【完結】ハリントン男爵アレクシス・ハーヴェイの密かな悩み

ひなのさくらこ

文字の大きさ
31 / 60
第三章

悪徳商人と富豪の男爵②

しおりを挟む
 ブランドンはグッと言葉を詰まらせた。
 アレクシスが支払い、そして放棄した金額は莫大なもので、補えない損失などあるはずがない。実際にクーパー商会が警察の捜査によって店を閉める間の損失や盗品と認められた品の返還――ネヴィルの絵も含まれていた――、従業員への賃金補償だけではなく、三千ゴールドという高額な保釈金を支払ってなおまだ余るほどだった。

 しかし。
 ブランドンはあの時思ったのだ。この取り引きでクーパー商会は、創業以来最高益となることが確定したと。

 それを覆された精神的な打撃は大きい。事件の夜からこっち、ブランドンは幾度も幾度もアレクシスのことを思い出し、彼の言葉や態度、視線の動きまで反芻するかのごとく記憶に刻みつけてはのたうち回って屈辱に震えていた。
 だがそれは、単純な憎しみや怒りという言葉では説明がつかない複雑な感情だ。ブランドンの心の奥深くを覗き見れば、そこにあるのは「裏切られた」という失望で、さらに紐解けば憧れの相手から手ひどく振られたのと似た恥辱だった。

 これで仕事を廃業する羽目になれば恨み骨髄に徹するところだが、最も重い罪である人身売買が証拠不十分となったことで辛くもそれを免れた。

 ブランドンの抜け目のないところは、人身売買に関わる顧客の情報を手元に残していなかったことだ。
 もし過去の売買履歴が明るみに出れば大変な騒ぎになっただろう。何しろ国の中枢や高位貴族の中にも客はいたし、その連中はブランドン逮捕の報に接して注意深く捜査の推移を見守っていた。万が一にも顧客情報が洩れていたなら、ブランドンは自らの命も危うかったと自覚している。

 一番大変だったのが、踏み込まれた時その場にいたドミニクと浮浪児二人に対する言い訳だ。浮浪児のほうは汚れたままだったのが幸いし、篤志で面倒を見るため連れてきたと言い逃れることができたのだが、もう一人のほうはそうもいかない。何しろ筆頭公爵家子息が借金の形に腰布ひとつで売られそうになっていたのだから。

 ブランドンは懸命に説明した。借金を背負ってどうしようもなくなった彼を引き受け、クーパー商会で働かせるつもりだったのだと。腰布一枚しか身につけていなかったのはブランドン自身の性癖によるもので、今から自分に奉仕してもらうつもりだったのだとも。
 しかしそこにアレクシスがやってきて、従兄弟としてドミニクを引き取り、ブランドンに対しては面倒事に引き込んでしまった謝罪と感謝の気持ちを込めて小切手を切ったのだ――という非常に苦しい、半ばやぶれかぶれの供述をしてのけたのだ。

 どうなることかと思ったが、結果的にこの捨て身の戦法によって彼は釈放された。警察官から奇異の目で見られはしたが、色々な意味で自分を犠牲にした甲斐があったというものだ。

 実際のところ愚息の不始末を速やかに葬り去りたかったバークリー公爵の暗躍と、人身売買を立件するには売った側だけではなく買った側、即ちアレクシスの罪まで問わねばならず、それを避けようとする勢力があったこと、そしてもちろんクーパー商会の顧客による圧力が働いたことにより、ブランドンは放免となった。世には清い水に棲む魚だけではないという証明だが、どんな理由にせよクーパー商会とブランドンは首の皮一枚で命を繋いだのだった。

 ともあれブランドンは金輪際、ハリントン男爵と――ついでにバークリー公爵の子息とも――関りを持つつもりはなかった。そもそも、どの面を下げてうちに来ることができるのかさっぱり分からない。ブランドンは憤然としながら閑散とした店内を見回した。

 平民から下位貴族たちまでが気軽に買うことのできる、入りやすい店構えだ。いつもなら若い女性で賑わうはずの店の中は、ドアベルの音も鳴らずしんとしている。店員の若い女性が退屈そうに髪を弄っているのを視界の隅に認めながら、ブランドンは向かいに座る招かれざる客を睨みつけた。

「警察に踏み込まれたという噂はあっという間に広まりましてね。お陰様でこの調子です。本当にありがたくて涙が出ますよ」
「そんなに怖い顔をするな。俺とお前の仲じゃないか」
「私のように善良なただの小市民と、ハリントン男爵様とでは身分も立場も天と地ほど違います。どうぞあなたさまに相応しい店へお行きください。ああ、ご存じかとは思いますが出口はあちらです」

 ブランドンは顔を背けたくなったが、アレクシスからまた小娘扱いされるのも腹が立つ。不自然なほど肩を強ばらせる悪徳商人に向かい、アレクシスは甘い笑みをみせた。

「ブランドン。今日は地下のあの部屋に通してはくれないのか」
「生憎地下の商談室はクーパー商会にとって大切なお客様だけをお通しすることにしておりますので」
 
 一階の、値段の安い小物が並ぶ店舗の隅椅子に腰掛けるアレクシスは実に堂々としている。彼は吐き捨てるように言ったブランドンに平然と尋ねた。

「ほう。では俺はお前にとって、取るに足らない客だということだな。そうなのだろう? だからこそ、絶対に利益が出ると分かっている儲け話を断ろうとしているじゃないか。そんなに俺の……いや、ハリントンの名が信用できないというのか?」

 忌々しいことに、商売人の性が先に立ったブランドンはその言葉に同意することができなかった。
 この国で、いや周辺各国を合わせても、ハリントンの名で事業を持ちかけられて断る者はいないだろう。むしろ目の色を変えて前のめりになるに違いない。

 憮然とするブランドンに、アレクシスはごくあっさりと告げた。

「まあいい。俺の願いは先ほど話したとおり、天海の稀布を卸すと偽る闇ブローカーに接触し商品を買い取ること、ただそれだけだ」

 本当にそれだけで済むのだろうか。ブランドンは疑わしい思いで憎らしいほど魅力を振り撒く男爵家当主を見つめた。

「どうしてそんな顔で俺を見る」
「……そんなに美味い話を、なぜ私に持って来られたのです。おかしいではありませんか。もしや、あんな目に合わせた私をまだこれ以上酷い目に――」
「ブランドン。俺は人を見る目だけはあるつもりだ。その俺がこの話は是非ともお前にやってもらいたいと、そう望んだ。これはそんなに信用のできない理由なのか」

 これほどの人物から見込まれたとあって、ブランドンは決意がグラグラと揺らぐのを感じてハッとした。


 
 
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

異世界に落ちて、溺愛されました。

恋愛
満月の月明かりの中、自宅への帰り道に、穴に落ちた私。 落ちた先は異世界。そこで、私を番と話す人に溺愛されました。

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!

ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。 前世では犬の獣人だった私。 私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。 そんな時、とある出来事で命を落とした私。 彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

ご褒美人生~転生した私の溺愛な?日常~

紅子
恋愛
魂の修行を終えた私は、ご褒美に神様から丈夫な身体をもらい最後の転生しました。公爵令嬢に生まれ落ち、素敵な仮婚約者もできました。家族や仮婚約者から溺愛されて、幸せです。ですけど、神様。私、お願いしましたよね?寿命をベッドの上で迎えるような普通の目立たない人生を送りたいと。やりすぎですよ💢神様。 毎週火・金曜日00:00に更新します。→完結済みです。毎日更新に変更します。 R15は、念のため。 自己満足の世界に付き、合わないと感じた方は読むのをお止めください。設定ゆるゆるの思い付き、ご都合主義で書いているため、深い内容ではありません。さらっと読みたい方向けです。矛盾点などあったらごめんなさい(>_<)

処理中です...