『親ガチャの星 — Billionaire Children』

春秋花壇

文字の大きさ

大中小

9 / 22

第6話　ハルカの成長と挫折

しおりを挟む

第6話　ハルカの成長と挫折

　
東京の冬は、都会の冷たさが骨に響く。
12月の夜風は、建物の隙間を縫って吹き抜け、住宅街の古いアパートの廊下にまで侵入してくる。
足首のあたりがゾワリと震え、靴下の薄さを責めたくなる。

ハルカは帰宅し、玄関の明かりをつけようとした。

パチン。

…点かない。

「ああ……切れたのか」

電球は一つ三百円。
それでも彼女には、今すぐ買いに行く勇気が出ない。
なぜなら、財布の中身は、家賃を払うかどうかの瀬戸際だからだ。

玄関は薄暗く、廊下の冷気が忍び込み、床から冷えが立ち上ってくる。
足首にしみる冷たさは、生活が体に触れてくるような感覚だった。

キッチンの照明が唯一の光だ。
湯気の立たない夜。
ハルカはダウンジャケットを脱がずにテーブルへ座った。

テーブルには請求書の山。
一番上には、家賃の通知が置かれていた。

「本日までに振込確認がない場合、延滞扱いとなります」

胸が縮む。

「大企業の仕事を取ったのに、支払いが遅れるって、どういう皮肉なのよ……」

ハルカは自分のノートパソコンを開いた。
メールには、クライアントの言い訳が並ぶ。

『請求書は受領済みです。年末進行で決裁が遅れています』
『担当者が休暇に入る可能性があり、振込は翌月になるかもしれません』

ハルカはスマホの画面を握りしめた。

「お願い…家賃の支払い、今日なんだよ……」

だが、誰も急いでくれない。
企業の振込は、個人の都合に合わせてくれない。

大企業は、支払う日を一日遅らせても痛くない。
個人は、支払いが一日遅れたら部屋を失う。

彼女はぼそりと呟いた。

「この差が、制度より怖い」

暖房は最低の温度。
電気代が怖くて、部屋は薄く寒い。

ハルカは足首を擦った。
肌が冷たい。
パーカーを着たまま、膝を抱える。

「請求書は提出した。仕事は仕上げた。
なのに、どうしてこんなに苦しいの？」

涙ではなく、静かな絶望が胸に沈んでいく。

机の端には、スーパーの割引弁当。
冷めて、油が固まりかけている。
電子レンジの音も、今日は聞きたくない。

ハルカは一口だけ食べ、すぐ箸を置いた。

「食欲より、これからどうするか、考えなきゃ」

冷蔵庫には水と卵が少し。
食費はもう削れない。

ハルカはパソコンに視線を戻す。
作業フォルダを開くと、自分が制作した広告デザインが並んでいた。
どれもクライアントの反応は上々。
コンペに勝ち、大企業案件を初めて受注した。

「結果は出した。私の仕事は間違ってない」

だが、現金はない。
努力とキャッシュフローは別の生き物だ。

ハルカは天井を見つめた。
玄関が暗い。
電球が切れたのは、ただの電球の寿命なのに、
まるで自分の体力が尽きたみたいに感じた。

「生活って、こんなに冷たいの？」

手帳を開く。
支払い予定、残高、クレジットの引き落とし。
全部が、黒いインクで押し寄せてくる。

「私は誰にも相続されない。
相続する資産なんて、なにもない」

言葉を吐きながらも、胸に小さな火が灯る。

「でも、自分に投資する」

その言葉は、寒さのなかで少しだけ暖かかった。

ハルカは財布を取り出した。
部屋の空気に凍った紙幣の匂い。

封筒に、4万円。

それは家賃の足しになるはずの貯金。

だが彼女は、別のノートを取り出した。
広告マーケティング講座の申し込み案内
受講費：38,500円。

「……馬鹿だよね、こういうの。
お金がない時に、講座なんて」

だけど、胸の奥が囁いた。

“生き延びたいなら、技術がいる。”

“支払いが来月でも、私の未来は今日からつくる。”

ハルカはパソコンで申し込みページを開いた。
クレジットカード番号を打ち込み、指が震える。

クリックする直前、深く息を吸った。

「怖い。でも、やる」

決済ボタンを押した。

部屋に、電子音が響いた。

『支払いが完了しました』

画面の文字が、白く光った。

同時に、通帳の残高が減った。

「はあ……」

ハルカは目を閉じた。

「来月が怖い。でも、後悔はしない」

その瞬間、足首の冷えが少し薄れた。

自分に投資する行為は、生活費の寒さより強かった。

彼女は湯を沸かした。
コンロの火が青く燃える。
湯気の立ち方が優しく、手のひらを温めてくれる。

コップにお茶を注ぎ、ふうっと息を吐いた。

「たくさんの人が、相続で未来を手に入れている。
でも、私は誰にも相続されない。
だから自分が未来を作るしかない」

ハルカは窓の外を眺めた。
夜の住宅街は静かで、遠くで車が一台走った。

「努力はすぐに結果にならない。
でも努力は、未来の味方をする」

玄関の暗さが、もう重荷に見えなかった。
暗闇は、まだ照らしていないだけだ。

足首はまだ冷たい。
だけど心の中に、小さな暖炉が灯っている。

紙切れみたいに薄い生活でも、
火は消えない。

ハルカは静かに宣言した。

「私は、努力の星を選ぶ。
たとえ相続ゼロでも、未来はゼロじゃない」

彼女は手帳に書いた。

『投資対象：自分』

ページが震え、文字が息を持っていた。

夜は深く、大地は冷たい。
でも、彼女は灯を持っていた。

そしてその灯は、孤独より強く、
生活より静かに、明日を照らしていた。

しおりを挟む