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本当に好きな人
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なかなか、ねむれなかった。
早起きしたかったわけじゃない。でも結果的にそうなってしまって、あたしは顔を洗いに行く。家の中はしんとしていて、あたしはあることがずっと頭の中を離れなかった。
薄紅色の箱には、この家と、そして土地の権利書が入っていた。蓮君と確認したから、間違いないと思う。そして泰三さんがこれをどう使おうとしているのか、なんとなく想像がつく。
もし、あたしたちの仮説が当たっているとしたら、確かに葵さんには頼めない。言ったところで、聞いてくれるはずがないからだ。
少し迷って、あたしはもう一度、葵さんのお母さんの部屋に行く。それから、鏡台の引き出しを開けた。
入っていたのは、化粧道具などの小物がほとんどだった。それらに紛れるようにして、何冊かノートがある。
なぜかそれが、昨夜とても気になったのだ。
あたしはゆっくり、ノートを抜いた。
その中で、なぜか惹かれるものがあり、パラパラとめくってみる。それからその一冊をよけた。他のものも一応、中身を確認した。そして、最初の一冊だけ握りしめると、残りはもどした。
自分の部屋に着くと、蓮君はちょうどいなかった。あたしはカレンダーを見る。
ああ、そうか。
ちょうどその日に、あたるんだ。
今日一日は、桐谷家で過ごすことになった。
手術まで、まだ少し日にちがある。それまでに葵さんは、いろいろと片づけておきたいことがあるようだ。てっきり今日戻るものかと思っていたので、あたしと蓮君は少し拍子抜けしてしまった。
「……もしかして、昨夜あんなにがんばる必要なかったのかな」
「まあ、でも、昼間はなかなか機会がなかったかもしれないですし、ね」
確かに昼間は、千里さんが家の中を動きまわっている。今日はいつも以上に忙しそうだ。手伝いをしようと声をかけたが、断られてしまう。そう考えると、夜よりも見つかる可能性が高かったかもしれない。
当日はもちろん、あたしたちも付きそうことを伝えた。葵さんは笑って、お礼を言ってくれた。
「……あ――それにしても」
「気持ちいいですねえ……」
特にすることもなく、蓮君と部屋で大の字になっていた。時々入ってくる風が心地良くて、だんだんとまぶたが降りてくる。
「そういえば今朝、どこに行ってたんですか?」
「……昨夜と一緒」
「もしかして、鏡台の引き出し、ですか?」
それを聞いて、あたしは起きあがる。
「なんでわかるの?」
「いや……昨日、気にしてたみたいだったんで」
さすが、押し入れの中からでも、その洞察力は健在だったようだ。
「何か持ってきたんですか?」
「ん――ちょっとね」
あたしは天井を見あげたまま、口にする。
「蓮君ってさ、誕生日いつ?」
「……いきなりですね」
「脈絡は……なくもない」
「十一月ですけど」
わりとあっさり教えてくれた。
「そーなんだ。あたしはね、十月」
「十九日ですか?」
「……すごい。ご名答」
あたしは、息をつく。言おうかどうしようか、一瞬迷ったからだ。
「……葵さんはね、5日後らしいの」
明日から、月が変わる。彼女はすぐに十九になってしまうのだ。よりによって、泰三さんの手術の前日に。
「手術成功が、誕生日プレゼントってことですか?」
「それはちょっと、なあ……悪いわけじゃないんだけど、切ない気がする」
しかも十代最後だ。それがどうした、と言われればそれまでだけど、やっぱりなんか、モヤモヤする。
「……もしかして、お祝いしたいんですか?」
蓮君の言葉に、あたしは仰向けだった身体をひっくり返す。
「そうなの。できればケーキ焼きたいなって。でも当日は病院でしょう。なんか良い方法ないかなって」
「そうですね……」
蓮君は風に身をまかせるようにして、目を閉じる。
「……ちょうど良い人がいますよ」
蓮君が目を開いて、にやっと笑う。それはまるでいたずらっ子のようで、なんだかこっちまで、笑ってしまう。
伊集院さんが桐谷家にやってきたのは、午後のことだった。元々来る予定だったらしく、どうりで千里さんがいつも以上に動きまわっていたのだ。
「いやいや、こちらにお邪魔するのも、ずいぶん久しぶりだね」
居間にすわっている彼は、思いの外この家になじんでいた。元々は道場に通っていたらしいので、そのせいかもしれない。
「……けど、なんの用事で来たの? あの人けっこう忙しいんでしょう」
なんやかんや、家の跡取りということで、それなりにいろいろ仕事があるらしい。
「多分、手術のこととか、今後のことじゃないですか? どっちにしろ、呼び出す手間が省けましたよ」
蓮君とあたしは、ちょうど居間の外にいた。あいさつしたいものの、入るタイミングを失っている。
「もともとぼくたちも考えていたこととはいえ、あの人の計画に協力したことには変わりないですからね。今度はこっちの提案をのんでもらわないと」
「……蓮君、なんか顔が悪い人になってるよ」
「誉め言葉として、受け取っておきます」
先に彼は襖を開け、中に入った。
葵さんと伊集院さんは、蓮君の言うとおり、今後のことを相談していた。入院する際の保証人やその他細々とした雑事など、すべて伊集院さんがやってくれているらしい。となりで聞いていて、彼は本当に葵さんのことが好きなんだな、と思う。それなのに、辛くはないのか、と。余計なことと思いつつ、胸が少し痛んだ。
「……ちょっと、散歩に出てくるよ」
気がつくと、伊集院さんが立ちあがっていた。
「そうだ。よかったら君、つきあってくれないか?」
「へ?」
いきなりだったので、驚いたように目を見開く。返ってきたのは、軽やかだけどちょっと憂いを含んだまなざしだった。
あたしと伊集院さんは、外に出た。とはいっても屋敷の敷地内だ。庭に、それから道場。ここに来てからほとんど、足を運ぶことはなかった。
「ああ、ここ。よく通ったなあ」
伊集院さんが懐かしげに目を細める。庭を抜けると、道場があった。あたしはやっぱり初めてで、なじみが薄いぶん、肩をすくめるばかりだ。
ちなみに、合気道だという。ますますどう反応したいいかわからない。
「そういえば、何か話したいことがあるのだろう?」
伊集院さんが道場の前に立つと、言った。
「え……どうして」
「やっぱりそうか。君たち二人のうち、どちらかに聞けばいいと思って連れ出したんだが、私の勘は当たっていたということになるな」
さすがは伊集院さん。お見通しだったというわけだ。しかも、
「さすがにこの時期だと、葵君の誕生日のことーーといったとところかな?」
本当に、お見事だった。
あたしは考えていたことを話す。彼はすぐに賛成の頷きを見せてくれた。
「なるほど。それは良い案だね。準備は私のほうで任せてくれたまえ。君が作るケーキも、材料や道具など、必要なものは言ってくれれば私が用意しよう」
それは助かる、と思った。
夏だし、誕生日用のケーキだ。桐谷家の台所だと、ちょっと難しいと思っていた。
「どこでやるかも、こちらで任せてほしい。病院のほうには、私から言っておく」
本当に、蓮君の言ったとおりだ。ここまでくると頼りになるとしか、言いようがない。
なんだろう。なんていうか、父の分が悪いような気がする。相手は葵さんのことが好きで、なんでも叶えてくれようとするのだ。
「ああ、でもうれしいものだね」
伊集院さんは微笑むと、仁王立ちする。相変わらずの下まつげにも関わらず、かっこよく見えるのがふしぎだ。
「こうして葵君の誕生日を、祝おうとしてくれる人がいる、というのは」
その笑顔を見て、あたしはさっきの胸の痛みを思い出す。
「……あなた、は」
言わないつもりだった。
なのに気がついたら、口にしていた。
「このまま葵さんと結婚して、辛くはないんですか?」
責めている、というわけじゃない。むしろ逆だった。
相手の幸せを願う。それはすごく理想で、素晴らしいことだ。好きな人を目の前にすれば、本当に本当に素敵なことだと思う。
だからこそ、こうも思うのだ。
彼自身は、辛くはないのだろうか。苦しくはないのだろうか。自分の中にあるもやもやとした気持ちは、一体どうしてるんだろう。それは、どこに行けばいいんだろう。
あたしの言いたいことを、なんとなく悟ったのかもしれない。彼は少し、照れくさそうに笑う。
「……ありがとう。葵君は良い友人を持ったな。そうだなあ。ここは辛い、と言っておくべきなのかな」
苦笑している。茶化されてはいないと思う。同時に、何か引っかかりを感じた。それがなんなのかわからなくて、あたしはさらに訊いてみることにした。
「……あなたは葵さんのことを、大事に思っています、よね?」
「疑ってるのかい?」
小さい頃から、好きだったと言っていた。嘘を必要はない。でも、なんでだろう。やっぱりちょっとだけ、変な感じがする。でもそれを、どう言葉にしたらいいかわからない。
あたしが唸るように俯いていると、
「そろそろ降参ーーかな?」
一瞬、意味がわからなかった。すると伊集院さんは背を向ける。
「私はね、葵君のことが好きだよ。昔から、ずっと大事に想っている。けど、そうだなあ。少し邪な気持ちが入っているのも確かだ」
「ーーというと?」
「私が葵君を好きなのには、理由がある、というべきか」
そこまで言うと、伊集院さんは足を一歩、踏み出した。それから、庭のほうへ行く。あたしも追いかけるように、後についていった。
「稽古の合間に、よくここを通ったりして、ね」
ちょうど、縁側があった。それを見て、あたしは一瞬、あれ? と思う。
「ここ、は……」
昨夜は暗くて、わからなかった。でも、今日も来たのだ。正確には、入った。
「そこの部屋、あるだろう。通るといつも、同じ人がね、ぼんやり、こちらを見ていたんだ」
ああ、やっぱり、と思う。
縁側のその先は、葵さんのお母さんの部屋。
「私はね、ずっと――そう、きっと今でもその人を想っている」
伊集院さんが、静かにもらす。
あたしはやっぱり、胸が痛くなった。
人はどうして、人を好きになるんだろう。
理由がある「好き」、ない「好き」、どっちも「好き」であることには変わりないのに、感じ方は無限のようにある。
伊集院さんは庭に立ったまま、空をあおぐ。髪が陽に透けて見える。そして少しだけ、別の人のようだった。
「ここに来ると、その人はいた。もちろん、葵君の母君だというのはわかっていたよ。その人の瞳は、とてもきれいだった」
何も映っていないように見えるのに、美しいと感じたという。
「こういうのはきっと、理屈じゃないんだろうね、きっと」
伊集院さんが微笑む。その顔はまるで少年のようだった。
「特に話しかけたわけでもなく、本当にごくたまに、顔を合わせるだけだった。それでもすごく楽しみで、会えないかと思って、よくここに足を運んだよ」
理屈じゃない。それはきっと、年齢すらも凌駕する。話せなくていい。見ているだけで構わない。想いを通わせることすら望まない、そんな想い。
あたしはふと、想像してみた。
葵さんのお母さんはきっと、そこにいて、まだあどけない少年だった伊集院さんはきっと、ここに立っていた。
「どうかな? 探していた答えは見つかった?」
頷くべきなんだろうか。
あたしは、口を開く。
「……だから、この家を助けて、葵さんを助けて、そうすることで、自分の気持ちを閉じこめて、偽ってきたんですか?」
葵さんとはまたちがう、別の罪悪感のようなものを、伊集院さんも抱えていたんだろうか。
「それは……ちょっと難しい質問だね。君の言うとおり、葵君に対しては恋愛感情というより、父親のような気持ちのほうが強い。助けたいと思うのも、きっとそこからきているんだろう」
かといって、夫婦になれないかといえば、そうじゃないという。
「きっかけは確かに、恋愛じゃないかもしれない。でも夫婦というのは、共に生活をしていくものと私はとらえている。そのあたりはきっと、葵君も同じだろう」
そんなふうに言っていた気がする。あたしもぼんやりだけど、思い出していた。
「恋、というのは本当に厄介な感情だ。相手に焦がれれば、近づけば近づくほど、上手くいくものかといえば、そういうわけでもない」
聞いていると、あたし自身もそんなふうに思う。けれど胸が痛くなるような経験を、あたしはまだしたことがない。だからあくまで想像でしかない。それがいいのか悪いのか、それもまた、わからないでいる。
「――よかったんですか? その……あたしに話してしまって」
「そういえば……まあ、きみは葵君の友人だし、彼女のことを思っているには違いないからね。私もだれかに知っておいてほしかった――ということで」
小さく笑うように口にする。あたしも、笑いたかった。でも、笑えなかった。
「とにかく私は、葵君の気持ちが変わらない以上、この先も彼女のことを全力で守るつもりだ。その気持ちに偽りはない」
けど、と、伊集院さんは小さくつぶやいた。
「もしかしたら彼はーーそうじゃないかもしれないけど」
その「彼」が一体だれを指しているのか、あたしにはわからなかった。
早起きしたかったわけじゃない。でも結果的にそうなってしまって、あたしは顔を洗いに行く。家の中はしんとしていて、あたしはあることがずっと頭の中を離れなかった。
薄紅色の箱には、この家と、そして土地の権利書が入っていた。蓮君と確認したから、間違いないと思う。そして泰三さんがこれをどう使おうとしているのか、なんとなく想像がつく。
もし、あたしたちの仮説が当たっているとしたら、確かに葵さんには頼めない。言ったところで、聞いてくれるはずがないからだ。
少し迷って、あたしはもう一度、葵さんのお母さんの部屋に行く。それから、鏡台の引き出しを開けた。
入っていたのは、化粧道具などの小物がほとんどだった。それらに紛れるようにして、何冊かノートがある。
なぜかそれが、昨夜とても気になったのだ。
あたしはゆっくり、ノートを抜いた。
その中で、なぜか惹かれるものがあり、パラパラとめくってみる。それからその一冊をよけた。他のものも一応、中身を確認した。そして、最初の一冊だけ握りしめると、残りはもどした。
自分の部屋に着くと、蓮君はちょうどいなかった。あたしはカレンダーを見る。
ああ、そうか。
ちょうどその日に、あたるんだ。
今日一日は、桐谷家で過ごすことになった。
手術まで、まだ少し日にちがある。それまでに葵さんは、いろいろと片づけておきたいことがあるようだ。てっきり今日戻るものかと思っていたので、あたしと蓮君は少し拍子抜けしてしまった。
「……もしかして、昨夜あんなにがんばる必要なかったのかな」
「まあ、でも、昼間はなかなか機会がなかったかもしれないですし、ね」
確かに昼間は、千里さんが家の中を動きまわっている。今日はいつも以上に忙しそうだ。手伝いをしようと声をかけたが、断られてしまう。そう考えると、夜よりも見つかる可能性が高かったかもしれない。
当日はもちろん、あたしたちも付きそうことを伝えた。葵さんは笑って、お礼を言ってくれた。
「……あ――それにしても」
「気持ちいいですねえ……」
特にすることもなく、蓮君と部屋で大の字になっていた。時々入ってくる風が心地良くて、だんだんとまぶたが降りてくる。
「そういえば今朝、どこに行ってたんですか?」
「……昨夜と一緒」
「もしかして、鏡台の引き出し、ですか?」
それを聞いて、あたしは起きあがる。
「なんでわかるの?」
「いや……昨日、気にしてたみたいだったんで」
さすが、押し入れの中からでも、その洞察力は健在だったようだ。
「何か持ってきたんですか?」
「ん――ちょっとね」
あたしは天井を見あげたまま、口にする。
「蓮君ってさ、誕生日いつ?」
「……いきなりですね」
「脈絡は……なくもない」
「十一月ですけど」
わりとあっさり教えてくれた。
「そーなんだ。あたしはね、十月」
「十九日ですか?」
「……すごい。ご名答」
あたしは、息をつく。言おうかどうしようか、一瞬迷ったからだ。
「……葵さんはね、5日後らしいの」
明日から、月が変わる。彼女はすぐに十九になってしまうのだ。よりによって、泰三さんの手術の前日に。
「手術成功が、誕生日プレゼントってことですか?」
「それはちょっと、なあ……悪いわけじゃないんだけど、切ない気がする」
しかも十代最後だ。それがどうした、と言われればそれまでだけど、やっぱりなんか、モヤモヤする。
「……もしかして、お祝いしたいんですか?」
蓮君の言葉に、あたしは仰向けだった身体をひっくり返す。
「そうなの。できればケーキ焼きたいなって。でも当日は病院でしょう。なんか良い方法ないかなって」
「そうですね……」
蓮君は風に身をまかせるようにして、目を閉じる。
「……ちょうど良い人がいますよ」
蓮君が目を開いて、にやっと笑う。それはまるでいたずらっ子のようで、なんだかこっちまで、笑ってしまう。
伊集院さんが桐谷家にやってきたのは、午後のことだった。元々来る予定だったらしく、どうりで千里さんがいつも以上に動きまわっていたのだ。
「いやいや、こちらにお邪魔するのも、ずいぶん久しぶりだね」
居間にすわっている彼は、思いの外この家になじんでいた。元々は道場に通っていたらしいので、そのせいかもしれない。
「……けど、なんの用事で来たの? あの人けっこう忙しいんでしょう」
なんやかんや、家の跡取りということで、それなりにいろいろ仕事があるらしい。
「多分、手術のこととか、今後のことじゃないですか? どっちにしろ、呼び出す手間が省けましたよ」
蓮君とあたしは、ちょうど居間の外にいた。あいさつしたいものの、入るタイミングを失っている。
「もともとぼくたちも考えていたこととはいえ、あの人の計画に協力したことには変わりないですからね。今度はこっちの提案をのんでもらわないと」
「……蓮君、なんか顔が悪い人になってるよ」
「誉め言葉として、受け取っておきます」
先に彼は襖を開け、中に入った。
葵さんと伊集院さんは、蓮君の言うとおり、今後のことを相談していた。入院する際の保証人やその他細々とした雑事など、すべて伊集院さんがやってくれているらしい。となりで聞いていて、彼は本当に葵さんのことが好きなんだな、と思う。それなのに、辛くはないのか、と。余計なことと思いつつ、胸が少し痛んだ。
「……ちょっと、散歩に出てくるよ」
気がつくと、伊集院さんが立ちあがっていた。
「そうだ。よかったら君、つきあってくれないか?」
「へ?」
いきなりだったので、驚いたように目を見開く。返ってきたのは、軽やかだけどちょっと憂いを含んだまなざしだった。
あたしと伊集院さんは、外に出た。とはいっても屋敷の敷地内だ。庭に、それから道場。ここに来てからほとんど、足を運ぶことはなかった。
「ああ、ここ。よく通ったなあ」
伊集院さんが懐かしげに目を細める。庭を抜けると、道場があった。あたしはやっぱり初めてで、なじみが薄いぶん、肩をすくめるばかりだ。
ちなみに、合気道だという。ますますどう反応したいいかわからない。
「そういえば、何か話したいことがあるのだろう?」
伊集院さんが道場の前に立つと、言った。
「え……どうして」
「やっぱりそうか。君たち二人のうち、どちらかに聞けばいいと思って連れ出したんだが、私の勘は当たっていたということになるな」
さすがは伊集院さん。お見通しだったというわけだ。しかも、
「さすがにこの時期だと、葵君の誕生日のことーーといったとところかな?」
本当に、お見事だった。
あたしは考えていたことを話す。彼はすぐに賛成の頷きを見せてくれた。
「なるほど。それは良い案だね。準備は私のほうで任せてくれたまえ。君が作るケーキも、材料や道具など、必要なものは言ってくれれば私が用意しよう」
それは助かる、と思った。
夏だし、誕生日用のケーキだ。桐谷家の台所だと、ちょっと難しいと思っていた。
「どこでやるかも、こちらで任せてほしい。病院のほうには、私から言っておく」
本当に、蓮君の言ったとおりだ。ここまでくると頼りになるとしか、言いようがない。
なんだろう。なんていうか、父の分が悪いような気がする。相手は葵さんのことが好きで、なんでも叶えてくれようとするのだ。
「ああ、でもうれしいものだね」
伊集院さんは微笑むと、仁王立ちする。相変わらずの下まつげにも関わらず、かっこよく見えるのがふしぎだ。
「こうして葵君の誕生日を、祝おうとしてくれる人がいる、というのは」
その笑顔を見て、あたしはさっきの胸の痛みを思い出す。
「……あなた、は」
言わないつもりだった。
なのに気がついたら、口にしていた。
「このまま葵さんと結婚して、辛くはないんですか?」
責めている、というわけじゃない。むしろ逆だった。
相手の幸せを願う。それはすごく理想で、素晴らしいことだ。好きな人を目の前にすれば、本当に本当に素敵なことだと思う。
だからこそ、こうも思うのだ。
彼自身は、辛くはないのだろうか。苦しくはないのだろうか。自分の中にあるもやもやとした気持ちは、一体どうしてるんだろう。それは、どこに行けばいいんだろう。
あたしの言いたいことを、なんとなく悟ったのかもしれない。彼は少し、照れくさそうに笑う。
「……ありがとう。葵君は良い友人を持ったな。そうだなあ。ここは辛い、と言っておくべきなのかな」
苦笑している。茶化されてはいないと思う。同時に、何か引っかかりを感じた。それがなんなのかわからなくて、あたしはさらに訊いてみることにした。
「……あなたは葵さんのことを、大事に思っています、よね?」
「疑ってるのかい?」
小さい頃から、好きだったと言っていた。嘘を必要はない。でも、なんでだろう。やっぱりちょっとだけ、変な感じがする。でもそれを、どう言葉にしたらいいかわからない。
あたしが唸るように俯いていると、
「そろそろ降参ーーかな?」
一瞬、意味がわからなかった。すると伊集院さんは背を向ける。
「私はね、葵君のことが好きだよ。昔から、ずっと大事に想っている。けど、そうだなあ。少し邪な気持ちが入っているのも確かだ」
「ーーというと?」
「私が葵君を好きなのには、理由がある、というべきか」
そこまで言うと、伊集院さんは足を一歩、踏み出した。それから、庭のほうへ行く。あたしも追いかけるように、後についていった。
「稽古の合間に、よくここを通ったりして、ね」
ちょうど、縁側があった。それを見て、あたしは一瞬、あれ? と思う。
「ここ、は……」
昨夜は暗くて、わからなかった。でも、今日も来たのだ。正確には、入った。
「そこの部屋、あるだろう。通るといつも、同じ人がね、ぼんやり、こちらを見ていたんだ」
ああ、やっぱり、と思う。
縁側のその先は、葵さんのお母さんの部屋。
「私はね、ずっと――そう、きっと今でもその人を想っている」
伊集院さんが、静かにもらす。
あたしはやっぱり、胸が痛くなった。
人はどうして、人を好きになるんだろう。
理由がある「好き」、ない「好き」、どっちも「好き」であることには変わりないのに、感じ方は無限のようにある。
伊集院さんは庭に立ったまま、空をあおぐ。髪が陽に透けて見える。そして少しだけ、別の人のようだった。
「ここに来ると、その人はいた。もちろん、葵君の母君だというのはわかっていたよ。その人の瞳は、とてもきれいだった」
何も映っていないように見えるのに、美しいと感じたという。
「こういうのはきっと、理屈じゃないんだろうね、きっと」
伊集院さんが微笑む。その顔はまるで少年のようだった。
「特に話しかけたわけでもなく、本当にごくたまに、顔を合わせるだけだった。それでもすごく楽しみで、会えないかと思って、よくここに足を運んだよ」
理屈じゃない。それはきっと、年齢すらも凌駕する。話せなくていい。見ているだけで構わない。想いを通わせることすら望まない、そんな想い。
あたしはふと、想像してみた。
葵さんのお母さんはきっと、そこにいて、まだあどけない少年だった伊集院さんはきっと、ここに立っていた。
「どうかな? 探していた答えは見つかった?」
頷くべきなんだろうか。
あたしは、口を開く。
「……だから、この家を助けて、葵さんを助けて、そうすることで、自分の気持ちを閉じこめて、偽ってきたんですか?」
葵さんとはまたちがう、別の罪悪感のようなものを、伊集院さんも抱えていたんだろうか。
「それは……ちょっと難しい質問だね。君の言うとおり、葵君に対しては恋愛感情というより、父親のような気持ちのほうが強い。助けたいと思うのも、きっとそこからきているんだろう」
かといって、夫婦になれないかといえば、そうじゃないという。
「きっかけは確かに、恋愛じゃないかもしれない。でも夫婦というのは、共に生活をしていくものと私はとらえている。そのあたりはきっと、葵君も同じだろう」
そんなふうに言っていた気がする。あたしもぼんやりだけど、思い出していた。
「恋、というのは本当に厄介な感情だ。相手に焦がれれば、近づけば近づくほど、上手くいくものかといえば、そういうわけでもない」
聞いていると、あたし自身もそんなふうに思う。けれど胸が痛くなるような経験を、あたしはまだしたことがない。だからあくまで想像でしかない。それがいいのか悪いのか、それもまた、わからないでいる。
「――よかったんですか? その……あたしに話してしまって」
「そういえば……まあ、きみは葵君の友人だし、彼女のことを思っているには違いないからね。私もだれかに知っておいてほしかった――ということで」
小さく笑うように口にする。あたしも、笑いたかった。でも、笑えなかった。
「とにかく私は、葵君の気持ちが変わらない以上、この先も彼女のことを全力で守るつもりだ。その気持ちに偽りはない」
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