ギリシャ神話

春秋花壇

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創作

ムサカと不死の恋

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『ムサカと不死の恋』

むかしむかし、オリュンポスの神々が地上に降り、人と共に食卓を囲んでいた頃。
ギリシャの南に、ムサカという美しい娘がいた。

ムサカは、小さな村の料理人の娘。
父親譲りの手際と、母親譲りの味覚で、彼女の作る料理は村一番と言われた。
中でも評判だったのが、ナスとじゃがいも、挽肉を幾層にも重ねて焼いた「焼き重ね料理」――人々は、愛を込めてその名を「ムサカ」と呼ぶようになった。

だが、彼女自身の名もまたムサカだった。

「ムサカが作るムサカは、神々の食事さえ越える」とさえ囁かれた。

そしてその評判は、空の上の神々にも届いた。

ある日、オリュンポスの宴で、ワインの神ディオニュソスがぼやいた。

「この世のすべての喜びを知ったと思っていたが……“ムサカ”という料理を知らぬとは。これは一大事ではないか」

その言葉に、恋と美の女神アフロディーテが笑った。

「ならば、自ら地上に降り、その味を確かめてみては?」

ディオニュソスはその場で杯を置き、ふらりと風に乗って人の姿で地上へ降り立った。

ムサカの村に現れた男は、葡萄色の瞳にくすんだ金の巻き髪を持つ旅人だった。
名を「ニソス」と名乗り、ぶどう酒と甘い言葉をたずさえて、村に溶け込んでいった。

だが彼の目的はひとつ。

「この地に、神の舌をも魅了する料理があると聞いた。ムサカという名の娘が作るのだとか」

ムサカは、そんな噂に微笑んで応えた。

「それが私です。でも、私の料理なんて、神様にはかないません」

「ならば、試させてくれないか」

彼は軽く口笛を吹くように言った。

ムサカは一晩かけて、魂を込めて一皿のムサカを焼き上げた。

ナスの柔らかさと肉の旨味、シナモンの香る甘いトマトソース、そしてホワイトソースのなめらかさ――それは、まさに神に捧げるべき芸術だった。

「これは……」

ニソス――いや、ディオニュソスは、一口食べて言葉を失った。

その味は、彼の胸に忘れていた「温かさ」を思い出させた。

神々の饗宴にはない、地上の、素朴で真実の味。
それを作り出すこの娘の手には、神をも超える“愛”が込められていた。

彼は一瞬で、ムサカという娘に恋をした。

それから毎日、ディオニュソスは村に通い、ムサカと共に料理を作った。
彼女が教え、彼が笑い、時には畑でナスを育てた。

ムサカもまた、彼の無邪気で優しい心に惹かれていった。

ある夜、星の下で彼女はぽつりと聞いた。

「ニソスさん、あなたは……どうしてそんなに何でも知っているの?」

ディオニュソスは答えなかった。ただ、夜空を見上げてつぶやいた。

「私はね……本当は、神なんだ」

「ふふ、それは冗談?」

「……いや、君にだけは、本当のことを言っておきたくて」

真実を聞いたムサカは、しばらく何も言わなかった。

人と神は、愛してはいけない。

それはギリシャ神話に幾度も繰り返された、禁断の掟だった。

「……じゃあ、いつか、天に帰っちゃうの?」

ムサカの問いに、ディオニュソスは苦しそうにうなずいた。

「神である限り、私は永遠を生きなければならない。君と同じ時を歩めないんだ」

翌日、ムサカは一人で厨房にこもった。

彼に食べてもらう、最後の料理を作るために。

ナスも、じゃがいもも、トマトソースも、すべて自ら手で仕込んだ。
だが、一つだけ違った。

その料理には、ある薬草がほんの少しだけ入っていた。
地上と天をつなぐ、不死の力をもつと言われた「ハデスの露」。

それは、人間を神にする代わりに、感情を奪うと伝えられていた。

ムサカはそれを、自分ではなく――ディオニュソスのムサカに入れたのだった。

「これで……あなたはもう、神ではなくなる。私と同じ、人になる」

ディオニュソスは驚き、そして怒った。

「何をした!?これは――!」

「お願い、怒らないで。あなたに不死を捨ててほしいなんて、本当は思ってない。でも……私は、あなたがこの村で“ニソス”として生きてくれるなら、もう他に何も望まないの」

ムサカは泣きながら微笑んだ。

「もう神じゃなくてもいい。感情が消えても、そばにいてくれたら、それで――」

ディオニュソスは、彼女の頬に触れた。

その目には、まだ確かに涙が浮かんでいた。

「馬鹿な女だ。お前は……」

「ごめんなさい。これが、私の最後のムサカ」

彼女は彼に背を向け、静かに去っていった。

だが――
その日から、天にはぶどうの香りが戻らず、オリュンポスの宴も沈黙した。

ディオニュソスは、神の力とともに感情も半ば失いながらも、地上に残った。
感情の代わりに、記憶だけが彼の胸に灯り続けた。

彼が口にした最後の「ムサカ」の味だけが、彼の心に、愛を教えた証として残っていた。

そして彼は、ムサカのそばで静かに暮らした。
時には、感情のない顔で、彼女の作る料理をじっと眺めながら。

ムサカはそれでよかった。
彼がそばにいる限り、それが人であっても神であっても、彼女の愛に変わりはなかった。

今でもギリシャの家庭でムサカが焼かれるたびに、ふわりと漂う香りの奥には――
ある神と人の、不器用で深い愛の記憶が、そっと忍び込んでいるという。

「恋は、時に味になる」

それが、料理人ムサカが地上に残した、最後の神話であった。
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