きみにより 思ひならひぬ 世の中の 人はこれをや 恋といふらむ きゃ♡

春秋花壇

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第3話:体育祭の練習

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第3話:体育祭の練習

放課後のグラウンドは、春の土の匂いに満ちていた。
リレー練習をする陸上部の掛け声が、校舎の壁に跳ね返る。
シューズが地面を蹴る音、タイムを測るストップウォッチの電子音、
砂埃が夕日で金色に舞う。

体育祭まであと一週間。
クラスの代表リレーは、陸上部員に頼りきりだ。

その中で、佐伯颯真の走りは圧倒的だった。

スタートラインに立つと、一瞬で空気が変わる。
肩の位置が低く、猫のように静か。
号令が聞こえる前に、風の匂いを読んでいるみたいだった。

「よーい、スタート!」

砂を蹴る音が炸裂する。
颯真は、風を切るのではなく、風と一緒に走っている。
腕の振りが滑らかで、脚が地面を選ばない。
走るのではなく、地面と会話しているみたい。

「やば、速っ!」

「見えないんだけど!? 足!!」

「プロかよ!」

女子たちは黄色い悲鳴を上げ、スマホで動画を撮り始めた。

颯真は、ゴールテープを切ったあとも、息一つ乱れていない。
汗が額に光り、夕日の色を吸い込んでいる。
その姿は見惚れるほど綺麗で、
教室では見せなかった“静かな野生”がそこにあった。

ほのかが、フェンスに張りついて言う。

「ねえいちか、あれ、映画の人?」

「映画じゃないよ。クラスメイト」

「でも、存在感が違うよね。
 颯真くん、走ると性格変わるんだ」

あゆも眼鏡を押し上げながら呟く。

「速すぎて、実在してるか疑うレベル」

いちかは、膝に手を当てて深呼吸した。

「速いって、こういうことなんだね」

彼の走りは“自慢”ではない。
誰かに勝ちたいわけでもない。
ただ、速度そのものに集中している。

その集中が、孤独と綺麗に重なる。

リレーのアンカーが颯真になると、
クラスは盛り上がりすぎて、女子が群がり始めた。

「颯真くん、すごい!タイム何秒!?」
「やばい、陸上部モテるー!」
「ねえ、もう一回お願い!」

颯真は、淡々とタオルで汗を拭くだけだった。
女子の声に反応せず、視線も合わない。

それなのに――余計に魅力的に見える。

いちかは、少し離れた場所で雑務をしていた。
補欠要員は、タイム表の整理、飲み物の管理、ボトルの回収。
自分が走らない代わりに、影で支える役目。

雑務テーブルにペットボトルが積み重ねられていく。
冷たい飲み物で濡れた手が、制服の袖に触ると少し冷たい。

「こういうの、縁の下って感じだね」

ほのかが言う。

「戦力外の仕事って大事だよ」

「言い方!」

「でも、役に立ってるのはいちか。偉い」

いちかは笑った。

「走らないぶん、せめて雑務くらいはね」

ストローを洗い、バケツに浸ける。
冷たい水に指先がしびれる感じ。
土と汗とスポーツドリンクの混じった匂い。
青春の匂いって、なぜか少し甘い。

練習が終わる頃、颯真がボトルを手に戻ってきた。
喉が渇いたのか、ラベルの部分を指でなぞる指が濡れている。

颯真は周囲の女子の声を一切気にせず、
静かにいちかの方へ歩いた。

そして、たった一言。

「……助かった」

いちかは顔を上げた。

「え?」

「ボトル、整理してくれてありがとう」

言葉は短い。
だけど、声が柔らかい。
目線はまっすぐではなく、少しだけ照れたように横に逸れている。

胸が跳ねた。

(話しかけられた)

(名前じゃなくても、声を向けてくれた)

声は心臓の奥に届いた。
いちかは慌てて笑顔を作る。

「いえ、雑務だけど……役に立ててよかった」

颯真はタオルで首筋を拭き、言った。

「走ってるとね、水が命なんだ」

いちかは頷く。

「わかる。水忘れると倒れちゃう。
 スポーツって、走りより補給が大事なんだって聞いた」

颯真は少し目を丸くした。

「わかる人、少ない」

「本の知識です」

二人で笑う……一瞬だけ。

その瞬間、グラウンドが静かに見えた。
ただの校庭なのに、二人だけの世界みたいに。

すると、女子たちが声を上げた。

「颯真くーん!写真撮らせて!」
「タイム聞きたいー!」

颯真は、チラリとも見ない。

「またあとで」

短い言葉だけ残し、
いちかの近くにペットボトルを置き、
走るフォームの確認へ戻っていく。

いちかは、手を胸に当てた。

ほんの一言で、世界の色が変わる。

ほのかがにやにや顔で近づいてくる。

「ねえ、聞こえちゃった」

「なにが」

「『助かった』って言われたやつ」

「ち、違うの。普通にお礼よ」

「普通に“恋のはじまり”なんだよ」

「きゃ♡言わないで!」

ほのかは両手を頬に当てて大袈裟に囁く。

「いちか、恋が走ってる。
 颯真の400mリレーより速い」

「走ってない!」

「走ってる!」

あゆまで参戦する。

「恋はね、胸が先に走る現象なの。
 本人が否定しても、身体が動く」

「理屈じゃない!」

「そう。それが恋」

いちかは、胸の奥が熱くなる。

(違う。違う。違う……はず)

だけど、あの声を思い出すと、呼吸が乱れる。

“助かった”

ただそれだけなのに、
なぜか、名前を呼ばれるより深く胸に届く。

その声が、図書室の静けさより、
放課後の雨の透明な傘より、
もっと直接的に心を揺らす。

いちかは、自分でも笑ってしまう。

(わたし、なにやってるの)

颯真が再びスタートラインに立つ。
彼の姿を見ながら、あゆが言う。

「集中してる人って、美しいでしょ」

「わかる」

「でもね、本当に美しいのは、
 集中しながら誰かをちゃんと見れる人」

いちかはふと呟く。

「颯真くんって、無表情だけど、ちゃんと人を見てる気がする」

ほのかが腕を組む。

「たぶん、人に期待してないだけ」

あゆも同意する。

「裏切られたこと、ありそう」

いちかは、少し胸が痛くなる。

(本を抱えていた指の優しさ。
 声が小さいのは、人に傷つけられた時間が長かったからかもしれない)

その推測が、勝手に胸を掴む。

夕日が校庭を少し赤く染める。
颯真の背中が金色に光って、
ひとりだけ透明な空気を纏っている。

いちかは、ひとりで呟いた。

「走る人の孤独って、美しい」

その声は風に溶けた。

練習が終わり、クラスの代表が解散する。
ほのかとあゆが帰っていく中、いちかは雑務の片づけを続けた。

バケツの水を捨て、ストップウォッチを先生に戻す。
グラウンドの土がスニーカーに残り、
足が少し疲れている。

片づけが終わるころ、颯真がもう一度近づいた。

ペットボトルを返し、静かに笑った。

「明日も、よろしく」

いちかは思わず返す。

「はい、任せてください」

その瞬間、胸の奥がふわっと膨らんだ。

これは、ただの雑務じゃない。
彼を支えている――って思えることが、
少し誇らしい。

颯真は、短く言う。

「ありがとう」

その声だけ残し、夜の風に消えていく。

いちかは、胸に手を当てた。

今日、心臓は走った。



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