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第一章
客の正体
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とはいえ現在の市場価値としては無いも同然だ。ブランドンは悩みつつ、入手にかかった費用の倍の値段をつけることにする。それは生き血を吸うとまで言われるがめついクーパー商会の代表としては非常に珍しい、利潤の浅い取引だ。だが、ブランドンは満足していた。今後の付き合いもあるから勉強してやるのだと、例外的な値付けを自分に言い訳するほどに。
本人は決して認めないだろうが、この客に対してブランドンは一目置いていたのだ。いや、むしろ称賛に近い感情を抱き、通常よりも大幅に値引いた金額を提示しようとしたとき、一目置かれたほうの客から思いもよらない爆弾が投下された。
「だが、これは購入できないな」
ぽかん、と目と口を開けたブランドンを、ミスター・Aは横目で見下ろした。
「な、な、なぜです!? だってあなた今、いい絵だと仰いましたよね!?」
「ああ、言ったな」
「お気に召したとも言いました!!」
「言ったとも」
「ではなぜ!?」
悲鳴に近い非難を、ミスター・Aは一言で断ち切った。
「これによく似た絵を、ポートマンが所有していたはずだからだ」
ピタリ、とブランドンは口を閉ざした。
トビー・ポートマンはブランドンの商売敵だった。年齢は来年五十になるブランドンよりも二十歳近く年上だろう。
金が全てだと考えるブランドンとは正反対の、真っ当な取引を理念としていたのがポートマンだ。だが寄る年波には勝てず、つい先日店をたたみ故郷へ帰ったはずだった。
「ポートマンの人柄を慕う従業員たちは随分引き留めたようだが、あの頑固爺は一切聞き入れなかったそうだ。本来なら優秀な者に店を継がせるところを、商売敵から販売ルートを横取りされてしまってはそれもできない、せめて利益が出ているうちに店を清算し、皆に退職金を支払いたいと言って」
妙に鋭く光る青い目で見据えられ、ブランドンの背に冷たい汗が流れる。
「父の代からポートマンとは付き合いがあってな。俺が出資してやる、その商売敵もつぶしてやるといくら言っても、商売人として限界を感じたのだと頑として首を縦に振らなかった。その頑固爺が餞別にと、俺に贈るつもりだった絵が――」
「こ、この絵だと仰るのですか」
「いや」
ミスター・Aは形のよい唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、薄く笑んでみせた。
「その絵はどうやら引っ越しの荷物に紛れてしまったらしい。見つかったら送って寄越すと言っていたよ。他にもいくつか見当たらない品物があるようだが、ポートマンも年だから仕方がないな。口さがない連中の中には、店をたたむどさくさで誰かが盗んだのではないかと言う者もいたが、それはまあ……ただの憶測だ」
ブランドンの全身からどっと汗が噴き出した。
商売に関する考え方の違いから、ブランドンはポートマンを嫌っていた。販売ルートを横取りしたのも、店をたたむために人が多く出入りするポートマンの店に自分の手の者を送り込み、盗みを働かせたのも全部ブランドンだ。ネヴィルの絵を入手したときの費用というのは、手下に支払った盗みの報酬のことである。
「これで分かっただろう。ポートマンの所有していた絵が誰の作かは聞いていないが、似たような絵を二枚は必要ない。これを買った後でポートマンから『紛失した絵が見つかった』と送ってこられては困るからな。……もしくは、盗まれた絵が発見された、という連絡がくる可能性も否定できないが。ブランドン、お前もそう思うだろう」
「はヒぃっ!? は、あ、左様でございますね。では、この絵はご購入にならないということで。お目障りでございましょうから、バックヤードへ片付けておきましょう」
「そうしてくれ。だが、もしポートマンの絵が見つからなかったら買う気になるかもしれない。それは売らずに取っておいてくれないか」
「…………承知、いたしました」
ぐぬぬ、となりながらも、ブランドンは頷くしかなかった。
全部バレている……! この客が自分を告発しない理由が何かは分からないが、下手を打てば手が後ろに回りかねない。
ハンカチで額の汗を拭いながら、ブランドンは別の嫌な予感で更に汗をかいていた。
――父親の代からポートマンと付き合いのある富豪。
ポートマンは手堅い商売をしていたが、さほど店の規模は大きくなかった。高位貴族へも直接商品を紹介できるブランドンとは違い、取り引きしていたのは下位、せいぜいよくて子爵家までの中位貴族だ。
となると、ミスター・Aの正体は。
頭に一人の人物が思い浮かんだが、ブランドンは素早くそれを打ち消した。まさか。ミスター・Aがあの方であるはずがない。そもそも、下位とはいえあんな凄い家にポートマンが出入りしていたなど聞いたこともないのだから。
あの、超弩級の大金持ち。呼吸するだけで資産が刻刻と膨れ上がるとまで言われる、世界でも類をみないほどの大富豪。
爵位は低いが、それは歴代当主が貴族社会の付き合いを煩わしく思うからだと聞いたことがある。王家の資産を遥かにしのぐ財――国家予算の数倍、もしかしたらそれ以上――の持ち主で、望みさえすれば陞爵し地位だろうが爵位だろうが、いや王位ですらその気になれば彼の手の中だと噂されるほどなのに、全く興味を示さないという男。
はは……と知らず軽い笑いが漏れた。
そんな、馬鹿な。だが考えれば考えるほど、その富豪と目の前にいる男とが一致してしまう。
貴族の集う夜会には滅多に出席しないため、あまり顔は知られていない。だが話によると、背が高く黒髪で、青い瞳をした美丈夫だという。
本人は決して認めないだろうが、この客に対してブランドンは一目置いていたのだ。いや、むしろ称賛に近い感情を抱き、通常よりも大幅に値引いた金額を提示しようとしたとき、一目置かれたほうの客から思いもよらない爆弾が投下された。
「だが、これは購入できないな」
ぽかん、と目と口を開けたブランドンを、ミスター・Aは横目で見下ろした。
「な、な、なぜです!? だってあなた今、いい絵だと仰いましたよね!?」
「ああ、言ったな」
「お気に召したとも言いました!!」
「言ったとも」
「ではなぜ!?」
悲鳴に近い非難を、ミスター・Aは一言で断ち切った。
「これによく似た絵を、ポートマンが所有していたはずだからだ」
ピタリ、とブランドンは口を閉ざした。
トビー・ポートマンはブランドンの商売敵だった。年齢は来年五十になるブランドンよりも二十歳近く年上だろう。
金が全てだと考えるブランドンとは正反対の、真っ当な取引を理念としていたのがポートマンだ。だが寄る年波には勝てず、つい先日店をたたみ故郷へ帰ったはずだった。
「ポートマンの人柄を慕う従業員たちは随分引き留めたようだが、あの頑固爺は一切聞き入れなかったそうだ。本来なら優秀な者に店を継がせるところを、商売敵から販売ルートを横取りされてしまってはそれもできない、せめて利益が出ているうちに店を清算し、皆に退職金を支払いたいと言って」
妙に鋭く光る青い目で見据えられ、ブランドンの背に冷たい汗が流れる。
「父の代からポートマンとは付き合いがあってな。俺が出資してやる、その商売敵もつぶしてやるといくら言っても、商売人として限界を感じたのだと頑として首を縦に振らなかった。その頑固爺が餞別にと、俺に贈るつもりだった絵が――」
「こ、この絵だと仰るのですか」
「いや」
ミスター・Aは形のよい唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、薄く笑んでみせた。
「その絵はどうやら引っ越しの荷物に紛れてしまったらしい。見つかったら送って寄越すと言っていたよ。他にもいくつか見当たらない品物があるようだが、ポートマンも年だから仕方がないな。口さがない連中の中には、店をたたむどさくさで誰かが盗んだのではないかと言う者もいたが、それはまあ……ただの憶測だ」
ブランドンの全身からどっと汗が噴き出した。
商売に関する考え方の違いから、ブランドンはポートマンを嫌っていた。販売ルートを横取りしたのも、店をたたむために人が多く出入りするポートマンの店に自分の手の者を送り込み、盗みを働かせたのも全部ブランドンだ。ネヴィルの絵を入手したときの費用というのは、手下に支払った盗みの報酬のことである。
「これで分かっただろう。ポートマンの所有していた絵が誰の作かは聞いていないが、似たような絵を二枚は必要ない。これを買った後でポートマンから『紛失した絵が見つかった』と送ってこられては困るからな。……もしくは、盗まれた絵が発見された、という連絡がくる可能性も否定できないが。ブランドン、お前もそう思うだろう」
「はヒぃっ!? は、あ、左様でございますね。では、この絵はご購入にならないということで。お目障りでございましょうから、バックヤードへ片付けておきましょう」
「そうしてくれ。だが、もしポートマンの絵が見つからなかったら買う気になるかもしれない。それは売らずに取っておいてくれないか」
「…………承知、いたしました」
ぐぬぬ、となりながらも、ブランドンは頷くしかなかった。
全部バレている……! この客が自分を告発しない理由が何かは分からないが、下手を打てば手が後ろに回りかねない。
ハンカチで額の汗を拭いながら、ブランドンは別の嫌な予感で更に汗をかいていた。
――父親の代からポートマンと付き合いのある富豪。
ポートマンは手堅い商売をしていたが、さほど店の規模は大きくなかった。高位貴族へも直接商品を紹介できるブランドンとは違い、取り引きしていたのは下位、せいぜいよくて子爵家までの中位貴族だ。
となると、ミスター・Aの正体は。
頭に一人の人物が思い浮かんだが、ブランドンは素早くそれを打ち消した。まさか。ミスター・Aがあの方であるはずがない。そもそも、下位とはいえあんな凄い家にポートマンが出入りしていたなど聞いたこともないのだから。
あの、超弩級の大金持ち。呼吸するだけで資産が刻刻と膨れ上がるとまで言われる、世界でも類をみないほどの大富豪。
爵位は低いが、それは歴代当主が貴族社会の付き合いを煩わしく思うからだと聞いたことがある。王家の資産を遥かにしのぐ財――国家予算の数倍、もしかしたらそれ以上――の持ち主で、望みさえすれば陞爵し地位だろうが爵位だろうが、いや王位ですらその気になれば彼の手の中だと噂されるほどなのに、全く興味を示さないという男。
はは……と知らず軽い笑いが漏れた。
そんな、馬鹿な。だが考えれば考えるほど、その富豪と目の前にいる男とが一致してしまう。
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