マッチ売りの少女

春秋花壇

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『マッチ売りの少女:火は、まだ消えていない』

第3話 ミリエルの傷

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第3話 ミリエルの傷

 朝の光が、保護室のカーテンの隙間から細く差し込んだ。
 暖房の風が静かに鳴り、昨夜泣き疲れたリナの頬を乾かしていく。

 目を覚ましたリナは、毛布を握りしめながらゆっくり起き上がった。
 枕元に置いていたはずの小さな布の人形――ミリエルの姿を探す。

 ……あれ?

 ミリエルは、床の上でうつ伏せになっていた。
 リナは慌てて降りて拾い上げる。

「ミリエル……」

 声が揺れた。

 布の腕のひとつが、ぶらりと糸のほつれたまま垂れ下がっていた。
 昨夜、吹雪の中で抱えていた時には、まだついていた。

 リナの胸が、きゅうっと縮まった。

「ごめん……ごめんね……」

 リナは震える指でその腕をつまんだ。
 布の肌は冷たく、端の糸は細く千切れそうで――。

 幼い頃、祖母が縫ってくれた人形だった。
 夜泣きした時に抱いて眠った唯一の友達。
 祖母が亡くなってからは、話し相手で、心の支えで、寂しさを埋める火だった。

 それが――

「……壊れちゃった……」

 ぽたり、と涙が落ちる。
 ミリエルの顔にしみ込む。

     *

 コンコン。

「入るね」

 美弥子がそっと入ってくる。湯気の立つマグカップを持ったまま、リナを見て眉を寄せた。

「どうしたの? リナ……泣いてるの?」

 リナはミリエルを胸に抱き、声を震わせた。

「み、ミリエル……お腕……とれちゃって……」

「見せてごらん」

 美弥子はリナの手から人形をそっと受け取った。
 腕の付け根をじっと見つめ、ふう、と息をつく。

「大丈夫。これはね……直せるよ」

「……なおる……の?」

「うん。ちゃんと縫えば、またいっしょにいられる」

 その言葉に、リナの肩が少しだけ上がった。

「……ほんとに……?」

「ほんと。じゃあ、裁縫箱を持ってくるね。ちょっと待ってて」

     *

 しばらくして戻ってきた美弥子は、小さな裁縫箱を膝の上に置いた。
 色とりどりの糸、針、ハサミ。
 光が糸に反射して、虹のように揺れた。

「リナ。ここにおいで」

 リナはおそるおそるベッドの上を移動して、美弥子の隣に座る。

 美弥子は優しい手つきでミリエルを膝に乗せ、腕の付け根に針を通した。
 チク……チク……
 小さな音が、部屋の静けさに溶けていく。

「……ミリエル、とれると……どうしようって思った……」

「うん」

「ずっと一緒だったの……おばあちゃんの……お形見で……」

 声が少しずつ詰まっていく。
 美弥子は針を動かす手を止めずに、静かに聞いていた。

「……おばあちゃん、もう……いないから……ミリエルまで壊れたら……」

「寂しいね」

「……うん……」

 ぽと、と涙がミリエルの頭に落ちた。

「壊れるってね、悲しいよ。でもね」

 美弥子は針をすっと引き抜き、細い糸を締めながら言った。

「壊れたら、その分だけ“誰かが直していい”んだよ」

「……だれか……?」

「うん。誰か。たとえば、私でもね」

 リナは顔を上げた。
 美弥子は微笑んでいた。

「壊れたものを直すと、不思議とね……“いっしょに歩く理由”みたいなものが生まれるんだよ」

「……いっしょに……?」

「そう。一緒に。また前へ」

 チク……チク……。
 針を通すたびに、ミリエルの腕が少しずつ形を取り戻していく。

     *

「はい。できたよ」

 美弥子は新しく縫い付けられた腕を、そっとリナに見せた。

 ほつれていた部分はきれいに縫われ、糸の色もできる限り近い色を選んでくれていた。
 ミリエルは、まるで「また歩けるよ」と微笑んでいるように見えた。

「……ミリエル……」

 リナは震える手で人形を抱きしめた。

「ちゃんと……手が……」

「うん。もう離れないよ。しっかりつないでおいたからね」

 美弥子は優しく言う。

「壊れてもね、終わりじゃないの。直せば、また一緒に行けるよ」

 その言葉は、まっすぐリナの胸に落ちてきた。

 ミリエルだけじゃない――
 自分も。
 心も。
 寒さで固まってしまった部分も。

「……わたしも……なおる……?」

 思わずこぼれた小さな声。
 美弥子は驚いたように目を丸くし、すぐに柔らかい笑顔になった。

「もちろん。時間はかかるけどね。でも……ちゃんと、直るよ」

「……ほんと……?」

「ほんと。だって、今こうして話してるじゃない」

 リナはミリエルを抱きしめたまま、鼻をすん、と鳴らした。

 胸の奥に、小さな“何か”が灯る。
 昨日のスープの温度とは違う。
 もっと奥で、静かに燃える火――。

(……しんらい……しても……いいの……?)

 これまでずっと、誰にも見せられなかった場所が、ほんの少しだけ解けていく。

「……ありがとう……みやこさん……」

「どういたしまして」

 美弥子は頭をぽんと撫でた。

「ミリエルも、きっと喜んでるよ。“またリナと歩ける”って」

 リナの口元が、きゅっと上がる。
 涙の跡がまだ頬に残っているのに、その笑顔はしっかりと“生きていた”。

     *

 その日、保護室の窓の外では雪が静かに舞っていた。
 冷たいはずの雪が、どこかきれいに見える。

 ミリエルの修復された腕は、
 リナの凍った心を縫い直した最初の一針だった。

 その夜、リナはミリエルを胸に抱いて眠った。
 人形の布の匂いが落ち着く。
 まるで祖母に抱かれているような、あたたかくて静かな夜だった。

(……大丈夫……また、歩ける……)

 胸の中の小さな火は、まだ弱く、頼りないけれど。

 でも――
 たしかにそこには、“信じてもいい温度”が灯っていた。

次は
第4話「施設の子どもたち」

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