23 / 27
本当に好きな人
しおりを挟む
なかなか、ねむれなかった。
早起きしたかったわけじゃない。でも結果的にそうなってしまって、あたしは顔を洗いに行く。家の中はしんとしていて、あたしはあることがずっと頭の中を離れなかった。
薄紅色の箱には、この家と、そして土地の権利書が入っていた。蓮君と確認したから、間違いないと思う。そして泰三さんがこれをどう使おうとしているのか、なんとなく想像がつく。
もし、あたしたちの仮説が当たっているとしたら、確かに葵さんには頼めない。言ったところで、聞いてくれるはずがないからだ。
少し迷って、あたしはもう一度、葵さんのお母さんの部屋に行く。それから、鏡台の引き出しを開けた。
入っていたのは、化粧道具などの小物がほとんどだった。それらに紛れるようにして、何冊かノートがある。
なぜかそれが、昨夜とても気になったのだ。
あたしはゆっくり、ノートを抜いた。
その中で、なぜか惹かれるものがあり、パラパラとめくってみる。それからその一冊をよけた。他のものも一応、中身を確認した。そして、最初の一冊だけ握りしめると、残りはもどした。
自分の部屋に着くと、蓮君はちょうどいなかった。あたしはカレンダーを見る。
ああ、そうか。
ちょうどその日に、あたるんだ。
今日一日は、桐谷家で過ごすことになった。
手術まで、まだ少し日にちがある。それまでに葵さんは、いろいろと片づけておきたいことがあるようだ。てっきり今日戻るものかと思っていたので、あたしと蓮君は少し拍子抜けしてしまった。
「……もしかして、昨夜あんなにがんばる必要なかったのかな」
「まあ、でも、昼間はなかなか機会がなかったかもしれないですし、ね」
確かに昼間は、千里さんが家の中を動きまわっている。今日はいつも以上に忙しそうだ。手伝いをしようと声をかけたが、断られてしまう。そう考えると、夜よりも見つかる可能性が高かったかもしれない。
当日はもちろん、あたしたちも付きそうことを伝えた。葵さんは笑って、お礼を言ってくれた。
「……あ――それにしても」
「気持ちいいですねえ……」
特にすることもなく、蓮君と部屋で大の字になっていた。時々入ってくる風が心地良くて、だんだんとまぶたが降りてくる。
「そういえば今朝、どこに行ってたんですか?」
「……昨夜と一緒」
「もしかして、鏡台の引き出し、ですか?」
それを聞いて、あたしは起きあがる。
「なんでわかるの?」
「いや……昨日、気にしてたみたいだったんで」
さすが、押し入れの中からでも、その洞察力は健在だったようだ。
「何か持ってきたんですか?」
「ん――ちょっとね」
あたしは天井を見あげたまま、口にする。
「蓮君ってさ、誕生日いつ?」
「……いきなりですね」
「脈絡は……なくもない」
「十一月ですけど」
わりとあっさり教えてくれた。
「そーなんだ。あたしはね、十月」
「十九日ですか?」
「……すごい。ご名答」
あたしは、息をつく。言おうかどうしようか、一瞬迷ったからだ。
「……葵さんはね、5日後らしいの」
明日から、月が変わる。彼女はすぐに十九になってしまうのだ。よりによって、泰三さんの手術の前日に。
「手術成功が、誕生日プレゼントってことですか?」
「それはちょっと、なあ……悪いわけじゃないんだけど、切ない気がする」
しかも十代最後だ。それがどうした、と言われればそれまでだけど、やっぱりなんか、モヤモヤする。
「……もしかして、お祝いしたいんですか?」
蓮君の言葉に、あたしは仰向けだった身体をひっくり返す。
「そうなの。できればケーキ焼きたいなって。でも当日は病院でしょう。なんか良い方法ないかなって」
「そうですね……」
蓮君は風に身をまかせるようにして、目を閉じる。
「……ちょうど良い人がいますよ」
蓮君が目を開いて、にやっと笑う。それはまるでいたずらっ子のようで、なんだかこっちまで、笑ってしまう。
伊集院さんが桐谷家にやってきたのは、午後のことだった。元々来る予定だったらしく、どうりで千里さんがいつも以上に動きまわっていたのだ。
「いやいや、こちらにお邪魔するのも、ずいぶん久しぶりだね」
居間にすわっている彼は、思いの外この家になじんでいた。元々は道場に通っていたらしいので、そのせいかもしれない。
「……けど、なんの用事で来たの? あの人けっこう忙しいんでしょう」
なんやかんや、家の跡取りということで、それなりにいろいろ仕事があるらしい。
「多分、手術のこととか、今後のことじゃないですか? どっちにしろ、呼び出す手間が省けましたよ」
蓮君とあたしは、ちょうど居間の外にいた。あいさつしたいものの、入るタイミングを失っている。
「もともとぼくたちも考えていたこととはいえ、あの人の計画に協力したことには変わりないですからね。今度はこっちの提案をのんでもらわないと」
「……蓮君、なんか顔が悪い人になってるよ」
「誉め言葉として、受け取っておきます」
先に彼は襖を開け、中に入った。
葵さんと伊集院さんは、蓮君の言うとおり、今後のことを相談していた。入院する際の保証人やその他細々とした雑事など、すべて伊集院さんがやってくれているらしい。となりで聞いていて、彼は本当に葵さんのことが好きなんだな、と思う。それなのに、辛くはないのか、と。余計なことと思いつつ、胸が少し痛んだ。
「……ちょっと、散歩に出てくるよ」
気がつくと、伊集院さんが立ちあがっていた。
「そうだ。よかったら君、つきあってくれないか?」
「へ?」
いきなりだったので、驚いたように目を見開く。返ってきたのは、軽やかだけどちょっと憂いを含んだまなざしだった。
あたしと伊集院さんは、外に出た。とはいっても屋敷の敷地内だ。庭に、それから道場。ここに来てからほとんど、足を運ぶことはなかった。
「ああ、ここ。よく通ったなあ」
伊集院さんが懐かしげに目を細める。庭を抜けると、道場があった。あたしはやっぱり初めてで、なじみが薄いぶん、肩をすくめるばかりだ。
ちなみに、合気道だという。ますますどう反応したいいかわからない。
「そういえば、何か話したいことがあるのだろう?」
伊集院さんが道場の前に立つと、言った。
「え……どうして」
「やっぱりそうか。君たち二人のうち、どちらかに聞けばいいと思って連れ出したんだが、私の勘は当たっていたということになるな」
さすがは伊集院さん。お見通しだったというわけだ。しかも、
「さすがにこの時期だと、葵君の誕生日のことーーといったとところかな?」
本当に、お見事だった。
あたしは考えていたことを話す。彼はすぐに賛成の頷きを見せてくれた。
「なるほど。それは良い案だね。準備は私のほうで任せてくれたまえ。君が作るケーキも、材料や道具など、必要なものは言ってくれれば私が用意しよう」
それは助かる、と思った。
夏だし、誕生日用のケーキだ。桐谷家の台所だと、ちょっと難しいと思っていた。
「どこでやるかも、こちらで任せてほしい。病院のほうには、私から言っておく」
本当に、蓮君の言ったとおりだ。ここまでくると頼りになるとしか、言いようがない。
なんだろう。なんていうか、父の分が悪いような気がする。相手は葵さんのことが好きで、なんでも叶えてくれようとするのだ。
「ああ、でもうれしいものだね」
伊集院さんは微笑むと、仁王立ちする。相変わらずの下まつげにも関わらず、かっこよく見えるのがふしぎだ。
「こうして葵君の誕生日を、祝おうとしてくれる人がいる、というのは」
その笑顔を見て、あたしはさっきの胸の痛みを思い出す。
「……あなた、は」
言わないつもりだった。
なのに気がついたら、口にしていた。
「このまま葵さんと結婚して、辛くはないんですか?」
責めている、というわけじゃない。むしろ逆だった。
相手の幸せを願う。それはすごく理想で、素晴らしいことだ。好きな人を目の前にすれば、本当に本当に素敵なことだと思う。
だからこそ、こうも思うのだ。
彼自身は、辛くはないのだろうか。苦しくはないのだろうか。自分の中にあるもやもやとした気持ちは、一体どうしてるんだろう。それは、どこに行けばいいんだろう。
あたしの言いたいことを、なんとなく悟ったのかもしれない。彼は少し、照れくさそうに笑う。
「……ありがとう。葵君は良い友人を持ったな。そうだなあ。ここは辛い、と言っておくべきなのかな」
苦笑している。茶化されてはいないと思う。同時に、何か引っかかりを感じた。それがなんなのかわからなくて、あたしはさらに訊いてみることにした。
「……あなたは葵さんのことを、大事に思っています、よね?」
「疑ってるのかい?」
小さい頃から、好きだったと言っていた。嘘を必要はない。でも、なんでだろう。やっぱりちょっとだけ、変な感じがする。でもそれを、どう言葉にしたらいいかわからない。
あたしが唸るように俯いていると、
「そろそろ降参ーーかな?」
一瞬、意味がわからなかった。すると伊集院さんは背を向ける。
「私はね、葵君のことが好きだよ。昔から、ずっと大事に想っている。けど、そうだなあ。少し邪な気持ちが入っているのも確かだ」
「ーーというと?」
「私が葵君を好きなのには、理由がある、というべきか」
そこまで言うと、伊集院さんは足を一歩、踏み出した。それから、庭のほうへ行く。あたしも追いかけるように、後についていった。
「稽古の合間に、よくここを通ったりして、ね」
ちょうど、縁側があった。それを見て、あたしは一瞬、あれ? と思う。
「ここ、は……」
昨夜は暗くて、わからなかった。でも、今日も来たのだ。正確には、入った。
「そこの部屋、あるだろう。通るといつも、同じ人がね、ぼんやり、こちらを見ていたんだ」
ああ、やっぱり、と思う。
縁側のその先は、葵さんのお母さんの部屋。
「私はね、ずっと――そう、きっと今でもその人を想っている」
伊集院さんが、静かにもらす。
あたしはやっぱり、胸が痛くなった。
人はどうして、人を好きになるんだろう。
理由がある「好き」、ない「好き」、どっちも「好き」であることには変わりないのに、感じ方は無限のようにある。
伊集院さんは庭に立ったまま、空をあおぐ。髪が陽に透けて見える。そして少しだけ、別の人のようだった。
「ここに来ると、その人はいた。もちろん、葵君の母君だというのはわかっていたよ。その人の瞳は、とてもきれいだった」
何も映っていないように見えるのに、美しいと感じたという。
「こういうのはきっと、理屈じゃないんだろうね、きっと」
伊集院さんが微笑む。その顔はまるで少年のようだった。
「特に話しかけたわけでもなく、本当にごくたまに、顔を合わせるだけだった。それでもすごく楽しみで、会えないかと思って、よくここに足を運んだよ」
理屈じゃない。それはきっと、年齢すらも凌駕する。話せなくていい。見ているだけで構わない。想いを通わせることすら望まない、そんな想い。
あたしはふと、想像してみた。
葵さんのお母さんはきっと、そこにいて、まだあどけない少年だった伊集院さんはきっと、ここに立っていた。
「どうかな? 探していた答えは見つかった?」
頷くべきなんだろうか。
あたしは、口を開く。
「……だから、この家を助けて、葵さんを助けて、そうすることで、自分の気持ちを閉じこめて、偽ってきたんですか?」
葵さんとはまたちがう、別の罪悪感のようなものを、伊集院さんも抱えていたんだろうか。
「それは……ちょっと難しい質問だね。君の言うとおり、葵君に対しては恋愛感情というより、父親のような気持ちのほうが強い。助けたいと思うのも、きっとそこからきているんだろう」
かといって、夫婦になれないかといえば、そうじゃないという。
「きっかけは確かに、恋愛じゃないかもしれない。でも夫婦というのは、共に生活をしていくものと私はとらえている。そのあたりはきっと、葵君も同じだろう」
そんなふうに言っていた気がする。あたしもぼんやりだけど、思い出していた。
「恋、というのは本当に厄介な感情だ。相手に焦がれれば、近づけば近づくほど、上手くいくものかといえば、そういうわけでもない」
聞いていると、あたし自身もそんなふうに思う。けれど胸が痛くなるような経験を、あたしはまだしたことがない。だからあくまで想像でしかない。それがいいのか悪いのか、それもまた、わからないでいる。
「――よかったんですか? その……あたしに話してしまって」
「そういえば……まあ、きみは葵君の友人だし、彼女のことを思っているには違いないからね。私もだれかに知っておいてほしかった――ということで」
小さく笑うように口にする。あたしも、笑いたかった。でも、笑えなかった。
「とにかく私は、葵君の気持ちが変わらない以上、この先も彼女のことを全力で守るつもりだ。その気持ちに偽りはない」
けど、と、伊集院さんは小さくつぶやいた。
「もしかしたら彼はーーそうじゃないかもしれないけど」
その「彼」が一体だれを指しているのか、あたしにはわからなかった。
早起きしたかったわけじゃない。でも結果的にそうなってしまって、あたしは顔を洗いに行く。家の中はしんとしていて、あたしはあることがずっと頭の中を離れなかった。
薄紅色の箱には、この家と、そして土地の権利書が入っていた。蓮君と確認したから、間違いないと思う。そして泰三さんがこれをどう使おうとしているのか、なんとなく想像がつく。
もし、あたしたちの仮説が当たっているとしたら、確かに葵さんには頼めない。言ったところで、聞いてくれるはずがないからだ。
少し迷って、あたしはもう一度、葵さんのお母さんの部屋に行く。それから、鏡台の引き出しを開けた。
入っていたのは、化粧道具などの小物がほとんどだった。それらに紛れるようにして、何冊かノートがある。
なぜかそれが、昨夜とても気になったのだ。
あたしはゆっくり、ノートを抜いた。
その中で、なぜか惹かれるものがあり、パラパラとめくってみる。それからその一冊をよけた。他のものも一応、中身を確認した。そして、最初の一冊だけ握りしめると、残りはもどした。
自分の部屋に着くと、蓮君はちょうどいなかった。あたしはカレンダーを見る。
ああ、そうか。
ちょうどその日に、あたるんだ。
今日一日は、桐谷家で過ごすことになった。
手術まで、まだ少し日にちがある。それまでに葵さんは、いろいろと片づけておきたいことがあるようだ。てっきり今日戻るものかと思っていたので、あたしと蓮君は少し拍子抜けしてしまった。
「……もしかして、昨夜あんなにがんばる必要なかったのかな」
「まあ、でも、昼間はなかなか機会がなかったかもしれないですし、ね」
確かに昼間は、千里さんが家の中を動きまわっている。今日はいつも以上に忙しそうだ。手伝いをしようと声をかけたが、断られてしまう。そう考えると、夜よりも見つかる可能性が高かったかもしれない。
当日はもちろん、あたしたちも付きそうことを伝えた。葵さんは笑って、お礼を言ってくれた。
「……あ――それにしても」
「気持ちいいですねえ……」
特にすることもなく、蓮君と部屋で大の字になっていた。時々入ってくる風が心地良くて、だんだんとまぶたが降りてくる。
「そういえば今朝、どこに行ってたんですか?」
「……昨夜と一緒」
「もしかして、鏡台の引き出し、ですか?」
それを聞いて、あたしは起きあがる。
「なんでわかるの?」
「いや……昨日、気にしてたみたいだったんで」
さすが、押し入れの中からでも、その洞察力は健在だったようだ。
「何か持ってきたんですか?」
「ん――ちょっとね」
あたしは天井を見あげたまま、口にする。
「蓮君ってさ、誕生日いつ?」
「……いきなりですね」
「脈絡は……なくもない」
「十一月ですけど」
わりとあっさり教えてくれた。
「そーなんだ。あたしはね、十月」
「十九日ですか?」
「……すごい。ご名答」
あたしは、息をつく。言おうかどうしようか、一瞬迷ったからだ。
「……葵さんはね、5日後らしいの」
明日から、月が変わる。彼女はすぐに十九になってしまうのだ。よりによって、泰三さんの手術の前日に。
「手術成功が、誕生日プレゼントってことですか?」
「それはちょっと、なあ……悪いわけじゃないんだけど、切ない気がする」
しかも十代最後だ。それがどうした、と言われればそれまでだけど、やっぱりなんか、モヤモヤする。
「……もしかして、お祝いしたいんですか?」
蓮君の言葉に、あたしは仰向けだった身体をひっくり返す。
「そうなの。できればケーキ焼きたいなって。でも当日は病院でしょう。なんか良い方法ないかなって」
「そうですね……」
蓮君は風に身をまかせるようにして、目を閉じる。
「……ちょうど良い人がいますよ」
蓮君が目を開いて、にやっと笑う。それはまるでいたずらっ子のようで、なんだかこっちまで、笑ってしまう。
伊集院さんが桐谷家にやってきたのは、午後のことだった。元々来る予定だったらしく、どうりで千里さんがいつも以上に動きまわっていたのだ。
「いやいや、こちらにお邪魔するのも、ずいぶん久しぶりだね」
居間にすわっている彼は、思いの外この家になじんでいた。元々は道場に通っていたらしいので、そのせいかもしれない。
「……けど、なんの用事で来たの? あの人けっこう忙しいんでしょう」
なんやかんや、家の跡取りということで、それなりにいろいろ仕事があるらしい。
「多分、手術のこととか、今後のことじゃないですか? どっちにしろ、呼び出す手間が省けましたよ」
蓮君とあたしは、ちょうど居間の外にいた。あいさつしたいものの、入るタイミングを失っている。
「もともとぼくたちも考えていたこととはいえ、あの人の計画に協力したことには変わりないですからね。今度はこっちの提案をのんでもらわないと」
「……蓮君、なんか顔が悪い人になってるよ」
「誉め言葉として、受け取っておきます」
先に彼は襖を開け、中に入った。
葵さんと伊集院さんは、蓮君の言うとおり、今後のことを相談していた。入院する際の保証人やその他細々とした雑事など、すべて伊集院さんがやってくれているらしい。となりで聞いていて、彼は本当に葵さんのことが好きなんだな、と思う。それなのに、辛くはないのか、と。余計なことと思いつつ、胸が少し痛んだ。
「……ちょっと、散歩に出てくるよ」
気がつくと、伊集院さんが立ちあがっていた。
「そうだ。よかったら君、つきあってくれないか?」
「へ?」
いきなりだったので、驚いたように目を見開く。返ってきたのは、軽やかだけどちょっと憂いを含んだまなざしだった。
あたしと伊集院さんは、外に出た。とはいっても屋敷の敷地内だ。庭に、それから道場。ここに来てからほとんど、足を運ぶことはなかった。
「ああ、ここ。よく通ったなあ」
伊集院さんが懐かしげに目を細める。庭を抜けると、道場があった。あたしはやっぱり初めてで、なじみが薄いぶん、肩をすくめるばかりだ。
ちなみに、合気道だという。ますますどう反応したいいかわからない。
「そういえば、何か話したいことがあるのだろう?」
伊集院さんが道場の前に立つと、言った。
「え……どうして」
「やっぱりそうか。君たち二人のうち、どちらかに聞けばいいと思って連れ出したんだが、私の勘は当たっていたということになるな」
さすがは伊集院さん。お見通しだったというわけだ。しかも、
「さすがにこの時期だと、葵君の誕生日のことーーといったとところかな?」
本当に、お見事だった。
あたしは考えていたことを話す。彼はすぐに賛成の頷きを見せてくれた。
「なるほど。それは良い案だね。準備は私のほうで任せてくれたまえ。君が作るケーキも、材料や道具など、必要なものは言ってくれれば私が用意しよう」
それは助かる、と思った。
夏だし、誕生日用のケーキだ。桐谷家の台所だと、ちょっと難しいと思っていた。
「どこでやるかも、こちらで任せてほしい。病院のほうには、私から言っておく」
本当に、蓮君の言ったとおりだ。ここまでくると頼りになるとしか、言いようがない。
なんだろう。なんていうか、父の分が悪いような気がする。相手は葵さんのことが好きで、なんでも叶えてくれようとするのだ。
「ああ、でもうれしいものだね」
伊集院さんは微笑むと、仁王立ちする。相変わらずの下まつげにも関わらず、かっこよく見えるのがふしぎだ。
「こうして葵君の誕生日を、祝おうとしてくれる人がいる、というのは」
その笑顔を見て、あたしはさっきの胸の痛みを思い出す。
「……あなた、は」
言わないつもりだった。
なのに気がついたら、口にしていた。
「このまま葵さんと結婚して、辛くはないんですか?」
責めている、というわけじゃない。むしろ逆だった。
相手の幸せを願う。それはすごく理想で、素晴らしいことだ。好きな人を目の前にすれば、本当に本当に素敵なことだと思う。
だからこそ、こうも思うのだ。
彼自身は、辛くはないのだろうか。苦しくはないのだろうか。自分の中にあるもやもやとした気持ちは、一体どうしてるんだろう。それは、どこに行けばいいんだろう。
あたしの言いたいことを、なんとなく悟ったのかもしれない。彼は少し、照れくさそうに笑う。
「……ありがとう。葵君は良い友人を持ったな。そうだなあ。ここは辛い、と言っておくべきなのかな」
苦笑している。茶化されてはいないと思う。同時に、何か引っかかりを感じた。それがなんなのかわからなくて、あたしはさらに訊いてみることにした。
「……あなたは葵さんのことを、大事に思っています、よね?」
「疑ってるのかい?」
小さい頃から、好きだったと言っていた。嘘を必要はない。でも、なんでだろう。やっぱりちょっとだけ、変な感じがする。でもそれを、どう言葉にしたらいいかわからない。
あたしが唸るように俯いていると、
「そろそろ降参ーーかな?」
一瞬、意味がわからなかった。すると伊集院さんは背を向ける。
「私はね、葵君のことが好きだよ。昔から、ずっと大事に想っている。けど、そうだなあ。少し邪な気持ちが入っているのも確かだ」
「ーーというと?」
「私が葵君を好きなのには、理由がある、というべきか」
そこまで言うと、伊集院さんは足を一歩、踏み出した。それから、庭のほうへ行く。あたしも追いかけるように、後についていった。
「稽古の合間に、よくここを通ったりして、ね」
ちょうど、縁側があった。それを見て、あたしは一瞬、あれ? と思う。
「ここ、は……」
昨夜は暗くて、わからなかった。でも、今日も来たのだ。正確には、入った。
「そこの部屋、あるだろう。通るといつも、同じ人がね、ぼんやり、こちらを見ていたんだ」
ああ、やっぱり、と思う。
縁側のその先は、葵さんのお母さんの部屋。
「私はね、ずっと――そう、きっと今でもその人を想っている」
伊集院さんが、静かにもらす。
あたしはやっぱり、胸が痛くなった。
人はどうして、人を好きになるんだろう。
理由がある「好き」、ない「好き」、どっちも「好き」であることには変わりないのに、感じ方は無限のようにある。
伊集院さんは庭に立ったまま、空をあおぐ。髪が陽に透けて見える。そして少しだけ、別の人のようだった。
「ここに来ると、その人はいた。もちろん、葵君の母君だというのはわかっていたよ。その人の瞳は、とてもきれいだった」
何も映っていないように見えるのに、美しいと感じたという。
「こういうのはきっと、理屈じゃないんだろうね、きっと」
伊集院さんが微笑む。その顔はまるで少年のようだった。
「特に話しかけたわけでもなく、本当にごくたまに、顔を合わせるだけだった。それでもすごく楽しみで、会えないかと思って、よくここに足を運んだよ」
理屈じゃない。それはきっと、年齢すらも凌駕する。話せなくていい。見ているだけで構わない。想いを通わせることすら望まない、そんな想い。
あたしはふと、想像してみた。
葵さんのお母さんはきっと、そこにいて、まだあどけない少年だった伊集院さんはきっと、ここに立っていた。
「どうかな? 探していた答えは見つかった?」
頷くべきなんだろうか。
あたしは、口を開く。
「……だから、この家を助けて、葵さんを助けて、そうすることで、自分の気持ちを閉じこめて、偽ってきたんですか?」
葵さんとはまたちがう、別の罪悪感のようなものを、伊集院さんも抱えていたんだろうか。
「それは……ちょっと難しい質問だね。君の言うとおり、葵君に対しては恋愛感情というより、父親のような気持ちのほうが強い。助けたいと思うのも、きっとそこからきているんだろう」
かといって、夫婦になれないかといえば、そうじゃないという。
「きっかけは確かに、恋愛じゃないかもしれない。でも夫婦というのは、共に生活をしていくものと私はとらえている。そのあたりはきっと、葵君も同じだろう」
そんなふうに言っていた気がする。あたしもぼんやりだけど、思い出していた。
「恋、というのは本当に厄介な感情だ。相手に焦がれれば、近づけば近づくほど、上手くいくものかといえば、そういうわけでもない」
聞いていると、あたし自身もそんなふうに思う。けれど胸が痛くなるような経験を、あたしはまだしたことがない。だからあくまで想像でしかない。それがいいのか悪いのか、それもまた、わからないでいる。
「――よかったんですか? その……あたしに話してしまって」
「そういえば……まあ、きみは葵君の友人だし、彼女のことを思っているには違いないからね。私もだれかに知っておいてほしかった――ということで」
小さく笑うように口にする。あたしも、笑いたかった。でも、笑えなかった。
「とにかく私は、葵君の気持ちが変わらない以上、この先も彼女のことを全力で守るつもりだ。その気持ちに偽りはない」
けど、と、伊集院さんは小さくつぶやいた。
「もしかしたら彼はーーそうじゃないかもしれないけど」
その「彼」が一体だれを指しているのか、あたしにはわからなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
あやかし帝都の婚姻譚 〜浄癒の花嫁が祓魔の軍人に溺愛されるまで〜
鳴猫ツミキ
キャラ文芸
【完結】【第一章までで一区切り】時は大正。天羽家に生まれた桜子は、特異な体質から、家族に虐げられた生活を送っていた。すると女学院から帰ったある日、見合いをするよう命じられる。相手は冷酷だと評判の帝国陸軍あやかし対策部隊の四峰礼人だった。※和風シンデレラ風のお話です。恋愛要素が多いですが、あやかし要素が主体です。第9回キャラ文芸大賞に応募しているので、応援して頂けましたら嬉しいです。【第一章で一区切りで単体で読めますので、そこまででもご覧頂けると嬉しいです】。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる