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約束の証
しおりを挟む学園がひと月の夏季休暇に入ってから四日、アレハンドロは外出用の服を選んでいた。
今からナタリアと会う予定のアレハンドロは上機嫌だ。
結局、夏季休暇に入る前の最後の日まで、ナタリアはレオポルドと会うことは叶わず。
アレハンドロが懇切丁寧に刷り込んできた対人対物に対するトラウマはナタリアを十分に怯えさせ、彼を楽しませてくれた。
そのご褒美と言っては何だが、今日は観劇にでも連れ出してやろうと思ったのだ。
不安に泣く顔はこのひと月以上、存分に堪能した。今恋しいのはナタリアの笑顔だ。
あの男も今回は随分と呆気なくナタリアを手放したな、もう少し粘るかと思っていたのに。
そんな物足りなさを感じつつも支度を済ませ、ナタリアを迎えに行ってみれば、憂いの消えた明るい笑顔で出迎える彼女に、アレハンドロは違和感を覚える。
なんだ?
とてもこの間まで泣き暮らしていたとも思えない、晴れ晴れとした明るい表情は。
その理由をアレハンドロはすぐに知る。
レオポルドから手紙が来たという。
内心から湧き上がる苛立ちを抑えながら、アレハンドロは尋ねる。
「そうか。手紙には何て?」
「ええとね。ずっと寂しい思いをさせてごめん。今、家が大変で頑張ってるところだから、しばらく会えないけど待っててほしいって」
「へえ」
「必ず迎えに行くからって、書いてあったの・・・」
そう言って、ナタリアは空色の髪を揺らし、嬉しそうに微笑んだ。
「・・・そう。良かったな」
心がまったくこもっていない、平坦な声でそう返しても、ナタリアは気付きもせずにこくりと頷く。
そんな馬鹿なところが気に入っていたけど、今はむしろ憎たらしくてしょうがない。
何を呑気に笑ってるんだよ。
アレハンドロは、緩やかに口角を上げたまま、心の中で毒づいた。
あんな一言。
あんな男からの、あんなつまらない一言で、いとも容易くナタリアは笑う。
このひと月と半の間、ずっと不安で泣いてばかりだったくせに。
その間、ナタリアの側にいたのは、あいつじゃなくて俺だったのに。
そんなにあの男が好きなのか。
そんなにあの男がいいと言うのか。
そんなに、俺の手から逃れたいと言うのか。
ああ、たとえ無意識でも気分が悪い。
どす黒い、もやもやとした何かがアレハンドロの内に湧き上がる。
それは、このところずっと縁がなかった感情で。
ナタリアを見つけてから久しく忘れることが出来ていたもの。
俺の思い通りに泣き、笑う、可愛い俺の玩具。それがお前だ。
お前はそれだけの為の存在なのに。
久しぶりにナタリアの笑顔が見たいと思っていた。だがそれはこんな形ではない。決して。
俺が笑わせる筈だった。今日は存分に笑わせてやるつもりだった。
だがいまは、その笑顔に吐き気がする。今すぐにでも殴りつけてやりたい。その顔を涙で濡らしたい。あいつのせいで喜色に溢れた顔を、絶望の色に塗りかえてしまいたい。
ナタリアの手の中にあるその手紙とやらを、すぐにでもひったくってビリビリに破きたかった。踏みつけて、燃やして灰にして、その上に汚水をぶちまけてやってもいい。それでも気が済まないと思うけれど。
だが流石にそれは出来ないと今の激昂した状態のアレハンドロでも判断はできた。
仕方ない。今は諦めてやる。だが、いずれ必ず。
独占欲と執着でまみれた眼差しで、アレハンドロはナタリアが握りしめる手紙を見つめる。だが、その手が胸元で押さえていたものが手紙だけではなかった事には気づかなかった。
それはボタンで留められたブラウスの下、ナタリアの華奢な首元から下げられたもの。
決して人目に触れさせてはいけない、とそう指示され、敢えて服の下に隠したものだから。
その手紙がナタリアに届けられたのは、アレハンドロの来訪より三日前、学園が夏季休暇に入った日の夜遅くのことだった。
自室のカーテンが揺れ、現れた人影にナタリアは恐怖で硬直した。だが一瞬でその身を拘束される。
「・・・静かに。声を出すな。怪しい者ではない。お前に手紙を届けに来ただけだ」
悲鳴を上げそうになったところに口元を抑えられ、そう囁かれた。
黙ってこくこくと頷けば、その影はあっさりとナタリアの口元から手を離し、手紙を差し出した。
「お前に宛てた手紙だ。連絡が遅くなって済まないと、あいつが・・・レオポルド・ライナルファが言っていた」
「レオ・・・ッ?」
震える手で手紙を受け取る。
目の前の男に構うことなく、ナタリアは封筒を開けて中から便箋を取り出した。
「間違いなくあいつの字だ・・・お前なら、それが分かるだろう?」
「は、はい」
頷きながらも、ナタリアは視線を手紙に落としたままだ。
そこには、急に学園を休んで心配させた事への詫びの言葉と、家の手伝いのためにまだ暫くはこのまま休みを取ること、そして解決した後に迎えに行くと書いてあった。
嬉しさで、ナタリアの眼にじわじわと涙が溢れる。
だが、目の前の男は、そんなナタリアとは裏腹に冷めた視線のまま口を開いた。
「それはダミーの手紙だ。もちろん内容は真実レオポルドが書いたもので嘘偽りなどないが」
「ダミー、ですか?」
言われた言葉の意味が分からず、ナタリアは困惑した顔で問い返す。
「えと、あの、それはどういう」
「失くなる事を想定して書いたものだという事だ。封筒の中をもう一度よく見てみろ」
「・・・?」
訳が分からず、だが言われるままに封筒を覗き込む。すると。
「メモ・・・」
手のひらに収まるほどの小さな紙に、ただ一言「愛している」と書かれていた。レオポルドの文字で。
「それが本命だ。教科書か小説の間にでも挟んでおけ。その方が、引き出しなんぞにしまうより、よほど安全だ」
「え・・・?」
「どうせ直ぐに奪われる・・・これまでも、ずっとそうだったのだろう? 大事なものが手元に残った試しはないと聞いているが、違うのか?」
「・・・っ」
ナタリアの眼に困惑の色が浮かぶ。言われた事の半分は理解したが、残り半分が分からない。
「うば、われる・・・?」
その反応に、得心したといった様子で男が鼻を鳴らした。
「ああ、やはりまだ気が付いていないのか。まったく、あいつと同レベルの呑気さだな・・・まあいい。どうやらお前も腹芸は無理そうだ。これ以上の説明はしない。とにかく、レオポルドを信じて待て」
「レオポルドを・・・レオを信じて・・・待つ」
「ああそうだ。出来るな?」
「は、はい・・・」
「よし。じゃあそのメモは俺が言った通り本の間にでも挟んでおけ。誰にも見せるな。あとは・・・これだな」
男は懐から小箱を取り出した。
「あいつからの贈り物だ。迎えに来るまで、肌身離さず身につけていて欲しいと、そう言っていた」
それから、男はこう続けたのだ。
常に身につけていろ、風呂の時も寝る時も必ず。
それから。
服の下にそれを隠せ、誰の目にも触れさせるな、と。
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