マッチ売りの少女

春秋花壇

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『マッチ売りの少女:火は、まだ消えていない』

第6話 新しい家に灯る火

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第6話 新しい家に灯る火

 車のエンジン音が、胸の奥にまで響いていた。
 内山花の隣でシートベルトを握りしめるリナは、ずっと息を浅くしていた。

(……ほんとうに……行くんだ……)

 施設で過ごした数日が、急に遠ざかっていくようだった。

「緊張してる?」
 花が横からのぞきこんで、優しく聞く。

「……うん……すこし……」

「“すこし”じゃなさそうだけど……でもね、緊張して当たり前よ。初めての場所だもの」

 花の声は、冬の日だまりみたいに温かい。

「怖かったらね、ちゃんと言ってね。泣いても怒らないから」

 リナは胸がぎゅっとした。

(……泣いても……怒られない……?)

 その言葉が信じられなくて、喉の奥がほろりと熱くなる。

     *

 車が止まった。

「着いたよ。ここが、内山家」

 リナは息を呑んだ。

 外観は決して豪華ではない。
 普通の街の、普通の家。
 けれど、玄関に吊るされた季節のリースや、窓辺の小さな観葉植物たちを見ているだけで、
 ここに“生活の息づかい”があることが伝わってくる。

 省吾が玄関から顔を出した。

「おかえりー! あ、違うか。ようこそー! って言うのかな?」

「省吾さん、落ち着いて」と花が笑う。

 リナはそのやり取りを見るだけで、胸が少し緩む。

(……変な人たち……だけど……)

 怒鳴らない。
 イラつかない。
 リナを怖がらせないように、距離を測ってくれている。
 そんなの、これまでなかった。

     *

 玄関に入ると、アロマのほのかな香りがした。

「わ……」

「嫌いな匂いだったら言ってね」と花が言う。

「すき……。いいにおい……」

「よかった」

 花が嬉しそうに頷く。

「まずは、リナちゃんの部屋を案内するね」

(……部屋……?)

 玄関から階段を上がり、廊下の突き当たりの扉を開ける。

「ここが……リナちゃんの部屋」

 リナは息を止めた。

 白いレースカーテン。
 淡い緑色のラグ。
 小さめの木製の机。
 新しい布団が敷いてあって、枕はふかふか。
 棚には絵本が並んでいた。

 どれも、祖母が生きていた時でさえ手に入らなかったものばかりだ。

(……わたしの……?)

 胸がきゅっと痛くなる。
 手を伸ばせば、本当に触れてしまう。
 触ったら、壊れてしまいそうで怖かった。

 花がそっと背中に手を置く。

「ねえ、リナちゃん。怖い?」

「……こわい……」

 リナは正直に言った。
 涙がにじむ。

「こんな……おへや……もらえない……」

「どうして?」

「ぜいたく……すぎて……」

 花はやわらかく首を横に振った。

「そんなことないわ。これはね、リナちゃんがここで“安心して生きるため”の部屋なの」

「…………」

「贅沢なんかじゃない。必要なものよ」

 花の声は、揺れない。

 リナの頬を伝った涙が、ラグにぽたりと落ちた。

「泣いても大丈夫。怒らないよ」

「……ほんとう……?」

「ほんとう。泣きたい時は泣いていいよ」

 その言葉に、リナの喉がつまった。

 祖母の家を出てからずっと、
 「泣くな」
 「面倒くさい」
 「うるさい」
 そんな言葉ばかり浴びてきた。

(……泣いて……いいの……?)

 その自由が、あまりにまぶしくて、怖かった。

     *

 省吾が箱を持って部屋に入ってきた。

「よし、これはリナちゃんの机に置いてくれって花に頼まれたやつ!」

「省吾さん、言わなくていいのに」

「え? あ、サプライズだった?」

「そうよ」

「あっ……ごめん、リナちゃん!」

 省吾の慌てた声に、リナは思わず小さく笑ってしまった。

「あ……」

「えっ、笑った!?」

「省吾さん……声大きい」と花が苦笑する。

 この家の空気は、柔らかくて、温かくて、
 それが逆に胸の奥をぎゅっと締めつけた。

(……この人たち……ほんとうに……?)

(ほんとうに……わたしを……)

 受け入れてくれる?

     *

 夕食は、省吾特製のポトフだった。

 にんじんの甘さが舌に広がり、じゃがいもはほろりと崩れる。
 鍋から立つ湯気は、冬の夜を溶かすように温かい。

「これ、食べられる?」
「……うん……おいしい……」

 省吾は胸を張る。

「だろ!? 花より料理うまいんだよ、実は!」

「はいはい」と花がスプーンを置いて笑う。

 リナはスープを飲みながら、胸に小さな不安を抱えていた。

(……こんなやさしいの……いつまで?)

 優しさはいつか消える。
 笑顔の裏には怒りが潜んでいる。
 そう思わずにはいられなかった。

 でも、それを言葉にすることができなかった。

     *

 夜、リナは自分の部屋へ戻った。

 布団は、手を触れただけでふわっと温度が移った。
 新しい洗剤の匂い。
 静かな部屋。
 窓の外では、風が木々を揺らしている。

 リナは布団に潜り込み、ミリエルを胸に抱えた。

(……こわい……)

 幸せそうに見えるものほど、壊れるのが怖い。
 届いたと思った瞬間に、消えるのが怖い。

(……おばあちゃん……)

 まぶたを閉じる。
 すると――

 布団の中の暗闇が、じんわりと金色にゆらめいた。

《大丈夫》

 声ではない。
 でも確かに聞こえた。

《リナの火は、まだ消えてないよ》

 祖母が、いつものやさしい笑顔で腰掛けている幻影が見えた。
 膝の上でミリエルを縫っていた時と同じ表情。

「……おばあちゃん……」

《ここは、怖い場所じゃないよ。ちゃんと温かい》

 リナは布団の中で泣いた。
 声に出さず、静かに、静かに。

 涙は枕に落ち、布団の中にしみこむ。
 でもその涙は、痛みだけの涙ではなかった。

(……すこし……あたたかい……)

 胸の奥で、小さな火が揺れている。

 吹雪の夜、凍え死にかけたリナの中に残っていた“あの火”が。

     *

《生きなさい。
 リナの人生は、ここから動き出すよ》

「……うん……」

 目を閉じたまま、リナはそっと答えた。

 外の風は冷たい。
 でも――
 布団の中には、確かに火が灯っていた。

 新しい家に移ったばかりの夜、
 リナの孤独はまだ残っていたけれど、
 その孤独の端が、少しだけ溶けた。

 ゆっくりと、眠りがやってくる。
 ミリエルを抱いた小さな腕は、もう震えていなかった。

(……ここで……生きてもいい……?)

 その問いかけに、祖母の幻は微笑んで答えた。

《いいんだよ。あたたかい火のそばで、生きてごらん》

 リナのまつげが、静かに落ちる。

 こうして――
 新しい家の中で、
 リナの“火”は、確かに灯り始めたのだった。

次は
第7話「お金の恐怖」

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