『家の中の、いちばん遠い場所で』

春秋花壇

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第10話(最終話) 『ゆっくりと同じ食卓へ』

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第10話(最終話) 『ゆっくりと同じ食卓へ』

 夜明け前の雨はすっかり止み、
 窓の向こうにはかすかな朝焼けが広がっていた。

 昨夜の嵐が嘘のように静かだ。
 濡れた地面から少しだけ蒸気が上がり、
 空気がゆっくり温まっていく。

 キッチンでは、味噌汁の鍋がぐつぐつと音を立てていた。
 理恵が、そっと蓋を開けると、湯気がふわりと顔を包む。

 昆布と鰹の匂い。
 わかめの青い香り。
 豆腐が揺れている白さ。

 そして――
 誰かのためを思って作る味噌汁の匂いだった。

 (今日から……また、始まるのかな。)

 胸の奥が、ほんの少しだけ震える。

 味噌汁を二つの茶碗にそっと注ぐ。
 その音すら優しく感じる朝だった。

 チリ……チリ……
 お湯が注がれる音が、静かな家に小さく響く。

 昨日までの家とは違う。
 空気が柔らかい。
 壁の色さえ明るく見える。

 それは――
 二人で迎えた夜の“涙”と“言葉”が、
 家のどこかに残っているからなのかもしれない。

 ◇

 リビングから、
 ゆっくりした足音が聞こえてきた。

 章夫が、寝癖を直しきれない髪のまま立っていた。
 昨日より少しだけ顔色がいい。

 「……おはよう。」

 その声は、小さい。
 でも、確かに“届く”声だった。

 「おはよう。」

 理恵が微笑むと、
 章夫はぎこちなく、しかし確かに椅子を引いた。

 いつもの席へ――

 いや、
 “かつてのいつもの席へ”。

 それは、
 何ヶ月も空席だった席。

 章夫は、座る前にしばらくその椅子を見つめていた。
 まるで、その場所がまだ“自分を許してくれるのか”を確かめているようだった。

 「……座っていいか。」

 理恵は静かに頷いた。

 「もちろんよ。」

 章夫は、そっと腰を下ろした。
 椅子が小さく軋む。
 その音は、まるで長い沈黙を破るように聞こえた。

 ◇

 食卓には、
 湯気をあげる二つの茶碗が並んでいる。

 昨日までとは違う。
 “端”ではない。
 “距離”を置いた配置でもない。

 並んで、隣り合っている。

 それを見た瞬間、
 章夫の喉がかすかに動いた。

 「……こうして並んでるの、久しぶりだな。」

 「ほんとにね。」

 理恵が味噌汁をひと口すする。
 温かい。
 体の奥まで染みていく。

 章夫も、茶碗を手に取った。
 湯気がゆらゆらと立ち上る。

 口に入れると、
 胸の奥がきゅうっと熱くなった。

 「……ああ。
  この味……俺、これが……」

 言葉がうまく続かない。
 その代わりに、
 小さな涙が目の端に浮かんだ。

 理恵は、何も言わずにただ味噌汁を口に運ぶ。
 それだけで十分だった。

 しばらく、
 二人の間を静かな温もりが流れ続けた。

 ◇

 ふいに、章夫が口を開いた。

 「理恵……」

 顔を上げると、
 その目はどこか迷い、どこか決意をにじませていた。

 「これから……やり直せるか?」

 その問いは、
 重くもあり、
 でもどこか優しくもあった。

 理恵は少し考え、
 ゆっくりと茶碗を置いた。

 「……やり直すって言われると、
  ちょっと、怖いかもしれない。」

 章夫は眉を寄せる。

 「怖い?」

 「うん。
  “前と同じに戻ること”を意味するなら……
  それは、無理だと思うから。」

 章夫の指が、テーブルの端で小さく震えた。

 だが、その続きの言葉は、
 彼の心をそっと掬い上げた。

 「でもね、
  ゼロから“始める”なら……
  私は、いいと思う。」

 「ゼロから……」

 「ええ。
  前の形に戻るんじゃなくて、
  これからの形を、一緒につくるの。」

 理恵は、そっと微笑んだ。

 「ゆっくりでいいの。
  急がなくていい。
  同じ食卓から、また始めましょう。」

 その言葉を聞いたとき、
 章夫の肩が、ふっと落ちて力が抜けた。

 ほっとしたように、
 そして少し泣きそうな声で、

 「……ありがとう。」

 と呟いた。

 その声は、
 昨日の“ごめん”とは違う。
 前を向こうとする人間の声だった。

 ◇

 朝の光が、窓辺に差し込む。
 湯気が、その光に照らされて白く輝く。

 その湯気の向こう――
 二人の未来が、ゆっくりと混ざり合うように
 静かに溶けていく。

 味噌汁の匂い。
 木製の箸の感触。
 小さな食卓。
 そして“並んだ二つの茶碗”。

 それらすべてが、
 確かに“再生の家”の始まりを告げていた。

 家は、静かに壊れる。
 でも――
 静かに再生もできる。

 その朝、
 二人は初めてそれを、
 同じ食卓で知ったのだった。

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