『家の中の、いちばん遠い場所で』

春秋花壇

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第5話 『離婚届の白い紙』

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第5話 『離婚届の白い紙』

 土曜日の午前。
 冬の光は弱く、窓の外の空気は白く濁って見えた。

 理恵は、クローゼットの前でじっと立っていた。
 手には、古い旅行バッグ。
 しばらく使っていなかったせいで、ファスナーが硬い。

 ――帰ろう。
 実家に。

 そう決めたのは昨夜のことだった。
 眠れないベッドの上で、天井を見つめていると、
 突然“何か”が切れた。
 音もしない、小さな断裂。
 でも、その断裂が、三十年の重みを揺らした。

 「もう、無理なのかもしれない。」

 自分の声が、あまりにも小さく響いた。

 理恵は少し震える指で、バッグの口を開けた。
 生活に必要な最低限のものだけ入れる。
 下着、シャツ、化粧水。
 そして、娘のなおからもらった小さな写真。

 入れるたびに、布のこすれる音がする。
 シャ……シャ……
 その音が、なぜか胸を締めつけた。

 「ごめんね……なお。」

 呟くのは、娘への言葉なのか、
 自分の心への謝罪なのか分からなかった。

 ◇

 階段を降りると、
 居間には誰もいなかった。
 テレビもついていない。
 静かすぎる空間。

 その静けさに、もう限界だった。
 何をしていても“音”が返ってこない家。
 声をかけても“反応”が返ってこない夫。

 生きているのに、
 まるで気配がない生活。

 「……こんなの、家じゃない。」

 自分の呟きが、床でひどく響く。

 理恵はバッグを玄関に置くと、
 机の引き出しを開けた。
 中には書類が重ねてある。
 その一番下に――白い紙があった。

 離婚届。

 以前、喧嘩のあとに勢いで取ってきたものだ。
 書くつもりはなかった。
 書けると思っていなかった。

 でも今日は違う。

 理恵は、ペンを手に取った。
 インクが紙の上を滑る音が静かに響く。
 心臓の鼓動よりも、はっきり聞こえる。

 “佐伯理恵”
 その名前を書いている最中、
 手が少し震えた。

 「……ごめんね、章夫さん。」

 紙の端に涙が落ちるのを、
 彼女自身が驚いて見つめた。

 ◇

 ちょうどその時だった。
 二階から、ゆっくりと足音が聞こえた。

 ギシ……ギシ……

 章夫が起きてきた。
 寝癖のついた髪、しわの寄ったシャツ。
 重い足取りで階段を降りてくる。

 リビングに入った瞬間、彼の動きが止まった。
 机の上に置かれた“白い紙”に気づいたからだ。

 「……なんだ、これ。」

 声は低く、喉の奥で擦れたような音だった。

 理恵は返事をしない。
 ただ、バッグの取っ手を握りしめた。

 章夫は、紙に近づいた。
 手が震えている。
 読むのに時間がかかった。

 そして――

 「……冗談だろ。」

 その声には、怒りでも呆れでもない。
 怯えたような響きがあった。

 理恵は、ゆっくり向き直った。
 目には紅い跡。
 声は震えているが、決意だけは揺れていなかった。

 「冗談で持って帰る紙じゃないわ。」

 その一言が、家の空気を裂いた。

 章夫はしばらく動けなかった。
 紙を持つ手が、今にも崩れそうに震えていた。

 「……待てよ。
  なんで、こんな……いきなり……」

 「いきなりじゃない。」
 理恵の声が、静かに重なる。
 「ずっとよ。ずっと、ずっとよ。」

 章夫は唇を噛みしめた。
 だが言葉が続かない。
 喉の奥に、言い訳とも後悔ともつかない“何か”が詰まっていた。

 「話を……話をしよう。
  俺だって、最近……色々あって……」

 「色々あって、何?」
 理恵の声が震えた。
 「私に一度だって言ってくれた?
  何に悩んでるのか、苦しいのか。
  ねえ、一度でも話した?」

 章夫は目をそらした。

 沈黙。

 冷蔵庫のモーター音が、家の中で異様に響く。
 温度が一気に下がったような気がした。

 理恵は、バッグを持ち上げた。

 「私ね、あの日……ケーキを買って帰って……
  あなたが笑ってくれるかもしれないって……
  それだけで十分だったのに。」

 章夫は息を呑んだ。
 思わず一歩、彼女の方へ近づいた。

 「理恵……」

 「でもね、“いらん”って言われた時……
  ああ、この家には私は必要ないんだって……
  はっきり分かった。」

 「そんなことない!
  そんなことは……俺は……」

 章夫は言葉に詰まる。
 胸の奥から何かがせりあがってくるのに、
 どう言葉にしていいか分からない。

 理恵の目には涙が浮かんでいたが、
 もう溢れなかった。
 泣き疲れてしまったのだ。

 「……ごめんなさい。
  私、自分を守らなきゃいけないの。」

 その声の静けさが、
 逆に章夫の胸を強く打った。

 理恵は玄関に向かった。
 章夫が追おうとした瞬間、
 理恵は背を向けたまま言った。

 「行かせて。」

 その一言が、
 家じゅうの空気を凍りつかせた。

 ◇

 玄関の扉が、ゆっくり閉まる。
 カチリ。
 小さな音が家の中に響く。

 章夫は、その場に崩れるように座り込んだ。
 手の中には、白い離婚届。

 名前が書かれている。
 理恵の震える署名。
 そのインクが、やけに濃く見えた。

 「……なんで、こんな……俺が……」

 視界がにじむ。
 頬を涙が伝ったことに、自分で驚いた。

 涙をぬぐおうとして、
 手が止まった。

 手のひらの中の紙が、
 ひどく重く感じた。

 それは単なる紙ではなかった。
 三十年分の沈黙と、すれ違いの重みだった。

 章夫は、小さな声で呟いた。

 「嫌だ……こんなの……理恵……行くなよ……」

 だが、その声が届く相手は、
 もうこの家の中にはいなかった。

 その瞬間――
 読者も、家の空気も、章夫自身も、
 息をのんだ。

 白い紙が、
 夫婦二人の人生を断ち切る音を立てていた。

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