ギリシャ神話

創作

誓約の子 アガペ

誓約の子 アガペ

古代ギリシャのある時代、神々と人間の間には、信仰を超えた強い絆が存在していた。人間たちは神々に祈り、神々は彼らに豊穣と平和を授けた。しかし、愛と誓約の神であるアガペだけは他の神々と異なり、ひとり孤独に過ごしていた。アガペはただ無償の愛を授けることを使命とし、神々と人間の間で最も純粋な愛を守る存在だったのだ。

ある日、アガペは人間の村を訪れることを決意した。彼は人間がどのように愛し、絆を深めているのかを知りたかったのだ。すると、彼はひとりの青年と少女が互いに寄り添い、手を取り合っているのを目にした。二人はアンドロマスとリシアと名乗り、貧しいながらも献身的に支え合う日々を送っていた。アガペはその愛情に感銘を受け、「私の祝福を授けよう」とそっと誓約を交わした。

「お前たちの愛が永遠に続き、何があっても引き裂かれることがないようにしよう」とアガペは彼らの心に誓いを刻んだ。二人はその誓約に気づくことなく、互いの手を離さず日々を共にした。

しかし、そんな二人の愛を試すかのように、戦乱が訪れた。周囲の国が彼らの村を侵略し、アンドロマスは戦地へと駆り出されることになった。リシアは涙ながらに彼の無事を祈り、村で彼の帰りを待つ日々を送った。彼女の心は毎晩アンドロマスの身を案じ、眠れぬ夜を過ごした。

アンドロマスは戦地で苦境に立たされ、命の危険と常に隣り合わせで戦った。幾度も死の淵をさまようたびに、リシアへの愛が彼を支え、彼は命を繋ぎとめたのだった。その愛はアガペの誓約によって護られていたが、戦いが長引くにつれ、その誓約も次第に弱まり始めていた。神々の間でも「人間に与える愛の誓約は、神々の力を弱める」との声が上がり、アガペへの圧力がかかっていた。

ある夜、アガペは神々の会議に召集され、ゼウスからも直々に詰問を受けた。「なぜ、ただの人間に不死のような愛を授けたのか？それはお前の力を消耗させ、我々にも影響を及ぼす」。アガペは静かに答えた。「彼らは何も求めずに、ただ無償で愛し合っている。その純粋さこそが我々の存在意義ではないのか？」と。

しかし、ゼウスは冷ややかに言い放った。「人間の愛は儚く、我々の力を費やすほどの価値はない」。そうしてアガペに、彼の誓約を解き、愛の力を回収することが命じられた。アガペは深く苦悩し、涙を流したが、神々の命に逆らうことは許されなかった。

地上に降り立ったアガペは、アンドロマスとリシアの村を訪れた。アンドロマスは奇跡的に戦場から戻り、リシアと再会を果たしていた。しかしその瞬間、二人の間にアガペの影が忍び寄ると、彼の誓約が淡い光と共にほどけていった。二人は互いへの深い愛情を感じていたものの、その愛がかすかに薄れゆくのを無意識のうちに感じ取った。

リシアは不安にかられ、アンドロマスに言った。「あなたがここにいてくれるだけで幸せだけれど、何かが少しずつ遠ざかっていくような気がするの」。アンドロマスもまた、彼女を強く抱きしめながら、胸の奥に感じる虚無を否定できなかった。「リシア、君への愛が消えることはない。だが、何かが失われつつある…それを止める術がない」。

その言葉に、アガペは涙をこぼした。しかし、それを二人は知ることなく、ただ互いの心の変化に戸惑うばかりだった。

アガペはその後、神々の命に従い、二人から自らの誓約を解いた代償として神殿へ戻った。彼の存在は次第に消えゆき、やがて「無償の愛」の概念もまた、神々の記憶から薄れていった。人々の間には、互いを支え合い、愛する気持ちは残ったが、それは何か得るための愛へと変わり始めた。

リシアとアンドロマスの間にもいつしか愛情は減り、互いの心は次第に離れていった。しかし、彼らの子供たちは、不思議と深い絆で結ばれていた。アガペが二人に与えた愛のかけらは、彼らの子孫に受け継がれていたのだ。その子供たちが大人になり、家庭を築くたびに、アガペの誓約の断片が絶えることなく広がり続けたのである。

こうして、無償の愛は神々に忘れられたものの、人間の間では永遠に続く誓約として心の奥底に刻まれていった。