『家の中の、いちばん遠い場所で』

春秋花壇

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第2話 『沈黙という名の暴力』

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第2話 『沈黙という名の暴力』

 朝の光は、どうしてこんなに残酷なんだろう。
 薄いカーテン越しの白い光は、台所の細かな埃まで照らし出す。
 夜の間に冷えきった空気が、床からじわじわと足先を冷やす。

 私はドリップポットを傾けた。
 お湯が豆に落ちると、ふわっと香りが立つ。
 深煎りの苦い匂い。
 昔、章夫が「朝はこれじゃなきゃな」と言っていた頃の匂い。

 「コーヒー、いる……?」

 声をかけてみる。
 ほんの少しだけ希望をこめて。

 しかし返事はなかった。

 リビングのテーブルでは、章夫が新聞を広げていた。
 ページをめくる紙の音がやけに大きい。
 カサッ……カサ……
 その音が私の心をざらつかせる。

 「……いらないなら、いらないって言ってくれればいいのに。」

 そう呟くと、手に持つカップが微かに震えた。
 章夫はその震えを知ってか知らずか、無表情のまま新聞に目を落としている。

 「おはよう。」
 意を決して声をかける。

 しかし章夫は、茶色の紙面から視線を上げなかった。
 見ようともしない。
 何かを言うそぶりもない。

 その沈黙。
 その“反応のなさ”が、
 まるで → 『お前など透明だ』 と宣告されているように感じる。

 私は心の中でつぶやいた。
 怒鳴られるより、無視のほうが苦しい。

 昔は、怒られることもあった。
 でも、怒鳴る声には“感情”があった。
 まだ繋がっている証拠だった。

 今は違う。
 冷たい無反応は、刃物のように静かに胸に刺さる。

 ◇

 「いってきます。」

 それも返事はない。
 章夫は新聞をめくる手を止めなかった。

 「……わかったよ。もう期待しない。」

 小さく言って靴を履く。
 玄関のドアを閉めるとき、わざと少しだけ強く閉めてしまった。
 バタン――。
 その音に反応したのかどうか、もう知りたくなかった。

 外に出ると、冬の風が頬を刺す。
 冷たいはずの風が、むしろ心地よく思えた。
 家の中よりも、外の空気のほうがずっと優しい。

 ◇

 パート先の事務所では、プリンターの音が響いていた。
 ウィーン……ガッ、ガッ……
 いつもなら気にならないその音が、今日はやけに大きく聞こえる。

 美沙が声をかけてきた。
 「理恵さん、今日も元気なさそうね。」

 私は笑おうとしたが、
 にこりともしなかった自分に気づいた。

 「……うちね、最近ずっと会話がないの。」

 「え、また? ていうか、それ何日も?」

 「何日も、じゃないの。何ヶ月も、よ。」

 美沙の顔から言葉が消えた。

 「怒鳴られるとかじゃなくてね……」
 その先に言葉を続けるのが苦しかった。

 美沙が待っている。
 だから私は、少しだけ胸の内を開いた。

 「無視されるの。ずっと。同じ家の中で。
  声をかけても……そこに“私”がいないみたいに。」

 美沙は、ゆっくり私の肩に手を置いた。

 「……それ、暴力だよ、理恵さん。」

 その言葉を聞いた瞬間、
 胸のどこかがぎゅっと縮んだ。

 “暴力”
 そんな大げさな……そう思いたかった。
 だけど、心はそれを否定しなかった。

 だって私は毎日のように、
 誰にも気づかれない刃で切りつけられていたのだ。

 美沙は続けた。
 「人はね、“存在を無視される”のがいちばん堪えるの。
  殴られるより痛いことだって、あるんだよ。」

 まぶたが熱くなり、私は慌てて目をそらした。

 泣くわけにはいかない。
 職場だし。
でも、心はもう限界だった。

 ◇

 仕事を終えて外に出ると、
 夕暮れの空がひどく寂しい色をしていた。

 オレンジでもピンクでもない。
 どこかくすんだ灰色。
 沈みきる前の太陽が、街を陰に染めていく。

 商店街のアーケードの下を歩くと、
 揚げ物の匂い、
 焼き魚の匂い、
 おでんの湯気……
 いろんな“家庭の匂い”が混ざり合って香ってくる。

 その匂いを吸い込むたび、胸がきゅうっと痛くなった。

 「……いいなぁ。」

 思わず声に出た。
 自分の家には、そのぬくもりがもうない。

 足が止まったのは、横断歩道の手前。
 赤信号がじんわりと滲んで見えた。

 「どうして……こんなに寂しいんだろう。」

 涙がひとつ、頬を伝って落ちた。
 冷たい風に触れた涙はすぐに乾いた。
 だけど、胸の奥の痛みは乾くどころか深くなる。

 青信号に変わっても歩けなかった。
 立ち尽くしたまま、小さく息を漏らす。

 「怒鳴ってでも、話してほしかった……」
 「無視されるの……ほんとうに、苦しい……」

 声は震えていた。
 人に聞かれたくなくて口を押さえたけれど、
 涙は止められなかった。

 夕暮れの街。
 人々の笑い声、レジ袋のカサカサいう音。
 そのすべてが、別の世界の話のように遠く聞こえた。

 家が、帰る場所じゃなくなっていく。
 帰りたくない家が、毎日そこにある。

 「どうすれば……いいんだろう、私。」

 声に混じる震えを、私は隠せなかった。

 夕焼けの下、
 赤く濁った空の色は、
 まるで“夫婦の間に引かれた赤い線”そのものだった。

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