【完結】ハリントン男爵アレクシス・ハーヴェイの密かな悩み

ひなのさくらこ

文字の大きさ
7 / 60
第一章

二つの取り引き

しおりを挟む
 やはり、この客は特別だ。おそらく商売人としての自分が、一生に一度出会えるかどうかというほどの。

 ジーン……としていたブランドンだったが、あにはからんや。ミスター・Aは兄へ手を延ばすどころかそのハンカチで自分の鼻を覆い、一言だけ言ったのだ。

「臭うな」
「何でですか!!」

 ブランドンはついに喚いた。

「臭いのはあなたのせいですよ! 支度が必要だと言ったのに、すぐに連れて来いと言ったのはあんたでしょうが!!」

 豪華に設えた秘密の部屋の中で、ブランドンの喚き声が響きわたる。ミスター・Aはハンカチで鼻を覆ったまま軽く顎を引いた。

「別に文句を言っている訳じゃない」
「そういう問題じゃないですよ! こっちの手順を無視して勝手なことばかり言って! 感動した私の心を返してください!!」
「何をそんなに怒っているんだ」

 喚きすぎて肩で息をするブランドンを尻目に、ミスター・Aは実に優雅に立ち上がった。

「で、どうするんです? 買うんですか買わないんですか」 

 最早客に対する態度ではなくなっているが、ブランドンにはもうどうでもよかった。早く取り引きを終わらせて、この客にはさっさとお帰りいただきたい。
 ミスター・Aは立ったまま、舞台の上で座り込む兄弟をじっと見ている。本来なら風呂に入れ全身ピカピカに磨き上げて、念入りにグルーミングしたうえで客の前へ連れ出すべき商品だ。うす汚れ異臭を放ったままの状態では、客の購買意欲も落ちるだろう。だからブランドンは全く期待せずに、あくまでも形式だけのつもりで尋ねたのだったが。

「……いいだろう。いくらだ」
「へ」

 間の抜けた声を出したブランドンは、客が示した購入の意思を理解してにわかに慌てだした。

「えっ!? か、買われるんですか、本当に?」
「だから買うと言っている。いくらなのか金額を言ってくれ」
「は、はあ……」

 半信半疑のまま、どこか遠慮がちにブランドンは答えた。

「一千ゴールドなんですが……」
「ふむ」

 一ゴールドあれば、四人家族が一か月楽に暮らすことができる。ブランドンが口にした金額は人身売買を行う際の基本価格ではあるものの、初めて取り引きする客にはサービスとして値引きをするのが慣例だった。少々ふっかけすぎただろうか。考える素振りの客を前にして、ブランドンは珍しく迷っていた。

 いつもは顧客の要望に応えるため、入荷から出荷までそれなりに時間をとり、必要に応じて各種教育を施している。その期間と費やした費用で販売価格が変動する仕組みだ。
 それが今回はストリートキッズをさらってきただけの、いわば元値はただの商品。しかもグルーミングすらしていない、入荷したてのホヤホヤだ。ミスター・Aが「入荷」をどこで聞きつけたかは知らないが、もしや自分好みに育てたいなどの理由があるのだろうか。それならば幼いほうだけを所望している可能性もある。

「何ならバラ売りもできますが」

 思わず口にした説明に、舞台上の兄が肩を大きく震わせてキッとこちらを睨みつけた。離れ離れになるのを拒むその姿に、幼い弟を守ろうとする意志が現れている。

 ブランドンは胸を痛めた。他人からどう見られているかはともかく、自分では情に篤いと思っているのだ。だからといって悪業に手を染めることを躊躇うなんてことはないが、それはそれ。自分にできる精一杯の優しさとして、やはりこの兄弟は二人揃って売ることにしよう。
 ブランドンは決意して顔を上げた。そうだ。少々高値をつけたっていいじゃないか。むしろ、ミスター・Aの相手をすることで被った精神的疲労に対する慰謝料を上乗せしたいくらいだ。
 まだ何か考えている様子の客に向かい、バラ売り発言を撤回しようとブランドンが口を開いた時、ミスター・Aは上着の内ポケットへ右手を入れた。
 
「では、二人分で二千ゴールドだな」

 取り出した小切手にサラサラと金額を書いている。ブランドンは二重の意味で仰天した。明らかに違法な取引だと知りながら、現金ではなく足のつきやすい小切手を使う無頓着さと、客の支払おうとしている金額の多さにだ。先ほど伝えた一千ゴールドは、兄弟二人合わせた金額である。

「え、は。二千。そうですか」
「なんだ。違うのか」
「いえいえいえいえ! その金額で、はい。間違いございません」

 なんということだろう。ブランドンは有頂天になった。
 これほど気前のいい客もそうそういない。大変な目に遭わされはしたが、終わりよければすべてよしだ。
 しかし、両手を捧げるようにして小切手を受け取ろうとしたブランドンの目の前で、差し出された小切手がツイと持ち上げられた。長身のミスター・Aが手を伸ばしてしまえば、ブランドンには手が届かない。

「ブランドン」
「…………何でございましょうか」
「他にも『商品』が入荷しているという話を小耳に挟んだんだが、実は俺の本命はそちらのほうでな。それも一緒に購入しようと考えている」
「それは……生憎ではございますが、既に他のお客様からご購入のお申し出がございましたので」
「俺には売れないと?」
「申し訳ございません。私にもクーパー商会会頭として責任がございます。お約束した商品は、間違いなくお客様へお渡しせねばなりません」
「そうか」

 実はもう一人、これから売られる訳アリ商品が裏に控えている。これはとある客からのたっての願いで実現した取引で、売却価格は路上生活者だった兄弟の比ではない。
 しかも商品と購入者双方に少々特殊な事情があるため、緘口令を敷き厳秘としていたのだ。それなのに、この客はなぜそのことを知っているのだろう。
 薄気味悪く思っているブランドンへ、ミスター・Aは更に驚く金額を提示した。

「では、この金額の五倍出そう」
「この金額、とは」
「二千ゴールドの五倍だ。もちろん、あの兄弟の分とは別で」

 ブランドンは耳を疑った。

「い、一、一万ゴールド!? あなた正気ですか!?」
「勿論正気だ」
「いや、いくら何でもそんな法外な」
「値切って文句を言われるならともかく、多く出すのに何の問題がある」
「問題、って」
「どうするブランドン」
「五倍……一万ゴールド……」

 目を白黒させるブランドンへ、ミスター・Aは澄ました顔で駄目押しした。

「その『商品』が背負った借金は別で支払おう」
「売ります」
「それでいい」

 満足げな客を前にして、ブランドンは半ば呆然としていた。
 純利益で一万ゴールド。それを、たった一つの取引で。

「さあブランドン。商品を持ってきてくれ」

しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

異世界に落ちて、溺愛されました。

恋愛
満月の月明かりの中、自宅への帰り道に、穴に落ちた私。 落ちた先は異世界。そこで、私を番と話す人に溺愛されました。

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!

ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。 前世では犬の獣人だった私。 私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。 そんな時、とある出来事で命を落とした私。 彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

ご褒美人生~転生した私の溺愛な?日常~

紅子
恋愛
魂の修行を終えた私は、ご褒美に神様から丈夫な身体をもらい最後の転生しました。公爵令嬢に生まれ落ち、素敵な仮婚約者もできました。家族や仮婚約者から溺愛されて、幸せです。ですけど、神様。私、お願いしましたよね?寿命をベッドの上で迎えるような普通の目立たない人生を送りたいと。やりすぎですよ💢神様。 毎週火・金曜日00:00に更新します。→完結済みです。毎日更新に変更します。 R15は、念のため。 自己満足の世界に付き、合わないと感じた方は読むのをお止めください。設定ゆるゆるの思い付き、ご都合主義で書いているため、深い内容ではありません。さらっと読みたい方向けです。矛盾点などあったらごめんなさい(>_<)

処理中です...