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葵さんの父
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屋敷の玄関を開けると、すでに千里さんがいた。
「おかえりなさいませ」
いつもと少しだけ、様子が違う気がした。
「……どうした? 何かあったのか?」
葵さんもそう言うので、あながち間違いではなかったのだと思う。葵さんが腰を低くすると、千里さんはささやくように耳打ちする。
「――何? 父上が?」
途端に葵さんは中へ入る。あたしと蓮君は顔を見合わせていると、
「おふたりも居間のほうへ。旦那さまがお待ちでございます」
言われて、靴を脱ぐ。揃えてくれたのは、蓮君だった。
千里さんに続いて、屋敷の中を歩く。場所はさすがに覚えたけど、いざ着いたとしても、どう振る舞えばいいかわからない。千里さんはそのことをわかっていて、案内してくれているんだろう。
思えば、葵さんはこの屋敷に4人で暮らしていると言っていた。なのに、お父さんの姿は見ていない。よく考えればわかることなのに、と、眉間にしわを寄せつつ、蓮君を見る。
「……おかしいな。入院してるって聞いてたんだけど」
蓮君が独り言のように口にする。どういうこと? 尋ねようとした時、居間の扉が開かれる。
「旦那様、お連れしました」
中にはすでに葵さんがいる。そして向かいには、葵さんとよく似た男の人がいた。
特に、目の形が似ている。鼻筋も通っていて、白髪は多いものの、なかなか素敵に見える。
「……おお、来たか。こっちへ座るといい」
微笑むように言われて、緊張しつつも、ひとまずその通りにする。
「ほうほう、なるほど。この二人か。おまえの友人とやらは」
じっと見つめられて、つい俯いてしまう。目の色がとてもきれいで、なんだか見透かされてしまいそうになったからだ。
けれど蓮君に肘でつつかれ、あたしは顔をあげる。挨拶をしろ、と言ってるんだろう。
「は、はじめまして。えっと……」
名字を言いかけて、父のことを思い出す。一瞬頭が混乱して、何が言いたかったのかわからなくなってしまった。
「――穂乃香と、蓮。姉弟だそうだ」
結局、葵さんが言ってくれる。
「……お、お世話になってます」
なんとか口にできたのは、それだけだった。蓮君も同じように言うと、頭を下げる。
「それよりも父上、どういうおつもりですか?」
葵さんが珍しく、声をあらげる。
「病院を勝手に抜け出すなんて……前代未聞です」
なんとなく、話が読めてきた。ちらり、蓮君のほうを見る。彼がさっき言いかけたことと合致した。
「いや、葵。おまえの気持ちもよくわかる。だがあそこの病院、好みのおねーちゃんが一人もいなくてなあ」
急にくだけた言い方になる。一瞬、吹き出しそうになった。けれどなんとかこらえる。
「病人なんですから、そこは我慢してください」
「最初のうちはそう思ってたさ。けどもう、そろそろ限界でな。食事も味気ないもんだし。つまらん。つまらんのだよ」
言いながら、その場に横になった。
「――父上っ。とにかくすぐ、病院にお帰りください」
「帰れって、あそこはおれの家じゃない。おれの家はここだあ」
あげくの果てに、ごろごろし始めた。
「子どもみたいなこと言わないでください。平治に車まわしてくるよう、今言いますから」
「いやだーー絶対に戻らん。酒もなけけりゃ女もいない。飯は不味いし、生きてる心地がせん」
どこまで行っても平行線だった。見かねた千里さんが、葵さんに耳打ちする。
「お嬢様、とりあえず今夜一晩は旦那様の言うとりにしてはいかがでしょう。無理矢理引っ張っていく、というわけにもいきませんし」
「……そうだな。こうなるともう、手がつけられない。少し様子を見るとするか」
葵さんが息をつく。
「――わかりました、父上。今日はひとまず、ここでお休みください。どうするかはまた、明日以降話し合いましょう」
葵さんと、それからあたしたちも一度居間を出る。廊下を歩きながら、葵さんが言った。
「……すまなかったな。妙な所を見せた。あれが、私の父だ」
「はあ……」
びっくりは、した。でも、それだけだ。
「ここ数ヶ月、病を患っていて、入院しているのだ。見舞いには昨日行ったばかりだったのだが……油断した」
葵さんはもう一度、息をつく。
「父はあの通り、子どものような人だ。少し騒がしくなると思うが、辛抱してもらえるだろうか」
「いえ、お世話になってるのはこっちですから」
「そうですよ」
蓮君が淡々と答える。
「良いお父様じゃないですか。自分にとても、正直で」
わがままも、とらえようにとってはそうなる。素直、といえばそうだ。良いは悪いかは、別として。
「……ありがとう。おまえたちは、優しいな」
葵さんが、静かに笑う。その様子が、なんだかとても引っかかる。胸に手を置いても、答えは出ないけど。
部屋に戻ると、すぐに蓮君に尋ねた。
「……知ってたの?」
「何を、ですか?」
「葵さんのお父さんのこととか、その他もろもろ」
「……さっき言ったじゃないですか。平治さんにいろいろ聞いたって」
「他には何? どんなこと?」
「全部話せと?」
「そのつもりじゃなかったの?」
「まあ……多少、は」
蓮君はこの後におよんで迷いがあるようだった。
「話すと穂乃香さん、余計なことしそうなんですよね」
「何それ、ずいぶんじゃない」
「空気は読めるけど、けっこう顔に出るみたいですし」
それは……他からどう見えているのわからないので、なんとも言えないけど。
「でもでも、蓮君だけ知ってるなんて、なんかずるいよ」
「何わけわかんないこと言ってるんですか」
本当に、そうだ。これじゃあ、葵さんのお父さんと大差ない。あんな大人には、どうやったってなれないだろう、なんて思ってたのに。
「そんなんじゃますます言えないんですけど」
「……そんなにバレたらまずいこと、平治さんは言ったわけ?」
あくまでこの家の中のことだろう。そして、あたしたちにとっては他人事だ。なのに逆になぜ、そんなに隠そうとするのかがわからない。
あたしがそう尋ねると、
「他人事であってもプライバシーは守られるべきだと思いますし」
「でも平治さん、もう破っちゃってるじゃん」
あたしも一歩も引かない。すると蓮君は諦めたかのように息をつく。
「――わかりました。話しますよ」
その代わり、と、蓮君は付け加える。
「苦情は一切、受けつけませんからね」
まるで販売業者のようだと、あたしは密かに思った。
「おかえりなさいませ」
いつもと少しだけ、様子が違う気がした。
「……どうした? 何かあったのか?」
葵さんもそう言うので、あながち間違いではなかったのだと思う。葵さんが腰を低くすると、千里さんはささやくように耳打ちする。
「――何? 父上が?」
途端に葵さんは中へ入る。あたしと蓮君は顔を見合わせていると、
「おふたりも居間のほうへ。旦那さまがお待ちでございます」
言われて、靴を脱ぐ。揃えてくれたのは、蓮君だった。
千里さんに続いて、屋敷の中を歩く。場所はさすがに覚えたけど、いざ着いたとしても、どう振る舞えばいいかわからない。千里さんはそのことをわかっていて、案内してくれているんだろう。
思えば、葵さんはこの屋敷に4人で暮らしていると言っていた。なのに、お父さんの姿は見ていない。よく考えればわかることなのに、と、眉間にしわを寄せつつ、蓮君を見る。
「……おかしいな。入院してるって聞いてたんだけど」
蓮君が独り言のように口にする。どういうこと? 尋ねようとした時、居間の扉が開かれる。
「旦那様、お連れしました」
中にはすでに葵さんがいる。そして向かいには、葵さんとよく似た男の人がいた。
特に、目の形が似ている。鼻筋も通っていて、白髪は多いものの、なかなか素敵に見える。
「……おお、来たか。こっちへ座るといい」
微笑むように言われて、緊張しつつも、ひとまずその通りにする。
「ほうほう、なるほど。この二人か。おまえの友人とやらは」
じっと見つめられて、つい俯いてしまう。目の色がとてもきれいで、なんだか見透かされてしまいそうになったからだ。
けれど蓮君に肘でつつかれ、あたしは顔をあげる。挨拶をしろ、と言ってるんだろう。
「は、はじめまして。えっと……」
名字を言いかけて、父のことを思い出す。一瞬頭が混乱して、何が言いたかったのかわからなくなってしまった。
「――穂乃香と、蓮。姉弟だそうだ」
結局、葵さんが言ってくれる。
「……お、お世話になってます」
なんとか口にできたのは、それだけだった。蓮君も同じように言うと、頭を下げる。
「それよりも父上、どういうおつもりですか?」
葵さんが珍しく、声をあらげる。
「病院を勝手に抜け出すなんて……前代未聞です」
なんとなく、話が読めてきた。ちらり、蓮君のほうを見る。彼がさっき言いかけたことと合致した。
「いや、葵。おまえの気持ちもよくわかる。だがあそこの病院、好みのおねーちゃんが一人もいなくてなあ」
急にくだけた言い方になる。一瞬、吹き出しそうになった。けれどなんとかこらえる。
「病人なんですから、そこは我慢してください」
「最初のうちはそう思ってたさ。けどもう、そろそろ限界でな。食事も味気ないもんだし。つまらん。つまらんのだよ」
言いながら、その場に横になった。
「――父上っ。とにかくすぐ、病院にお帰りください」
「帰れって、あそこはおれの家じゃない。おれの家はここだあ」
あげくの果てに、ごろごろし始めた。
「子どもみたいなこと言わないでください。平治に車まわしてくるよう、今言いますから」
「いやだーー絶対に戻らん。酒もなけけりゃ女もいない。飯は不味いし、生きてる心地がせん」
どこまで行っても平行線だった。見かねた千里さんが、葵さんに耳打ちする。
「お嬢様、とりあえず今夜一晩は旦那様の言うとりにしてはいかがでしょう。無理矢理引っ張っていく、というわけにもいきませんし」
「……そうだな。こうなるともう、手がつけられない。少し様子を見るとするか」
葵さんが息をつく。
「――わかりました、父上。今日はひとまず、ここでお休みください。どうするかはまた、明日以降話し合いましょう」
葵さんと、それからあたしたちも一度居間を出る。廊下を歩きながら、葵さんが言った。
「……すまなかったな。妙な所を見せた。あれが、私の父だ」
「はあ……」
びっくりは、した。でも、それだけだ。
「ここ数ヶ月、病を患っていて、入院しているのだ。見舞いには昨日行ったばかりだったのだが……油断した」
葵さんはもう一度、息をつく。
「父はあの通り、子どものような人だ。少し騒がしくなると思うが、辛抱してもらえるだろうか」
「いえ、お世話になってるのはこっちですから」
「そうですよ」
蓮君が淡々と答える。
「良いお父様じゃないですか。自分にとても、正直で」
わがままも、とらえようにとってはそうなる。素直、といえばそうだ。良いは悪いかは、別として。
「……ありがとう。おまえたちは、優しいな」
葵さんが、静かに笑う。その様子が、なんだかとても引っかかる。胸に手を置いても、答えは出ないけど。
部屋に戻ると、すぐに蓮君に尋ねた。
「……知ってたの?」
「何を、ですか?」
「葵さんのお父さんのこととか、その他もろもろ」
「……さっき言ったじゃないですか。平治さんにいろいろ聞いたって」
「他には何? どんなこと?」
「全部話せと?」
「そのつもりじゃなかったの?」
「まあ……多少、は」
蓮君はこの後におよんで迷いがあるようだった。
「話すと穂乃香さん、余計なことしそうなんですよね」
「何それ、ずいぶんじゃない」
「空気は読めるけど、けっこう顔に出るみたいですし」
それは……他からどう見えているのわからないので、なんとも言えないけど。
「でもでも、蓮君だけ知ってるなんて、なんかずるいよ」
「何わけわかんないこと言ってるんですか」
本当に、そうだ。これじゃあ、葵さんのお父さんと大差ない。あんな大人には、どうやったってなれないだろう、なんて思ってたのに。
「そんなんじゃますます言えないんですけど」
「……そんなにバレたらまずいこと、平治さんは言ったわけ?」
あくまでこの家の中のことだろう。そして、あたしたちにとっては他人事だ。なのに逆になぜ、そんなに隠そうとするのかがわからない。
あたしがそう尋ねると、
「他人事であってもプライバシーは守られるべきだと思いますし」
「でも平治さん、もう破っちゃってるじゃん」
あたしも一歩も引かない。すると蓮君は諦めたかのように息をつく。
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