ギリシャ神話

春秋花壇

文字の大きさ
1,350 / 1,436
創作

星海の逢瀬:オリオンとアルテミスの約束

しおりを挟む
星海の逢瀬:オリオンとアルテミスの約束

深遠なる夜の帳が、エーゲ海にゆっくりと降りてきた。地中海の潮風が、ゼウス神殿の白い石柱を撫で、微かにレモンの香りを運んでくる。今日は年に一度、織姫と彦星が天の川を渡り、再会を果たすという、遠い東の国の祭りの日。だが、このギリシャの地にも、星に引き裂かれた恋人たちの物語があった。

月の女神アルテミスは、今日の夜は殊更にその心を鎮めることができなかった。彼女は狩りの女神であり、その心は常に冷静で研ぎ澄まされているはずだった。しかし、胸の奥では、まるで潮の満ち引きのように、抑えきれない感情の波が押し寄せては引いていく。

彼女の愛する者、偉大なる狩人オリオンは、今、星々の間で輝いている。彼の星座は、冬の夜空に最も堂々たる姿を見せるが、夏が訪れると共に、その姿は地平線の下へと沈んでいく。七月七日のこの夜は、彼が最も遠く、最も見えなくなる日だった。アルテミスは、天の川のきらめきが、まるで彼らの隔たりを象徴しているかのように感じていた。その光は、美しくも、残酷な輝きを放っていた。

アルテミスの指先が、持っていた弓の弦を微かに弾いた。木製の弓の冷たい感触が、彼女の焦燥感を少しだけ和らげる。遠い昔、二人は互いを深く愛し合っていた。オリオンは、力強く、勇敢で、森の獣たちを追いかける彼の足音は、大地を震わせるほどだった。彼の放つ矢は、風を切り裂き、獲物を正確に仕留める。彼の灼熱のような情熱は、常に冷静なアルテミスの心を、初めて燃え上がらせた。彼が獲った鹿の温かい血の匂い、焚き火の煙が目に染みる香り、そして彼の力強い抱擁の温かさ。その全てが、アルテミスの五感に深く刻み込まれていた。

しかし、彼らの愛は、神々の嫉妬と運命の悪戯によって引き裂かれた。太陽神アポロンの策略によって、アルテミスは自らの手でオリオンを射殺してしまうという悲劇に見舞われたのだ。その時の矢の感触、オリオンの体から流れ出る温かい血の匂い、そして彼の絶命の叫びが、今でもアルテミスの耳の奥に木霊する。あの時の絶望感と、自責の念は、どんなに時が経っても消えることはなかった。彼の体が冷たくなっていく感覚、もう二度と彼の温もりを感じられないという喪失感が、アルテミスの心を深く凍らせていった。

ゼウスは、娘の嘆きとオリオンの偉大な功績を憐れみ、彼を天に上げ、星座とした。こうしてオリオンは、夜空の守護者となった。しかし、その輝きは、アルテミスをさらなる苦悩に陥れた。冬には彼の姿を毎日見ることができても、夏になると、彼は姿を隠してしまうのだ。特にこの七月七日の夜は、彼が最も深く、地平線の下へと潜り込んでしまう日だった。

「なぜ、我らはかくも引き裂かれねばならぬのか…」

アルテミスは、冷たい神殿の石床に膝をつき、天を仰いだ。彼女の瞳には、星々が涙のように揺らめいていた。女神としての威厳を保ちながらも、その心は、一人の女としての深い悲しみに打ち震えていた。頬を伝う涙は、冷たく、そして塩辛かった。

その時、遠くの森から、柔らかな笛の音が聞こえてきた。それは、牧神パンが奏でる、心安らぐ調べだった。その音色は、アルテミスの凍りついた心を、ゆっくりと解きほぐしていくようだった。彼女は、目を閉じた。

(オリオン…)

心の中で、彼の名を呼ぶ。すると、彼女の心の中に、彼との思い出が鮮やかに蘇ってきた。共に森を駆け巡った喜び、獲物を仕留めた時の達成感、そして焚き火を囲んで語り合った、穏やかな時間。彼の笑顔、彼の声、彼の温もり。その全てが、アルテミスの心を満たしていく。

「貴方は、私の中に生きている…」

アルテミスは、ゆっくりと立ち上がった。彼女は、弓を再び手に取った。冷たい弓の感触が、彼女の決意を固める。彼女は、オリオンとの再会を、ただ待つだけではないと決めた。彼女は狩りの女神、そして月の女神。彼女にできることがあるはずだ。

アルテミスは、自身の神力を集中させた。彼女の指先から、銀色の光が放たれ、弓の弦に吸い込まれていく。弓から放たれたその光は、一本の矢となり、夜空へと一直線に駆け上がった。

その矢は、天の川のほとりをなぞるように、夜空を疾走した。そして、夏の間、地平線の下に隠れているはずのオリオン座の、最も明るい星へと吸い込まれていった。

その瞬間、遠く離れた星々の間で、オリオンは、自身の体に温かい光が満ちていくのを感じた。それは、まるでアルテミスの体温が、直接彼に触れているかのようだった。彼は、自身の周りの星々が、かつてないほど強く輝きを放っていることに気づいた。その輝きは、単なる星の光ではない。アルテミスの愛情と、彼女の呼び声が、そのまま光となって、彼に届いたのだ。

「アルテミス…!」

オリオンの心の奥底から、彼女の名が響き渡る。彼は、遠く、地上のエーゲ海を見つめた。雲に覆われていたはずの空の、ほんの一部分だけが、まるで彼らの呼び声に応えるように、ゆっくりと開いていく。その隙間から、アルテミスの放った銀色の矢の軌跡が、微かに、しかし確かに見えた。

それは、彼らの愛が、時と距離を超えて繋がっていることを示す、確かな証だった。

アルテミスは、自身の放った矢が、夜空に確かにオリオンの光を引き寄せたのを感じた。その光は、弱々しいものではなく、以前よりもさらに力強く、そして穏やかな輝きを放っていた。それは、彼女の保護力と愛情が、オリオンの力強さと不屈の精神と結びついた証だった。

彼女は、冷たい石床の上に、そっと座り込んだ。しかし、その顔に、以前のような悲しみの色はなかった。瞳は、穏やかな光を宿している。彼女は、自分の中に、男性性と女性性の両方の側面が、バランスを取り始めているのを感じていた。

強さだけでは、何も救えない。冷徹な理性だけでは、孤独に苛まれる。しかし、優しさや思いやりだけでも、大切なものを守ることはできない。勇気と愛情、実行力と忍耐。その両方が揃って初めて、真の力となるのだ。

アルテミスは、胸の奥で、確かな温かさを感じていた。それは、オリオンの存在だけでなく、彼女自身の心の調和が生み出した温かさだった。彼女は、深呼吸をした。潮風の香りが、以前よりも清らかに感じられた。

七月七日の夜は、星々が輝き、恋人たちが遠く離れていても心を通わせる日。アルテミスとオリオンの物語もまた、その星の光のように、人々の心に語り継がれていくことだろう。

夜が深まり、空に唯一開いた隙間から、オリオン座の星々が、まるでアルテミスを見守るかのように瞬いていた。その光は、遠く離れた恋人たちを結びつける、希望の光だった。そして、それは、アルテミス自身が、自分の中の全てを受け入れ、調和させたことで生まれた、新しい輝きでもあった。

夜空の星々が、まるで彼らの未来を祝福するように、静かに、そして美しく輝き続けていた。

【了】
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

麗しき未亡人

石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。 そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。 他サイトにも掲載しております。

処理中です...