マッチ売りの少女

春秋花壇

文字の大きさ
23 / 29
『マッチ売りの少女:火は、まだ消えていない』

第5話 里親候補の夫婦

しおりを挟む
第5話 里親候補の夫婦

 共同生活室でパンを食べていた翌日。
 リナはリビングに呼び出された。
 暖房の温度はいつもより少し高く、ストーブの近くには湯気の立つハーブティーが置かれていた。

(……なんだろう……)

 胸の奥がざわざわする。
 施設に来てから、こうして「呼ばれる」ことにまだ慣れない。

 部屋に入ると、美弥子が優しく手招きしていた。

「リナちゃん。今日はね、お客さんが来てるの」

「……お客さん……?」

「ええ。あなたに会いにね」

 リナは一歩後ずさりした。

(……また、何かされるのかな……)

 そう思った瞬間、視界の先に二人の大人が見えた。

 柔らかいベージュのコートを着た女性と、
 明るい色のセーターを着た男性。

 女性は椅子から立ち上がると、少し緊張したように微笑んだ。

「初めまして。内山花といいます」

 声は春の日差しみたいにあたたかく、ふんわりしていた。
 その隣で男性が手を挙げる。

「やあ。内山省吾です。リナちゃん、よろしくね!」

 笑顔は大きく、声も明るかった。
 ただその明るさに、リナは戸惑った。

(……なんで笑ってるの……? どうしてそんなふうに……)

 リナは反射的に、ミリエルを抱えて胸の前でぎゅっと握りしめた。

 花はそっと腰を落とし、リナと同じ目線になる。

「急に来てびっくりさせちゃったね。ごめんね」

「……ううん……」

 リナはかすかに首をふる。
 けれど心臓は速く打ち、手のひらには汗がにじむ。

(優しそうに見えても、どうせ……)

 そう思ってしまう癖が、まだ抜けない。

     *

 省吾がパンフレットを見ながら言った。

「僕たちね、ずっと里親になりたいと思ってたんだ。子どもがいないわけじゃないんだけど……うまく言えないな。『家族を増やしたい』って気持ちがあって」

「あなたと話したいなと思って、今日来たのよ」と花。

 リナの視線は、床に落ちたまま。

(……どうして私……?)

「ねえ、リナちゃん」

 花が、そっと尋ねる。

「ここでの生活、どう?」

 あまりにも普通の質問だった。
 答える言葉が見つからなくて、リナは戸惑う。

「……わかんない……」

「うん。急に聞かれても困るよね」

 花はふんわり笑う。
 省吾が横から顔を出すように、冗談ぽく言った。

「僕なんて、初めて来た場所だとドキドキしすぎて、すぐ帰りたくなるよ」

 リナの眉がぴくりと動いた。

「省吾さん、それあなたいつものことじゃない」

「え、バレた?」

「バレてるわよ。結婚して何年だと思ってるの?」

 二人は目を合わせてクスクス笑った。
 リナにはその笑い声が、不思議でたまらなかった。

(……ケンカ、しないんだ……)

 リナが見てきた大人は、怒鳴る声ばかりだった。
 ほとんど笑わなかった。
 優しさは、最後に祖母で止まっていた。

 だから、目の前のこの空気が信じられない。

     *

 しばらく雑談をした後、花はそっと言った。

「ねえ、リナちゃん。ひとつだけ聞いてもいい?」

「……うん……」

「あなたが“怖いな”って思うこと、何?」

 リナは喉の奥がぎゅっと締まるのを感じた。

(……聞かれた……)

 質問は優しい声なのに、その優しさが逆に痛かった。

 しばらく沈黙が続いた後、
 リナはやっとの思いで口を開いた。

「……いい子じゃないと……捨てられる……」

 その言葉を吐き出した瞬間、胸がちくりとした。
 言ってはいけない気がしていたけれど、言葉はもう止められなかった。

「だから……わたし……がんばる……。怒られないように、いい子にする……」

 花は、息をのんだ。

 省吾も表情を引き締め、静かに耳を傾けていた。

「……捨てられたくない……」

 リナの声は、泣く寸前に震えていた。

     *

 花はゆっくり手を伸ばした。
 でも急に触れずに、そっと手を止める。
 リナが怖がらないように。

「リナちゃん」

「……なに……?」

「“いい子じゃなくていいの”。あなたのままで、いていいのよ」

 リナの目が、ぱちりと開いた。

「……いい子じゃなくて……も?」

「そう。泣く日があっていいし、怒る日があっていいし、うまくできない日だってあっていい」

 花の声は、まるでカイロみたいに柔らかかった。

「わたし、すごく不器用だから、こういう子の気持ちがよく分かるの。
 がんばりすぎちゃう子。
 “いい子”になろうとしすぎる子。」

 省吾が横から冗談めかして付け加える。

「花なんてさ、家では僕より泣いてるんだよ? ドラマ見るたびに」

「ちょっと省吾さん、今それ言う!?」

「だって本当じゃん!」

 二人はまた笑った。
 その笑いは、誰かを下げるためのものではなく、
 ただ空気を軽くするだけの、優しい笑い。

(……大人って……こんなふうに笑うの……?)

 リナの胸の奥に、知らなかった感情が湧いてくる。

 痛いような、温かいような、くすぐったいような。

     *

 花は改めてリナに向き直った。

「ねえ、リナちゃん」

「……うん……」

「“捨てたい”なんて絶対に思わないわ。あなたがどんな時でもね」

 言い切る声は静かで、まっすぐだった。

「あなたは、誰かに大切にされていい存在なの」

 リナの胸が、じわりと熱くなる。

 心の奥に棒のように固まっていた“恐れ”が、
 ほんの少しだけ溶けていく感覚。

「あのね……」

 リナは気づくと、胸の前でミリエルをぎゅっと抱きしめていた。

「……わたし……こわいけど……」

「うん、怖いよね。急に言われても」

「……でも……」

 リナは、花と省吾の顔を見つめた。
 二人は逃げずに、ただ優しく頷く。

「……あなたたち……やさしい……」

 花の目が潤んだ。

「ありがとう。そう言ってくれて、嬉しい」

     *

 面談が終わり、二人が帰る準備をしている時。
 省吾がリナに向かって、照れくさそうに笑った。

「ねえリナちゃん。また来ていい? 君と話すの楽しかったから」

「……わたしも……」

「なんて言った?」

「わたしも……話すの……すこし、すきだった……」

 省吾の笑顔がぱっと明るくなる。

「やった!」

「省吾さん、声大きい」と花が笑う。

 その笑顔を見て、リナの胸の奥で
 またひとつ、小さな火が灯った。

(……もしかしたら……)

(……わたし……ここから……もう一度……生きられるのかも……)

 恐れはまだある。
 傷もまだ痛む。

 だけど――
 希望が、ほんの少しだけ、リナの中で芽吹きはじめた。

 赤いセーターが、今日だけは
 まるで“新しい春”の色みたいに見えた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡

弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。 保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。 「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

処理中です...