ショートケーキをもう一度

香山もも

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彼の夢

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 空気を一度吐いて、思い切り吸いこむ。顔をあげると、うっすら、星が見えた。
「日が、長いですね」
 蓮君がつぶやくように口にする。
「……そうだね。まだ、日は落ちてないもんね」
 歩き出そうとすると、蓮君は立ち止まる。あたしはふり返って、言った。
「……あたし、きいちゃった」
「何を、ですか?」
「日向さんに、葵さんをどう思ってるかどうか」
 彼は、話してくれた。葵さんのこと。彼が何を思い、どう考えているのかを。
「日向さんはね、初めて会った時から、葵さんのことが気になってるって。恋と呼べるかどうかはわからないけど、惹かれてるって」
 優しさと切なさが入り混じったまなざしだった。そしてとても、温かい声だった。
「けど、気持ちを伝えるつもりはないって。葵さんには婚約者がいるし、言ったところで困らせるだけだからって」
 ――じゃあもし、葵さんがあなたを好きだって言ったらどうします?
 あたしはそんな質問をしてみた。
 すると彼は困ったように笑って、答えなかった。
「お互いに、思い合ってるってことですね」
「まあ……だから結果的に、あたしがいるんだけど、ね」
 あたしはもう一度息を吐いて、深呼吸する。
「もしかしたらさ、あたしが何かしてもしなくても、変わらないのかなって思って。むしろ何もしないほうが、二人はうまくいくんじゃないかって」
 葵さんと蓮君が来る間、あたしは一人で、そんなことを考えていた。
 泰三さんが言う、避けようのないもの。あらがうことができないもの。死ぬ、という以外にも、もしかしたらあるのかもしれない。
「じゃあぼくたちは……どうしてここにいるんですかね」
「蓮君、意味も役目も、自分で決めるって言ってなかった?」
「言いました、けど」
 蓮君がこっちへ、一歩、また一歩と進んでくる。あたしはそれを、待っていた。泣きたいような、それでいて笑いたいような気持ちで。
「何もしなくていいってことはきっと、何をしてもいいってことなのかなって」
 もちろん、ある程度限られる。あくまで良識の範囲内のことだ。
「意味とか、役目とか、そんなたいそうなことじゃないけど。でもあたし、見つかった。見つけたの。ここで、したいこと。したいと思うこと」
 蓮君を見た。彼はあたしを見ていた。大きな瞳の奥には、あたしも、そして他のすべてを、映している気がした。
「……吹っ切れたってことですか?」
「ほんのちょっとだけ」
「――いいなあ」
 蓮君が再び、空をあおぐ。
「ぼくも、そうなりたい」
 蓮君は、空を見たままだった。敬語じゃないのは、珍しい。年相応の彼を見た気がした。
「……穂乃香さん、ぼく、子どもの頃から星が好きなんです」
 彼は見ている星の名前を、一つ一つ、口にする。全部はわからなかったけど、彼の声はとても小気味よかった。
 そう、楽しそうだった。
「星をずっとずっと、見つめる仕事がしたい。そういう将来を望みたい。でも一方で、どうしても頭から離れない仕事があるんです」
 彼はあたしを見て、言った。
「――医者です」
 胸の奥が、わずかに痛くなった。それはゆっくり、そしてじわじわと広がっていく。
「……理由は、穂乃香さんと同じです」
 彼は少しだけ、目を逸らす。両手をお腹の前あたりで組んだ。
 お父さんと二人だと言っていた。うちと同じだと。選ぶきっかけとしては、十分だった。
「迷ってる、の?」
「……親には今決める必要はないって、言われてて。ぼくもそう思ってて。なのにどこか焦っている自分もいて」
 ぐるぐる考えている時に、あたしに出会ったという。
「決めきれない自分が、なんだか許せなくて。母を……裏切っている気がして」
 彼は片手だけ、右手だけを、今度は胸に置く。その姿は、大人のようで、子どものようにも見えた。そして、知らないだれかに見えた。
「……葵さんも、そんな気持ち、なんでしょうか」
「え?」
「平治さんから、聞いたんです。葵さんのお母さんが、亡くなった時のこと」
 今度はあたしが、胸の前に手をおいた。

 簡単に食事を済ませて、蓮君と病室へ戻る。葵さんはぼんやり、泰三さんのそばですわっていた。
 目が少しうつろになっていて、あたしは思わず肩をたたく。
「……葵さん、交代しましょう」
 彼女は顔をあげて、小さく笑う。
「食事に行ってきてください……お姉ちゃんも一緒に。泰三さんはぼくが見てますから」
 蓮君がすかさず言った。葵さんは再び笑って、あたしを見る。
「そうだな。じゃあ、つきあってくれるか? 穂乃香」
「……はい」
 あたしたちは二人で、病室を出た。
 葵さんはあまり食欲がないらしく、売店に行っても、食べたいものがわからないようだった。
「ひとまず、これでどうですか?」
 時間ばかりかかってしまうので、結局あたしが決めた。サンドイッチとフルーツ牛乳だった。
 談話室で、向かいあってすわる。葵さんは一口ずつ、ちぎりながら運んでいく。
 あたしは彼女の前にいつつも、蓮君から聞いた話が、頭の中をまわっていた。
「父は、な」
 葵さんが急に手を止めて、話し出す。俯いたまま、あたしの顔を、見ないまま。だからあたしも目をそらすようにして、耳だけに意識を集中する。
「今の状態だと、あまり回復は見込めないらしい」
 手術をすれば、少しは良くなる。そして葵さんは、手術を受けさせたいと思っている。
「費用は確かに高額だが、父が良くなるのであれば、そんなに高いものではない」
 問題があるとすれば、その後だ。泰三さんが家や病院で快適に過ごせるだけの環境を、葵さんは作りたい。けれど今、自分には、それだけのものを用意できる力がないという。
「だから私は、さっきの彼ーー伊集院家に嫁ごう
と思っている。それが私にできる、唯一の親孝行だからだ」
 彼女の声に、迷いはない。そのはずなのに、ほんの少し、震えて聞こえるのは、気のせいだろうか。
「寛さんはとても良い方でな。文武両道、見た目も良いし性格も優しい。何よりも私を好いてくれている。正直に言えば、もったいないくらいの相手なんだ」
「……でも、迷ってるんですか?」
 あたしは、とうとう聞いた。いや、ちがう。葵さんがきっと、訊いてほしかったのだ。あたしにそう、投げかけてほしかったのだ。きっと自分の気持ちを、確かめたかったのだ。
「――迷ってる、というのだろうか。穴がぽっかりと空いたような気持ちになる。足りないものは、ないはずなのに」
 ちょうど、その時だった。
「――葵さん」
 蓮君が談話室にやってくる。息を切らして、めずらしく焦っていた。
「泰三さんが、泰三さんが目を覚ましました」
 葵さんも、それからあたしも、急いで談話室を出た。
 病室に入ると、日向さんとそれからお医者さんがいた。すぐに泰三さんに駆け寄ると、その目は細いけど、開かれている。
「――よかった……」
 葵さんが泰三さんの手を握った。
 あたしは彼女のそばで、蓮君の言葉を思い出す。 
 ――彼女の、葵さんの母親は、彼女の目の前で、亡くなったそうです。
 自らに、火をつけて。

 胸が、痛くなった。
 うっすら、涙を浮かべるようにして、あたしは二人をながめる。
 それから、自分の手のひらを見た。
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