き鳥
郊外の我が家周辺に飲食店は少ない。スーパーとコンビニが出来ただけでも奇跡的だ。
テイクアウト専用の焼き鳥屋は、消えては別の場所に現れを繰り返していた。ジョンの時代は、父がよく自分の酒の肴に散歩途中にたびたび購入していた。注文して焼き上がりに時間がかかるので、一周してから焼き鳥屋へ戻ると丁度いい頃合いで焼き上がってテイクアウト用の袋に詰められていた。この焼き上がりの一番美味しいときを堪能していたのが、ジョンだった。父がレバーを串から抜いて与えていたのだ。焼き鳥屋の店主からは「贅沢な犬だねぇ」と苦笑されていたらしいが、せっかくの焼き鳥が目の前で犬に与えられる店主の心境も複雑だったと思う。
テイクアウト専門の焼き鳥屋は過酷な環境で、バイトを入れてもすぐ止めてしまうと、私が代わりに買いに行ったときにはボヤかれたことがある。そして大抵は定年退職した後の起業なので、人気があっても体力的に長く店を維持できない。十年保てば良いほうだろう。
バナナが生きていた時代は、焼き鳥屋が近辺になく、車で買いに行かねばならなかった。焼きたてを食べられなかったバナナ、可哀想に。焼き鳥は味だけでなく、炭火に落ちるタレの匂いもご馳走なのだから。
レンがウチにきた当初も、近所にテイクアウト専門焼き鳥屋がなかった。だが小高い丘の住宅団地を越えたところに、当時、近所とは別のチェーン店のホームセンターがあって、併設されている八百屋が馬鹿安いこともあり、よく家族で車を出して買いに行っていた。
そこの真向かいの弁当屋を兼ねたテイクアウトの焼き鳥屋が、私はいつも気になっていた。
レンがワクチン接種を終え、散歩もある程度長距離が歩けるようになった頃、私は家族に黙って散歩がてら、その焼き鳥屋を目指した。実際に歩いてみると、車では気づかなかったが、坂道がキツイ。そして予想より遠い。やっとたどり着いて、焼き鳥をテイクアウトで家族分注文。時間がかかりますよと言われたが、疲労困憊でむしろ休める時間がとれて有り難かった。レンには持ってきていたペットボトルに入れた水をお椀に注いで飲ませ、私は自販機でお茶を購入して飲みながら待った。そして焼き鳥が焼き上がった。炭火焼のタレの匂いは、最高に食欲をそそる。
私は休んでいたベンチで、袋詰めされた焼き鳥の中からレバーを1本だけ出すと、一串の半分を自分が、もう半分を少しずつレンに与えた。やはり炭火焼の焼き鳥は美味しい。よい匂いに耐えながら待つ価値があった。
そしてレンも、焼き鳥が気に入ったようだった。気に入りすぎて、いざ帰ろうと立ち上がったとき、「もっとくれ」と言わんばかりに、私の足にしがみついた。リュックにしまった焼き鳥は、4人家族+レンの夕飯トッピング用の分しかないので死守。それでも諦めす、私が歩きだしても足にしがみついて離れない。レンにしがみつかれたまま、それでも歩く私。その様子に焼き鳥屋店主は爆笑し、道向かいのホームセンターの客も大笑いしていた。距離的にもキツイが、この恥ずかしい格好は二度とゴメンだ。
その焼き鳥屋はその後も何度か利用したが、野菜を買いに車で家族で来るときだけだ。店主から、「もう、ワンちゃん連れてこないのかい?」と尋ねられたときには、あの時が初めて利用したのに顔を覚えられていたと知って恥ずかしさに、真っ赤になった。
それからしばらくして、近所に新たなテイクアウト専門の焼き鳥屋がオープンした。早速、父は常連となった。散歩のはじめに注文して、散歩の終わりに撮りに行くとちょうど焼き上がって袋詰めされていた。焼き鳥屋脇の、焼き上がりを待つ客用のベンチに腰掛け、そこからレバー串を一本取り、串から外してレンに一本分与える。そして帰宅後に、家族で分けたのと他に、レン用の餌のトッピングに焼き鳥が一本分使われるのだった。
この焼き鳥屋も、十年と保たなかった。店主が体調を崩して閉店となったのだ。閉店一年前ぐらいには、父は散歩で焼き鳥屋に立ち寄る体力がなく、焼き鳥を買うのは私の役目となった。近くのスーパーに自転車で買い物に行く前に注文して、買い物が終わる頃に出来上がっている。
レンは夕方の散歩で通りかかるたびに焼き鳥屋を見ていたが、レンと一緒に焼き鳥を買うのはもうゴメンだった。
焼き鳥には、別のエピソードがある。本当に忘れられない日だった。
この日は、母を市街地の眼科へ連れて行く日だった。いつもはこの眼科の予約を午前中に取っているのだが、予約日に別のクリニックに行く用事が出来てしまい、なるべく早めの日に眼科予約を取れないか交渉して、この日の午後の予約枠が空いてるということで、珍しく午後の診察となったのだ。
我が家の夕飯は父の希望により18時と早めのため、この日は時間的に夕飯を作る時間がない。あまり不平不満は言わないが、食に関してだけはうるさい父なので、電車で二駅先の焼き鳥屋でテイクアウトしてくるからと約束して、納得してもらった。
そして眼科へ向かうバスの中、眼科最寄りの終点バス停まであと少しというところで、バスが揺れだした。方々から、小声で「この運転手さん運転ヘタだね」という声がして、私と母も似たようなことを言っていた。揺れが始まって直ぐに、バスは走るのをやめて止まった。そして乗客の誰かが叫びだしたことで、車内は騒然となったのだ。
「東北で巨大地震!」
そう、バスの運転手のせいではなく、バスが揺れたのは東日本大震災の本震だったのだ。運転手は下手どころか、的確な判断をしていた。もう少し進むと、カーブの下は崖となっていたからだ。
完全に揺れが収まったのを確認して、バスは終着地に到着した。バスから降りると、防災無線で市内の震度が五弱であることを知った。
私はすぐさま携帯電話で、父に電話した。電話は繋がって、父は慌てながらもコッチは無事だと伝えてきたところで、電波は切れた。何度かけても繋がらない。とりあえず父が無事なのは分かってホッとした。
駅構内の南北道を通って、眼科に到着。眼科でも患者が騒然としていた。いつもなら診察が終わるまで待つところだが、父との焼き鳥の約束がある。診察は眼底検査を含むので、一時間過ぎるのがいつも通りだから、余裕で診察終わるまでには戻れる。
いつもなら。
焼き鳥を買いに行くのに躊躇していると、母が「行ってきなさい、遅れても待ってるから」と急かした。
私は駅に行ったが、電車は止まっていた。バスは動いていたので、目的地までバスで行く。バスが走ってると気づかないが、途中で運転手さんが「ただいま余震で揺れております」とアナウンスした。窓の外を見ると、電線が大きく揺れていて、乗客は騒然とした。
母と合流した後に聞いた話では、このとき眼科では看護師の指導で患者含む医師が、クリニックの外へ一時避難したらしい。
焼き鳥屋はやっていた。客も開店時間から間もないのに、数人座って飲んでいた。焼き鳥屋の巨大テレビには、波に流されていく船が映し出されていた。テレビからは絶叫に近い中継の声。二度の大揺れをバスでやり過ごしたので実感がなかった私は、この光景にようやく大変な事態になってることを知った。
焼き鳥が焼き上がって、始発バス停の次のバス停から、眼科へ戻ろうとする。だがバスは、始発から満杯だった。それでもまだ何とか乗り込むことが出来た。このバス停からも多くの乗客が乗り込んで、これ以上はもう乗れない状態だった。しかし次のバス停でもバスは停車。乗り込もうとする乗客と、中にいる乗客との間で怒号が飛び交う。数名の乗客は無理やり乗り込んできた。バスの扉は何度もの開閉の動作でやっと閉まって発車した。その次のバス停でもバスは止まり、「無理だ」「乗せろ!」の問答が続いた。ここでも何名かが乗り込んだが、さすがにこれ以上は無理だった。運転手さんも、バス停に多くの客が待っていても、もう乗車口を開けることはなかった。焼き鳥どころか、こっちの内臓が破裂するのではというほどの混雑ぶりだった。誰もが黙ってると気がおかしくなりそうな状態で、かくいう私も近くの人と地震あった状況などを語り合った。
道路は渋滞して、遅々として進まない。普段ならバスでも三十分もかからないところを、二時間以上かかって目的地に着いた。眼科に行ったら、もう出られましたとのこと。この辺りでベンチがありそうなのは近くのスーパーで、やはりここに母がいた。母いわく、眼科に後から予約の人が次々やってきて邪魔になるのと、のどが渇いたから、こっちに来たとのことだった。自販機でお茶を買って飲んでいた。ふと、自販機の裏側の公衆電話が目に止まった。電話をかけると、すぐに父に繋がった。向こうも何度も私の携帯電話に電話したが、繋がらなかったとのこと。私はこの状況だから、帰宅に時間かかるだろうけど、焼き鳥は買ったからと告げて電話を切った。ベンチに座る母の元へ戻ろうと、電話から向きを変えて驚いた。私の後ろに長蛇の列が出来ていたのだ。死角にあったので、この公衆電話にみんな気づかなかったようだ。注意してみれば、確かにどこの公衆電話も、人が並んでいた。
行きは駅の南北道を通れたが、帰りは危険だということで閉鎖されていた。大回りして、自宅行きのバス停に、たどり着く。足の悪い母には可哀想だったが、タクシーも出払っていて、乗客が長蛇の列を作っている。バスに乗るのにどれぐらい待たされるか、あるいは来たバスに乗り込んで、あとは徒歩で帰宅かと考えていた。行き先の違う目の前のバスが満杯で発車した後、運良く来たのが自宅方面のバスだった。母を座らせて帰れてホッとした。
帰宅後、焼き鳥を温めて皆で食べた。レンのドッグフードにも特別に2本分の焼き鳥を混ぜて与えた。
地震がきたとき、レンは大パニックを起こしていたらしい。鎖を外して父が抱きしめて、ようやく落ち着いたところで大きな余震。それからもレンは、父から離れようとしなかったようだが、緊張が徐々にほぐれて眠り込んだとのこと。
そんな精神状態で餌を食べられるのかと思ったが、完食して水もがぶ飲みした。夕方の散歩には行ってないというので、懐中電灯を手に軽く散歩させた。
東日本大震災が起こる一週間ほど前から、レンが遠吠えに似た鳴き声を上げるようになった。叱って黙らせても、また鳴き出す。疑問に思っていたところに、この地震だった。本震がきたあと、レンがあの鳴き方をすることはなかった。
このとき以来、レンは花火や爆竹に異様な怯えを見せるようになり、加えてそれまでは歴代で一番楽なのではと思われていた狂犬病予防注射にも牙を剥いて威嚇した。
私は園芸用の革手袋をつけてレンを押さえつけようとしたが、右の親指を思いっきり噛まれた。バラを扱うときの分厚い手袋のお陰で血が滲む程度で済んだが、素手なら大怪我してただろう。
馴染みの獣医は親子で交互に診察担当になっていたが、若先生が「アレがうまいのは父だから」と、大先生を呼びに行った。「アレ」とはなにかと、処置された指を眺めて待っていると、大先生が竹槍を持って現れた。竹槍の先に注射をつけ、レンの首元に突き刺す。匠の芸当だった。
というか、昔流行った有名な獣医漫画の名物教授を彷彿とさせた。
両先生から、「これからは狂犬病予防注射はこれを使うので、お越しの前に事前に連絡してください」と、言われた。以来、レンは竹槍で注射されるようになる。後年には若先生も竹槍をマスターして、レンに注射できるようになった。
東日本大震災で、色んなことが変わった。身近なところでは、野生の狸が隣の家に出没するようになった。これまで見たこともなかっただけに、近所でも評判になった。間もなく姿を消したが、震度四レベルの地震が来る前には住宅街を徘徊するので、地震が来るなと、近所で予想することも出来るようになった。
④宝物だった日常
レンは風呂もだが、川に入るのも嫌った。だがある日を境に、川が好きになった。
たまたま父が散歩していたとき、我が家の裏側に住む当時小学生だった男の子が、友達と川で遊んでいた。そして「小父さん、レン君貸して」と言われたのでリードを渡すと、ジャブジャブ川の中に入っていった。それ以来、レンは川に入るのが好きになったのである。
風呂もオヤツを使えば、自ら入るようになった。食い意地が張っていると言われたらそれまでだが。
成犬になってからも、家の中で飼ったのはレンが初めてである。日々、長い散歩をしていたので、他の爪は削れていたが、狼爪と呼ばれる前足の横に生える爪が伸びるは早かった。いや、でも外飼でもあの爪が削れるってことあるかな。ジョンとバナナの狼爪が伸びていた記憶はないのだが。もし伸びていたら、特にジョンは父の足にしがみついて嬉ションのお出迎えの時に、ズボンに突き刺さって気づいていたはずだし、バナナの場合も兄がよく上半身を抱き上げていたので、前足をかけられた腕に食込むはずだ。
この狼爪、本物の狼にはないというのは本当なのだろうか?
ともかく、生後一年経たないうちから、レンの狼爪が長く伸びて、私が抱き上げて母が足を吹く際に、じゃれ付くときに狼爪で引っかかれるのが痛いと母がボヤいていたのだ。
小型犬ならペットサロンで切ってもらえる。近所でも犬を飼うお宅が増えたため、ペットサロンが出来た。だがそこは「柴犬等、日本犬お断り」と店先に書かれていた。獣医さんで切ってもらう選択もあるが、レンの気性の荒さでは流血は避けられない。ならば私がやるしかない。
我が家には、複数の爪切りがあった。父がよく室内で無くしてして、片付けの際に何個も古いものが出てきていたからだ。父の部屋の床は本で溢れていた。書痴でもあった父は、読んでる本に疑問があると別の本を出すを繰り返す。片付けると怒るので、よっぽど酷くなったときのみ片付け掃除を断行していたが、汚部屋の人間の決まり文句って、「自分には何がどこにあるか把握している」だが、その割に爪切りだけでなくハサミも室内で無くして、その代替にキッチンバサミまで持っていくから、母が怒る怒る。
そう言えばバナナが亡くなる前に、母が大病した話は書いた。入院と退院後しばらくは、私が食事を作っていた。だが母は台所に立つのが好きで、元気になるといつの間にか、母が朝食を作るため台所に立つようになった。父は、母の作る味噌汁の方がうまいと褒めるものだから、朝食は母の担当になった。なにしろ朝の五時半から台所に立つから、私では真似できない。夕食は引き続き私が、昼食はどちらかが作るのが新しい生活ペースになっていた。
レンの狼爪切りに戻る。レンは頭がいいので、最初の一回目だけ苦労したが、あとは諦めて私に逆らわなくなった。
本当にその一回目が苦労した。約一時間、家どころか庭中を追い回し、牙を向けて威嚇したときには、園芸用の棒で叩いて叱りつけた。動物虐待と言われたらそれまでだが、話して納得してもらえる相手なら叩いたりしない。最後は部屋の角に追い詰めて、降参したレンの爪を切った。最初は驚きと恐怖でキャインと悲痛な叫びを上げたが、「あれ、痛くない?」と気付いたもう片方の前足の狼爪は大人しく切られた。
こうして爪切りは、私限定だが出来るようになったが、切った爪をバクリと食べてしまうので、勢いで飛んだ爪の回収争奪戦は続いた。
兄はジョンもバナナも、前足の脇を掴んで抱き上げて話しかけるのが好きだった。レンにもたまにしていたが、本気一歩手前の流血しない程度に噛まれていた。レンなりの配慮だったが、兄はその度に悲鳴を上げていた。
兄はレンにも色んなものを買ってきた。五月になると小さな鯉のぼりを買ってきて、小屋の横につけた。レンに邪魔だとすぐに引きちぎられていたが。また、犬用の珍しいお菓子やケーキも買ってきた。バナナのときもよく犬用ケーキを買ってきて与えていたが、この見た目の可愛い犬用ケーキ、見た目に似合わない繊細の胃の持ち主だったレンは喜んで食べたものの、数分としないうちに吐き出した。慣れない食べ物は受け付けない体質だったのだ。ドッグフードも犬用缶詰も、おやつもほぼ決まったものを与えていた。手作り餌はもうやめていた。カリカリドッグフードに、缶詰を混ぜる。一食タイプの缶詰のメーカーに拘りはないようで、バナナのように特定メーカーの缶詰を見てよだれを出すことはなかった。ただ大きな缶詰の場合は成分が違うのか、吐いてしまうので使えなかった。
缶詰でなく肉を混ぜることもあった。味付け無しの炒めた肉に、キャベツかレタスを少々加えたもの。
塩分には気をつけていたが、父は散歩途中にコンビニでタバコを買うついでに、唐揚げを買ってはレンに与えていた。唐揚げ、焼き鳥はレンの胃には問題なかったようだ。
ボール遊びは好きだが飽きっぽかった。食後三十分の激しい運動は、犬が胃捻転を起こす危険があると漫画で知ったので、遊ぶのは食事前か、食後三十分後以降。だが遊びたいと思うと、室内の場合はレンが立ち上がってケージの上の箱からボールを取り出し、トイレに向かおうとする家族に転がして「投げろ」とアピールした。兄の買ってきた音の出る玩具を鳴らしてアピールすることもあった。
庭に放している時は、物置に置いていたボールで遊ばせていたが、レンの好きなボールは音が出るものだった。ピーピー鳴らして非常にうるさい、が、顎の力がそこそこ強いのですぐに壊れてしまう。酷い時は下ろしたての柔らかいボールに一分ほどで穴を開けた。だから、ボール遊びにはテニスボールが適していた。レンを可愛がる小父さんがテニスを趣味としていて、使いづらくなったボールをくれるのも有り難かった。倉庫の下に入り込んで、園芸用の長い支柱を使っても、どうしても取れないときもあったからだ。
私との散歩の際には、広場に他の犬がいない時はロングリードに切り替えてボール遊びをさせていた。父にはロングリードの使用を禁じて隠していた。一度、父の散歩中に、他の犬と喧嘩になったこおがあったのだ。互いにロングリードを使っていて、絡まりを解くのに難儀したらしい。幸い、互いの犬とも怪我がなかったらしいが、それ以降は普通のリードのみで散歩してもらった。
⑤死の影
…私はレンの存在によって、難関を乗り切ることができた。しかし今でも思う。レンは、我が家ではなく、別の家で買われた方が幸せではなかったのだろうかと。
家族に影がさし始めたのは、2013年だった。父は糖尿病が悪化し始め、通院していた病院に検査及び指導入院をすることになった。それが二月中頃だったと思う。思うという言い方は、調べればスケジュール帳に日にちが記載してあるが、いまはそのスケジュール帳の束を見るのが辛い。私のスケジュール帳は、この2013年から家族の通院記録で埋め尽くされていたからだ。
三月末に父が退院したのと入れ替わるように、母に発疹が出来た。最初はかぶれかアレルギーかと思われたが、いくつものクリニックで薬を処方されても治らない。父の通っていた総合病院の皮膚科で見せたところ、膠原病の疑いがあると言われて、検査してもらっていた。夏になると母の両耳が聞こえなくなった。総合病院併設の耳鼻科では老人性難聴だと診断されたが、急に両耳が聞こえなくなるなんてあるだろうか。耳元で大声で話さないと聞こえないなんておかしい。膠原病に、そうした症状の出る種類があったが、あいにくと、この病院のリウマチ膠原病内科に常駐医師がいないため、そのとき抱えている患者以外は受け付けなかった。
苦心して探し当てた膠原病を専門的に扱う都心の病院で診察してもらったところ、母はやはり膠原病で、すぐに入院する必要があった。だが都心でも数少ない専門病院のため、膠原病病棟のベッドが空くまで一週間程度かかった。検査しながら治療というスケジュールだったが、入院三日後にステロイドパルスを行う電話が病院からあった。
膠原病には様々な種類がある。前に通っていた市内の総合病院皮膚科で、膠原病の中でもメジャーな皮膚筋炎が疑われていた。都心の病院は、種類を探るよりもまず、病状を落ち着かせることに切り替えたらしい。ステロイドパルスは、三日間、点滴でステロイドを注入する。ステロイドを大量にという不安から、すぐに準備して病院へ向かった。ステロイドパルスの威力は凄かった。母の耳が通常に戻ったのである。検査結果は、三種類の膠原病が混じった珍しいタイプで、研究用にと何度か治療とは別の採血が行われた。
この病院で母が「せん妄」を起こすことはなかった。一度目の入院は一ヶ月程度で退院したが、症状を抑えるための免疫抑制剤点滴入院がその後三か月間、日数は三日間程度だが行われた。ステロイドの副作用として、皮膚が傷つきやすくなること、血糖値上昇で糖尿病になり、インスリン注射が必要になった。
父も、母の膠原病発症の翌年か翌々年から、インスリン注射をするようになった。
やっと生活が落ち着いたと思った頃、兄が脳出血で集中治療室に運ばれた。症状が安定した頃、リハビリ専門病院に転院して、幸い後遺症もほとんどなく退院できたが、自宅に帰るまで数ヶ月を要した。
それで落ち着く間もなく、父の腎機能が悪化した。しばらく外来で処方された注射と飲み薬で保ったが、糖尿病性腎機能障害は坂道を転がるように悪化する。そして腎不全となり、人工透析に移行した。
それから数年は透析は疲れると、ぼやきながらも、透析用のシャントの入った左腕さえ使わねば散歩もできたし、食欲もあった。だが後に膵臓がんが発覚。手術を希望した父だったが、受け付けてくれる病院は見つからず、2020年春にこの世を去った。
父の臨終には間に合わなかった。透析のできる療養型病院が遠かったのである。療養型病院への転院の際、私は医師から「どれほど手を尽くしても後悔のない看取りはない」と言われた。それでも私は後悔した。療養型病院へ転院すれば、あと三か月ぐらい生きられると言われた。しかし蓋を開けてみれば、父は転院後僅か一週間で、家族に看取られることなくこの世を去った。私が透析を終了選択すれば、確実に数日後には亡くなるが、自宅で看取ることが出来たのだ。最期の時間を、両親が築き上げた家で終えることが出来たのだ。結果論であれ、私は父に申し訳なくて、謝りたくて。でもそのその言葉はもう届かない。
自宅に無言の帰宅をした父は、火葬までの一週間、自宅で安置された。葬儀屋さんが運んでくれるドライアイスと、設定温度の最低気温で冷やされた仏間で、父の亡骸は過ごした。透析開始に合わせて購入したベッドに、レンはずっと付き添っていた。
散歩のたびに、私はベンチでレンを抱き上げて泣いた。母と悲しみを共有することは出来なかった。母にとっても、父の死の衝撃が強すぎたのだ。アルツハイマー性認知症の診断を受けていたが、それまでは普通に応対できた。だが父の死を境に、母の認知機能は、目に見えて低下していった。
父の出棺のとき、レンは狂ったように泣き叫んだ。悲痛な声は胸をえぐられた。レンにも、これが本当に父との別れだと分かったのだろう。遺骨になって戻った父に、レンは反応しなかった。昔のように父の部屋の出入り口を塞ぐような寝方をしていたが。
夏頃から、急にレンの体に変調が見られるようになった。鼻血をよく出すようになったのである。秋には認知症行動が出るようになった。
私が、肝硬変で入院している兄の必要不可欠な物を届けに行って帰ってきたときだった。この時期は世界中を恐怖のどん底に落としたウイルスのせいで、面会謝絶されていた。パジャマやタオルもレンタルと決められていた。しかし靴下や紙パンツやテレビカード用のお金を届ける必要があったので、病院へは頻繁に行かなくてはならなかった。兄の今後を医師や相談員とする必要もあった。父の余命宣告とほぼ同時期に、兄の余命宣告も出た。
レンは、母が宅急便を受け取っている隙間を通って、外へ出てしまったのだ。この頃のレンはもう長く散歩するのも稀で、家では寝てばかりだった。だから家の中で放していたのである。それが仇となった。
それほど遠くに行ける体力は、もうレンにはないはず。レンが家を出たのも、一時間も経っていなかったらしい。どこかで倒れてるのではないかと、自転車で散歩コースを巡り、犬を散歩させている人に老犬の柴犬を見なかったか尋ねた。やっとレンの行方を知る小学生に出会った。倒れていた犬に誰かが通報して、駐在所に運ばれたとのこと。
私は溢れる涙を堪えながら、駐在所に向かった。レンが倒れていたのは、父が散歩でおやつを必ず与えていたベンチの近くだったのだ。レンは、父を探すために外に出たのだろう。
駐在所につくと、一足遅く、レンは警察署に向かったばかりだった。駐在所の奥さんから(旦那さんの駐在員が警察署にレンを運び中)、警察署に連絡してくれた。身分証明書持参と、自家用車がないことを告げると、ペットタクシーで来てくださいとのこと。
急いで帰宅して、手当たり次第のペットタクシーに連絡したが、どこも飛び込みの客を受け付けてくれない。
困り果てて、いつも家族の送迎に使っているタクシー会社に電話して相談すると、キャリーバッグがあるならタクシーでの送迎が可能ということで、タクシーに自宅まで来てもらった。警察署に行くにはバスを乗り継ぐ必要があって、時間もかかるのと、15キロの柴犬を入れる大きなキャリーバッグは折りたたみ可能だったが持ち歩くのは大きすぎたのだ。何より、レンの容態が心配だった。
自宅まで来てくれた運転手さんには会社から話が通っていて、「手続きに時間かかりそうだから、警察署についたら一旦精算して。私は会社に待機してるから、終わったら会社に自分(タクシー運転手さんの名前)を指定くれたらすぐに来るから。犬が苦手な運転手も居るから、そのほうがいいでしょ」と親切に申し出てくれた。警察署につくまで、この方とは犬について語り合った。自宅でも犬を飼っている愛犬家だったのだ。
警察署に到着してタクシーから下車し、転げるように警察署内に入った。話が通っていたので、身分証明書を見せると、すぐにレンのいる物置に案内された。ケージの中で丸まっていたレンは、私を見るなり立ち上がって尻尾をチロッチロッと振った。レンなりの喜びの表現だ。倒れていたと聞いたから、最悪の事態も考えていた。
タクシー会社に連絡して、警察署に連れてきてくれたタクシー運転手さんが来てくれた。布製のキャリーバッグに入ったレンに、無事で良かったと声をかけてくれた。
あれほど車酔いが酷かったのに、三半規管が衰えたのか、吐いたりもせず自宅に到着した。母の手を借りながら、レンの足と、体も軽く拭いた。牛乳を与えると、喜んで飲んだ。本当はいけないのだが、レンが幼犬の頃から飲んでいた粉ミルクを、容態が悪くなった夏の猛暑の頃から飲まなくなった。試しに人間用の牛乳を与えたら、美味しそうに飲むので、熱中症対策に牛乳を与えていたら、すっかり気に入ってしまったのだ。寒くなってきて、ぬるま湯に溶かした粉ミルクもまた飲み始めたが、牛乳よりも飲む勢いが違う。仕方ないから飲んでやるって感じだった。
しばらく時間を置いてから餌を与えたら、完食した。
あのときは本当に一日がジェットコースターで、私も疲れ果てたが、レンもかなり疲れていたらしく、食べ終わるとリビングの隅で熟睡した。
母を都心の病院に外来受診するときは、レンを家の中で放し、水皿も各所においていた。警察署の一件があってから、レンの認知症が一気に進んだのだ。帰宅すると、大抵は父のベッドの隙間に挟まっていた。
父が亡くなった同じ年の勤労感謝の日、兄は帰らぬ人となった。臨終には、またしても立ち会えなかったが、朝に病院からそろそろ危ないので来てくださいという電話があり、三十分の面会を許されたのだ。まだ意識があって、兄は「カルピスが飲みたい」と言っていた。看護師に確認したら、無理だと言われてしまった。後で氷を口に含ませるからと言われて、面会時間終了。後ろ髪引かれながら、母と帰宅。その夜、危篤の知らせで駆けつけたが、着いたときには息を引き取っていた。
兄の在宅看護は、はじめから無理だった。もともと体格も良かったが、浮腫も加わって、百キロ以上の体重になっていたのだ。さすがに床ずれ防止の寝返りさえ、私には無理だった。何より、母の通院付き添いで隔週で都心の病院に、連れて行かねばならない。母はこの年のはじめ、原発不明癌と診断された。父のときも使用した全身を細かく見るPET検査でも分からなかった。だが癌マーカーは確実に上がり始めていた。また、膠原病をはじめとする多くの診療科へ受診していた。この病院の診療科は、ほぼ制覇したのでは思えるほどに。
兄への後悔は、最期の望みだったカルピスを飲ませてあげれなかったこと。最近は臨終前のアイスクリームということが定着化しつつある。看護師に相談せず、こっそりカルピスを買ってきて、テイッシュにでも含ませて味あわせてあげれば良かったと悔やむ。
無言の帰宅をした兄に真っ先にしたことは、真夜中の自販機にカルピスを買いに行って供えたことだった。
レンと過ごした最後のクリスマスと正月は、レンと二人きりだった。母が十二月はじめから腎炎で、市内の病院に入院していたからだ。
散歩で全工程を歩いて帰宅するのが半々となり、途中から動けなくなったレンを抱きかかえて帰ることも増えてきた。それでも家の中では私の後をついて、チョコチョコと歩き回っていた。私が自分の食事を調理してるとき、肉の欠片が床に落ちると、レンがすかさずパクリと食べていた。
母のベッドは、リビングにあった。2005年の感染症で体が衰えたとき、退院後に一階のトイレに近いリビングで寝起きできるようにベッドを購入したのだ。それまでは布団を使っていた。母の入院中、私はリビングの母のベッドを使った。レンがベッド脇で安心して寝てくれるからだ。元気な頃だったら、ベッドに上がって寝ていたことだろう。
青年期のレンのジャンプ力は凄かった。庭で投げたボールを空中キャッチしたり、遊びの中で駐車場の階段はジャンプして飛び降りるので、足に負担がかからないか心配したほどだ。
だが瞬発力はバナナのが勝っていたと思われる。私がこの目で見た訳では無いが、父が散歩中にロングリードで広場で遊ばせていたとき、低空飛行のツバメを捕らえたというのだから。「そのツバメ、どうしたの?」と尋ねたら、バナナから取り上げて放っておいたとのこと。生死不明のあのときのツバメ、その後、どうなっていたのだろうか?
ジョンはおっとりした性格と、生き物やボール遊びには無関心だったから、瞬発力やジャンプ力は分からない。ただ動体視力は三匹の中でトップだったと思う。投げたチーズの欠片を確実に口キャッチできたのは、ジョンだけだったからだ。バナナとレンも口キャッチは出来たが、成功率は七割程度だった。
母は翌年一月に退院して我が家に戻ってきた。この頃から、レンの容態が悪化していった。頻繁に発作を起こすようになり、食欲も落ちてきた。それに伴って糞も出なくなり、綿棒を油で浸して掻き出さなければならなかった。
獣医に連れて行く決断をした。馴染みの獣医は若先生が担当していた。後にレンが亡くなった報告とお礼を言いにいった際に、大先生は既に亡くなっていたことを知った。
検査結果は癌だった。心臓にも負担が来ていた。ステロイドが処方されたが、余計に体調が悪くなったのを報告したら、痛みを緩和する薬だけ飲ませることにした。
兄の納骨は、父の一周忌法要の際に行った。それを見届けるために頑張ってきたとしか思えない。四月二十七日の午後九時、レンはキャンキャンと鳴いた後、息を引き取った。
十四才十ヶ月。ウチの犬たちは、どの子も十五歳の壁を越えられなかった。
ただ思うことがある。もしも父が健在だったなら、レンは癌にならなかったのだろうかと。飼い主を愛しすぎる犬が、後を追うように亡くなる話はよく耳にする。
父の出棺のとき、悲痛な声で鳴いていたレン。いまなら違った受け止め方ができる。「連れて行かないで」ではなく、「僕もすぐに追いかけるよ、だけど家族が心配だから少しだけ待ってて」と。
実際、レンの支えがなければ、父と兄の死の悲しみで潰れて、諸手続きも出来なかっただろう。
恐らくレンは、嬉々として虹の橋を渡り、父の胸に飛び込んだに違いない。その周囲で、ジョンが大好きな父を取るなと怒っている姿が目に浮かぶ。バナナは兄と一緒に、「こんなときぐらい大目に見てやれよ」と呆れているに違いない。ジョンは温厚だったが、父が絡むと嫉妬深くなる。お向かいの犬を撫でただけで猛抗議の吠え方をして、父が家の中で放し飼いにして可愛がっていた文鳥が、あるとき庭に出てしまったときには、野鳥には普段無関心なジョンが、文鳥を噛み殺そうと襲いかかるのを寸前で救出した事があった。
レンは夢にも霊にも出てこなかった。やっと会えた父に、省エネの尻尾の振り方をしながらも離れないに違いない。
ともかくレンは、父に対して大きな孝行を果たした。父より早くに旅立たず、父を悲しませなかった唯一の犬なのだから。
親友はレンのために花を贈ってれた。のちに遺影の写真立てを、会ったときにくれた。写真立てには、以前にスマホで送った桜の下で半笑いしているようなレンの写真が収められていた。スマホからプリントしてくれたのだ。いつも写真を撮ろうとすると無表情や不機嫌な顔になるので、この遺影の表情は貴重だった。
ジョンとバナナは、父の運転する自家用車で遺体を火葬場まで運んだが、既に車は処分していたので、霊園の送迎車で火葬前日に運んでもらった。大好きな父の使っていたタオルを段ボールの棺に敷き詰め、私の上着にレンを包みこんだ。未使用だった鳴る玩具、ペットフードやおやつをたくさん入れて、庭の花を中に入れた。早咲きのバラ、ツツジ、遅れて咲いたチューリップ。折り鶴も作れるだけ作って入れた。
翌日の火葬式は母と参加した。母は喪服を着ると言って聞かなかったが、火葬場は蚊が多い。スカートでは蚊に刺される。いつもの散歩の延長のつもりで行こうと言い聞かせて、私服にした。火葬時間に合わせて、タクシーで霊園に向かった。
火葬炉が新調されたことで、金属は駄目だがプラスチックのボールやタオルと衣類も火葬することが出来た。缶入りの食べ慣れた缶詰は、職員さんが紙コップに移し替えてくれた。前夜に幼馴染が折り鶴を折って持ってきてくれたので、それも一緒にしてもらった。
霊園の喫茶店で待つことしばし、火葬時間も短縮されて、レンの骨は寝ている姿のまま形を保っていた。職員さんが丁寧に骨の説明をしてくれた後、母と二人で大きな骨を、忘れな草の花が描かれた白い骨壺に入れた。細かい骨は職員さんが納めてくれた。ほぼ骨壺に合った量の骨だった。そして骨太だった。オスだからか、毎日のミルクや父が犬のために惜しまなかった健康的な犬用おやつのお陰なのか。
タクシーで自宅に骨壺に収まったレンを連れ帰る。リビングの棚に親友が贈ってくれた花を飾り、自宅にあった写真立てに手持ちの写真をの中からマシな表情のものを入れた。
霊園に登録する際、レンの名前を漢字で蓮にした。後日談になるが、私は位牌注文の際に、間違えて命日を二十七日ではなく二十三日にしてしまった。兄の命日と混同してしまったのである。まあ霊園登記には正確な命日が載っているし、お坊さんが魂入れもしてくれているので、そのままにしてある。
その後も別の親友から、お供えのフードとお線香をいただいた。レンと過ごした最後の年末、彼女は我が家に遊びに来た。そして二人でハマっていた某有名アニメのディスクをリビングのテレビで見ながら熱く語り合ったが、彼女は無類の柴犬好きで、レンをモフりたおしていた。レンも本物の犬好きなのが分かるのか、触るのを許していた。レンのために選んでくれたお線香は、あの日見たアニメのコラボお線香だった。
バナナの位牌は私の自室にある。ジョンのときはペット位牌の概念がなく作りそびれたが、代わりに蓮の花の置物を遺影の前に飾っている。
ジョンとバナナの遺影は、父の使っていた仏間、リビングにもある。兄の部屋を整理したとき、兄もジョンとバナナの写真を飾っていた。
家族皆が、犬達を愛していた。
二度目の父の命日、お釈迦様の誕生日の翌日、大きめのリュックにレンの遺骨と遺影を入れた。途中の霊園でバスを降りる。レンの遺骨に、父をはじめとする兄や祖父母に挨拶するためだ。レンの納骨はこの日と決めていた。母はデイサービスに預けていた。
墓参の後、再びバスに乗る。動物霊園は不便な場所にあるため、ここからタクシーを使うのが良いのだが、少しでも長くレンと最後の散歩をしたかったので、動物霊園まで歩くことにした。
あの世界を恐怖に陥れたウィルスの影響で、合同供養はなくなった。無料送迎バスも取りやめになった。
桜が散る細い道をレンの遺骨を背負って歩く。晴れた空の下、桜の花びらが舞う。
ジョンの時代の頃は、ようやく桜が見頃の時期を迎えるか否かだったのに、気候も随分と変わったものだ。あの頃は真夏でも三十度を越えるのも稀だった。
動物霊園に到着して、レンの骨壺を受け付けに託そうと手続きする。名残惜しげに骨つぼに被せた布を撫でていたら、職員さんが納骨まで遺骨を安置する供養塔へ案内してくれ、蝋燭とお線香に火を灯す。「気がすむまで、こちらで最後のお別れをなさってください」と言い、帰る時は蝋燭は消してくださいと付け加えて事務所に戻っていった。仏様を取り囲むように棚があり、多くの骨壺が安置されていた。レンの骨壺は、仏様の御前に一時的に置かれた。私が帰った後、棚の何処かに入れられて、共同墓地に葬られるときまで待つのだろう。私はレンに、「ありがとう」と「ゴメン」しか言えなかった。
犬を見送ることが今まであっても、家族を見送った愛犬は、レンが最初で最後だ。本当に辛い思いをさせてしまって、申し訳なさしかない。
蝋燭を消して供養塔を出る。タクシーを呼ぶか考えていたとき、休憩所の隣に小さな建物があるのに初めて気付いた。中には行ってみると、壁一面に亡くなったペットへの伝言が、備え付けの色とりどりのメモ用紙に沢山貼られていた。私もレン、蓮へのお礼と、ジョンとバナナに弟を可愛がってほしいとメモ用紙に書いた。それをコルクボードに画鋲で貼り付ける。これらのメモは、お盆のときにお焚き上げすると書かれていた。
他の人の亡くしたペットへの伝言を見ると、愛情と深い悲しみが書かれていた。そして虹の橋の彼方で、安らかに、楽しく暮らしてほしいとの願い。
顔も名前も知らない人達の感情が入り込んでくる。涙が止まらなかった。こんな顔ではタクシーに乗れない。
散華、父が亡くなったあの夜も桜の花びらが舞っていた。私は軽くなったリュックを背負って、桜舞う中を泣きながら駅へ向かった。
終章
父が逝き、兄も去り、そして蓮が虹の橋を渡ったことで、細い糸で保たれていた母の心は壊れた。あるときは父を、あるときは兄を、あるときはレンを探しに徘徊した。夜中にそっと外に出て、探しても見つからずに警察に連絡すると、保護されていた事もあった。デイサービスの迎えの来るほんの僅かな時間に姿を消して、デイサービスの方々総出で探してもらって、どうやって其処へ行ったのか、とんでもない場所で発見されたこともある。しきりに家に帰りたいと言い、何処の家かと尋ねれば、両親と姉と弟が暮らしていた家だったり(母の両親は鬼籍に、母の姉も十代で早世している)、自宅は自宅でも建て替え前の平屋だったり。私のことも、たまに介護士と間違えて敬語で話した。
そんな母も2023年のひな祭りの早朝、自宅で静かに息を引き取った。
都心の病院へ通うのに、母よりも私が限界を迎え、病院の相談室で話し合った結果、市内の病院に変えることになった。十年一昔、以前は受け入れ先が市内に無かったが、父がお世話になった総合病院とは別の病院のリウマチ内科で、膠原病も外来診察してくれることになったのだ。だがそこに通ったのも一年ほどで、在宅医療に切り替えた。病院の相談員や、デイサービスのケアマネからは、療養型病院を勧められた。私の心身を心配してのことだったが、母だけは最期を穏やかに過ごしてほしかった。
自宅で最期を迎えたジョンとレンは、亡くなる当日まで好きなものを食べた。バナナは動物病院で食事も拒絶して逝った。父と兄は手足を拘束されていた。体中に管を入れられていたので、それを引き抜かないようにだ。我慢強い父が亡くなる前日、拘束を解けと暴れたらしい。後でそれを聞かされて、悔やんでも悔やみきれなかった。寿命を縮めてでも、自宅に連れ帰るべきだった。延命治療にはサインしなかったが、拘束のサインはした。父の喉には栄養を送る管が入っていたからだ。あの忌まわしいウイルスさえなければ、日参して父の監視を条件に、拘束を解く時間も確保できただろうに。
ともかく母には穏やかな最期を迎えてほしかった。重体になって、意識不明になる直前、母の顔を濡れタオルで拭いている時に「ありがとう」と母は言った。顔を拭いた礼なのか、それとも自宅で最期を迎える準備を整えたことへの「ありがとう」なのか、わからない。だが、私は後者だと思っている。
在宅医の付き添看護師さんは、いつでも受け入れられるように、病院のベッドは空けてあると言ってくれた。
だが膠原病発症以来、年に何度も様々な病気で入退院を繰り返していたのだ。精一杯頑張って生きてくれたのだ。沢山の別れを連続して耐えてきたのだ。最期ぐらいは、検査三昧から開放され、慣れしたんだ我が家で、大好きな家族の迎えを待つのもいいだろう。
意識不明になってからも、脈が危険水域に達しても、実弟の声を電話越しに聞くと、正常域に戻ったりした。私が「夜中の見送りは寂しすぎるから、旅立つ時は、せめて明るい時間にしてよ」と言ったら、生命活動を止めたのは本当に夜明け間近だった。
母の両親、父、兄、三匹の写真と小さな陶器の雛人形に見守られ、母は生涯に幕を下ろした。
どうしてレンを、もっと早くに獣医に診せなかったのかかという疑問を抱く人が多いはず。答えは単純、家のお金が尽きていたからだ。
難病は申請すれば、難病診療上限が決まるが、障害者ではない。障害者も等級によってサービスが異なる。一級障害者の父と兄は、通院支給されたタクシー券が使えたが、転院時の際の介護タクシーは使えない。オムツ助成金も、初期なら足りる額だが、トイレにも間に合わなくなると、オムツ枚数は格段に増え、上限額を超えたら実費となる。介護費用は適用と適用外がある。この適用外が意外と負担が重い。なによりも、付添の交通費は確定申告対象外だ。近隣ならともかく、都心の病院への交通費は馬鹿にならない。同じ市内でも、ド田舎の我が家から駅へ行くバス代もヘビーだった。
それでも父が生きていたときは、厚生年金でやり繰りできた。父の年金が止まり、お葬式や納骨が続くと、瞬く間にお金は消えていく。本当にギリギリのラインでの生活で、市役所に相談しに行ってもいた。遺族年金があるので、生活保護を受ける基準ではない。持ち家を売る選択肢は、母の認知症がなければ視野に入れても良かったが、昔なじみのご近所さんの協力で、徘徊してもすぐに見かけたら報せてもらえた。
国や市の助成には感謝している。身体障害者認定の援助、難病保険証、オムツ助成金、介護保険のおかげで、母を送り出すまで、何とか持ちこたえることが出来た。
将来を見越した預貯金、投資。だが未来なんて一寸先さえ分からない。家族の中で真っ先に死ぬと思われていた私が、最後に残ったのもその一つ。
もう一つは、親戚への借金返済のため、自宅を売却する手続き時になってから、致命的な欠陥が見つかった。
住むのに問題はなかった。むしろ前の平屋よりも頑丈で、バリアフリーは大いに役立った。
問題があったのは、建築確認通知書の申請を、建て替え依頼した大手建築会社がしていなかったことだ。いまは法律化されているが、我が家が建て替えたのは法整備直前。建築確認通知書の有無で売却に雲泥の差が出ることを初めて知った。もちろん救済処置もある。改めて国の認可を得た専門業者に依頼して、作成して貰うのだ。都心部の億近い値段の家なら、やるべきだろう。
しかしド田舎のただでさえ安い場所の、築三十年弱の家が改めて建築確認通知書を作るっても手間賃が百万単位、これを評価額から差し引けば、不動産会社が提示した額とほぼ変わらない。変わらないどころか、確認のための時間がかかる。無収入の私には切実な問題だった。ともかく、評価額より大幅に下がったが、ド田舎の家が売れただけでも幸運だった。叔父からは「なんで相談しなかったんだ!」と言われたが、私は目の前のことをこなすだけで精一杯だった。
加えて燃え尽き症候群というか、無意味な人生にほとほと嫌気が差していた私の自殺願望は、不眠症と共に、馴染みの精神科クリニックの医師から危険視されて、とりあえず休むようにと障害者申請書を作成してくれた。申請は通ったが、障害者年金が受けれるレベルではない。それでもバス移動が不可欠な地域住まいの者にとっては、バス代が半額になるのはとても助かったし、精神科クリニックの診療費負担がなくなったことも感謝しかない。
私のパニック障害(主に車酔い)は、母の一度目の危篤時に寛解した。だが母の膠原病通院付添いなどの負担で再発して、薬なしでは長時間の電車移動も耐えられなくなっていた。
四年間で両親、兄、レンを見送った。燃え尽きた私を支えてくれたのは、優しい親友たちだった。特に母の出館のとき、一人で母を見送る覚悟をしていた私のために、火葬式に駆けつけてくれた親友には、心から感謝する。
母の死の前年、恥を押し殺して叔父に借金を申し込んだ。このとき二人の叔父が自宅までわざわざ来てくれて、お金を貸してくれたが、これが三姉弟が揃った最後であり、写真でも撮っておけば良かったと今でも思う。
あのとき元気そうだった長男叔父が、まさか母の死後半年後に癌で亡くなるとは、連絡を受けたときは到底信じられなかった。自宅の正式売却が決まり、借金を返せる目処がやっとついた日だった。
…本当に、人生なんてものは分からない。借金は御香典と共に、従姉妹に手渡した。このとき、人生でほとんど初めて、長男叔父の娘さん達と会話した。
ジョンは地元で生まれた雑種だった。
バナナは山梨県で保護された。
レンは茨城県から店に送られた。
ジョンはともかく、バナナとレンは、本来なら遠い地域で生まれたため、出会うはずもなかった。それが様々な縁で我が家と結ばれた。この三匹は、我が家に光をもたらした。亡くしたときの悲しみの波も壮絶だったが、彼らが私たち家族にもたらした幸せが大きかった証でもある。
…生きていかねばならない。もうこの世では私しか、あの愛しい愛犬たちの素顔を知らないのだから。
最後に。
この文書を書き始めてから間もなく、親友の愛犬が虹の橋を渡ったことを報された。私は泣かずにはいられなかった。親友の愛犬とは一度しか会ったことがない。小型犬の可愛い子で、抱っこさせてもらったときの驚くほどの軽さ。成犬にも関わらず、子犬だったレンが家に来た時よりも軽かった。
この子は、レンと同じ年だった。そのせいか、犬種は全く違うけど、勝手にレンの兄弟のように思っていた。レンが天へ旅立ってから、特にこの子がレンの分まで頑張って生きているが励みだった。老犬年齢に差し掛かってから病気がちになったらしいが、家族が全力で看病して、本当にとても大切にされてきた。
十七歳九ヶ月の命を全うして、虹の橋を渡った君へ。頑張ったね。天国でウチの犬たちと仲良くしてね。
令和六年夏至前日。完
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