マッチ売りの少女

春秋花壇

文字の大きさ
11 / 29

第7話:雪の上の「書かれていない物語」

しおりを挟む
第7話:雪の上の「書かれていない物語」

『読まれない物語』

 ――火は、消えた。

 最後の一本。
 あたたかいはずの炎が消えたとき、リナの胸に残ったのは“静けさ”だった。

 痛みはもう、あまり感じない。
 寒さも、遠い。

「……雪、いっぱい……」

 視界の端で白い粒が揺れていた。
 雪の匂いは、冷たいのにどこか甘い。
 鼻の奥がつんとして、胸の奥だけがわずかにチクッと疼く。

 リナは、震える手で雪の上に小さな影を落とした。

 手からこぼれたのは――燃え尽きたマッチの灰。

 黒い粉が雪の上に散らばる。
 そのコントラストが、妙にきれいだった。

「……文字、書けるかな……」

 呟きながら、灰を拾い集める。
 指先に触れた灰は、驚くほど冷たい。
 まるで、誰かの残した“忘れ物”みたいに。

 リナは雪の上に、指で小さな溝を作った。
 そして、そこに灰を並べていく。

 ――り。

 ひらがなの最初の一筆を書こうとして、手が止まった。

 自分の名前。
 自分の存在。
 この世界のどこにも書かれていない言葉。

「……“リナ”って書いたら……読んでくれる人……いるのかな……」

 雪の上で灰が震える。
 風が頬を撫で、灰がふわっと揺れた。

 リナは灰の続きを書こうと、また指を動かす。

 ――り な は。

 “リナは”

 そこまで書いて、ふっと笑った。

「……誰も……読まないよね……こんなの……」

 笑った唇が、すぐに震えた。

「リナは……なんて? 何を書けばいいの……?」

 声がかすれた。
 灰で指が黒く汚れていく。
 雪の冷たさが手首まで染みて、じんじんしびれ始めた。

「わたしの話……書いたって……」

 言葉が、喉の奥で折れた。

「……誰も見ないよ……誰も聞かない……」

 胸の奥が、すうっと冷たくなる。
 冷たいというより、“空っぽ”に近い。

 リナは、雪の上の「リナは」と書いた文字をじっと見つめた。

 黒い灰が並んで、かすかに“意味”をつくっている。
 けれど、風が吹くたびに、ちょっとずつ崩れていく。

「……消えちゃう……」

 指先が勝手に動いた。

 その文字を――そっと崩した。

「……消えていいんだよね……」

 灰は簡単に崩れた。
 “自分の名前”を作ったはずの灰が、雪の上でただの黒い粉に戻る。

 リナは、黒い粉の中で自分の指を動かしながら呟いた。

「わたしの話なんて……誰も読まない……
 だったら……最初から……書かなくていいよね……」

 雪が、落ちてきた。
 黒い灰の上に、白い粒が重なり、すぐに隠してしまう。

「こんなに簡単に……隠れちゃうんだ……」

 その瞬間、リナの背後から足音がした。

 コツ、コツ、コツ。

「……!」

 リナは、反射的に雪の山の影へ隠れた。
 体は重かったが、恐怖だけが小さな力をくれた。

 巡回中の清掃員が、ゆっくりと歩いてくる。

 厚手の手袋。
懐中電灯の光。
 黒い作業靴の音。

「……このへん、ゴミ多いな……年末だからか……」

 男の独り言が聞こえる。
 リナの肩がびくりと震えた。

(見つかったら……どうなるの……)

 胸が早鐘のように打つ。
 でも、その鼓動の速さでさえ、どこか“遠い体の音”みたいに感じた。

 清掃員が雪の上の黒い灰を見つける。

「なんだ、これ……灰か……」

 しゃがんで触ろうとする。
 リナの喉が苦しくなる。

(やだ……来ないで……見ないで……)

 清掃員は灰をひとつまみ拾い上げたが、すぐに首をかしげて手を払った。

「……なんだかわからん。
 こんな寒い日に焚き火でもしたのか?」

 そう呟いて、男はそのまま歩き去った。

 コツ。
 コツ。
 コツ――。

 足音が遠ざかり、夜に溶けていく。

 リナはようやく息を吐いた。
 背中が雪に当たり、冷たさが服を通して骨まで染み込む。

「……気づかれなかった……」

 安心、ではない。
 ただ――“誰にも見えない”という事実が、もう一度胸に落ちてきた。

「……だよね。
 だれも、わたしなんて……見えないよね……」

 雪が降る。
 白い粒が、また黒い灰の跡を覆い隠した。

「……消えちゃうんだ……」

 リナはそっと両膝を抱え込み、ミリエルを胸に押し付けた。

「わたし……もう……書かれなくていい……
 読まれなくていい……
 ……最初から、誰の物語でもないんだもん……」

 その声は、雪よりも静かだった。

 そして――
 その静けさの中で、リナの存在はさらに薄くなっていくように感じられた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。 保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。 「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。

処理中です...