狐の記憶に触れるたび、私はあなたに恋をした

釜瑪 秋摩

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狐の旦那様は冷たく微笑む

第7話 翌朝の食卓

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 朝の光が薄いカーテン越しに差し込み、私は自然と目を覚ました。

 時計を見ると七時を少し過ぎたところ。昨夜の出来事が夢だったのかと思うほど、穏やかな朝だった。鳥のさえずりが聞こえ、庭からは爽やかな風が吹き込んでくる。

「おはようございます、奥様」

 身支度を整えて部屋を出ると、廊下で華が待っていた。昨夜見た薄暗い廊下とは打って変わり、朝の光に満ちた明るい空間になっている。

「おはようございます、華さん」

「お食事の準備ができております。旦那様もお待ちです」

 華の案内で食堂に向かいながら、私は昨夜の記憶を辿った。あの不思議な出来事は本当にあったことなのだろうか。明るい朝の光の中では、全てが夢のように思えてくる。

「失礼いたします」

 食堂の扉を開けると、そこには昨夜とは全く違う理玖がいた。

 明るいグレーのスーツに身を包み、新聞を読みながら優雅にコーヒーカップを傾けている。朝の光に照らされた横顔は穏やかで、昨夜感じた得体の知れない雰囲気は微塵も感じられない。

「おはようございます」

 理玖は新聞から目を上げると、完璧な笑顔で私を迎えた。その瞳は美しい琥珀色で、昨夜見た獣のような縦の瞳は影も形もない。

「おはようございます、朝霞様」

 私は軽く会釈をして、向かいの席に座った。テーブルには焼きたてのパンと、色とりどりの料理が並んでいる。

「よくお眠りになれましたか?」

「はい、ありがとうございます」

 そう答えながらも、私の心は複雑だった。理玖の問いかけは自然で、まるで昨夜の出来事などなかったかのようだった。本当に、あれは夢だったのだろうか。

「今日から本格的な新生活の始まりですね」

 理玖はナプキンを膝に置きながら言った。その動作も、昨夜の音のない歩き方とは違って、普通に衣擦れの音がする。

「何か困ったことがあれば華に相談してください。私は会社の仕事で出かけますが、夕方には戻ります」

「ありがとうございます」

 私はパンを一口食べながら、理玖の様子を観察した。朝食を取る姿も、新聞を読む仕草も、全てが普通の紳士そのもの。昨夜感じた違和感が嘘のようだった。

「お仕事は……どのようなことを?」

 思わず尋ねてしまってから、私は契約の条項を思い出した。
『私の正体や仕事の詳細を詮索しない』
 そんな約束があったのをすっかり忘れていた。

「あ、すみません。詮索するつもりは……」

「いえ、構いません」

 理玖は穏やかに手を振った。

「不動産開発の仕事です。この椿京の街づくりに携わっています」

「そうなんですね」

 ごく普通の答えに、私は少し安心した。昨夜の自分は、疲れと緊張で変なことを考えすぎていたのかもしれない。

「鈴凪さんは、今日はどのようにお過ごしになりますか?」

「まずは屋敷に慣れることから始めようと思います。それから……もしよろしければ、お庭を拝見させていただきたくて」

「もちろんです。華に案内させましょう」

 理玖の返事は即座で、何のためらいもなかった。隠すようなものがあるなら、こんなに気軽に庭の見学を許可しないだろう。

「ありがとうございます」

 朝食が進む中、二人の会話は当たり障りのないものだった。天気の話、屋敷の歴史、椿京の街の様子など。理玖は博識で話上手、そして聞き上手でもあった。

「そろそろ出かけなければ」

 理玖は懐中時計を確認すると立ち上がった。その動作も、昨夜のように音がしないということはない。椅子を引く音、足音、全てが自然だった。

「行ってらっしゃいませ」

 私も立ち上がって見送りの挨拶をした。理玖は軽く頭を下げると、玄関へと向かっていく。

 一人残された食堂で、私は窓の外を見た。玄関から馬車に乗り込む理玖の姿が見える。朝の光の中で見る彼は、どこから見ても立派な実業家だった。

 馬車が門を出ていくのを見送りながら、私は昨夜の出来事について改めて考えた。

 あの冷たい手の感触、音のない足音、獣のような瞳――。
 全てが幻だったのだろうか。そう思うには、あまりにもはっきりと覚えているし、その時に感じた恐怖も確かなものだった。

「奥様」

 振り返ると、華が立っていた。

「お庭の件でございますが、いかがいたしましょうか?」

「あ、はい。ぜひお願いします」

 私は席を立ちながら、華の表情を見た。昨日から感じていた、何か複雑な感情を含んだまなざしは今朝も変わらない。まるで、言いたいことがあるのに言えない、といった様子だった。

「華さん」

「はい」

「昨夜……」

 私は言いかけて止めた。昨夜の出来事を話したら、華はどんな顔をするだろう。驚くか、それとも何かを知っているような表情を見せるか。

「昨夜、何かございましたか?」

「いえ……よく眠れました、と言おうと思って」

 結局、私は真実を言えなかった。もしも昨夜の出来事が現実だとしても、まだ確証が持てない。それに、華がどこまで事情を知っているのかも分からなかった。

「それはよろしゅうございました」

 華は微笑んだが、その笑顔にも何か陰があるように思えた。
 庭への案内を受けながら、私は心の中で決意を固めた。
 真実を知りたい。理玖が何者で、なぜ自分を選んだのか。そして昨夜感じた違和感の正体も。

 一年間という契約期間の中で、必ず答えを見つけ出してみせる。

 庭に出ると、朝の陽光が美しい日本庭園を照らしていた。昨夜見た彼岸花は相変わらず季節外れに咲いているが、昼間見ると不気味さよりも美しさの方が際立っている。

「美しいお庭ですね」

「ありがとうございます。先代からずっと、この庭を守ってまいりました」

 華の言葉に、私は振り返った。

「先代というと……?」

「旦那様のお父君でございます。もう随分前に亡くなられましたが」

 理玖の家族について、私は何も聞いていなかった。そういえば、契約の話以外で彼の私的なことは一切話題に上がっていない。

「そうなのですね……」

 庭を歩きながら、私は様々なことに思いを巡らせた。この美しい庭園、立派な屋敷、そして謎めいた主人。全てが絡み合って、一つの大きな謎を形作っているような気がした。

 池のほとりで立ち止まり、水面を見つめる。清らかな水に青空が映り、鯉がゆったりと泳いでいる。平和で美しい光景だった。
 その水面に自分の顔が映ったとき、私は一瞬息を止めた。

 またあの錯覚だった。鏡の中で見たのと同じように、自分の顔が一瞬、別人のように見えたのだ。私よりもずっと気品があって、美しい女性の顔に。

「奥様?」

 華の声で我に返る。水面を見ると、そこにはいつもの自分の顔があった。

「すみません、ぼんやりしていました」

「お疲れかと存じます。お部屋でお休みになっては?」

「いえ、大丈夫です」

 私は首を振った。まだ謎は何も解けていない。でも、焦ってはいけない。時間はまだたっぷりある。

 一年間――。
 この奇妙で美しい屋敷での生活を通じて、きっと全ての謎が明らかになるはず。

 そして、もしかしたら……。

 私は理玖が去っていった方角を見た。もしかしたら、彼との関係も変わっていくだろうか。契約結婚として始まったこの生活が、どんな結末を迎えるのか。

 それは、まだ誰にも分からないことだった。

 風が吹いて、庭の木々がさわさわと音を立てる。その音に混じって、かすかに鈴の音が聞こえたような気がしたが、それが風の音なのか、それとも昨夜と同じ幻聴なのか、私には判断がつかなかった。

 ただ一つ確かなのは、この朝霞邸での生活が、彼女の人生に大きな変化をもたらすということだった。それが幸福な変化なのか、それとも――。

「奥様、お昼の準備ができましたら、お声をかけさせていただきます」

「ありがとうございます、華さん」

 私は振り返って微笑んだ。不安もあるが、期待もある。この新しい生活を、前向きに受け入れてみよう。

 朝霞理玖の妻として、そして一人の女性として。

 庭園に響く風の音と鳥のさえずりに包まれながら、私の新たな物語が、静かに始まったのだった。
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