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プロローグ
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プロローグ
真冬のチューリヒ空港。
ガラス越しに見える滑走路は、白い粉砂糖のように薄く雪化粧していた。
空気は冴え冴えと冷たく、気管に刺さるような感触を運んでくる。
アリア・ヴァインは、黒いロングコートの襟を軽く立てながら、到着ロビーに足を踏み入れた。
ブーツの底が大理石をコツコツ鳴らす。そのリズムだけが、彼女の心の中で確かなものだった。
「アリアさま、こちらへ」
白髪の執務秘書ローザが深くお辞儀をした。
アリアは微笑むでもなく、ただ短く頷いた。
人々は彼女を知らない。
しかし、彼女の父の名は世界の金融市場に刻まれている。
亡くなったのは、つい三日前。
新聞には “スイスの伝説的投資家” と大きく書かれていた。
だが、アリアにとって父は “遠い空気” にしか感じなかった。
「お父様の遺言執行者と初会合です。ご準備はよろしいですか?」
ローザの声は柔らかい。
でもアリアの手の中で、携帯が冷えて震えている気がした。
「準備なんて、誰もできないわ」
アリアの声は、かすかすぎて雪のように溶けた。
会議室の扉が開くと、重く温かい空気が流れ込んだ。
革張りの椅子、分厚い書類、そして高級な木目のテーブルが威圧感を放っている。
コーヒーの香りが立ちのぼり、湯気がまるで逃げ道のない感情のように漂う。
白銀のヒゲをたくわえた弁護士が、静かに口を開いた。
「アリアさま。相続資産について正式にお伝えします」
ページをめくる音が、雪解けの川のように響いた。
「あなたは 総額約八億ドル 以上の資産を相続されます」
室内の空気が、ぴたりと止まった気がした。
アリアは瞬きを忘れた。
数字は、彼女の胸に入ってくる前に、天井に浮かんだ。
その桁は、もはや“お金”という感覚を越えている。
「八億……?」
ローザがそっと隣で肩に手を添えた。
「驚かれるのは当然です。ですが、これはすでに分散投資されている保有資産、企業株式、オフショア口座、ファンド持分を含む数字です」
弁護士は機械のように説明する。
アリアは深く息を吸った。
胸の内側に冷たい針を飲み込んだような感触が走る。
「父は……そんなに持っていたの?」
「持っていた、というより“守っていた”と言うべきでしょう。アリアさまの将来のために」
アリアは笑った。
しかしその笑みは、涙よりも脆い。
「将来って、どれだけ重くなればいいのかしら。息が苦しいわ」
弁護士は紙を整えた。
「この一年間だけで、世界中の大富豪から配偶者と子どもに相続された資産は 二千九百八十億ドル と報告されています。三十三%以上の増加です」
「ニュースでも見ました」
アリアは視線を落とした。
「でも、その数字を聞いた誰かが、『羨ましい』と言うたびに、私は少しずつ壊れる気がしました」
ローザが小さくうなずいた。
「あの金額の裏に、どれだけの孤独があるかは、外の人には伝わりません」
アリアはゆっくりため息を吐いた。
「私は父を、あまり覚えていないの。
思い出すのは──デスクに積み上がる書類と、閉じられたドア」
弁護士は沈黙した。
アリアは続ける。
「子供の頃、私はね、祝日のたびに願ったの。
“父が家にいて、パンケーキの香りで朝が始まりますように”って」
涙が一粒、指先に落ちた。
それは透明で、静かに震えていた。
弁護士は手元の資料を見つめながら、静かに言った。
「富は、あなたを守ります。
時間を買い、自由を与え、危険から遠ざけます」
アリアは微笑む。
「ええ、わかってる。
でも、富はね、ぬくもりは買えないの」
部屋の静寂に、暖炉の火が小さくパチパチと鳴った。
その音が、人の心臓の代わりをしているように感じられた。
弁護士はうつむき、声を落とした。
「正直に申し上げれば──大半の富裕層は相続税を恐れて国を去ります。
愛ではなく、制度に寄り添う生き方です」
アリアは目を閉じた。
「税制が、人生を決めるってこと?」
「ええ。富は風のように、低税率の国へ移動します。
庶民が国籍を変えるのは、夢物語ですが──富は旅券より軽い」
アリアは皮肉を込めた笑みを浮かべた。
「世界地図は、お金の気分で描きなおされるのね。
私はどこへ行けば、心が休まるのかしら」
ローザが言った。
「アリアさま。心は国境より重いものです。
逃げれば、重さはさらに増します」
アリアは少しの沈黙の後、ぽつりと尋ねた。
「私の富は──幸せを守ってくれると思います?」
ローザはアリアの手をぎゅっと握った。
「幸せは守られません。
幸せは、育てるものです」
弁護士が小さく目を伏せた。
「富裕層の子どもが最も苦しむ理由は、周囲が“持っているから大丈夫”と思うことです。
心配されない、理解されない、頼られない」
アリアは涙を拭った。
「それ、孤独って呼ぶのよ」
暖炉の火が、ふっと弱く揺れた。
アリアは窓の外を見た。
雪は静かに降り続け、街灯の明かりを丸く滲ませている。
その滲みが、まるで夜空の星座のように感じられた。
「私たちはみんな、別々の星に生まれてきたのね」
弁護士は首をかしげた。
「星?」
アリアは微笑んだ。
「親ガチャよ。
資産、学歴、健康、国籍、家庭の温度──
全部、最初の星に入っている。努力じゃ変えられないものがある」
ローザがそっと耳元で言った。
「でもね、アリア。
星は変えられなくても、軌道は選べます」
アリアはその言葉を胸に吸い込んだ。
少しだけ呼吸が軽くなった。
弁護士は書類にサインを促した。
アリアはペンを持つ手を止め、静かに言った。
「遺産は私を守れるかもしれない。
でも、私の人生を彩るものは──数字じゃないわ」
ローザがやさしく微笑む。
「そうですとも。
孤独は数字で埋まらない。
温度で埋まるのです」
外の雪は、まるで世界中の富裕層の涙を吸って、静かに降っていた。
アリアはペン先を紙に落とし、サインをした。
その瞬間、胸の奥に新しい孤独が沈んでいった。
けれど、同時に微かな希望も芽生えた。
「私、誰かと同じテーブルに座りたい。
国が違っても、資産が違っても、
同じ温度で笑える星座の中にいたい」
ローザがうなずいた。
「出会いは富ではなく、物語が引き寄せます」
アリアは窓を見つめた。
雪の向こう側、まだ見ぬ誰かが、別の星で震えている。
その誰かとは、まだ知らない──
インドで努力を重ねる少年かもしれない。
東京で電球の下で働く女性かもしれない。
富は星をくれる。
努力は軌道を描く。
友情は夜空に線を引く。
アリアは小さく呟いた。
「いつか、私の相続が、人の自由を守れたら──
それは、幸せを育てることになるのかしら」
ローザはその言葉に答えなかった。
ただ、アリアの手を包んだ。
暖炉の音が弾け、
その瞬間、プロローグが静かに幕を上げた。
真冬のチューリヒ空港。
ガラス越しに見える滑走路は、白い粉砂糖のように薄く雪化粧していた。
空気は冴え冴えと冷たく、気管に刺さるような感触を運んでくる。
アリア・ヴァインは、黒いロングコートの襟を軽く立てながら、到着ロビーに足を踏み入れた。
ブーツの底が大理石をコツコツ鳴らす。そのリズムだけが、彼女の心の中で確かなものだった。
「アリアさま、こちらへ」
白髪の執務秘書ローザが深くお辞儀をした。
アリアは微笑むでもなく、ただ短く頷いた。
人々は彼女を知らない。
しかし、彼女の父の名は世界の金融市場に刻まれている。
亡くなったのは、つい三日前。
新聞には “スイスの伝説的投資家” と大きく書かれていた。
だが、アリアにとって父は “遠い空気” にしか感じなかった。
「お父様の遺言執行者と初会合です。ご準備はよろしいですか?」
ローザの声は柔らかい。
でもアリアの手の中で、携帯が冷えて震えている気がした。
「準備なんて、誰もできないわ」
アリアの声は、かすかすぎて雪のように溶けた。
会議室の扉が開くと、重く温かい空気が流れ込んだ。
革張りの椅子、分厚い書類、そして高級な木目のテーブルが威圧感を放っている。
コーヒーの香りが立ちのぼり、湯気がまるで逃げ道のない感情のように漂う。
白銀のヒゲをたくわえた弁護士が、静かに口を開いた。
「アリアさま。相続資産について正式にお伝えします」
ページをめくる音が、雪解けの川のように響いた。
「あなたは 総額約八億ドル 以上の資産を相続されます」
室内の空気が、ぴたりと止まった気がした。
アリアは瞬きを忘れた。
数字は、彼女の胸に入ってくる前に、天井に浮かんだ。
その桁は、もはや“お金”という感覚を越えている。
「八億……?」
ローザがそっと隣で肩に手を添えた。
「驚かれるのは当然です。ですが、これはすでに分散投資されている保有資産、企業株式、オフショア口座、ファンド持分を含む数字です」
弁護士は機械のように説明する。
アリアは深く息を吸った。
胸の内側に冷たい針を飲み込んだような感触が走る。
「父は……そんなに持っていたの?」
「持っていた、というより“守っていた”と言うべきでしょう。アリアさまの将来のために」
アリアは笑った。
しかしその笑みは、涙よりも脆い。
「将来って、どれだけ重くなればいいのかしら。息が苦しいわ」
弁護士は紙を整えた。
「この一年間だけで、世界中の大富豪から配偶者と子どもに相続された資産は 二千九百八十億ドル と報告されています。三十三%以上の増加です」
「ニュースでも見ました」
アリアは視線を落とした。
「でも、その数字を聞いた誰かが、『羨ましい』と言うたびに、私は少しずつ壊れる気がしました」
ローザが小さくうなずいた。
「あの金額の裏に、どれだけの孤独があるかは、外の人には伝わりません」
アリアはゆっくりため息を吐いた。
「私は父を、あまり覚えていないの。
思い出すのは──デスクに積み上がる書類と、閉じられたドア」
弁護士は沈黙した。
アリアは続ける。
「子供の頃、私はね、祝日のたびに願ったの。
“父が家にいて、パンケーキの香りで朝が始まりますように”って」
涙が一粒、指先に落ちた。
それは透明で、静かに震えていた。
弁護士は手元の資料を見つめながら、静かに言った。
「富は、あなたを守ります。
時間を買い、自由を与え、危険から遠ざけます」
アリアは微笑む。
「ええ、わかってる。
でも、富はね、ぬくもりは買えないの」
部屋の静寂に、暖炉の火が小さくパチパチと鳴った。
その音が、人の心臓の代わりをしているように感じられた。
弁護士はうつむき、声を落とした。
「正直に申し上げれば──大半の富裕層は相続税を恐れて国を去ります。
愛ではなく、制度に寄り添う生き方です」
アリアは目を閉じた。
「税制が、人生を決めるってこと?」
「ええ。富は風のように、低税率の国へ移動します。
庶民が国籍を変えるのは、夢物語ですが──富は旅券より軽い」
アリアは皮肉を込めた笑みを浮かべた。
「世界地図は、お金の気分で描きなおされるのね。
私はどこへ行けば、心が休まるのかしら」
ローザが言った。
「アリアさま。心は国境より重いものです。
逃げれば、重さはさらに増します」
アリアは少しの沈黙の後、ぽつりと尋ねた。
「私の富は──幸せを守ってくれると思います?」
ローザはアリアの手をぎゅっと握った。
「幸せは守られません。
幸せは、育てるものです」
弁護士が小さく目を伏せた。
「富裕層の子どもが最も苦しむ理由は、周囲が“持っているから大丈夫”と思うことです。
心配されない、理解されない、頼られない」
アリアは涙を拭った。
「それ、孤独って呼ぶのよ」
暖炉の火が、ふっと弱く揺れた。
アリアは窓の外を見た。
雪は静かに降り続け、街灯の明かりを丸く滲ませている。
その滲みが、まるで夜空の星座のように感じられた。
「私たちはみんな、別々の星に生まれてきたのね」
弁護士は首をかしげた。
「星?」
アリアは微笑んだ。
「親ガチャよ。
資産、学歴、健康、国籍、家庭の温度──
全部、最初の星に入っている。努力じゃ変えられないものがある」
ローザがそっと耳元で言った。
「でもね、アリア。
星は変えられなくても、軌道は選べます」
アリアはその言葉を胸に吸い込んだ。
少しだけ呼吸が軽くなった。
弁護士は書類にサインを促した。
アリアはペンを持つ手を止め、静かに言った。
「遺産は私を守れるかもしれない。
でも、私の人生を彩るものは──数字じゃないわ」
ローザがやさしく微笑む。
「そうですとも。
孤独は数字で埋まらない。
温度で埋まるのです」
外の雪は、まるで世界中の富裕層の涙を吸って、静かに降っていた。
アリアはペン先を紙に落とし、サインをした。
その瞬間、胸の奥に新しい孤独が沈んでいった。
けれど、同時に微かな希望も芽生えた。
「私、誰かと同じテーブルに座りたい。
国が違っても、資産が違っても、
同じ温度で笑える星座の中にいたい」
ローザがうなずいた。
「出会いは富ではなく、物語が引き寄せます」
アリアは窓を見つめた。
雪の向こう側、まだ見ぬ誰かが、別の星で震えている。
その誰かとは、まだ知らない──
インドで努力を重ねる少年かもしれない。
東京で電球の下で働く女性かもしれない。
富は星をくれる。
努力は軌道を描く。
友情は夜空に線を引く。
アリアは小さく呟いた。
「いつか、私の相続が、人の自由を守れたら──
それは、幸せを育てることになるのかしら」
ローザはその言葉に答えなかった。
ただ、アリアの手を包んだ。
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