【完結】ハリントン男爵アレクシス・ハーヴェイの密かな悩み

ひなのさくらこ

文字の大きさ
36 / 60
第四章

侯爵家の舞踏会④

しおりを挟む
「ついさっきまでその辺りにいたんだがな……ニコラスもお前のことを探していたぞ」
「そうか。すまないな。ローバーズ・ジムにはまだ通っているのか? よかったら今度一緒に行こう」
「いいな! 是非誘ってくれ。お前に叩きのめされないよう鍛えておくことにするよ」

 共通の趣味であるボクシングについて約束したアレクシスは、軽く手を上げて友人に別れを告げた。
 シガールームからビリヤードルーム、ロング・キャラリーを通ってまた大広間に戻ってきたところだ。行く先々で知人からグリーンハウ=スミスを見かけたと言われたが、本人だけがどこにもいない。そして口々に彼もアレクシスを探していると知らされた。

 まるで鬼ごっこだな。嫌いあう相手との無邪気な遊びを想像しながら、アレクシスは颯爽と歩いていく。考えるのはこの舞踏会に出席した目的である、ニコラス・グリーンハウ=スミスへの対処についてだった。

 ニコラスにどうやって釘をさすか。相手は仮にも公爵家の子息だ。面子を立ててやりながら、これ以上の嫌がらせを断念するよう優雅に仕向けるのが理想だ。本音を言えば少しくらい痛い目をみせてやりたいが、一度男爵家としてお灸を据えた過去がある。ここで再び深追いしては却って面倒なことになるだろう。何事も引き際が肝心だ。
 
 一歩進むごとにあちこちから視線を感じるが、涼しい顔で全てを無視した。その視線はハリントン男爵家が成り上がり者だと嘲笑うものや莫大な富を羨むもの、また女性たちからの熱っぽいものなど様々だ。こうやってじろじろと見られることもハリントン男爵家当主の役目だと割り切るアレクシスにとって、もはやこれは日常である。いちいちとりあってはいられない。
 もちろん純粋に事業提携を望む者もいるだろうが、働くことを卑しいと考える貴族はまだ多い。アレクシスはこの夜会で人脈を作ろうとは思っていなかった。

 大広間の中ほどで、アレクシスは目を眇めながら辺りを見回した。随分客が増えている。グリーンハウ=スミスのことは気になるが、そろそろクラリスのところに戻らなければ。きっと心細い思いをしているだろう。

 クラリスを連れたまま目当ての人物を探すつもりのない彼は、次善の策として別の機会にニコラスと接触する方法を考えていた。
 もし今日会えたらそれでよし。会えない場合でも彼の行動履歴を調べさせ、偶然を装い顔を合わせることにしようか。確かあいつは競馬が好きだったから、競馬場に行ってもいい。折しも来月には王室主催のレースが開催される。ひと月待つことだけがデメリットだな。アレクシスはニコラスに会う効果的な時と場所を、目まぐるしいほどのスピードで計算し始めた。

 いつどこで会うにせよ、二人の対面は衆人環視の中で行われ、アレクシスが望むよりもずっと穏当なものに終わるだろう。それはそれで仕方のないことだ。アレクシスは冷静に納得した。

 軽食というには豪華な食べ物がワゴンに乗せられ、次々に補充されていく。クラリスのことだ、まだ何も食べていないだろうから、とりあえず彼女の好物でも食べさせようか。
 レバーのパテは好きそうだったな。シエルハーンには海がないから、魚料理が珍しいようで喜んでいた。ワゴンにはどちらもたっぷり乗せられているから、食いそびれることはないだろう。

 アレクシスは知らず唇を緩め、優雅さを失わない程度に足を速めた。せっかくの外出を楽しいものにしてやらなければ。そう考えていた時、きらびやかな舞踏会にそぐわない怒声が聞こえてきた。
 
 給仕が何かヘマでもしたのだろうか。だが客たちが声をひそめて囁き合う姿と、どこか気の毒そうに視線を交わす姿に胸騒ぎがする。それを決定づけたのは、床を滑るようにして飛ばされてきた、小さな手帳を目にした時だ。

 黙ったまま人込みをかき分けた先には、頭上に掲げられたグラスから今にもワインをかけられそうになっているクラリスの姿があった。しかも、かけようとしているのはニコラス・グリーンハウ=スミスではないか。

 アレクシスの頭にカッと血が上った。
 自分でも驚くほどの速さで二人の間に割って入る。勢いでこぼれたワインが上着の肩にかかったが、一瞬の躊躇いもなくニコラスの胸に手をついて身体を押しのけた。

「……久しぶりだな、グリーンハウ=スミス」

 腹の底からこみ上げる激しい怒りが胸元を突き破りそうだ。ちらりと見たクラリスの青ざめた顔が怒りに拍車をかける。アレクシスは目の前の男を殴りたくてたまらず、意志の力を総動員してそれに耐えた。

 冷静に考えれば、別に怪我をさせられる訳でなし、ただワインに濡れるだけのことだ。多少髪粉は流れるだろうが、何ならアレクシスの上着で彼女を覆い隠してさっさとこの場を後にすることもできた。そのうえで紳士にあるまじきニコラスの行いを糾弾し、メルボーン侯爵邸の舞踏会を騒がせた不作法さをつつきながら交渉に及ぶのが、本来アレクシスが――ハリントン男爵家当主が自家の利益を護るために取るべき方法であったはずだ。
 
 それでもアレクシスは後悔するどころか、人前で口にすべきではない言葉をどうにか飲み込んでいるような有様だ。怒りが収まる気配もない。クラリスを傷つけ、侮辱しようとしたニコラスを彼は許すつもりはなかった。

 ――二度と、こんな真似ができないようにしてやる。

 それはアレクシスがおそらく初めて取った、理性よりも感情に任せた行動だった。凍るような目でウィンシャム公爵家の息子を見下ろし、低く、そしてゆっくりとした口調で語りかけた。

「元気だったか、ニッキー? ……失礼、グリーンハウ=スミス。つい昔のように気安く呼んでしまったよ。同窓のよしみで大目に見てくれないか。そういえば先日、ウィンシャム公をお見かけしたが、少しお痩せになったように見えた。あまり体調がよくないと耳にしたが、それは本当なのか? いい医者を知っているから、もし必要ならいつでも連絡をくれたまえ」

 ニコラスはサッと顔を強張らせ、周囲の人々はザワザワと騒めいた。
 名誉職に近いとはいえ、ウィンシャム公爵は貴族院議長という職に就いている。それに加えて公爵位もまだ長男に譲っていない。その公爵が体調不良だという噂が流れれば、多方面に影響がでるのは明らかだった。
 とりわけ長男に領地運営の実績がないのは痛い。ウィンシャム公は全てを自分が把握しなければ気が済まず、後嗣に対してもなかなか仕事を与えられないでいる。当主が健康なうちはそれでもいいのだが、病気となれば話は別だ。たちまち後嗣の能力への不安につながり、銀行の取り引きや融資の条件が変わってしまうだろう。
 
 だから貴族の――それも高位貴族の――代替わりというのは慎重のうえにも慎重を期して行われる。ほとんどの当主が健康なうちに後嗣へ経験を積ませ、人脈とともに代を譲るのが慣例となっていた。例え当主が病に侵されていてもそれを隠して後嗣への引継ぎを優先するのが普通なのだ。例外は事故や病で当主が急死するか、もしくは。

 ――敵にそれを暴かれ、陥れられるかだ。

 アレクシスは青い瞳をちかりと光らせた。


しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

異世界に落ちて、溺愛されました。

恋愛
満月の月明かりの中、自宅への帰り道に、穴に落ちた私。 落ちた先は異世界。そこで、私を番と話す人に溺愛されました。

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!

ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。 前世では犬の獣人だった私。 私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。 そんな時、とある出来事で命を落とした私。 彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

ご褒美人生~転生した私の溺愛な?日常~

紅子
恋愛
魂の修行を終えた私は、ご褒美に神様から丈夫な身体をもらい最後の転生しました。公爵令嬢に生まれ落ち、素敵な仮婚約者もできました。家族や仮婚約者から溺愛されて、幸せです。ですけど、神様。私、お願いしましたよね?寿命をベッドの上で迎えるような普通の目立たない人生を送りたいと。やりすぎですよ💢神様。 毎週火・金曜日00:00に更新します。→完結済みです。毎日更新に変更します。 R15は、念のため。 自己満足の世界に付き、合わないと感じた方は読むのをお止めください。設定ゆるゆるの思い付き、ご都合主義で書いているため、深い内容ではありません。さらっと読みたい方向けです。矛盾点などあったらごめんなさい(>_<)

処理中です...