ショートケーキをもう一度

香山もも

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過去と少女

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 1979年――夏

 雨のにおいがした。
 うだるような湿気、それからわずかに、花のにおい。
「――大丈夫ですか?」
 遠くで、そんな声がする。聞き覚えがないようで、ある。たぶん、さっきの少年の声だ。名前すらわからない、メガネの男の子。
 さっきは淡々と話していたにも関わらず、今は少し焦っているようだ。声からそんな様子が伝わったので、あたしはもう少し、このままでいようかと思った。
 実際、あまり起きたくなかったのだ。身体が重くて、動けなかったのだ。
 すると、途端に声が止む。何が起きたのかわからないので、様子を伺うしかない。
「……仕方ないですね。ぼくのほうがどう見ても軽いので、担ぐことはおろかおぶることもできませんし」
 そんな言葉が耳もとでささやかれる。
「このまま置いていくのは、むしろ不可抗力ってことで……」
 もしかして、わざと言ってるんだろうか。さっきよりも声が近い気がする。
「まあ、この辺りは山奥のようなので場合によっては熊が出るかもしれないですけど――」
 そこまで聞いたら、さすがのあたしも瞬時に目を開ける。起きあがって、思わず彼の胸ぐらをつかんだ。
「――ちょっと、なんてことするのよ」
「……なんだ、やっぱり起きてたんじゃないですか」
「かよわい女の子を一人置き去りにするなんて、どういう神経してるの」
「そっちこそ、この状況で寝たフリなんて、悪趣味すぎます」
 言われてあたしは我に返る。
 雨は、降っている。おかげで衣類はぐっしょりと濡れている。それはわかっていた。というよりも、自覚していた。
 問題は、周りの景色だ。
 あたしが腰をおろしているのは、雨でどろどろになったあぜ道だ。視界は木々と雑草に覆われている。
「……あたしたち、河原にいなかった?」
「ぼくの記憶違いでなければ」
「そうよね。っていうか、ここ、どこ?」
「……さあ」
 ずぶ濡れなのは、彼も一緒だった。けれど今のあたしには、気遣ってあげる余裕もない。
 あたしはあることを思い出し、ポケットに手を入れる。
「ああーやっぱり……」
 必死でつかんだのは、携帯電話だった。最近買い換えたばかりの新機種で、お気に入りのピンクだったのだ。
「それ、なんですか?」
 雨を拭いながら、彼があたしの手元をのぞきこむ。
「何って、携帯よ。まあ、小学生じゃ必要ないだろうけど」
「へえ……それが。でも壊れてるみたいですけど」
「この雨だもん。ああ、もう。これじゃあだれにも連絡できない」
「水に弱いってことですか?」
「防水機能がついてる機種なんて、まだほんのわずかよ。あたしが買えるのはこれが精一杯」
「……なるほど」
「って、何落ち着いてるの。とにかく、ここがどこだか――」
 そう言いかけた時だった。
 光が一瞬にして、あたしたちを包む。後から響いたのは、タイヤの音だった。
「――あぶないっ」
 黒い車だった。ゆっくりだったけど、確実に近づいてきたのだ。動けない――そう思った時、あたしはとっさに彼をかばっていた。どうしてだかわからない。気がついたらそうしていたのだ。
 思わず目を閉じたが、何も起こらなかった。代わりに、
「大丈夫ですか?」
 車の中から人が降りてくる。運転席から、男の人が一人。着物姿だった。そして、もう一人。後部座席のほうからだった。
「――怪我はないか?」
 凛とした眼差しで降りてきたのは、和服姿の女性だ。髪を軽く結い上げていて、なかなかの美人だった。雨の中でも、わかるほどに。
 彼女は傘を持って、あたしたちのほうへ来る。
「随分濡れているな。このままでは風邪を引く。平治、この者たちを家へ」
「お、お嬢さん、正気ですか?」
「どのみちこの雨だ、放ってはおけないだろう」
「ですが……」
「父上には私から言っておく。さっさとしろ」
 声色が変わると、平治と呼ばれたその人は、まず最初に彼を持ち上げる。そして女性のほうは、あたしに手を貸してくれた。
「――立てるか?」
 泥が着物に付きそうになったとき、思わずあたしは身を引こうとした。でも、
「構わない。汚れは後で、なんとでもなる」
 まるで、見透かしたかのように言った。そしてあたしを引き寄せるようにして、肩を貸してくれる。
 いいにおいがした。
 どこか、懐かしい香りだった。

 車に乗っていた時間は、十分ほどだった。
 降りた先にあったのは、見たこともないほど、大きな屋敷だ。
「あ、あの……」
 その門構えに怯んでいると、
「どうした? 早く来い。本当に風邪を引いてしまうぞ」
 その人はあたしの手を引く。そしてその後に、彼が続いた。ちらり目をやると、なかなか神妙な顔をしていた。
「あの……」
 一瞬、あたしの顔を見て、何か言いたげに口を開く。でもすぐに、
「ただいま戻りました」
 彼女の声にかき消されしまう。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
 とたんに、お手伝いさんであろう、初老の方が出てきた。
 その人に悲鳴のような声をあげられ、あたしたちはそれぞれ別のお風呂に放りこまれた。
 湯船に浸かりながら、あたしは天井を見る。
 古いけど、大きい屋敷だ。床も湯船も石畳のようになっていて、なんとなく、高級感があるのがわかる。広さもうちの二倍はあった。
 まあ、うちは父と二人だから、こんなに広くでもしょうがないんだけど。
 そのままゆっくり、肩まで身体をしずめた。
 それにしても、と思う。ここは一体どこなのか。上がったら、訊いてみよう。それから父に連絡して、迎えに来てもらおう。今日は休みのはずだから、多分家にいるはずだ。わかっていたから、帰れなかったのだ。
 ついでに彼のことは送っていってあげよう。これも何かしらの縁だ。生意気だけど、なんとなく放っておけない。鶴田君に似ているせいかもしれない。
 だんだんのぼせそうになってきたので、あたしは湯船から出る。脱衣所には着がえが置いてあった。新しい下着と和服。合わせるだけの簡単なもので、色も淡いピンクだ。
 見ていて、何か思い出しそうになった。
 けれどすぐに、
「――着がえ、済みましたか?」
 さっきのお手伝いさんだろう。あたしはあわてて、あ、はい、と、なんとか返事をする。
「でしたら、お嬢様がお待ちですので、ご案内します」
 扉が開いて、あたしはその人の後をついていく。
 今、何時だろう。
 長い廊下を歩きながら、あたしはふと、そんなことを思った。

 居間には、すでに彼がいた。それから向かいには、さっきの女性がいた。すぐにあたしに気がつき、
「身体は温まったか?」
 優しい声色だった。
 それだけじゃない。さっきも思ったけど、それ以上に、きれいな人なのだ。着がえたんだろう。髪をおろし、肘置きにもたれかかっている。それがなんとも絵になる姿で、あたしはなんだか見とれてしまう。
「腰をおろすといい」
 言われて、我に返る。彼はすでに正座していて、落ちつき払った様子だった。
 やや緊張した面もちですわると、彼女が眉を寄せて、口を開く。
「事情は先に聞かせてもらった。ずいぶん大変だったようだな……」
 その言葉に、あたしは彼を見た。一瞬だけ視線をこっちに向けるが、すぐに彼女のほうに戻る。
「うちは構わないから、好きに使うといい。それにしても姉弟というのは良いものだな」
 一瞬、耳を疑った。それからもう一度、彼を見る。けれど彼のほうは、あたしを見なかった。代わりに、口を開く。
「はい。それはぼくも思います」
 にっこり笑って、軽く会釈した。
 何がなんだかわからないあたしは、二人の顔を見る。けれど彼女もそれから彼も笑ったままだ。
「疲れただろう。部屋は用意してあるから、ゆっくり休むといい。食事は後で運ばせる」
「何から何まで、親切にしていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、久しぶりの客人だ。ああ、そうそう。自己紹介がまだだったな」
 それはこっちの台詞だ、と思う。けれどそれも、あっさり裏切られた。
「私は桐谷葵だ。歳は十八。この家には父と世話をしてくれている千里、それから平治と暮らしている」
 桐谷葵。
 とてもきれいな名前だと思った。その人にぴったりで、芯が強そうだけど、どこか可憐で。
 ただ、どうしてだろう。何かが引っかかっていた。どこかで聞いたことがあるような、ないような、そんな感覚が、あたしの中にある。
 あたしはふと、彼女の顔を見る。目が合うと、なんとなく逸らしてしまった。
「あ、えっと、あたしは――」
「穂乃香だろう。そして、蓮」
 あたしは再び彼の顔を見た。すると彼もこっちを向いている。まっすぐなまなざしに、何も言えなくなってしまった。
「では、お言葉に甘えて、少し休ませていただきます」
 先に立ち上がったのは、彼のほうだった。
「姉さん、ほら立って」
 促されて、あたしは腰を上げようとした。でも、動くことができない。
「……ちょっと、待って」
 彼の細い腕を、思わず握る。
 立ちたかった。この場かた去って、いろいろ問いつめてやりたい。そう思っていたのに、身体は言うことをきかない。
 足がしびれて、動けなかったのだ。
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