230 / 256
幸福の源
しおりを挟む
ケインバッハがダイスヒル邸に帰りついた時には、既に深夜をまわっていた。
長い夜だった。
ケインバッハの役目は城に残ったカトリアナとシュリエラの警護隊の統括。
後方支援的な仕事だったが、それでも国家機密を含む案件でもあったため、神経はかなりすり減った。
一度、賢者くずれと直接対峙したことのある身だ。
その人物の不気味さ、不快さは身をもって知っている。
わざわざアレに近づこうとする人間がいる事の方が、ケインバッハにとっては不思議だった。
ケインバッハにとっても、自分の愛する妻にとっても、恐ろしく厭わしい存在。
賢者ラファイエラスが、その存在を完璧に消し去ってくれなかったら、今でも恐怖が拭えなかったかもしれない。
こうして安心して、穏やかな家庭を持てるのも、自分たちの将来にただ幸福を信じられるのも、すべてはあの日、ラファイエラスさまが助けに来てくださったから。
寝室の扉をそっと開く。
エレアーナはベッドですやすやと眠っていた。
最近、少し吐き気が治まってきて、以前ほど頻繁に吐くことはなくなっていた。
それでもやはり、ある種の匂いは刺激となるようだったけれど。
一日中、吐き気に悩まされていた時もあったな。
見ているこちらの方が辛くなるくらいに。
でも、エレアーナはそんな時も前向きで。
「赤ちゃんのために、身体が頑張っている証拠ですわ」なんて言ってたっけ。
ベッドの端に腰をかけ、愛する妻の寝顔を眺める。
ゆるくウェーブのかかった艶やかな銀髪は、彼女の枕元で芸術品のように散れている。
悪阻のせいで少し痩せた頬は、それでも彼女の美しさを損なうことはしない。
ゆっくりと手を伸ばし、その頬をするりと撫でた。
その手を離すのを惜しんでいると、エレアーナは、眠っている筈なのにその手に頬を寄せ、僅かに微笑んだ。
その無意識の笑みに、思わずどくん、と、心臓が跳ねる。
愛らしくて、美しくて、どこまでも優しいエレアーナ。
俺の・・・俺の愛しい人。
起きてしまうだろうか。いや、でも。
内なる衝動に抗えず、そっと額に口づけを落とす。
銀色の髪からは、ふわりと薔薇の香りがした。
その髪をひと房すくい取り、そっと唇に当てる。
ああ、この香りはきっと手作りの薔薇の蒸留水なのだろうな。
優しく甘く香る薔薇。
ケインバッハとエレアーナが、初めて出会った時に交わした言葉の中にも出てきた思い出の品。
すう、と息を吸い込んで、その甘美な香りに浸りこむ。
その時、エレアーナが薄らと瞼を開けた。
起こしてしまったか?
そう思ったけれど、違ったようで。
エレアーナは薄闇の中でケインの姿を認めると、ふわりと笑い、ケインさま、と小声で呼びかけた。
それに返事をするより前に、エレアーナの瞼は再び閉じられ、やがて穏やかな寝息が聞こえてくる。
甘いご褒美をもらったような、手酷いお預けをくらったような、少しばかり複雑な思いに、胸の鼓動がちょっとだけ速まった。
そうだ。
貴女がいてくれる毎日は、俺にとっては奇跡のようで。
ここにこうして居てくれるだけで、俺はこの上ない幸福に包まれる。
愛してる。
愛してる、エレアーナ。
俺の、俺だけのレアナ。
穏やかな寝顔を眺めながら、掌に乗せていた髪にもう一度口づけて、それからケインは立ち上がった。
手早く着替え、そっとベッドに滑り込む。
静かに、優しく、触れるか触れないかの微かな口づけを愛する妻の頬に落とし、ケインバッハは明かりを消した。
明日は国王陛下に報告を上げねばならない。
また、忙しい一日が始まるのだ。
忙しく、だけど敬愛する王太子レオンハルトの幸せな結婚へと続く大事な一日が。
長い夜だった。
ケインバッハの役目は城に残ったカトリアナとシュリエラの警護隊の統括。
後方支援的な仕事だったが、それでも国家機密を含む案件でもあったため、神経はかなりすり減った。
一度、賢者くずれと直接対峙したことのある身だ。
その人物の不気味さ、不快さは身をもって知っている。
わざわざアレに近づこうとする人間がいる事の方が、ケインバッハにとっては不思議だった。
ケインバッハにとっても、自分の愛する妻にとっても、恐ろしく厭わしい存在。
賢者ラファイエラスが、その存在を完璧に消し去ってくれなかったら、今でも恐怖が拭えなかったかもしれない。
こうして安心して、穏やかな家庭を持てるのも、自分たちの将来にただ幸福を信じられるのも、すべてはあの日、ラファイエラスさまが助けに来てくださったから。
寝室の扉をそっと開く。
エレアーナはベッドですやすやと眠っていた。
最近、少し吐き気が治まってきて、以前ほど頻繁に吐くことはなくなっていた。
それでもやはり、ある種の匂いは刺激となるようだったけれど。
一日中、吐き気に悩まされていた時もあったな。
見ているこちらの方が辛くなるくらいに。
でも、エレアーナはそんな時も前向きで。
「赤ちゃんのために、身体が頑張っている証拠ですわ」なんて言ってたっけ。
ベッドの端に腰をかけ、愛する妻の寝顔を眺める。
ゆるくウェーブのかかった艶やかな銀髪は、彼女の枕元で芸術品のように散れている。
悪阻のせいで少し痩せた頬は、それでも彼女の美しさを損なうことはしない。
ゆっくりと手を伸ばし、その頬をするりと撫でた。
その手を離すのを惜しんでいると、エレアーナは、眠っている筈なのにその手に頬を寄せ、僅かに微笑んだ。
その無意識の笑みに、思わずどくん、と、心臓が跳ねる。
愛らしくて、美しくて、どこまでも優しいエレアーナ。
俺の・・・俺の愛しい人。
起きてしまうだろうか。いや、でも。
内なる衝動に抗えず、そっと額に口づけを落とす。
銀色の髪からは、ふわりと薔薇の香りがした。
その髪をひと房すくい取り、そっと唇に当てる。
ああ、この香りはきっと手作りの薔薇の蒸留水なのだろうな。
優しく甘く香る薔薇。
ケインバッハとエレアーナが、初めて出会った時に交わした言葉の中にも出てきた思い出の品。
すう、と息を吸い込んで、その甘美な香りに浸りこむ。
その時、エレアーナが薄らと瞼を開けた。
起こしてしまったか?
そう思ったけれど、違ったようで。
エレアーナは薄闇の中でケインの姿を認めると、ふわりと笑い、ケインさま、と小声で呼びかけた。
それに返事をするより前に、エレアーナの瞼は再び閉じられ、やがて穏やかな寝息が聞こえてくる。
甘いご褒美をもらったような、手酷いお預けをくらったような、少しばかり複雑な思いに、胸の鼓動がちょっとだけ速まった。
そうだ。
貴女がいてくれる毎日は、俺にとっては奇跡のようで。
ここにこうして居てくれるだけで、俺はこの上ない幸福に包まれる。
愛してる。
愛してる、エレアーナ。
俺の、俺だけのレアナ。
穏やかな寝顔を眺めながら、掌に乗せていた髪にもう一度口づけて、それからケインは立ち上がった。
手早く着替え、そっとベッドに滑り込む。
静かに、優しく、触れるか触れないかの微かな口づけを愛する妻の頬に落とし、ケインバッハは明かりを消した。
明日は国王陛下に報告を上げねばならない。
また、忙しい一日が始まるのだ。
忙しく、だけど敬愛する王太子レオンハルトの幸せな結婚へと続く大事な一日が。
18
あなたにおすすめの小説
何もしない公爵夫人ですが、なぜか屋敷がうまく回っています
鷹 綾
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスの妻となったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、屋敷を仕切ることも、改革を行うことも、声高に意見を述べることもしなかった。
指示を出さない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
「何もしない夫人」として、ただ静かにそこにいるだけ。
それなのに――
いつの間にか屋敷は落ち着き、
使用人たちは迷わなくなり、
人は出入りし、戻り、また進んでいくようになる。
誰かに依存しない。
誰かを支配しない。
それでも確かに“安心できる場所”は、彼女の周りに残っていた。
必要とされなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
これは、
「何もしない」ことで壊れなかった関係と、
「奪わない」ことで続いていった日常を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
むにゃむにゃしてたら私にだけ冷たい幼馴染と結婚してました~お飾り妻のはずですが溺愛しすぎじゃないですか⁉~
景華
恋愛
「シリウス・カルバン……むにゃむにゃ……私と結婚、してぇ……むにゃむにゃ」
「……は?」
そんな寝言のせいで、すれ違っていた二人が結婚することに!?
精霊が作りし国ローザニア王国。
セレンシア・ピエラ伯爵令嬢には、国家機密扱いとなるほどの秘密があった。
【寝言の強制実行】。
彼女の寝言で発せられた言葉は絶対だ。
精霊の加護を持つ王太子ですらパシリに使ってしまうほどの強制力。
そしてそんな【寝言の強制実行】のせいで結婚してしまった相手は、彼女の幼馴染で公爵令息にして副騎士団長のシリウス・カルバン。
セレンシアを元々愛してしまったがゆえに彼女の前でだけクールに装ってしまうようになっていたシリウスは、この結婚を機に自分の本当の思いを素直に出していくことを決意し自分の思うがままに溺愛しはじめるが、セレンシアはそれを寝言のせいでおかしくなっているのだと勘違いをしたまま。
それどころか、自分の寝言のせいで結婚してしまっては申し訳ないからと、3年間白い結婚をして離縁しようとまで言い出す始末。
自分の思いを信じてもらえないシリウスは、彼女の【寝言の強制実行】の力を消し去るため、どこかにいるであろう魔法使いを探し出す──!!
大人になるにつれて離れてしまった心と身体の距離が少しずつ縮まって、絡まった糸が解けていく。
すれ違っていた二人の両片思い勘違い恋愛ファンタジー!!
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
身分差婚~あなたの妻になれないはずだった~
椿蛍
恋愛
「息子と別れていただけないかしら?」
私を脅して、別れを決断させた彼の両親。
彼は高級住宅地『都久山』で王子様と呼ばれる存在。
私とは住む世界が違った……
別れを命じられ、私の恋が終わった。
叶わない身分差の恋だったはずが――
※R-15くらいなので※マークはありません。
※視点切り替えあり。
※2日間は1日3回更新、3日目から1日2回更新となります。
報われなかった姫君に、弔いの白い薔薇の花束を
さくたろう
恋愛
その国の王妃を決める舞踏会に招かれたロザリー・ベルトレードは、自分が当時の王子、そうして現王アルフォンスの婚約者であり、不遇の死を遂げた姫オフィーリアであったという前世を思い出す。
少しずつ蘇るオフィーリアの記憶に翻弄されながらも、17年前から今世まで続く因縁に、ロザリーは絡め取られていく。一方でアルフォンスもロザリーの存在から目が離せなくなり、やがて二人は再び惹かれ合うようになるが――。
20話です。小説家になろう様でも公開中です。
私が行方不明の皇女です~生死を彷徨って帰国したら信じていた初恋の従者は婚約していました~
marumi
恋愛
「あら アルヴェイン公爵がドゥーカス令嬢をエスコートされていますわ」
「ご婚約されたと噂を聞きましたが、まさか本当だとは!」
私は五年前までこの国の皇女エリシアだった。
暗殺事件に巻き込まれ、幼なじみで初恋の相手だった従者――アルヴェイン公子と共に命からがら隣国、エルダールへ亡命した。
彼の「必ず迎えに来る」その言葉を信じて、隣国の地で彼を待ち続けた……。
それなのに……。
やっとの思いで帰国した帝国の華やかなパーティー会場で、一際目立っているのは、彼と、社交界の華と言われる令嬢だった――。
※校正にAIを使用していますが、自身で考案したオリジナル小説です。
※イメージが伝わればと思い、表紙画像をAI生成してみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる