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交差
徒花‐2・毒
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理研特区にこんなところがあるなんて知らなかった。無機質な人工物の街とは対象的な手付かずの自然。ここに人が住んでいるというのだから驚きだ。不規則に顔を出すのはシダ植物たち。生態研究科の者としてはここは研究に大いに役立つところだとは思うが、今道を進むのには野生は邪魔にしかならない。
僅かな手掛かりだったが一文路直也の居場所がわかった。確かにこんな辺鄙なところ、見つかったことが奇跡とも言える程だ。だがこの険しい道を抜ければ夢にまで見た一文路直也との接触…!俺はこの時をどんなに待ち焦がれていたことか…。確かにこれはまだほんの序章に過ぎない。物語はまだ始まってもいないのだから。
青条に頼まれ買い物をしている時だったかと思う。それ以外に俺が外出する用などないから確かにそうだったはずだ。俺のすぐ近くを歩く男が突如倒れた。気になってその男の様子を見てみると傷一つないのに死んでいるようだった。そしてそのすぐ隣には例の寄生虫が転がっていた。また新しい寄生虫被害かと思った途端俺の視界に何か眩しい緑色のものが映った。するとまた人が倒れた。だが今度は死んではいないらしい。あれが“蟷螂の斧”なのだろうか。それが見えた方へ急ぐと気配のない少女が人の間を縫うように歩いている。普通の人なら気付かないくらい上手く気配を消せているのだが俺のような捻くれ者にはむしろ目立つ。あれが青条の言っていた“蟷螂”、御門智華だろう。向こうはまだこちらに気付いていない。俺は歩く速度を上げた。
「お前が蟷螂か?」
少女は身の危険を感じたかのように素早く振り返った。落ち着いた風に見せてはいるがその眼差しは警戒一色に染められている。
「私がカマキリ?何を言っているのですか、この通り私は昆虫ではありませんので。」
淡々と言葉を返しそそくさと立ち去ろうとしたところを引き止める。
「ヒトとムシを見間違える馬鹿が何処にいるんだ。括弧付きの蟷螂さ。それとも御門さんと呼んだ方がいいのかね。」
「人違いです。あなたのことなんて知りません。」
「そっちが知らなくてもこっちは知っているもんだよ。」
「気持ち悪い、警察呼びますよ。」
早足でその場を去ろうとする少女をまた早足で追うような構図だ。こんなセリフを言われては俺の社会的立場も危うい。
「待て、俺はお前の知り合いの家族だ。」
御門は足を止めた。
「私の知り合い…?いくらかいるが兄弟がいるような者はいなかったような…。そんなことを言って私の警戒を解こうという考えか。」
「あー…、いや家族と言っても血の繋がった家族ではないからなぁ…。」
「…そんな特殊な家庭事情の知り合いはいた覚えがないけど…いや、あなたはもしかして“家族”というよりは“同居人”では…?」
「そうとも言うな。」
「じゃあこの人が…。」
「ん?」
「いえ…。私に声をかけたのは彼に偵察を頼まれたからですか?」
「いや、あいつはそんなことしないさ。単純に気になったから声をかけただけだ。…よくもまあ人にバレずに害虫駆除が出来るもんだな。」
御門は右手を前に出し身構えた。確か“蟷螂の斧”の力を使うには右手を振りかざすのだったな。ということは俺も“斬られる”のだろうか。
「…口外したらどうなるか…わかっていますね?」
「おお、怖い。やるなら三枚おろしくらいにしてくれよ。八つ裂きは勘弁だ。」
「何が違うんですか…。」
「俺の美的感覚の話。」
久々に人間の気配を感じた。自動食糧生産機を持ってきた甲斐あって生活に他人の存在は必要なかった。情報は有能なペットたちが運んできてくれる。だが、大体が目を背けたいものばかり。いや、目を背けたくなるものといえばこの部屋の様子だろう。古びた木製の家具、切れかけた照明、そしてその中をメカニックな見た目の蜂がそこそこの数飛び交っている。その金属光沢は蝿のようにも見える。だが人々が忌み嫌うような姿のこの生き物こそ自慢のペットたちである。もっとも生き物と言っても人工生命体であるのだが。
「いらっしゃい。歓迎するにも何もないけれど。」
「あなたが一文路直也さん…。」
「一体俺に何の用だい。はるばる罵声を浴びせにでも来たのかい。」
「罵声だなんて…!俺はそんなことしません!奴らはあなたの素晴らしさをわかっていない無能な連中なのです!」
彼の勢いに押され俺は一歩退いた。しかし未だに俺の存在を肯定してくれる人間がいるとは驚きだ。彼もまた世の中の危険分子になりうるかもしれない。
「まさかこんな俺にもファンがいるとはね…。どうしてここがわかったんだい。相当隠れたつもりだったのだけれど。」
「随分探しましたよ。たくさんの人や技術を使いました。俺一人じゃ無理だったに違いない。」
「君には仲間がいたのかい…?」
「ええ。俺が立ち上げた組織ですが、今では多くの学生があなたの復活を望んでいます。あなたのことを探すと言ったらみんな進んで協力してくれましたよ。」
どういうことだ。自分はとっくに社会から追い出されたはずではなかったのか。世の中を狂わせた犯罪者と呼ばれたのは一体誰であったか。最近は世間の情報から目を逸らしていたから変化に気付かなかったのだろうか。彼が嘘をついているようにも見えない。
「それで君は俺を連れ戻す気かい。言っておくがもう面倒事はごめんだよ。」
「いずれは、と思ってはいますが今はあなたのメンタルが優先ですよ。俺的には一日でも早く早くあなたの素晴らしい研究を世間に知らしめたいところですがそうもいかない。」
「あれはそう褒められたものではないよ。多くの人を傷付けた。」
「そんなの、どんなに便利なものでも使い方を誤れば有害なものになりますよ。あんなのは醜い心を持った奴らが悪いのです。」
明らかに負の面を度外視した言葉だった。だが塞ぎ込んだ俺の心には叱責よりも崇拝に近い賞賛の方がよく滲みる。
「俺は今あなたのしたことは正しいことだったと広めています。まだ規模は小さいですが一定の理解と賛同は得ました。やがてそれが理研特区中に渡ればあなたの時代が再来することでしょう!」
なんとも大袈裟で胡散臭い言葉。だが俺はそんなものにも縋った。俺は何も悪くない。周りの奴らがわかっていないだけ。俺は汚い奴らから真実を掴み取ったのだ。そう、全ては彼の言う通り。
「ここまで俺自身に熱をぶつけてくれた人は初めてだよ。きっと君がここに来るのはこれっきしでもないだろう。だから君の名前を教えてくれるかい。」
「ああ、自己紹介が遅れてしまい申し訳ございません。俺は長崎司です。ここらを飛び交う黒い蝶を見かけたら思い出して下さい。」
毒
気付けば夏も終わろうとしていた。アオスジアゲハをモデルとしたこの蝶たちもそろそろ命の終わりを迎えるのだろうか。それとも終わりを知らない人工物であるのだろうか。
「あれ、なんかいい匂いが…。」
「帰ってたのか。暇だから超久しぶりに料理をしてみようかと思ってな。」
「超久しぶりって…大丈夫なんですか…?」
「まあ見てろって。カレーを作れないやつなんていないさ。」
やや不安であったが鞄を置き、手を洗って完成を待った。
「さあ、出来たぞ。隠し味も効いているから美味いはずだ。」
見た目は普通のカレーである。
「普通においしそうですね。早速いただきます。」
スプーンを運んだ。口に入れる直前に少し危険な匂いがしたが時すでに遅し。これは絶対に辛いやつだと思った時にはもう口の中は灼熱地獄であった。視界がぼやけ、汗が止まらない。なんとか1口目を飲み込むと舌が痺れるように痛かった。
「な、なんでひゅか、これ…。めちゃくちゃ辛ひじゃなひれすか…!」
しかし対座しているバケモノは平然とした顔で箸を(いや、スプーンを)進めている。
「なんだ、隠し味の香辛料各種と唐辛子を少し入れすぎたか?」
「少しって…相当入れたでしょう!?」
「そこそこ入れたなぁ。」
「隠し味なんてほんのひとつまみとかでいいんですよ!」
「隠せてないくらい入れてたわ。そら“ 隠し味”じゃなくなっちまうな。まあ美味いから良しとするか。」
そう言いながらもテンポ良く激辛カレーを食している。なんとなく悔しいし、何より残すのも勿体ないので(仮に俺が食べられなくてもこの人が俺の分も食べそうだが)、久々に大量の汗を流すことにした。
「先輩…。」
「ん、なんだ?」
「どんなに美味いものでも配分が大事なんですよ…。特に刺激の強いものは…。」
「あー…、そのようだな…。俺的には丁度良い辛さだったのだけれど…。」
後3日程俺は常温の柔らかいものしか食べられなくなった。
御門さんからおかしな助言を聞いた日から長崎の姿を見ていない。あの日から数日は“ 一文路恢復の会”に誰一人いない日が続いたが今は他の会員たちは何人かいる。だが会長である長崎の姿だけは一度も見ていないのだ。
「あれだけ張り切っていたのに長崎は一体どうしたんだ。」
周りの会員たちに聞こえるようにそう呟いてみたことがある。しかし何故か彼らは黙ったまま目を逸らすだけだった。まるで俺が禁句を口にしたかのように。
「長崎はもうここには戻らないだろうよ。」
1人がようやく口を開いてこう言った。しかし理由を問い詰めても皆黙ったままであった。これは一文路直也が見つかったに違いない。だが誰もその事を口にしないあたり会長の親友という立ち位置にいたとしても俺は格下であると判断されていたのだろう。もしくはスパイであるということがバレていたのか。
とにかくこの組織にはもはや用はない。長崎の動向を見張ることも出来なくなったのだから。しかし最後に知りたかったのは長崎と一文路の居場所である。それが分からぬままではまんまと彼らに逃げられたようなものである。長崎が一文路の復活を掲げていたということはまたあの寄生虫が飛び交うおぞましい社会に逆戻りかもしれない。いや、さらに恐ろしいことが起こる可能性だって十分にある。とにかく彼らを野放しにしていては遅かれ早かれ大惨事となるのは明らかだ。
「一滴の毒薬は既に垂らされたのかな。」
「麝香…!?いつから後ろに…!」
「長崎司を自由にしたことこそが悪夢の始まりだと俺は思うな。青条は一文路先輩と混ぜたら危険、と思ってるだろうね。そうじゃあない。彼単体で猛毒さ。」
「…どういうこと?長崎が一文路の後押しをするのが問題なんじゃないの?」
「きっと彼にとって一文路先輩の存在と先輩の発明品は“ 手段”でしかないよ。」
「何言ってんだよ、よりによってあの人をめちゃくちゃ尊敬していた長崎がそんなことを考えるなんて…!」
「案外わからないものだよ?青条の話を聞いていると何か妙だもん。」
「妙?」
「本当に一文路先輩を尊敬しているなら長崎の行動はまちがっているはずだよ。」
そういえば長崎はいくらか利己的過ぎるとは思っていた。
「だとすれば長崎はあの事件で既に精神がボロボロであろう一文路直也をさらに利用しようと考えているのか。」
「さすがに一文路先輩が可哀想になってきたね。」
「…いや、それくらいは当然の報いさ。でも長崎を止めなきゃ。あんなに正義感が強かったあいつに何があったのか知らなきゃ。」
「その正義感すら偽物だったとしても彼のことを親友だと言い続けるの?」
「…どんな奴であれ、あいつが長崎司であることには変わりないさ。俺の親友なんだよ。」
「…揺らがないなぁ。」
麝香は長崎が元々邪悪で利己的な人間だと決めつけているようだけれど長崎の性格が変わってしまったのは一文路の寄生虫のせいに違いない。そういえば麝香も少し考え方が攻撃的になってしまったような気がする。まさか麝香も寄生虫の影響を受けているのだろうか。
―サア、クルッテイルノハ、ダレ?―
麝香の声ではない、謎の声が何処かから聞こえてきた。ここは地上であるはずなのにその声は水の中で発したような響きであった。
計画は順調に進んでいる。この密林の中の廃屋なら何をしても誰かに嗅ぎつけられることはない。四六時中賞賛の言葉をかけ続けたおかげで一文路直也の自信も相当回復してきた。彼は日々寄生虫の改良を行っている。従来の高度な情報伝達能力を活かし全ての個体、更にはそれに寄生された人間さえも1人の主に従うシステムを作り出すのだ。
「直也さん!調子はどうですか?」
「なかなか難しいね。それにしても君は随分野心家だね。」
「理研特区を支配するなんてロマンじゃないですか!?何もかも俺たちの思いのままなんですよ!?」
「はは、これを作った時の俺はそんなこと考えもしなかったなぁ。」
「それにしてもここには何もないですね。あなたにお茶を汲むことすら出来ないじゃないですか。」
「必要最低限、食糧生産機と研究用の機材しか持ってこなかったからね。」
「やはり研究用の機材を持ってきたということはあれで終わるつもりはなかったということじゃないですか。」
「そうだね。あんなことにはなってしまったが俺の大事な作品だ。メンテナンスはしてあげないと、と思ってね。」
「気に病む必要はありません。醜い心を持つ大衆が悪いのです。だからこそ世の秩序のためにも彼らを支配する必要があるのです。」
「それがこの作品の欠点を埋める手段だというのかい。」
「ええ。あなたの作品にケチをつけるなど烏滸がましいですが…。でもむしろその欠点があったからこそそれを改良した先により素晴らしい世界が待っているのです!」
「そ、そうだね…。随分スケールが大きくなってしまったなぁ。」
「そりゃあこれくらいのスケールが直也さんには相応しいですから!」
「そ、そうかなぁ…?あ、そうそう、実はポットはそこの奥にあるんだ。」
「本当ですか!?じゃあお茶を汲んできますね!」
「待って、こぼれるとまずいから俺は後で飲むよ。」
「そうですか、わかりました!じゃあ場所だけ確認しておきますね。」
確かに目立たないところに全自動ポットがあった。水を入れてスイッチをオンにするとあっという間に湯が沸いた。茶葉を入れて少し待つ。猫舌なので濃いめに作り、水を入れて冷ます。ああ、ずっと喉がカラカラだったのだ。声を張って滑舌よく話すのは疲れる。だが俺は完璧だ。事は順調に進んでいる。“ 俺の”時代はもうすぐだ。
「ただいま。今日は作ってないですよね、劇物。」
「俺的には美味いと思ったんだって!その、お前の舌を犠牲にしたのは悪かったから!」
そういえばここには全自動の食糧生産機や調理機があるにも関わらず何故この人は自分で料理なんてしていたのだろう。
「まあそんなことはどうだっていいんですよ。それより最近気になることがあって。」
「気になること?…まさかアレがバレたか…!?いや、そんなはずは…。」
「えっ、一体何を隠しているんですか!?…いや、問い詰めたいところだけどおそらくあなたは一切関係ないです。」
「なんだ、俺は関係ないのか。」
「あなたの話は後で聞かせてもらいますがとりあえずは話を進めますね。俺が気になるのは最近長崎の姿を全く見かけない、ということです。」
「あの怪しげな集いにいないのか?」
「ええ。他の会員たちに聞いても皆黙りで…。何があったのでしょう。」
「他の奴らは知っていてお前には教えてくれないのか。」
「ええ。スパイだってバレたんでしょうかね…。」
「単に信頼されてないってだけかもしれないけどな。どうせ一文路直也が見つかったんだろ。」
「長崎はもう戻らないだろう、って誰かが言ってました。つまりはそういうことでいいと俺も思います。ただその後麝香が言っていたのは長崎は一文路直也を利用しようとしているということです。」
「その長崎は一文路のことを崇拝に近いほど尊敬していたんじゃないのか。」
「ええ。ちょっと行き過ぎたところもありましたが。まさかあいつが一文路を利用することだけを考えているとは思えませんね。」
「こりゃ剣崎みたいなやつかもしれないな。」
「けんざき…さん?誰ですかそれ。」
「昔の知り合いさ。自らの欲望のためなら王族の暗殺も企てる男だぜ。」
「そんな人と長崎が似ていると言うのですか?」
「人あたりが良い奴ほど怪しいってもんだぜ。」
「疑い過ぎじゃないですか…?それとも旅人のカンってやつ?」
「どーだか。だって一文路のことを尊敬している割にあいつのこと人として扱ってないようじゃないか。あれだけボロボロの一文路のことをまだこき使うつもりなのかとしか言えない。」
そういえば麝香もそんなようなことを言っていた。
「一文路はほっといて欲しいと思っているのでしょうか。」
「まああんなことがあれば誰だってそうなるだろう。威信の回復なんて余計なお世話ってところだ。長崎と一文路が裏で通じていたなら話は別だが。」
「それはないでしょう。あれほど一文路の居場所を探していたのですから。それも演技だと言うならむしろ面白いですが。」
「さすがにそれはないだろう。黒幕は長崎で決まりだ。」
「いや、長崎が寄生虫の影響を受けている可能性も…。」
「無くはないが…。そもそも寄生された人間ってそこまで理性を保てるのか?長崎は冷静ではあるだろう。」
言われてみれば一文路を尊敬しているそうなふりをする、といった打算的なことができるようであるので長崎は至って正気なのかもしれない(彼の考え自体はイカれているが)。確かに寄生された人間は理性を保ててはいなかった。長崎よりずっと頭が馬鹿になっていた。
「ただいま。最近物騒でさ。今日も帰りに暴れ出す人を見かけて…。」
「…兄さん?」
「兄さんなのね!今までどこへ行っていたの!?勝手に出ていくなんてひどい!ひどいわ!!」
甲高い声を上げていきなり俺を抱きしめたのは妹ではない。こんな大きな妹がいた覚えはないし、そもそも俺は一人っ子である。
「母さん…?何を言っているの?伯父さんは俺が生まれる前に亡くなったはずだよね。」
「もうどこにも行かないのよね!?ずっとここにいてちょうだい!」
「いや、だから…。」
よく見ると母さんの目は焦点が合っていなかった。俺が困惑していると母さんは不気味な微笑みを浮かべた。
「ああ、息子と夫が邪魔だって?…そうねぇ。確かに兄さんの言う通りだわ。息子はまだ学校に行っているけど…夫なら2階にいるわ。黙らせに行きましょうか。」
大変なことになっている。この女より先に2階へ急がねば。俺は女の腕を振り払って階段を駆け上った。
2階へ上がると廊下にまで強いアルコールの臭いが広がっていた。臭いの元を辿ると父親の部屋に行き着いた。嫌な予感がしたが恐る恐る部屋の中を覗くとそこには大量の酒瓶が転がり、酔い潰れた男が眠っていた。父親は普段家では酒を飲まない人間だ。外で飲んでも酷く酔って帰ってくるようなことは無い。何が起きているか理解できなかった。
俺は荷物をまとめて家を出た。宛はないが明日がないよりはマシだった。
「どうした?」
「あ、いえ…。やはり長崎は自分の意思で、とても冷静に行動しているな、と。」
「やっぱりな。お前は長崎が正義感のある人物だと思っていたようだったが奴の本性はそれだ。…災難だったな。」
「ああ、麝香も同じことを言ってましたよ…。信じたくはなかったけど…。」
だがかつて俺が見てきた長崎は確かに良い奴だったはずなのだ。研究に熱中する姿はかっこいいし、友達の少ない俺にも親しくしてくれた。リーダーシップもあり、真っ直ぐで…。直接彼を知らない白城先輩はまだしも、いつも一緒にいた麝香まで長崎を疑っていたとは思えなかった。俺は人付き合いを知らないせいでそういうことに鈍感なのかもしれない。俺は人を疑うのが苦手なのか。いや、1度信じた人を疑うのが苦手なのかもしれない。
―…ソウ、ナラ、メノマエニイルカレノコトモ、ウタガウベキジャナイ?―
また水の音がした。一体誰の声なのだ。俺の思考に合わせて話しかけるんじゃない。
―ハクジョウ、ハ、シンヨウデキルノ?キミハダレヲ、シンジルノ?―
今日はよく喋る。
―タダシイノハ、ジブンダケダ―
水の音が止んだ。寒気がする。これは俺自身の声なのか…?
「俺は…あなたを信用してもいいのか…?」
先輩はキョトンとしている。
「何もかも裏返っていく。何もかも俺が知らないものになっていく。日常が、常識が、離れていく。俺は…どうすれば…!?」
先輩は俺の腕を掴み、真っ直ぐこちらを見てきた。
「俺がお前の絶対的な味方であるとは言わない。だが俺は決して変わらない。俺は何も変わらない。変われない。…変わるのは俺に対するお前の認識、といったところだろうな。」
俺を掴んだ手は体温がないのではないかと思うほど冷たく、決して心地よいものではなかった。俺を見つめた赤い瞳も作り物のように澄んでいた。だがむしろ、それらから感じられる不変さは俺を安心させた。
「ああ、そういえばさっきの、俺に隠していることってなんだったんですか?」
「やっぱりそこ突っ込んじゃう?」
「気になりますから。」
「あえて派手にしただけで大したことじゃあない。偶然御門に会ったんだ。」
「御門さんに?…切り刻まれませんでしたか!?」
「この通り無事だよ。」
先輩は手をヒラヒラさせる。さすがに御門さんも初対面の、寄生虫の影響を受けていない人間に対しては普通に対応するようだ。
「一体何の話をしていたんですか?」
「なんだよ、俺が女子高生と何を話したか気になるのかよ。羨ましいのか?クラスメイトだろ?」
「なんでそんなおじさんみたいな言い方するんですか…。というかそもそも俺は女子が苦手だし興味もないですよ。いや、正直御門さんはそのへんの女子とはなんか違うけど…。」
「なんだ奇遇だな。俺も人生の中で女と関わることが少なすぎて扱いが分からんし興味も湧かなくなった。」
「旅人なのに?」
「旅は関係ないぞ。」
「でも確かに先輩、恋愛とか縁がなさそう。あ、馬鹿にしているわけじゃなくて…!」
「別に笑っていただいても構わんが。で、どういうわけか何を話したか気になるんだったな。と言っても大したことは話していないぞ。」
「はあ。」
「最初声掛けた時はめちゃくちゃ警戒されたなあ。お前の知り合いとわかった途端何故かお前に偵察を頼まれたのか、と聞かれた。セキュリティが過ぎるぜ。」
「様子が容易に想像出来る…。」
「あと切るなら八つ裂きじゃなくて三枚おろしがいいって言っておいた。」
「えっ、どういうこと?」
「文字通りのことだよ。」
「いや、確かに御門さんは八つ裂きにするとか脅し文句で使いそうだけど…。というよりなんでそれに対して三枚おろしを希望してるんですか!?」
「だってその方が美しいだろ。」
「あなたの美的感覚は知りませんよ!」
「ふふ、ふはははは…!」
「え、何笑ってるんですか…。」
「いや真面目にツッコミを入れる様が面白くて…。」
「そんなに面白いもんですかね…。」
「ああ、ここに来てからあまり人と関わってないからなぁ。ホルニはつまらないやつだし。」
「そっか…あなたも…。」
「ん?俺がどうした。」
「いえ…。」
忘れてはいけない、彼は旅人である。きっと孤独には慣れているのだろう。と言っても俺自身も何も兎のように誰かがいないと死ぬほどの寂しがり屋ではない。どちらかと言うと人とは群れないタイプだ。家と友を奪われるまではそうだった。その反動は自分に似た者を強く求める。この人がそうであって欲しいと望む。だがそれは“ この人だから”そうであって欲しいのではなく、そうである者がすぐ目の前に既に存在しているという安心感が欲しいだけなのだろう。ああ、自分の気持ちさえわからない。
僅かな手掛かりだったが一文路直也の居場所がわかった。確かにこんな辺鄙なところ、見つかったことが奇跡とも言える程だ。だがこの険しい道を抜ければ夢にまで見た一文路直也との接触…!俺はこの時をどんなに待ち焦がれていたことか…。確かにこれはまだほんの序章に過ぎない。物語はまだ始まってもいないのだから。
青条に頼まれ買い物をしている時だったかと思う。それ以外に俺が外出する用などないから確かにそうだったはずだ。俺のすぐ近くを歩く男が突如倒れた。気になってその男の様子を見てみると傷一つないのに死んでいるようだった。そしてそのすぐ隣には例の寄生虫が転がっていた。また新しい寄生虫被害かと思った途端俺の視界に何か眩しい緑色のものが映った。するとまた人が倒れた。だが今度は死んではいないらしい。あれが“蟷螂の斧”なのだろうか。それが見えた方へ急ぐと気配のない少女が人の間を縫うように歩いている。普通の人なら気付かないくらい上手く気配を消せているのだが俺のような捻くれ者にはむしろ目立つ。あれが青条の言っていた“蟷螂”、御門智華だろう。向こうはまだこちらに気付いていない。俺は歩く速度を上げた。
「お前が蟷螂か?」
少女は身の危険を感じたかのように素早く振り返った。落ち着いた風に見せてはいるがその眼差しは警戒一色に染められている。
「私がカマキリ?何を言っているのですか、この通り私は昆虫ではありませんので。」
淡々と言葉を返しそそくさと立ち去ろうとしたところを引き止める。
「ヒトとムシを見間違える馬鹿が何処にいるんだ。括弧付きの蟷螂さ。それとも御門さんと呼んだ方がいいのかね。」
「人違いです。あなたのことなんて知りません。」
「そっちが知らなくてもこっちは知っているもんだよ。」
「気持ち悪い、警察呼びますよ。」
早足でその場を去ろうとする少女をまた早足で追うような構図だ。こんなセリフを言われては俺の社会的立場も危うい。
「待て、俺はお前の知り合いの家族だ。」
御門は足を止めた。
「私の知り合い…?いくらかいるが兄弟がいるような者はいなかったような…。そんなことを言って私の警戒を解こうという考えか。」
「あー…、いや家族と言っても血の繋がった家族ではないからなぁ…。」
「…そんな特殊な家庭事情の知り合いはいた覚えがないけど…いや、あなたはもしかして“家族”というよりは“同居人”では…?」
「そうとも言うな。」
「じゃあこの人が…。」
「ん?」
「いえ…。私に声をかけたのは彼に偵察を頼まれたからですか?」
「いや、あいつはそんなことしないさ。単純に気になったから声をかけただけだ。…よくもまあ人にバレずに害虫駆除が出来るもんだな。」
御門は右手を前に出し身構えた。確か“蟷螂の斧”の力を使うには右手を振りかざすのだったな。ということは俺も“斬られる”のだろうか。
「…口外したらどうなるか…わかっていますね?」
「おお、怖い。やるなら三枚おろしくらいにしてくれよ。八つ裂きは勘弁だ。」
「何が違うんですか…。」
「俺の美的感覚の話。」
久々に人間の気配を感じた。自動食糧生産機を持ってきた甲斐あって生活に他人の存在は必要なかった。情報は有能なペットたちが運んできてくれる。だが、大体が目を背けたいものばかり。いや、目を背けたくなるものといえばこの部屋の様子だろう。古びた木製の家具、切れかけた照明、そしてその中をメカニックな見た目の蜂がそこそこの数飛び交っている。その金属光沢は蝿のようにも見える。だが人々が忌み嫌うような姿のこの生き物こそ自慢のペットたちである。もっとも生き物と言っても人工生命体であるのだが。
「いらっしゃい。歓迎するにも何もないけれど。」
「あなたが一文路直也さん…。」
「一体俺に何の用だい。はるばる罵声を浴びせにでも来たのかい。」
「罵声だなんて…!俺はそんなことしません!奴らはあなたの素晴らしさをわかっていない無能な連中なのです!」
彼の勢いに押され俺は一歩退いた。しかし未だに俺の存在を肯定してくれる人間がいるとは驚きだ。彼もまた世の中の危険分子になりうるかもしれない。
「まさかこんな俺にもファンがいるとはね…。どうしてここがわかったんだい。相当隠れたつもりだったのだけれど。」
「随分探しましたよ。たくさんの人や技術を使いました。俺一人じゃ無理だったに違いない。」
「君には仲間がいたのかい…?」
「ええ。俺が立ち上げた組織ですが、今では多くの学生があなたの復活を望んでいます。あなたのことを探すと言ったらみんな進んで協力してくれましたよ。」
どういうことだ。自分はとっくに社会から追い出されたはずではなかったのか。世の中を狂わせた犯罪者と呼ばれたのは一体誰であったか。最近は世間の情報から目を逸らしていたから変化に気付かなかったのだろうか。彼が嘘をついているようにも見えない。
「それで君は俺を連れ戻す気かい。言っておくがもう面倒事はごめんだよ。」
「いずれは、と思ってはいますが今はあなたのメンタルが優先ですよ。俺的には一日でも早く早くあなたの素晴らしい研究を世間に知らしめたいところですがそうもいかない。」
「あれはそう褒められたものではないよ。多くの人を傷付けた。」
「そんなの、どんなに便利なものでも使い方を誤れば有害なものになりますよ。あんなのは醜い心を持った奴らが悪いのです。」
明らかに負の面を度外視した言葉だった。だが塞ぎ込んだ俺の心には叱責よりも崇拝に近い賞賛の方がよく滲みる。
「俺は今あなたのしたことは正しいことだったと広めています。まだ規模は小さいですが一定の理解と賛同は得ました。やがてそれが理研特区中に渡ればあなたの時代が再来することでしょう!」
なんとも大袈裟で胡散臭い言葉。だが俺はそんなものにも縋った。俺は何も悪くない。周りの奴らがわかっていないだけ。俺は汚い奴らから真実を掴み取ったのだ。そう、全ては彼の言う通り。
「ここまで俺自身に熱をぶつけてくれた人は初めてだよ。きっと君がここに来るのはこれっきしでもないだろう。だから君の名前を教えてくれるかい。」
「ああ、自己紹介が遅れてしまい申し訳ございません。俺は長崎司です。ここらを飛び交う黒い蝶を見かけたら思い出して下さい。」
毒
気付けば夏も終わろうとしていた。アオスジアゲハをモデルとしたこの蝶たちもそろそろ命の終わりを迎えるのだろうか。それとも終わりを知らない人工物であるのだろうか。
「あれ、なんかいい匂いが…。」
「帰ってたのか。暇だから超久しぶりに料理をしてみようかと思ってな。」
「超久しぶりって…大丈夫なんですか…?」
「まあ見てろって。カレーを作れないやつなんていないさ。」
やや不安であったが鞄を置き、手を洗って完成を待った。
「さあ、出来たぞ。隠し味も効いているから美味いはずだ。」
見た目は普通のカレーである。
「普通においしそうですね。早速いただきます。」
スプーンを運んだ。口に入れる直前に少し危険な匂いがしたが時すでに遅し。これは絶対に辛いやつだと思った時にはもう口の中は灼熱地獄であった。視界がぼやけ、汗が止まらない。なんとか1口目を飲み込むと舌が痺れるように痛かった。
「な、なんでひゅか、これ…。めちゃくちゃ辛ひじゃなひれすか…!」
しかし対座しているバケモノは平然とした顔で箸を(いや、スプーンを)進めている。
「なんだ、隠し味の香辛料各種と唐辛子を少し入れすぎたか?」
「少しって…相当入れたでしょう!?」
「そこそこ入れたなぁ。」
「隠し味なんてほんのひとつまみとかでいいんですよ!」
「隠せてないくらい入れてたわ。そら“ 隠し味”じゃなくなっちまうな。まあ美味いから良しとするか。」
そう言いながらもテンポ良く激辛カレーを食している。なんとなく悔しいし、何より残すのも勿体ないので(仮に俺が食べられなくてもこの人が俺の分も食べそうだが)、久々に大量の汗を流すことにした。
「先輩…。」
「ん、なんだ?」
「どんなに美味いものでも配分が大事なんですよ…。特に刺激の強いものは…。」
「あー…、そのようだな…。俺的には丁度良い辛さだったのだけれど…。」
後3日程俺は常温の柔らかいものしか食べられなくなった。
御門さんからおかしな助言を聞いた日から長崎の姿を見ていない。あの日から数日は“ 一文路恢復の会”に誰一人いない日が続いたが今は他の会員たちは何人かいる。だが会長である長崎の姿だけは一度も見ていないのだ。
「あれだけ張り切っていたのに長崎は一体どうしたんだ。」
周りの会員たちに聞こえるようにそう呟いてみたことがある。しかし何故か彼らは黙ったまま目を逸らすだけだった。まるで俺が禁句を口にしたかのように。
「長崎はもうここには戻らないだろうよ。」
1人がようやく口を開いてこう言った。しかし理由を問い詰めても皆黙ったままであった。これは一文路直也が見つかったに違いない。だが誰もその事を口にしないあたり会長の親友という立ち位置にいたとしても俺は格下であると判断されていたのだろう。もしくはスパイであるということがバレていたのか。
とにかくこの組織にはもはや用はない。長崎の動向を見張ることも出来なくなったのだから。しかし最後に知りたかったのは長崎と一文路の居場所である。それが分からぬままではまんまと彼らに逃げられたようなものである。長崎が一文路の復活を掲げていたということはまたあの寄生虫が飛び交うおぞましい社会に逆戻りかもしれない。いや、さらに恐ろしいことが起こる可能性だって十分にある。とにかく彼らを野放しにしていては遅かれ早かれ大惨事となるのは明らかだ。
「一滴の毒薬は既に垂らされたのかな。」
「麝香…!?いつから後ろに…!」
「長崎司を自由にしたことこそが悪夢の始まりだと俺は思うな。青条は一文路先輩と混ぜたら危険、と思ってるだろうね。そうじゃあない。彼単体で猛毒さ。」
「…どういうこと?長崎が一文路の後押しをするのが問題なんじゃないの?」
「きっと彼にとって一文路先輩の存在と先輩の発明品は“ 手段”でしかないよ。」
「何言ってんだよ、よりによってあの人をめちゃくちゃ尊敬していた長崎がそんなことを考えるなんて…!」
「案外わからないものだよ?青条の話を聞いていると何か妙だもん。」
「妙?」
「本当に一文路先輩を尊敬しているなら長崎の行動はまちがっているはずだよ。」
そういえば長崎はいくらか利己的過ぎるとは思っていた。
「だとすれば長崎はあの事件で既に精神がボロボロであろう一文路直也をさらに利用しようと考えているのか。」
「さすがに一文路先輩が可哀想になってきたね。」
「…いや、それくらいは当然の報いさ。でも長崎を止めなきゃ。あんなに正義感が強かったあいつに何があったのか知らなきゃ。」
「その正義感すら偽物だったとしても彼のことを親友だと言い続けるの?」
「…どんな奴であれ、あいつが長崎司であることには変わりないさ。俺の親友なんだよ。」
「…揺らがないなぁ。」
麝香は長崎が元々邪悪で利己的な人間だと決めつけているようだけれど長崎の性格が変わってしまったのは一文路の寄生虫のせいに違いない。そういえば麝香も少し考え方が攻撃的になってしまったような気がする。まさか麝香も寄生虫の影響を受けているのだろうか。
―サア、クルッテイルノハ、ダレ?―
麝香の声ではない、謎の声が何処かから聞こえてきた。ここは地上であるはずなのにその声は水の中で発したような響きであった。
計画は順調に進んでいる。この密林の中の廃屋なら何をしても誰かに嗅ぎつけられることはない。四六時中賞賛の言葉をかけ続けたおかげで一文路直也の自信も相当回復してきた。彼は日々寄生虫の改良を行っている。従来の高度な情報伝達能力を活かし全ての個体、更にはそれに寄生された人間さえも1人の主に従うシステムを作り出すのだ。
「直也さん!調子はどうですか?」
「なかなか難しいね。それにしても君は随分野心家だね。」
「理研特区を支配するなんてロマンじゃないですか!?何もかも俺たちの思いのままなんですよ!?」
「はは、これを作った時の俺はそんなこと考えもしなかったなぁ。」
「それにしてもここには何もないですね。あなたにお茶を汲むことすら出来ないじゃないですか。」
「必要最低限、食糧生産機と研究用の機材しか持ってこなかったからね。」
「やはり研究用の機材を持ってきたということはあれで終わるつもりはなかったということじゃないですか。」
「そうだね。あんなことにはなってしまったが俺の大事な作品だ。メンテナンスはしてあげないと、と思ってね。」
「気に病む必要はありません。醜い心を持つ大衆が悪いのです。だからこそ世の秩序のためにも彼らを支配する必要があるのです。」
「それがこの作品の欠点を埋める手段だというのかい。」
「ええ。あなたの作品にケチをつけるなど烏滸がましいですが…。でもむしろその欠点があったからこそそれを改良した先により素晴らしい世界が待っているのです!」
「そ、そうだね…。随分スケールが大きくなってしまったなぁ。」
「そりゃあこれくらいのスケールが直也さんには相応しいですから!」
「そ、そうかなぁ…?あ、そうそう、実はポットはそこの奥にあるんだ。」
「本当ですか!?じゃあお茶を汲んできますね!」
「待って、こぼれるとまずいから俺は後で飲むよ。」
「そうですか、わかりました!じゃあ場所だけ確認しておきますね。」
確かに目立たないところに全自動ポットがあった。水を入れてスイッチをオンにするとあっという間に湯が沸いた。茶葉を入れて少し待つ。猫舌なので濃いめに作り、水を入れて冷ます。ああ、ずっと喉がカラカラだったのだ。声を張って滑舌よく話すのは疲れる。だが俺は完璧だ。事は順調に進んでいる。“ 俺の”時代はもうすぐだ。
「ただいま。今日は作ってないですよね、劇物。」
「俺的には美味いと思ったんだって!その、お前の舌を犠牲にしたのは悪かったから!」
そういえばここには全自動の食糧生産機や調理機があるにも関わらず何故この人は自分で料理なんてしていたのだろう。
「まあそんなことはどうだっていいんですよ。それより最近気になることがあって。」
「気になること?…まさかアレがバレたか…!?いや、そんなはずは…。」
「えっ、一体何を隠しているんですか!?…いや、問い詰めたいところだけどおそらくあなたは一切関係ないです。」
「なんだ、俺は関係ないのか。」
「あなたの話は後で聞かせてもらいますがとりあえずは話を進めますね。俺が気になるのは最近長崎の姿を全く見かけない、ということです。」
「あの怪しげな集いにいないのか?」
「ええ。他の会員たちに聞いても皆黙りで…。何があったのでしょう。」
「他の奴らは知っていてお前には教えてくれないのか。」
「ええ。スパイだってバレたんでしょうかね…。」
「単に信頼されてないってだけかもしれないけどな。どうせ一文路直也が見つかったんだろ。」
「長崎はもう戻らないだろう、って誰かが言ってました。つまりはそういうことでいいと俺も思います。ただその後麝香が言っていたのは長崎は一文路直也を利用しようとしているということです。」
「その長崎は一文路のことを崇拝に近いほど尊敬していたんじゃないのか。」
「ええ。ちょっと行き過ぎたところもありましたが。まさかあいつが一文路を利用することだけを考えているとは思えませんね。」
「こりゃ剣崎みたいなやつかもしれないな。」
「けんざき…さん?誰ですかそれ。」
「昔の知り合いさ。自らの欲望のためなら王族の暗殺も企てる男だぜ。」
「そんな人と長崎が似ていると言うのですか?」
「人あたりが良い奴ほど怪しいってもんだぜ。」
「疑い過ぎじゃないですか…?それとも旅人のカンってやつ?」
「どーだか。だって一文路のことを尊敬している割にあいつのこと人として扱ってないようじゃないか。あれだけボロボロの一文路のことをまだこき使うつもりなのかとしか言えない。」
そういえば麝香もそんなようなことを言っていた。
「一文路はほっといて欲しいと思っているのでしょうか。」
「まああんなことがあれば誰だってそうなるだろう。威信の回復なんて余計なお世話ってところだ。長崎と一文路が裏で通じていたなら話は別だが。」
「それはないでしょう。あれほど一文路の居場所を探していたのですから。それも演技だと言うならむしろ面白いですが。」
「さすがにそれはないだろう。黒幕は長崎で決まりだ。」
「いや、長崎が寄生虫の影響を受けている可能性も…。」
「無くはないが…。そもそも寄生された人間ってそこまで理性を保てるのか?長崎は冷静ではあるだろう。」
言われてみれば一文路を尊敬しているそうなふりをする、といった打算的なことができるようであるので長崎は至って正気なのかもしれない(彼の考え自体はイカれているが)。確かに寄生された人間は理性を保ててはいなかった。長崎よりずっと頭が馬鹿になっていた。
「ただいま。最近物騒でさ。今日も帰りに暴れ出す人を見かけて…。」
「…兄さん?」
「兄さんなのね!今までどこへ行っていたの!?勝手に出ていくなんてひどい!ひどいわ!!」
甲高い声を上げていきなり俺を抱きしめたのは妹ではない。こんな大きな妹がいた覚えはないし、そもそも俺は一人っ子である。
「母さん…?何を言っているの?伯父さんは俺が生まれる前に亡くなったはずだよね。」
「もうどこにも行かないのよね!?ずっとここにいてちょうだい!」
「いや、だから…。」
よく見ると母さんの目は焦点が合っていなかった。俺が困惑していると母さんは不気味な微笑みを浮かべた。
「ああ、息子と夫が邪魔だって?…そうねぇ。確かに兄さんの言う通りだわ。息子はまだ学校に行っているけど…夫なら2階にいるわ。黙らせに行きましょうか。」
大変なことになっている。この女より先に2階へ急がねば。俺は女の腕を振り払って階段を駆け上った。
2階へ上がると廊下にまで強いアルコールの臭いが広がっていた。臭いの元を辿ると父親の部屋に行き着いた。嫌な予感がしたが恐る恐る部屋の中を覗くとそこには大量の酒瓶が転がり、酔い潰れた男が眠っていた。父親は普段家では酒を飲まない人間だ。外で飲んでも酷く酔って帰ってくるようなことは無い。何が起きているか理解できなかった。
俺は荷物をまとめて家を出た。宛はないが明日がないよりはマシだった。
「どうした?」
「あ、いえ…。やはり長崎は自分の意思で、とても冷静に行動しているな、と。」
「やっぱりな。お前は長崎が正義感のある人物だと思っていたようだったが奴の本性はそれだ。…災難だったな。」
「ああ、麝香も同じことを言ってましたよ…。信じたくはなかったけど…。」
だがかつて俺が見てきた長崎は確かに良い奴だったはずなのだ。研究に熱中する姿はかっこいいし、友達の少ない俺にも親しくしてくれた。リーダーシップもあり、真っ直ぐで…。直接彼を知らない白城先輩はまだしも、いつも一緒にいた麝香まで長崎を疑っていたとは思えなかった。俺は人付き合いを知らないせいでそういうことに鈍感なのかもしれない。俺は人を疑うのが苦手なのか。いや、1度信じた人を疑うのが苦手なのかもしれない。
―…ソウ、ナラ、メノマエニイルカレノコトモ、ウタガウベキジャナイ?―
また水の音がした。一体誰の声なのだ。俺の思考に合わせて話しかけるんじゃない。
―ハクジョウ、ハ、シンヨウデキルノ?キミハダレヲ、シンジルノ?―
今日はよく喋る。
―タダシイノハ、ジブンダケダ―
水の音が止んだ。寒気がする。これは俺自身の声なのか…?
「俺は…あなたを信用してもいいのか…?」
先輩はキョトンとしている。
「何もかも裏返っていく。何もかも俺が知らないものになっていく。日常が、常識が、離れていく。俺は…どうすれば…!?」
先輩は俺の腕を掴み、真っ直ぐこちらを見てきた。
「俺がお前の絶対的な味方であるとは言わない。だが俺は決して変わらない。俺は何も変わらない。変われない。…変わるのは俺に対するお前の認識、といったところだろうな。」
俺を掴んだ手は体温がないのではないかと思うほど冷たく、決して心地よいものではなかった。俺を見つめた赤い瞳も作り物のように澄んでいた。だがむしろ、それらから感じられる不変さは俺を安心させた。
「ああ、そういえばさっきの、俺に隠していることってなんだったんですか?」
「やっぱりそこ突っ込んじゃう?」
「気になりますから。」
「あえて派手にしただけで大したことじゃあない。偶然御門に会ったんだ。」
「御門さんに?…切り刻まれませんでしたか!?」
「この通り無事だよ。」
先輩は手をヒラヒラさせる。さすがに御門さんも初対面の、寄生虫の影響を受けていない人間に対しては普通に対応するようだ。
「一体何の話をしていたんですか?」
「なんだよ、俺が女子高生と何を話したか気になるのかよ。羨ましいのか?クラスメイトだろ?」
「なんでそんなおじさんみたいな言い方するんですか…。というかそもそも俺は女子が苦手だし興味もないですよ。いや、正直御門さんはそのへんの女子とはなんか違うけど…。」
「なんだ奇遇だな。俺も人生の中で女と関わることが少なすぎて扱いが分からんし興味も湧かなくなった。」
「旅人なのに?」
「旅は関係ないぞ。」
「でも確かに先輩、恋愛とか縁がなさそう。あ、馬鹿にしているわけじゃなくて…!」
「別に笑っていただいても構わんが。で、どういうわけか何を話したか気になるんだったな。と言っても大したことは話していないぞ。」
「はあ。」
「最初声掛けた時はめちゃくちゃ警戒されたなあ。お前の知り合いとわかった途端何故かお前に偵察を頼まれたのか、と聞かれた。セキュリティが過ぎるぜ。」
「様子が容易に想像出来る…。」
「あと切るなら八つ裂きじゃなくて三枚おろしがいいって言っておいた。」
「えっ、どういうこと?」
「文字通りのことだよ。」
「いや、確かに御門さんは八つ裂きにするとか脅し文句で使いそうだけど…。というよりなんでそれに対して三枚おろしを希望してるんですか!?」
「だってその方が美しいだろ。」
「あなたの美的感覚は知りませんよ!」
「ふふ、ふはははは…!」
「え、何笑ってるんですか…。」
「いや真面目にツッコミを入れる様が面白くて…。」
「そんなに面白いもんですかね…。」
「ああ、ここに来てからあまり人と関わってないからなぁ。ホルニはつまらないやつだし。」
「そっか…あなたも…。」
「ん?俺がどうした。」
「いえ…。」
忘れてはいけない、彼は旅人である。きっと孤独には慣れているのだろう。と言っても俺自身も何も兎のように誰かがいないと死ぬほどの寂しがり屋ではない。どちらかと言うと人とは群れないタイプだ。家と友を奪われるまではそうだった。その反動は自分に似た者を強く求める。この人がそうであって欲しいと望む。だがそれは“ この人だから”そうであって欲しいのではなく、そうである者がすぐ目の前に既に存在しているという安心感が欲しいだけなのだろう。ああ、自分の気持ちさえわからない。
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