【完結】ハリントン男爵アレクシス・ハーヴェイの密かな悩み

ひなのさくらこ

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第六章

初めてのキスは涙の味

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 黒光りする銃身と太い握り。口径の大きな拳銃は、クラリスの目におどろおどろしいまでのオーラを纏っているように見えた。

「実に美しい銃だ。これは特注品かね」

 うっとりとした目で銃を眺めるグレッグの問いは、急所を殴られ必死に呼吸を整えるアレクシスに向けられていた。

「……そうだ。重さやグリップの太さまで私の身体に合わせたものを、グロスターの兵器製造工場で作らせた」
「ほう……そうか」

 チヤッ、と音を鳴らして銃把を握りなおしたグレッグに、クラリスは息を詰めた。心臓が胸を突き破りそうなほど激しく打っている。まさか、やめて、お願いだから!

「陛下。あまりそのう……そのように物騒な物を弄ばれては危険かと。ハリントン卿は今後も資金提供をしてくださるお方です。殺してしまっては元も子もありません」
「ああ、私もそう思っていた。……だが」
「……!!」

 グレッグはアレクシスの頬に銃口を押しあてた。クラリスは思わず飛び出そうとしたが、ブランドンの手はがっちりと彼女の手首を縛めている。しかし、先ほどまでと違いブランドンの手は汗で湿っていた。この展開が予想を超えたものだからなのだろうか。
 もがくクラリスを横目で見たグレッグは、アレクシスの男らしい頬に銃口を食い込ませた。

「少々気が変わった。小切手で一度に振り出せる金額は二十万ゴールドだが、不足分はすぐに補充される。数日に亘り金を引き出せるのなら、活動資金としては十分すぎるほどだ。元々、長く金を引っ張れるとは思ってはいない。関われば関わるほど捕まる危険は増すんだからな。……これほどの力を持つ相手からいつまでも金を脅し取れると考えるほど、私は馬鹿ではないんだよ」
「いえ、しかし、その、陛下。些か、そう、それは些か性急にすぎるお考えではないでしょうか。ハリントン卿を殺してしまえば、ルフトグランデ全体を敵に回してしまいます。陛下のこれからの御代を思えば、無用な諍いは可能な限り避けておかれたほうが」
「ブランドン、お前は私に逆らうというのか」

 急に口を閉ざしたブランドンに、グレッグは横柄な口調で言った。

「数日でいい。こいつの死を隠しおおせたら十分な資金を得られるんだ。ブランドン、お前ならできるだろう?」
「無茶です! こんな場所にたった一人でいるのが不思議なくらいのお方なのですよ!? 丸一日行方が分からなくなっただけで大規模な捜索が始まり、ルフトグランデの経済界は混乱に陥ります。秘密裡に殺してしまえるような方ではありません。第一、行方不明の状態で口座から金を振り出せば、引き出した者が犯人だと自白するようなものです!」

 ブランドンはきっぱりと断ったが、銃口を向けられて「ヒッ!」と悲鳴を上げた。

「私が聞きたいのはそんな答えではない。できないのならこの場で肉片になるだけだ」

 恐怖に震えるブランドンを尻目に、グレッグは満面の笑みをアレクシスに向けた。

「さあ……どうしようか。一息にこの御大層なツラを吹き飛ばすのもいいし、腕か足を撃って失血死するのを待ってもいい。これだけ口径の大きな銃だ、至近距離で肩を撃てば腕など千切れ飛ぶだろう」

 銃口でアレクシスの顔から顎、鎖骨を通って肩までをなぞった。もがくクラリスを、ブランドンは汗で滑る手で必死に拘束している。

「やはり頭か? そうだな。死体を確認する時に、顔が無ければ困るだろう。よし。決まりだ」

 ぐり、と側頭部に銃口をあてた。

「頭にしよう。顔を損なうかもしれないが、そこは賭けだな。ああ、顔を傷つけたとしても悪く思わないでくれよ。……せめて苦しまないように逝かせてやる」
「あぁっ!」

 その時ブランドンが声を上げたのは、自国の恩人を見殺しにする自責からではなかった。めちゃくちゃに暴れたクラリスがついに縛めを逃れたからだ。

「な……っ」
「やめろ、クラリス!」

 クラリスはまっしぐらにアレクシスへ駆け寄り、叔父に体当たりして押しのけると、アレクシスの膝に乗り上げるようにして覆い被さった。

「何をする! 早くどけ!!」
「クラリス、あっちにいくんだ。危ないから」

 口々に言われるのを、首を振って拒む。絶対に譲る気はない。だって、だってこの人は……。

「……そうか。残念だが仕方ない。クラリス、お前も一緒にあの世に逝くがいい」
「何を言う!」

 一番動揺したのはアレクシスだった。拘束された身体を揺らし、きつく縛られた腕を引き抜こうとする。もちろん緩みもしない縄は彼の手首を傷つけるだけだ。アレクシスはグレッグに食ってかかった。

「お前の計画にクラリスは欠かせないはずだ! 彼女を傷つけるような真似をするな!」

 顔色を変えたアレクシスを、グレッグは余裕たっぷりに見下ろした。

「その件については……アレのおかげで軌道修正した、と言えばいいかな」

 小切手帳を目で指すグレッグに、アレクシスは吐き捨てるように言った。

「結局は金か」
「何とでも言ってくれ。金に困ったことのない者には分からないことだ」

 たった一度、二十万ゴールドを振り出すだけで世界中どこへ行っても豪遊して暮らせるのだ。グレッグの頭には既に新しい未来が描かれていた。この金を手に大陸を出る。そして誰も知らない場所で、新たな人生を始めよう。
 グレッグは鋭い眦で自分を睨む男と、その上に覆いかぶさる姪を眺めた。これは必要な犠牲だ。兄や義姉や、甥を殺したのと同じように。

 両手で銃を構える。これだけ大口径の銃なら、撃った後の反動は凄まじいはずだ。下手をすると手首や肩を痛めかねない。じっくりと狙いを定める。姪と、自分に富をもたらす男へ向かって。

「クラリス、どくんだ」

 アレクシスの首にしがみついていたクラリスは、ふるふると首を振った。絶対に動かない。そう心に決めていたクラリスは、アレクシスの声が驚くほど静かなことに気づかなかった。
 
「クラリス」

 優しく呼ばれ、ぎゅっとつぶっていた目を開けた。少しだけ身体を離し、すぐ近くにある整った顔を見る。
 
「クラリス。いい子だから言うことを聞いてくれ」

 至近距離で見る青い瞳に、泣きそうな顔の自分が映っている。下唇を震わせたクラリスが我慢できずにぽろりと涙をこぼすと、アレクシスは困ったように眉尻を下げた。

「ここにいると危ないから、あっちへ行くんだ」

 何度も何度も首を振る。肩までの髪が揺れて頬を打った。
 絶対に離れない。だってこの人は、私が誰よりも愛する人なのだから。
 頬を伝う涙をそのままに、クラリスはそっとアレクシスに口づけた。深い青の瞳が大きく見開かれる。初めての口づけは涙の味がした。

「……別れの挨拶は終わったか。クラリス、あの世に行ったら兄上によろしく伝えてくれ」
「よせ、やめろ!」

 クラリスは自分よりずっと大きな身体をぎゅっと抱きしめた。
 奇跡が起こって、アレクシスだけでも助かりますように。そう願って目を閉じる。アレクシスの身体が強張り、その時が近づいていると分かった。

 カチッ

 耳をつんざく爆音を予想していたクラリスは、予想外に小さな音が何を示すのか分からなかった。

 カチッ、カチッ、カチッ、と何度も繰り返される音。それと同時に低い唸り声が聞こえてきた。

「ハリントン、貴様……!」

 おそるおそる目を開けて振り向けば、銃を片手にわなわなと震える叔父がいる。

「弾を抜いていたのか!」

 アレクシスは慎重な態度で応えた。

「俺は一言も、弾が入っているとは言っていない」
「畜生! 馬鹿にしやがって……!!」
「っおい!」

 銃を振りかぶる叔父の姿に、クラリスはアレクシスを庇って再び覆い被さった。ガツン、と頭に衝撃がある。痛みより先に意識がフッと遠くなった。

「何をする!」
「こうなったら二人ともまとめて始末してやる! ブランドン、得物を持ってこい!」
「駄目だ、彼女に手を出すな!」

 アレクシスは身体全体で椅子を揺らす。クラリスの額からツッ……と血が流れて、アレクシスを青ざめさせた。
 姪の血を見てなお怒りが収まらないグレッグが、また大きく銃を振り上げる。しかしその時遠くから騒めきが聞こえ、グレッグは振り下ろそうとしていた手をとめた。

「……なんだ?」

 ザワザワ、ガタガタ、という音の中に、うわー、とかやめろー、という叫び声が混じっている。不審に思ったグレッグは眉根を寄せ、ブランドンを振り返った。

「何の騒ぎか確認を――おい、何だそれは」

 ブランドンが取り出したのは、銀色の小さな笛だった。戸惑うグレッグを前にしてブランドンは思いきり息を吸い込み、そしてその笛を吹いた。

 ピィ――――――――!

 騒めきは一瞬静まり、そして一斉に押し寄せてくる。ドドドッと足音も荒々しく部屋の中に踏み入ってきたのは、王都レスターを守る警察官たちだ。彼らは椅子に縛られたアレクシスとその膝の上のクラリス、そしてその前で拳銃を手に振りかぶるグレッグを見て取ると、たちまちのうちにグレッグを取り囲んだ。

「何をする! 私を誰だと思っているんだ」
「グレッグ殿下。あなたの身柄は拘束させていただきます。容疑はハリントン男爵への監禁、暴行、傷害、恐喝ですね。あなたの国籍はシエルハーンですが、現行犯ですので我が国の法で裁きを受けることになるでしょう」
 
 遅れて部屋に入ってきたのは警視監ロナルド・ストロングだった。呆然とするグレッグを余所に、呆れ顔でアレクシスへ歩み寄る。アレクシスだけが焦っていた。

「遅い! クラリスが怪我をしたんだ、早く縄を解いてくれ!」
「ハリントン卿。スタンドプレーはおやめくださいとあれほど言ったではありませんか。全く、囮捜査は十分な準備と計画が必要だというのに、手紙一枚で長官の許可をもらうのにどれだけ苦労したと思っているのですか」
「そうですよ! 私にこんな肝の冷える役をやらせるなんて酷すぎます!」

 転がるようにやってきたブランドンがおいおいと泣き始める。警官に縄を切ってもらったアレクシスは、自分の肩にもたれるクラリスを揺さぶった。

「クラリス! しっかりしろ!」
「あまり動かさないほうがいい。おい、医療班を呼べ」
「クラリス、クラリス!?」

 自分の両肩を掴むアレクシスの必死な顔。制服姿の警官が周囲を歩き回り、何かを叫ぶ叔父の声がだんだん遠ざかっていく。

 何が何だか分からない。クラリスは数度瞬いて、そして意識を手放した。
 
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