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『マッチ売りの少女:火は、まだ消えていない』
第4話 施設の子どもたち
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第4話 施設の子どもたち
翌日の朝、リナはミリエルを胸にぎゅっと抱えたまま、保護室の扉の前で立ちすくんでいた。
(……行かなきゃ……でも……)
扉の向こうには、同じ年頃の子どもたちが過ごす「共同生活室」がある。
そこで朝食を食べたり、遊んだり、学校の準備をしたりするのがここでの普通らしい。
けれど、リナにとって「普通」は一番怖いものだった。
学校で、机に落書きをされた。
雨の日に傘を捨てられた。
匂いがすると言われて、上履きを隠された。
貧しい家の子は、どうしてか“理由のあるいじめ”みたいに扱われる。
(……また、何かされるかもしれない……)
リナの指先が震えた。
「リナちゃん、大丈夫?」
美弥子が背中から声をかけてくる。
リナはびくりと肩を揺らし、かすかに頷いた。
「こわい……こわくて……」
「うん、怖いよね。でも、扉の向こうにはあなたを傷つけたい子はいないと思うよ」
「……わかんない……」
美弥子はしゃがんで、リナの目線に合わせて優しく言った。
「もし何かあったら、すぐ私を呼んでいいの。逃げてもいい。怒っても泣いてもいいよ」
リナは唇をかみしめる。
その言葉はたしかに温かかった。
「……がんばってみる……」
「うん。リナはえらいね。」
*
扉を開けた瞬間、にぎやかな声がわっと押し寄せた。
「ちょうだい! それちょうだいってば!」
「今日のパン、チョコのに当たったー!」
共同生活室は温かい匂いに包まれていた。
焼きたてのパンの匂い。
ミルクスープの湯気。
子どもたちの笑い声の熱。
でも、リナの足はすぐには前に進まなかった。
(……近づいたら、見られる……)
視線が怖い。
声をかけられるのも怖い。
かけられないのも怖い。
リナはそっと壁際に沿って動き、部屋の隅にある席に座った。
テーブルの端に、ひっそりと。
ミリエルはバッグに入れている。
守るように、手を握って。
*
パンの袋を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
食べ物を前にすると、昔の記憶が顔を出す。
――「お前の家、また電気止まってんだろ」
――「お弁当、変な匂い」
――「なんでそんな服着てんの?」
いい服なんてなかった。
祖母が編んでくれた赤いセーターだけが、唯一の宝物で。
そのセーターを着て学校へ行った日は、特にひどかった。
(……また笑われる……)
リナはセーターの袖をぎゅっと握りしめた。
指が冷たくなる。
その時。
ふわりと誰かの影が差し込んだ。
「ねえ」
顔を上げると、同じ年くらいの女の子が立っていた。
髪を二つに結んで、丸い目がくりっとしている。
手にはミルクスープがのったトレー。
リナは反射的に身を縮めた。
「……ごめんなさい……どきます……」
「違う違う、そうじゃなくて!」
少女は慌てて手を振った。
「そのセーター!」
「……セーター……?」
「うん、その色、すっごくすてきだよ!」
リナはぽかんとした。
「……すてき……?」
「うん! なんか、冬のいちごみたい。赤くておいしそうで、かわいくて」
少女は本当に嬉しそうに言う。
リナの耳が熱くなる。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「……いちご……みたい……?」
「うん。わたし、そういう色、すきなんだ。似合ってるよ」
その言葉が、まっすぐ心に刺さった。
今まで、その赤は笑われる色だった。
古い、貧しい、特別じゃない。
だから隠していた。
できるだけ目立たないようにしていた。
だけど――
(……すき、って言われた……)
胸の奥がふっと明るくなる。
小さな灯りがともるように。
「……ありがとう……」
言葉にすると、頬があたたかくなった。
これが照れるという感覚なのだろうか。
少女はにこっと笑う。
「一人で食べてるの? わたし、アヤっていうの。一緒に座ってもいい?」
「……え?」
「いやだったらムリしなくていいけど!」
アヤは両手をぶんぶん振りながら続ける。
「わたし、初めて来た子がいると声かけたくなるの! なんかね、友達になれる気がするっていうの? あ、でもいきなりはイヤかな? どうしよう……」
彼女の言葉はころころ転がり、砂糖菓子みたいに甘くて軽かった。
(……この子……怒ってない……)
誰かに話しかけられて、怒鳴られる覚悟をしていたのに。
責められなかった。
笑われなかった。
それが、何よりも驚きだった。
「……すわっても……いい……」
「えっ、いいの!?」
アヤの顔がぱっと花火のように明るくなる。
「やったぁ!」
アヤはぴょん、と椅子を引いて、リナの隣に座った。
ミルクスープの湯気がふわりと広がる。
「これ、おいしいよ。のんでみ?」
リナは小さく頷き、カップを持ち上げた。
温度が手にじんわりしみこむ。
口に運ぶと、舌の上にやさしい味が広がる。
「……おいしい……」
「でしょ!」
アヤの無邪気な声が胸の中に響く。
*
ほんの少しの時間だった。
でも、その短い時間が、リナにとっては大きな一歩だった。
席を立つ直前、アヤは言った。
「明日も一緒に食べようね、いちご色のセーターの子!」
リナは驚いて目を丸くする。
「……いちご色……」
「うん。リナって呼んでもいい?」
「……うん……」
「じゃあまた明日ね!」
アヤは手を振って走っていった。
その後ろ姿は、雪の降る朝の太陽みたいに明るかった。
*
リナは自分のセーターを見下ろした。
赤は、
笑われる色じゃなかった。
赤は、
誰かに「すてき」と言ってもらえる色だった。
その気づきが、
胸の真ん中にぽっと温かい火を灯していた。
(……受け入れられた……)
こんな感覚は、
ずっと知らなかった。
ミリエルを抱きしめる。
人形の布の匂いが、やわらかい。
「……おばあちゃん……」
小さく、つぶやく。
「わたし……すこしだけ……あたたかいよ……」
窓の向こうでは雪が舞っていたが、
リナの胸の中には確かに“春の芽吹き”のような温度があった。
次は
第5話「里親候補の夫婦」
翌日の朝、リナはミリエルを胸にぎゅっと抱えたまま、保護室の扉の前で立ちすくんでいた。
(……行かなきゃ……でも……)
扉の向こうには、同じ年頃の子どもたちが過ごす「共同生活室」がある。
そこで朝食を食べたり、遊んだり、学校の準備をしたりするのがここでの普通らしい。
けれど、リナにとって「普通」は一番怖いものだった。
学校で、机に落書きをされた。
雨の日に傘を捨てられた。
匂いがすると言われて、上履きを隠された。
貧しい家の子は、どうしてか“理由のあるいじめ”みたいに扱われる。
(……また、何かされるかもしれない……)
リナの指先が震えた。
「リナちゃん、大丈夫?」
美弥子が背中から声をかけてくる。
リナはびくりと肩を揺らし、かすかに頷いた。
「こわい……こわくて……」
「うん、怖いよね。でも、扉の向こうにはあなたを傷つけたい子はいないと思うよ」
「……わかんない……」
美弥子はしゃがんで、リナの目線に合わせて優しく言った。
「もし何かあったら、すぐ私を呼んでいいの。逃げてもいい。怒っても泣いてもいいよ」
リナは唇をかみしめる。
その言葉はたしかに温かかった。
「……がんばってみる……」
「うん。リナはえらいね。」
*
扉を開けた瞬間、にぎやかな声がわっと押し寄せた。
「ちょうだい! それちょうだいってば!」
「今日のパン、チョコのに当たったー!」
共同生活室は温かい匂いに包まれていた。
焼きたてのパンの匂い。
ミルクスープの湯気。
子どもたちの笑い声の熱。
でも、リナの足はすぐには前に進まなかった。
(……近づいたら、見られる……)
視線が怖い。
声をかけられるのも怖い。
かけられないのも怖い。
リナはそっと壁際に沿って動き、部屋の隅にある席に座った。
テーブルの端に、ひっそりと。
ミリエルはバッグに入れている。
守るように、手を握って。
*
パンの袋を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
食べ物を前にすると、昔の記憶が顔を出す。
――「お前の家、また電気止まってんだろ」
――「お弁当、変な匂い」
――「なんでそんな服着てんの?」
いい服なんてなかった。
祖母が編んでくれた赤いセーターだけが、唯一の宝物で。
そのセーターを着て学校へ行った日は、特にひどかった。
(……また笑われる……)
リナはセーターの袖をぎゅっと握りしめた。
指が冷たくなる。
その時。
ふわりと誰かの影が差し込んだ。
「ねえ」
顔を上げると、同じ年くらいの女の子が立っていた。
髪を二つに結んで、丸い目がくりっとしている。
手にはミルクスープがのったトレー。
リナは反射的に身を縮めた。
「……ごめんなさい……どきます……」
「違う違う、そうじゃなくて!」
少女は慌てて手を振った。
「そのセーター!」
「……セーター……?」
「うん、その色、すっごくすてきだよ!」
リナはぽかんとした。
「……すてき……?」
「うん! なんか、冬のいちごみたい。赤くておいしそうで、かわいくて」
少女は本当に嬉しそうに言う。
リナの耳が熱くなる。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「……いちご……みたい……?」
「うん。わたし、そういう色、すきなんだ。似合ってるよ」
その言葉が、まっすぐ心に刺さった。
今まで、その赤は笑われる色だった。
古い、貧しい、特別じゃない。
だから隠していた。
できるだけ目立たないようにしていた。
だけど――
(……すき、って言われた……)
胸の奥がふっと明るくなる。
小さな灯りがともるように。
「……ありがとう……」
言葉にすると、頬があたたかくなった。
これが照れるという感覚なのだろうか。
少女はにこっと笑う。
「一人で食べてるの? わたし、アヤっていうの。一緒に座ってもいい?」
「……え?」
「いやだったらムリしなくていいけど!」
アヤは両手をぶんぶん振りながら続ける。
「わたし、初めて来た子がいると声かけたくなるの! なんかね、友達になれる気がするっていうの? あ、でもいきなりはイヤかな? どうしよう……」
彼女の言葉はころころ転がり、砂糖菓子みたいに甘くて軽かった。
(……この子……怒ってない……)
誰かに話しかけられて、怒鳴られる覚悟をしていたのに。
責められなかった。
笑われなかった。
それが、何よりも驚きだった。
「……すわっても……いい……」
「えっ、いいの!?」
アヤの顔がぱっと花火のように明るくなる。
「やったぁ!」
アヤはぴょん、と椅子を引いて、リナの隣に座った。
ミルクスープの湯気がふわりと広がる。
「これ、おいしいよ。のんでみ?」
リナは小さく頷き、カップを持ち上げた。
温度が手にじんわりしみこむ。
口に運ぶと、舌の上にやさしい味が広がる。
「……おいしい……」
「でしょ!」
アヤの無邪気な声が胸の中に響く。
*
ほんの少しの時間だった。
でも、その短い時間が、リナにとっては大きな一歩だった。
席を立つ直前、アヤは言った。
「明日も一緒に食べようね、いちご色のセーターの子!」
リナは驚いて目を丸くする。
「……いちご色……」
「うん。リナって呼んでもいい?」
「……うん……」
「じゃあまた明日ね!」
アヤは手を振って走っていった。
その後ろ姿は、雪の降る朝の太陽みたいに明るかった。
*
リナは自分のセーターを見下ろした。
赤は、
笑われる色じゃなかった。
赤は、
誰かに「すてき」と言ってもらえる色だった。
その気づきが、
胸の真ん中にぽっと温かい火を灯していた。
(……受け入れられた……)
こんな感覚は、
ずっと知らなかった。
ミリエルを抱きしめる。
人形の布の匂いが、やわらかい。
「……おばあちゃん……」
小さく、つぶやく。
「わたし……すこしだけ……あたたかいよ……」
窓の向こうでは雪が舞っていたが、
リナの胸の中には確かに“春の芽吹き”のような温度があった。
次は
第5話「里親候補の夫婦」
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