それは雨に濡れる日

ぐざい

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それは雨に濡れる日 3

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その人は雨の日にやってきた。
俺がこのカフェで働き始めて3年。ここは居心地がいい。変な客は来ないし、客層もいい。

その人は、雨の日にやってきて、寒そうで、冷たい空気をまとって店に入ってきた。俺は目を奪われた。一目惚れだった。お好きな席へと声を掛けたら、その人は窓際のカウンターへ向かった。

このカフェのカウンター席は大きな窓に面していて、景色がよく見える。外を歩く人との視線が気にならない高さになっているため、この席に座る常連も多い。
その人は窓の外をじっと見ているようだった。なにを見ているんだろう。その人は、視線は窓の向こうに向けたまま、コートのポケットからハンカチを出して肩に付いた雨粒をはらった。よく見るとスーツの裾が濡れている。革靴も濡れているようだ。ひととおりはらい終わったのか、ハンカチをまたポケットにしまい、コートを脱ぎ、鞄と傘と一緒に隣の椅子に置いた。ゆっくりした動作で椅子を引き、そこに座る。

俺はその様子を確認して、その人のもとへオーダーを取りに向かった。きちんと巻かれたネクタイ、スリーピースのスーツ。洒落たネクタイピン。その人は俺を見上げて「おすすめは?」と言った。まっすぐ綺麗な目が俺を見た。首の線が視界に入る。心臓が飛び出すかと思った。俺ですと言いそうだった。言えばよかった。いや、言わなくてよかった。

その人はしばらく、ゆったりと椅子に身体を預けて、とても心地よさそうに過ごしていた。カップの持ち手に綺麗な長い指をかける。すべての動きが美しくて、でも、どこか寂し気で、なにか物憂げだった。そういう時の人はたいてい、誰かのことを思っている時だ。その人も誰か想う人がいるんだろう。うらやましい。こんな綺麗な人と、一緒に。この人となら、どんなことをして過ごしてもきっと。

その人は静かに立ち上がると、コートに袖を通し、鞄と傘を手に持って、俺の姿を確認すると優しい笑顔でご馳走様と言った。会計をしなくては。もう少しいてくれたらいいのに。
領収書のやり取りで、その人は、おそらく会社の社長かなにかをやっていることがわかった。なにをやっている人なのだろうか。カルトンに乗せた領収書を両手でお渡しする。その人は右利きだった。ありがとうと言って、その人は出て行った。
こんなにまで、また来てくれるだろうかと思った人は初めてだった。

ところが数日後、俺は、いままでしたことのない経験をすることになる。
その日も雨だった。背の高い見慣れない男がカフェに来た。このカフェの客層とは少し違った感じで、正直なにをやっているのかよくわからない雰囲気の男が、俺に手紙を差し出してきた。

その男は自分の名前は、ハナトだと名乗った。このカフェに、とある男性が入店するのを見たのだと言う。その人にこの手紙を渡してほしいと言うのだ。なんなのだろうかこの男は。不審だ。怪しすぎる。こういう店だからこそ、客のプライバシーは守らなくてはならない。俺は答えた。
「大変申し訳ございませんが、お客様のお顔をおひとりおひとり記憶してはおりませんし、そのようなことをお受けすることはできません」
ハナトと名乗るその男は言う。
「クザキ君は目立つから、きっと君も覚えていると思うんだ」
なにを根拠にそんなことを言うのだろうか。まったく理解できなかったが、ハナト氏が俺に差し出した写真を見て、俺は納得してしまった。そこに写っていたのは、あの日の、あの人だった。雨の日に俺が一目惚れした、あの人だった。こんな顔で笑うのか。あの人は。楽しそうな笑顔で、こちらを見ている。

「私の隣に写っている、クザキ君というんだが、クザキ君はまたここに、きっと来ると思うんだ。その時に、この手紙を渡してくれないかい?」
あの日のあの人は、クザキさんと言うのか。クザキさん。クザキさん。
俺が写真のクザキさんに見入っていることに、ハナト氏は気が付いたようだった。
「綺麗な人だろう?」
笑っている。しまった。俺は言葉を飲み込んだ。
「君にしか、頼めないんだ。ヒトモリ君」
はっとした。ハナト氏は俺の名札の名前を見逃さなかったようだ。抜け目のない人だ。俺はハナト氏の目を見た。笑っている。理由は話さないと言っている。俺は絶対にその手紙を受け取ってはだめだと思っている。俺の中のなにかが警鐘を鳴らしている。絶対に手紙を受け取っては駄目だ。
なのに。それなのに。俺はその手紙を受け取ってしまった。
「お約束はできません。ハナト様のおっしゃるクザキ様がお見えにならない可能性だって」
「わかっているよ」
と、ハナト氏は俺の言葉を遮った。

ハナト氏はそうしてカフェを出て行った。俺と、俺の左手に手紙が一葉残された。得も言われぬ敗北感がわいてくる。

読まれることはないかもしれない手紙。好奇心に勝てなかった俺。
また会いたい人を俺はこういう形で、待つことになった。
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