朱の緊縛

𝓐.女装きつね

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逃奔

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――平成十七年七月――

 南アジアの共和国パキスタン。軍用のジープに辛うじて幌が付いたような一台の車が砂ぼこりを舞い上げ、今にも壊れそうに蛇行しながらカラチにあるジンナー国際空港に向かっていた。

 その後部座席で一人の女性が艶やかな髪をちりまみれにして横たわっている。揺れる座席と絡み付く自らの黒髪に、彼女は深遠しんえんから意識を取り戻した。

 戻した意識と同時に身体の隅々から伝わる苛烈かれつ慟哭どうこくにかられる衝動が容赦なく彼女をむしばむ。顔に絡まる黒髪を避けた細い指を折り、弱々しくも懸命に慟哭を手のひらに握り潰した。朧気おぼろげのまま蕪雑ぶざつに腕を伸ばし、上体をゆっくり起こすと、砂ぼこりが黒髪をかき分ける……そこには普段の彼女からはまるで想像及ばぬ苦辛くしんが覗いていた。

 気配に運転手が安否を確める言葉を投げたのは少しの時間を過ぎてからだった。運転席の彼女にとって本来その席はあの人が座る場所、隣から眺める場所であり、今ハンドルを握り締めている彼女の指定席は助手席だ。増して窮極きゅうきょくのまま今だ沈静ちんせいなど保てていない。即座に後部座席へ意識を向ける等、今の彼女に出来るはずもなかった。

 胸間きょうかんを感じたのだろう。運転手の乱脈らんみゃくなだめるように後部座席の彼女は一度長くまぶたを閉じた後、肩の震えを必死に抑えながら座席越しに優婉ゆうえんをかけた。それはいつもの、至極普段の彼女を思わせる声だった。

「っず、随分な運転ですわね。これではお互いの傷口にひびきますわ。あの……少しお伺いしたいのですが……運転免許は持っているのですよね天久さん」

 届かない……至るところから鮮血が滲み、視界もままならないまま必死にハンドルを握り締めている天久に彼女の優婉は無意味だった。今天久の耳に聞こえているのは鏡子の声だけなのだろう。

 黒く変色した左腕をだらりと垂らし、右腕だけで舵をとる天久。後部座席の彼女がミラー越しに見る天久の顔は、カウンターに立つ優しい笑顔とはあまりにかけ離れたものだった。現実を叩きつけるような鏡の中の天久に、思わず後部座席の彼女は目を逸らす。現実、現状。やり直す事などできはしない。彼女は一度必死に上げた首をだらりともたげ、爪を食い込ませたシートに雫を落とした。

 無言のまま砂ぼこりを上げ疾走を続けている二人の女性を乗せる車。と、突然後部から突き上げるような衝撃が走った。先からの追手だろう、同じような軍用ジープに三人の男性が見える。助手席と後部座席の男性は砂ぼこりの中にライフルの銃口を二人の女性に向けて黒く光らせていた。

 “ 二人を銃殺する ” 今となっては既に無意味な事なのだ。しかし末端の彼らに理解されて等いないのだろう、追手の男性は後方から発砲を繰り返し、ついに車両が隣に並ぶ。そして追い抜きざま後部座席の男性は天久との距離を捉え引き金を引いた。

 風で舞い上げる砂ぼこりに天久の鮮血が飛び散る。銃弾はシートから随分と身体を傾けてハンドルを握る天久の右肩を容易くも貫く。が、天久の身体を傾けた姿勢は後部座席の彼女の影をしっかりと銃弾から隠していた。しかし肩に走る激痛に舵は大きく右に曲がり、天久の運転する車は空港が視界に入るそこで音を消した。追手のジープからは先程の二人が降りてくる。勝ち誇り歪んだ顔、まるで鹿猟しかがりでもしているかのような表情で……天久は苦痛に唇を噛み締めながらも車を降り、背中に後部座席の彼女を隠した。

「ピ、ピコさんは……絶対やらせないっ」

 自らの唇に鮮血を流し立ち構えるその姿はピコの目にことさら大きく映っていた。女性の容姿とはいえ覚悟を決めた気迫なのだろう。と、その時天久の左腕の黒ずみがいっそう漆黒となり、みしみしと音を上げながらウロコのように形態を変えた。そう……あの人と同じように。

「ぎゃっ、ぐっ、ぐあぁああっ」

 銃を構えこちらに向かっていた三人の身体が突然空に浮き、その苦しみに抗い叫喚をあげ自らの首を必死に掻きむしっている。まるで空気に首を締め上げられ身体を持ち上げられているようだ。その叫喚は天久が三人に向けて伸ばした左腕が漆黒に染まりきった時、静かにドスンッと砂の中に消えていった。

「殺しちゃっ……わ、私……が」

 まるで時間が停止したかのように静寂が戻り砂の音だけが舞っている。その静寂の中、人を殺したという事実に天久は膝と頬からの雫を砂に落とした。肩からの鮮血が雫と混ざった時、空港は目前のはずだと必死に顔を上げ眉間を寄せる天久。しかし向けた視線の先には、またも追手のような無数……いや大勢の人影がこちらに向かって進んで来るのが見えた。

「あ、あはは……さすがにもう駄目かなぁ? お父さん……でも……でもピコさんを……っ」

 漆黒に染まったウロコ状の左腕に銷魂しょうこんした視線を向けながら呟いた。天久はなにか悲しげに口角を上げると、絶念を振り払うように折れた膝をゆっくりと砂から引き離し先程自らが殺した相手の銃を取った。途切れそうな意識を必死につなぎ止め、つたない構えでライフルのスコープを覗く。

 戦争の心理学では『こと戦争に関しては頭より身体の方が賢い』とディ・ベッカーは語る。その極限。まさに今の天久の事だろう。

 天久は阿吽あうんを無理矢理に静め眉間に凛を入れる。次第にぼやけた視界が落着しだした時、天久の覗くスコープの先に見えた人影がそれを解放した。

 いつもカウンター越しに天久にグラスを傾けて笑顔を向けている二人の人影。その見慣れた優しい姿に天久はガクリと肩を落とし、構えていた銃と共に砂に身体を沈めた。
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