『家の中の、いちばん遠い場所で』

春秋花壇

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『役職を離れた夫の痛みを知る夜』

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『役職を離れた夫の痛みを知る夜』

 その夜、家の中はいつもより静かだった。
 湯気の立つ味噌汁を飲んで少し楽になった理恵は、夕食を終えたあと、一人でパソコンを開いた。

 章夫は風呂場にいる。
 湯船の中で、今日あったことを黙って溶かしているのだろう。

 (……今日のあの顔。朝より、もっと疲れてる気がした)

 検索窓に、指が吸い寄せられるように動く。

 「定年後 再雇用 ストレス」

 Enterキーを押した瞬間、画面にずらりと並んだ文字が目に飛び込んだ。

 『役職から外れるショック』
 『雑務の増加で自尊心の低下』
『かつての部下が上司になる苦しさ』

 クリックすると、専門家の記事が表示された。

 ——役割やアイデンティティの変化は、大きな喪失体験である。

 (喪失体験……)

 胸の奥がぎゅっと縮まった。

 続く文章を追う。

 ——長年誇りを持って働いてきた男性ほど、再雇用での立場変化に苦しむ。
 ——「必要とされていない」という誤解が深い傷になる。

 理恵の指先が震えた。

 (章夫さん……ずっとそんな気持ちだったの?)

 味噌汁の匂いがまだキッチンに残っている。
 その温かさが、胸の奥の痛みを少し和らげた。

 ページの下にスクロールすると、こう書かれていた。

 ——家族の共感と傾聴は、心の回復を大きく助ける。

 ——「あなたは価値がある」「あなたが必要だ」という言葉は、男性にとって非常に重要である。

 理恵は小さく息を呑んだ。

 (……私、言えてなかった)

 湯船の音が止んだ。
 風呂場の戸があき、白い湯気が廊下にふわりと流れてくる。

 足音。
 スリッパの擦れる音。

 章夫が、疲れた表情でリビングに戻ってきた。

 「……まだ起きてたのか」

 「うん。ちょっと調べものしてたの」

 「調べもの?」

 「あなたのこと……かな」

 章夫は驚いたようにまばたきをした。
 いつもなら照れ隠しに咳払いでもするところだが、今日はそれすらしない。

 理恵はパソコンの画面をそっと閉じた。
 光が消え、部屋の灯りが柔らかく二人の顔を照らす。

 「ねぇ……章夫さん」

 「ん?」

 「定年後……再雇用になってから、つらい?」

 章夫は、一瞬だけ目をそらした。
 まるで胸の奥の、誰にも触られたくない部分に触れられたように。

 「……別に。みんな、そういうもんだから」

 「そういうもん、なんだろうけど……」
 理恵はひざの上で手を組む。
 「あのね、さっき……ネットで調べたの。あなたみたいな状況の人のこと」

 章夫の目がゆっくり理恵に向けられた。
 その瞳の奥には、言葉にできない“何か”が揺れていた。

 「……どんなことが、書いてあった?」

 理恵は喉が少し渇くのを感じた。
 唾をのみ、そっと話し始めた。

 「長年頑張ってきた人ほど……役職から離れるのがつらいって。
  自分の価値がわからなくなったり、必要とされてない気がしたり……」

 章夫の肩が、小さく動いた。

 (あ……やっぱり、当たってる)

 沈黙が落ちる。
 でも、以前のような冷たい沈黙ではない。
 今は、言葉を探すための沈黙だ。

 章夫は、低く、ゆっくり口を開いた。

 「……正直言うと、つらい」
 「うん」
 「仕事に行けば……雑務ばかりだし、若いのが俺の監督役だ。
  あいつら、悪い奴じゃないんだが……どうしてもな」

 「立場が逆になったんだね」

 「そうだ。
  何十年もやってきて……急に“そこに立つな”って言われた気がしてな」

 声が震えていた。

 理恵がこんな“弱い声”を聞くのは、いつ以来だろう。

 「章夫さん……」

 理恵はそっと夫の手に触れた。
 温かい。
 でも、その温度の奥に、ずっと言えなかった寂しさがあった。

 「あなたね……」
 理恵は、涙を堪えながら微笑んだ。
 「家ではね、私の大事な人なんだよ。
  役職があってもなくても……あなたの価値は変わらないの」

 章夫は、ゆっくり息を吸った。
 その目が、少しだけ潤んでいた。

 「理恵……本当に、そう思ってくれてるのか」

 「うん。
  それに……あなたの力、家ではたくさん必要なの。
  味噌汁も、コーヒーも……あなたが淹れてくれると、私、嬉しいから」

 章夫は照れたように笑った。

 「……味噌汁なんて、簡単だぞ」

「簡単でもいいの。あなたが作ってくれたら、それでいいの」


 また静かになる。
 でもその沈黙は、あたたかい毛布のような沈黙だった。

 章夫が、ぽつりと言った。

 「……ありがとう、理恵。
  俺の……帽子に気づいてくれて」

 その言葉に、理恵の胸が大きく揺れた。

 「こちらこそ。
  私もね、あなたが私の“帽子”を見つけてくれた日、すごく救われたの」

 二人は、そっと寄り添うように座った。
 冬の夜は冷たいけれど、二人の間の空気は驚くほどあたたかい。

 湯気の残り香と、カップの底に沈んだコーヒーの香り。
 静かに時が流れる。

 章夫が小さく呟いた。

 「……仕事で何があっても、家に帰ったら……お前に会えれば、それでいい気がしてきた」

 「うん。
  私も……あなたにそう思ってもらえるように、ちゃんと向き合うよ」

 理恵は夫の肩にそっと頭を寄せた。
 肩は少しだけ震えていたが、それはもう弱さの震えではなかった。

 それは、
 “誰かに理解されている”という、安堵の震えだった。

 冬の夜――
 二人の家に、静かな再生の音が流れていた。

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