ギリシャ神話

春秋花壇

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創作

スブラキと戦神の花嫁

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『スブラキと戦神の花嫁』

むかしむかし、神々がまだ地上と天界を自由に行き来していた時代のこと。

戦の神アレストールは、血と鉄の香りをまとっていた。彼はアレスの甥にあたり、勝利をもたらす者として軍神の名を知られていたが、神々の宴に出ることも、愛を語ることもせず、いつもどこか冷たい風のようだった。

ある日、アレストールは退屈しのぎに地上へ降りた。戦のない時代が続き、彼の剣も盾も眠りかけていた。情熱の火を忘れかけていたそのとき、ふと鼻をくすぐる香ばしい匂いがした。

「……なんだ、この香りは?」

立ち寄ったのは、アテナイのとある市場の片隅。小さな屋台で、火を囲んで肉が焼かれていた。香辛料とオリーブオイルの香りが絡み合い、人々が列を成している。

「お客さん、スブラキ一丁、焼きたてよ!」

その声の主は、屋台を切り盛りする若い娘だった。名をイリスという。大地の恵みに感謝を捧げ、祖母から受け継いだレシピで一本一本、串に思いを込めて焼く娘だった。

アレストールは一本の串を手に取り、無言で口にした。

……ジュワッと広がる肉汁、香ばしい焼き目、ハーブの清涼感――
神々の蜜酒にも劣らぬ、魂を呼び覚ますような味だった。

「……これは、戦場の火よりも熱いな」

彼は思わず呟いた。

イリスは笑った。

「スブラキはね、心を焦がす火の味なの。どんな神様だって、恋しちゃうかもよ?」

そのとき、彼の胸に生まれて初めて**「焦がれる」**という感情が灯った。

アレストールはその日から、毎日のようにスブラキを食べに来た。
神とバレぬよう、旅人の姿で、無口に座って串をかじる。
イリスはいつも笑顔で言った。

「今日はラムにしてみたの。戦う男には、ちょっと野性味が似合うから」

彼女の冗談に、アレストールははじめて小さく笑った。
戦神が笑った。それだけで市場の風が、少しやわらいだように思えた。

だが神の恋は、長くは続かぬ運命だった。

ある夜、彼の正体が神々の間で囁かれはじめた。

「戦の神が、地上の娘に恋をしているらしい」

アフロディーテが噂を拾い、ゼウスの耳にまで届くと、オリュンポスの掟が持ち出された。

「人間との恋は禁ず。特に、戦神の血を引く者が、愛に迷うことは許されぬ」

アレストールは天上へ呼び戻された。

イリスは、ある日を境に彼が来なくなったことに気づいた。

それから何日も、串に火をくべながら、彼の横顔を思い出していた。

「……まさか、本当に神様だったの?」

彼女は信じたくなかった。けれど、あの瞳の奥に燃えていた炎は、ただの旅人のものではなかった。

数日後、イリスの夢の中にアレストールが現れた。

「イリス、君を迎えに来た。だが、天上へは連れて行けない。私が神をやめよう。武器を捨て、君とともに地上で生きよう」

「……でも、あなたの炎は、戦場のためにあるものでしょう?」

「いや、今は、君が灯したスブラキの火の方が熱い」

そう言って彼は、剣を抜いて真っ二つに折り、オリュンポスを去った。

その剣の破片は、後に“オリハルコンの鉄串”と呼ばれ、料理神エルミスの手でスブラキ用の神器として祀られるようになる。

アレストールは神の力を捨て、イリスの隣に立った。
彼は串を焼き、客を笑わせ、屋台の下で人生という戦場に立ち続けた。

二人の焼くスブラキは、市場でいちばんの行列を生み、やがて「神の味」として伝説になった。

人は知らない。

その香ばしさの裏に、かつて戦の神が見つけた、ひとつの恋の味が隠されていることを。

今でも、ギリシャの屋台でスブラキを食べると、なぜか胸がじんと熱くなる。

それはきっと、神が武器を捨ててまで守りたかった、ひとつの火のぬくもり。

そして、串の上に交差する肉と炎の記憶――
それこそが、「スブラキの神話」の真実なのだ。
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