マッチ売りの少女

春秋花壇

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エピローグ

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『雪の降るほうへ』

 雪は、その年もゆっくりと降り続けていた。

 通りを歩く人たちの肩に薄く積もり、
 電線の上にふんわりとした白い帯を作り、
 ビルの窓ガラスを冷たく曇らせていく。

 ――そして、その白の中に、ほんのわずかな暖かさがあった。

「……ここだったな」

 清掃員の男は、あの日の場所へ足を運んでいた。
 手袋の上から感じる冷たい風。
 雪のしずかな匂い。
 遠くの車の音が、冬の空気に溶けてくる。

 街のざわめきはいつも通りだけど、
 この路地だけは、どこか時間の流れが遅い。

 男はポケットに手を入れた。
 そこには――少女が残した“未開封のマッチ箱”。

「……あれから毎日、持ってるんだ」

 誰に聞かせるでもなく、独り言のように呟いた。
 箱の角は少しだけ擦り減っているが、まだきれいに形を保っている。

 マッチが擦れるときの、あの独特の木の匂いさえ、
 まだ箱の隙間から漂ってくる。

「不思議だよな……
 火なんて、擦ればすぐ消えるのにな」

 男はそっと地面を見た。

 そこは一年前、リナが座っていた場所。
 雪に埋もれたその地面の上で、彼女は最後まで“光”を見つめていた。

「おい……聞こえるか?」

 空に向けるような声で呟く。

「お前の書いた文字……
 俺は、あの日からずっと忘れてない」

 胸の奥が、じんわり熱くなった。

「“だれかに よんでほしい”。
 あの灰の文字……一瞬で消えちまったけどな……
 でも、俺は確かに、読んだよ」

 雪が舞う。
 冷たいはずなのに、優しく触れてくるような感覚がした。

 そのとき――
 男の耳に、小さな足音が聞こえた。

「おじさん、何してるの?」

 振り向くと、近所の小学生くらいの女の子が立っていた。
 赤いニット帽、白いマフラー。
 目が好奇心で輝いている。

「……ん? あぁ、ちょっとな。思い出してたんだよ」

「なにを?」

 男は迷った。
 けれど――言ってもいい気がした。

「昔、この場所に……
 小さな女の子がいたんだ」

「ふーん……ここに?」

「あぁ。寒い夜にな。
 でも……とても、きれいな顔して眠ってた」

 少女は不思議そうに首をかしげる。

「その子、何歳くらいだったの?」

「お前と同じくらいだよ」

「そっか……」

 少女は地面を見つめる。
 雪の上に小さな足跡がぷつぷつ残っていた。

「ねぇ、おじさん。その子……寂しかったの?」

「……あぁ。
 でも、最後の顔は……寂しそうじゃなかった」

「どうして?」

 男は笑った。
 胸の奥が温かく締め付けられるような笑みだった。

「きっと……誰かに会えたんだろうな。
 一番会いたかった人に」

 少女はその言葉を聞いて、静かにうなずいた。

「ねぇ、おじさん」

「ん?」

「その子のこと……教えてくれて、ありがとう」

 小さな、その一言。
 それだけで男の胸がぐっと熱くなった。

「……ありがとう、か。
 こっちこそだよ」

 少女はにっこり笑い、走っていった。
 雪を蹴る音が、軽やかに路地に響く。
 その音を、男はしばらく見送っていた。

「……リナ」

 男はポケットからマッチ箱を取り出し、
 空に向けるようにそっと掲げた。

「お前の願い……
 ちゃんと、誰かに届いたぞ」

 風が吹く。
 雪が舞う。
 その白の中に、確かに“あたたかい何か”が触れた気がした。

「……あぁ。届いたさ。
 いま、あの子が笑ったろ。
 それで十分だよな?」

 男はマッチ箱を胸にしまい、
 深く息を吸い、ゆっくり吐いた。

 冬の冷たい空気が肺を満たし、
 雪の匂いが鼻を抜けていく。

「じゃあな、リナ」

 小さく呟き、男は歩き出した。

 背中に降る雪は冷たく、
 でもどこか柔らかかった。

 街は新しい日を迎え、
 人々はまた、それぞれの物語へ向かって歩いていく。

 そして――
 リナの残した光は、
 確かに一人の胸の中で生き続けていた。

 “誰かに呼ばれたかった”という小さな願いが、
 静かに、確かに、この世界に刻まれていた。

 雪の降るその場所で、
 少女の物語は終わり、
 でも、光は歩き続けていた。

 新しい年の街の中を――
 静かに、あたたかく。

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