10 / 29
第6話:凍りつく指と最後のマッチ
しおりを挟む
第6話:凍りつく指と最後のマッチ
『痛みの終わりの予感』
――指先の感覚が、消えていく。
リナは両手をこすり合わせた。
骨ばった指同士がこすれ、かすかにカチカチという音がした。
皮膚は赤紫になり、ところどころ白く変色している。
「ミリエル……なんか……手が変だよ……」
人形を抱きしめた腕も、もう自分のものじゃないように重い。
力を入れようとしても、じんわりとしか動かない。
風がビルの隙間を抜け、笛のような音を立てて頬を刺していく。
その痛みさえ、薄れていく。
「……ほんとに……感覚が……なくなってきた……」
声が震えるというより、単に弱かった。
喉が乾燥しすぎて、息を吸うたびに胸がざらざらする。
歩道の石畳に座り込む。
この体勢も、もう何度目か分からない。
でも、今は“座る”のではなく、“倒れ込む”に近かった。
足の指を動かそうとする。
動かない。
まるで布団の中に足だけ置いてきたみたいに、反応しない。
「……ねぇ……ミリエル。これ、もうやばいのかな……」
自分の声が、雪の降る音に飲み込まれる。
すれ違う人の足音は、もうまるで遠い海の波みたいにしか聞こえなかった。
リナは、胸に押しあてていた人形をそっと見下ろした。
小さな縫いぐるみ。
おばあちゃんが、リナが幼いころに拾ってきて直してくれた宝物。
その布が、今日はやけに固く感じる。
いつもなら、ほんのり温もりを吸って柔らかいのに。
「ミリエルって……こんなに冷たかったっけ……」
頬に当ててみる。
布のざらりとした感触と、縫い目の固さ。
でも、冷たさは――自分の頬のほうが勝っていた。
リナは薄く笑った。
「……やだな。わたし……人形より冷たいんだ……」
涙をこぼす余裕もない。
涙の作り方も忘れたようだった。
背中を丸め、ミリエルを抱いたまま、木箱を開ける。
もう、ほとんど残っていない。
一本。
たった一本。
「……最後の、マッチ……」
木箱の底に転がっている細い軸を、リナは震える指でつまもうとする。
けれど――指が動かない。
「……あれ……つまめない……?」
手先がまるで氷の塊だった。
意識を向けても、指は閉じない。
親指と人差し指の間が、風船みたいに大きく開いたまま固まっている。
「……指が……わたしのじゃないみたい……」
それでも、なんとか指を押しつけて、滑るようにマッチを挟む。
マッチの木の軸が手に触れた瞬間、リナは息を呑んだ。
「あったかい……」
錯覚だろう。
でも、確かに“熱”を感じた。
もしかしたら、手の感覚が壊れかけているせいかもしれない。
それでも、リナはほんの少しだけ笑った。
「そっか……おばあちゃん……」
口の中でそっとつぶやく。
「……もうすぐだよね……」
祖母の顔が、ゆっくり浮かんでくる。
夜の部屋で、毛布を広げて待っていてくれたときのあの表情。
暖炉の前で歌ってくれた子守唄。
リナの頭を撫でた手の温かさ。
全部、色が薄れていくのに――
祖母の思い出だけは、はっきりしていた。
「……会えるよね……?」
自分に確認するように呟くと、胸の奥に静かに、何かが灯るような感覚があった。
風の音が遠くなっていく。
街の喧騒も、まるで別の町の出来事みたいだ。
「ミリエル……待っててね……最後の……火だよ……」
震える手でマッチを擦ろうとする。
けれど、指が力を入れられず、軸は滑って落ちた。
「あっ……」
地面に落ちた最後の一本を拾おうとして、石畳に手を伸ばす。
けれど、手は……動かない。
「……動いてよ……お願い……」
涙声だった。
でも涙は出ない。
まばたきすると、まるで目の奥がひりつくような痛みだけがあった。
「あたし……最後の火……見たいのに……」
声が少しずつ途切れていく。
喉が狭くなって、息が浅くなる。
雪が肩に積もる。
髪が凍り、耳の先が刺すように痛む。
それでもその痛みすら、薄れていく。
「おばあちゃん……」
リナは、胸の中のミリエルをそっと抱きしめ直した。
その小ささが、なぜか“抱かれている”ようにも感じた。
「……迎えに……来るよね……?」
答えは風に混ざった雪が、静かに頬をなでただけ。
でも――その冷たささえ、やわらかく感じるほど、体の感覚は消えていた。
「……わたし……もう……大丈夫だよ……」
そう呟いた瞬間、胸が軽くなった。
“死に近い”という恐怖ではなく、
“痛みが終わる”という静かな予感。
リナは、落ちていた最後のマッチに手を伸ばす。
手は震え、まっすぐに動かない。
それでも――
「……触れた……」
指先の白んだ皮膚が、かすかに動いた。
軸をつまむ。
もう絶望的に弱い力だったが、それだけで十分だった。
マッチを胸元まで運び、そっと擦る。
――シュ。
小さな火が、灯った。
「……あったかい……」
その言葉を最後に、リナは静かに目を閉じた。
炎は、冬の風に逆らうように揺れた。
その光は、まるで祖母の腕の中みたいに柔らかかった。
胸の痛みも、足の冷たさも、
悲しみも、寂しさも――
少しずつ、溶けていった。
そして――
リナの口元には、ごく小さく、穏やかな笑みが浮かんでいた。
『痛みの終わりの予感』
――指先の感覚が、消えていく。
リナは両手をこすり合わせた。
骨ばった指同士がこすれ、かすかにカチカチという音がした。
皮膚は赤紫になり、ところどころ白く変色している。
「ミリエル……なんか……手が変だよ……」
人形を抱きしめた腕も、もう自分のものじゃないように重い。
力を入れようとしても、じんわりとしか動かない。
風がビルの隙間を抜け、笛のような音を立てて頬を刺していく。
その痛みさえ、薄れていく。
「……ほんとに……感覚が……なくなってきた……」
声が震えるというより、単に弱かった。
喉が乾燥しすぎて、息を吸うたびに胸がざらざらする。
歩道の石畳に座り込む。
この体勢も、もう何度目か分からない。
でも、今は“座る”のではなく、“倒れ込む”に近かった。
足の指を動かそうとする。
動かない。
まるで布団の中に足だけ置いてきたみたいに、反応しない。
「……ねぇ……ミリエル。これ、もうやばいのかな……」
自分の声が、雪の降る音に飲み込まれる。
すれ違う人の足音は、もうまるで遠い海の波みたいにしか聞こえなかった。
リナは、胸に押しあてていた人形をそっと見下ろした。
小さな縫いぐるみ。
おばあちゃんが、リナが幼いころに拾ってきて直してくれた宝物。
その布が、今日はやけに固く感じる。
いつもなら、ほんのり温もりを吸って柔らかいのに。
「ミリエルって……こんなに冷たかったっけ……」
頬に当ててみる。
布のざらりとした感触と、縫い目の固さ。
でも、冷たさは――自分の頬のほうが勝っていた。
リナは薄く笑った。
「……やだな。わたし……人形より冷たいんだ……」
涙をこぼす余裕もない。
涙の作り方も忘れたようだった。
背中を丸め、ミリエルを抱いたまま、木箱を開ける。
もう、ほとんど残っていない。
一本。
たった一本。
「……最後の、マッチ……」
木箱の底に転がっている細い軸を、リナは震える指でつまもうとする。
けれど――指が動かない。
「……あれ……つまめない……?」
手先がまるで氷の塊だった。
意識を向けても、指は閉じない。
親指と人差し指の間が、風船みたいに大きく開いたまま固まっている。
「……指が……わたしのじゃないみたい……」
それでも、なんとか指を押しつけて、滑るようにマッチを挟む。
マッチの木の軸が手に触れた瞬間、リナは息を呑んだ。
「あったかい……」
錯覚だろう。
でも、確かに“熱”を感じた。
もしかしたら、手の感覚が壊れかけているせいかもしれない。
それでも、リナはほんの少しだけ笑った。
「そっか……おばあちゃん……」
口の中でそっとつぶやく。
「……もうすぐだよね……」
祖母の顔が、ゆっくり浮かんでくる。
夜の部屋で、毛布を広げて待っていてくれたときのあの表情。
暖炉の前で歌ってくれた子守唄。
リナの頭を撫でた手の温かさ。
全部、色が薄れていくのに――
祖母の思い出だけは、はっきりしていた。
「……会えるよね……?」
自分に確認するように呟くと、胸の奥に静かに、何かが灯るような感覚があった。
風の音が遠くなっていく。
街の喧騒も、まるで別の町の出来事みたいだ。
「ミリエル……待っててね……最後の……火だよ……」
震える手でマッチを擦ろうとする。
けれど、指が力を入れられず、軸は滑って落ちた。
「あっ……」
地面に落ちた最後の一本を拾おうとして、石畳に手を伸ばす。
けれど、手は……動かない。
「……動いてよ……お願い……」
涙声だった。
でも涙は出ない。
まばたきすると、まるで目の奥がひりつくような痛みだけがあった。
「あたし……最後の火……見たいのに……」
声が少しずつ途切れていく。
喉が狭くなって、息が浅くなる。
雪が肩に積もる。
髪が凍り、耳の先が刺すように痛む。
それでもその痛みすら、薄れていく。
「おばあちゃん……」
リナは、胸の中のミリエルをそっと抱きしめ直した。
その小ささが、なぜか“抱かれている”ようにも感じた。
「……迎えに……来るよね……?」
答えは風に混ざった雪が、静かに頬をなでただけ。
でも――その冷たささえ、やわらかく感じるほど、体の感覚は消えていた。
「……わたし……もう……大丈夫だよ……」
そう呟いた瞬間、胸が軽くなった。
“死に近い”という恐怖ではなく、
“痛みが終わる”という静かな予感。
リナは、落ちていた最後のマッチに手を伸ばす。
手は震え、まっすぐに動かない。
それでも――
「……触れた……」
指先の白んだ皮膚が、かすかに動いた。
軸をつまむ。
もう絶望的に弱い力だったが、それだけで十分だった。
マッチを胸元まで運び、そっと擦る。
――シュ。
小さな火が、灯った。
「……あったかい……」
その言葉を最後に、リナは静かに目を閉じた。
炎は、冬の風に逆らうように揺れた。
その光は、まるで祖母の腕の中みたいに柔らかかった。
胸の痛みも、足の冷たさも、
悲しみも、寂しさも――
少しずつ、溶けていった。
そして――
リナの口元には、ごく小さく、穏やかな笑みが浮かんでいた。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡
弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。
保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。
「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる