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帰還
しおりを挟む1999年――現代
気がつくと、あたしはあの河原にいた。
何が起きたのか、さっぱりわからなくて、しばらく動けなかった。
「……蓮君」
ようやく、その名を呼んだ。けれど、返事はない。
「――蓮君」
ゆっくりと起きあがる。でも、彼の姿はない。芝生にそっと、身体を撫でられているだけだった。
鞄を持つと、あたしは歩き出す。制服のまま、携帯もちゃんと機能していた。日付や時間は変わっていない。蓮君と会った時からほんの十分くらいだ。
ふり返らなかった。頭は混乱しているのに、身体はなぜか冷静だ。なじみのあるにおいも、景色がそうさせるのかもしれない。
ドアを開けると、父の靴があった。あたしはあわてて中に入る。転びそうになりつつ、部屋へ急ぐと、
「おかえりー冷蔵庫にケーキがあるよ」
いつもどおりの声がした。
いつもどおりの背中だった。あたしはそっと、父の背中にふれる。
「ん? どうした?」
彼はすぐにふり返って、笑顔を向けた。
夢ーーだったんだろうか。
そんなふうに思う。でも、覚えていることもある。
父と、そして日向さん。二人の顔が重なった。
「ねえ、お父さん」
あたしは、聞きたかった。夢か、そうじゃなかったのか、そんなことはどうでもいい。ただ、聞きたかった。
あたしのお母さんのこと。そしてあの後、何があったのか、ということを。
父は夜勤だというので、少し早めの夕飯を済ませると、部屋を出て行く。
「先に寝てるんだよ」
泣き疲れたあたしをあやすように、頭をなでた。あたしは小さく頷いて、けどそのまま寝るのも落ちつかなくて、リビングのソファに身体を預ける。
テーブルには、一冊のノートがあった。
あたしは瞳を労るように、両目の上に手を置いた。
どれくらい、そうしてたんだろう。
インターホンが鳴った。
最初は、無視してた。父なら鍵を持っているはずだし、それ以外は基本的に、出ないことにしている。
もう一度、鳴った。
しつこい。勧誘か。それでも出ない。こういうのは、無視を決めこむことが一番だ。
3回目が、鳴る。
どんだけ図々しいの?
怒りに任せて、せめてどんな顔をしているのかだけ、見てやろうと思った。ドアを張り付くようにしてのぞくと、あたしは目を見開く。
そこには蓮君がいたからだ。
「……どーしたの?」
すぐにドアを開けた。彼は遠慮がちに、肩をすくめる。中に入るよう促すと、彼は軽く頷いた。
「急にいなくなっちゃったから、びっくりしたよ」
蓮君も、最初に会った時と同じ格好だった。何も変わっていない。でも、彼がいることで、彼の態度で、夢じゃなかった、というのが浮き彫りになる。
「その……やっぱりちゃんとあいさつしておこうと思って」
リビングに上げると、飲みものを入れる。アイスコーヒーは……切らしている。麦茶でいい? と聞くと、お構いなく、と相変わらずの返事だった。
コップを運んでいくと、蓮君はあいかわらず、礼儀正しくすわっている。
「それにしても、よくうちがわかったねえ」
「まあ……そうですね」
テーブルに置いた麦茶に、彼は口をつける。それから、あたしを見た。
「……目、真っ赤ですよ」
言われて、あたしは俯く。なんとなくバツが悪くて、前髪を引っ張った。
「……いろいろ聞いたら、なんか泣けてきちゃって」
言ってるそばからもう、泣きそうになってくる。崩れそうだった。
「お父さんと話、できたんですか?」
蓮君の口調は淡々としていたけど、どこか優しい気もした。
「……うん。それだけじゃなくて、あの後何があったのかも、聞いた」
あたしはテーブルの上に目をやる。
それこそ、長い話だった。
でもあたしは、父の言うことを一字一句、もらさないように耳を傾けていた。
あの後、結局泰三さんは手術を受ける前に容態が変化し、亡くなったという。そう、彼女の誕生日はそのまま、父親の命日となった。
伊集院さんは泰三さんの条件をそのままのむことにし、桐谷家の資産を手にすることを決めたという。家や土地は伊集院さんのものとなり、千里さんや平治さんの面倒も、そのまま彼のみることとなった。
同時に、葵さんも日向さんとようやく一緒になることを決意した。泰三さんのことが一通り片づくと、心機一転、別の土地でやりなおすことにした。
そして現在に至る、というわけだ。
「……そうですか。二人は結局、一緒になれたんですね」
「うん、まあ……大変だったみたいだけど」
なんとなく、想像はついた。でも、二人は幸せだったと思いたい。今だったら、そう思うことすら、許せる気がする。
「あのノートは……持ってきてたんですね」
蓮君がふと口にする。見ているのは、楓さんのノートだ。
「うん。父が初めて見せてくれた。母と、それからおばあちゃんの形見だよって」
実際、最後のページに書きこまれていた。十九才の誕生日に、ショートケーキを食べたこと。そして自分にも子どもが生まれたら、食べさせてあげたいと思ったこと。
「あ、そうだ蓮君、ケーキ食べる?」
父が買ってきてくれたもの。ふと思い出して、声をかける。
返事を聞くまえに、冷蔵庫へ行く。箱の中身は、ショートケーキ、シュークリーム、モンブランだった。
「どれがいい?」
尋ねると、
「じゃあ、ショートケーキで」
彼は小さく笑った。
「そういえばさ、あのショートケーキ、おいしかったかな?」
過去であたしが作ったものだ。結局、味見ができなかったからだ。
「ちゃんとおいしかったんじゃないですか?」
蓮君がショートケーキを頬張る。そういえば、彼が食べているのを見るのは、初めてだった気がした。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせて、彼が言った。
「ううん、こっちこそ、いろいろつきあわせてごめんね。蓮君にはなんの関係もなかったのに」
「そんなこと、ないですよ」
彼は静かに口にする。
「ぼくも、ぼくのしたいこと、したかったことが、はっきりわかったので」
「医者か星か、決められたってこと?」
「いえ、それも大事ですけど、もっと小さなことでよかったんです。もっとささやかなこと。それに気がつくことができたので」
麦茶が空になっていることに気がつく。あたしは立ちあがって、入れてくるね、と彼に声をかけた。
つぎながら、ふと思った。そういえば蓮君が好きなお菓子って、結局なんだったんだろう。
「……ねえ、蓮君が一番好きなお菓子って……」
麦茶を運びながら、口にした。今なら、教えてくれるかもしれない。けど、最後まで言えなかった。なぜなら彼の身体がすでに、消えかかっていたからだ。
「……え、蓮君、なん……で?」
あたしは、動けなかった。立ちすくんだまま、なのに手だけが、震える。
「――どうやらぼくのほうも、そろそろ時間切れみたいです」
彼は、笑っていた。笑顔を向けていた。
賢くて、生意気で、けど、どこか憎めない。それどころか、懐かしいとすら感じる。
「最後に、ぼくからのアドバイスです。看護師とお菓子なら、どっちを選んでもいいと思います」
「はあ?」
いきなりすぎて、わけがわからない。
「なんだったら、両方だっていい」
「な、なに言って……」
「ぼくにとっては同じってことです。だれかの支えになることには、変わりありませんから」
ますます、わからなかった。蓮君はまるでそのことがわかっているかのように、笑みを浮かべる。そのままゆっくり、足もとから見えなくなっていく。
「帰ったら、ぼくも母と一緒に、ショートケーキを食べようと思います。何せ、ずっと食べてなかったんで――」
蓮君は最後に、片目を閉じた。
「じゃあ、またーーお母さん」
彼の姿は完全に、見えなくなった。
リビングは何事もなかったかのように、ケーキと、それからノートがならんでいる。あたしはあたりをぐるっと見まわし、それから中をあおぐ。
もちろん、何の反応もない。
「はああああ?」
だからだろうか。あたしは一人、そう叫ぶしかなかった。
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